むすこの帰省、Y君のこと

3年前に就職して九州にいるむすこが正月に帰ってきた。盆と暮れに、たいてい一晩、うちに来る。今年は焼酎のお湯割を飲みながら、さいきん聞いている音楽を互いに聞かせあったりして夜を過ごした。いまはブラックミュージックが好きだといい、お気に入りのRobert Glasperなど聞かせてくれる。自分もさいきんはWeekndとか好きなので、すこし話が合う。どちらの音楽にも、どこかかわいたもの哀しさがある。焼酎がなくなると、残っていたワインを飲み、それもなくなるとお湯を飲みながら、音楽を聞きながら話す。


学生の頃、終電がなくなると渋谷の雑居ビルに住んでいた友人のY君の部屋にころがりこんだ。狭い四畳半の角にウッドベースがたてかけられていて、棚はおびただしい数のレコードで埋まっていた。飲むと、Y君は死体洗いのバイトをしていたときの話や、密航してアメリカにわたったときの話などをした。淡々とした口調で、細部にいたるまで生々しい話にはいくたびとなく驚かされた。それらがすべてホラだったことに気づいたのは、何年もたってからのことだった。


話をしながら、Y君は棚からジャズやプログレのレコードをひっぱりだしてかけた。マイルスもビル・エバンスもウェザーリポートも、リッチー・バイラークのパールも、キース・ジャレットの弾くマイ・バック・ペイジズも、彼の部屋で初めて聞いた。トースターで焼いてくれる厚揚げもおいしかった。


彼の部屋で朝を迎えたことは通算すればおそらく一ヵ月以上になる。いま思えば、それはY君のいる空間の居心地のよさに惹かれていたのだと思う。口は悪いし、辛辣だったが、それは繊細さの裏返しであることはわかっていたから、まったく気にならなかった。だから、渋谷の交差点で酔って車にはねられたときも、病院にいかずにふらつきながらY君の部屋へいった。事故をネタに飲んだ酒はなによりの癒しになった。もっとも翌朝起きたら体中痛かったけれど。


明け方、空が仄かに明るくなる頃、Y君はよくチック・コリアとゲイリー・バートンのクリスタル・サイレンスをかけた。その透明な音楽は、都会が夜から朝へと変わるときの、わずかなしじまにびったりだった。


むすこと話しているときに、そんな昔のことをふいに思い出し、まだ夜明けには2時間ほど早かったけれどクリスタル・サイレンスをかけた。そして、こうしていろんな話ができたことをうれしくおもうし、それを口に出していえる場所と時間が持てたこともうれしく思う、と彼にいった。そんな反応に困るおやじの感傷をさりげなく受けとめ、流してくれたこともありがたかった。


たとえ、いっしょの時間を過ごしていようと、そういうことを口にできる機会はなかなかないし、気づくのもずいぶんあとになってからだったりする。Y君にも、そのことを伝えたかった。あの部屋ですごした時間がどんなに豊かで、かけがえなく、自分にとって救いになっていたか。でも、そのことを十分伝えられたかどうか確信が持てないうちに、きみは世を去ってしまった。今年はきみの墓参りにでかけようとおもう。



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おひるね茶屋へ

やっとおひるね茶屋をおとずれることができた。おひるね茶屋は、作家の故・辻邦生さんの奥さまで美術史家だった故・辻佐保子さんの元実家で、北名古屋にある。いまは辻邦生さんと佐保子さんのプチ文学記念館になっている。

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辻邦生さんはとても気さくで、オープンな方だった。だから、辻さんのまわりには、彼を慕って集まる学生や編集者や、私のようなファンがいた。佐保子さんの役目は、そんな人たちから辻さんの時間を守ることだった。私も昔、佐保子さんに辻さんへの電話を取り次いでもらえなかったことがある。


その後、佐保子さんとも親しくさせていただけるようになったが、辻邦生さんは1999年に亡くなり、佐保子さんはひとりになった。私はときどきお宅におじゃましてお話したり、いっしょに辻邦生さんの墓参りにいったりした。


2011年のクリスマス・イブの前日、イスラエル土産の丸いローソクを佐保子さんに送った。火を灯すと、ローソクのまわりの幾何学模様が幻想的にうかびあがる。でも、そのローソクが到着したクリスマス・イブの朝、彼女は自宅でひとりで亡くなっていた(そのことは以前ブログに書いた)。


その後、親族の方からローソクを受けとりましたと連絡があった。私の送ったローソクはご実家だったおひるね茶屋に置いてあるとも聞いていた。


それから5年、ようやくおひるね茶屋を訪ねた。そこにはかつて夫妻の東京のマンションにあった品々や、若い頃の写真が並べられていて、とてもなつかしかった。昔、私が書いた「辻邦生さんへの最後の手紙」もファイルにはさんであった。ローソクはお二人が帰郷したときに使っていたという部屋に置かれていた。毎年、クリスマスには火を灯していますと弟さんからうかがい、ほっとした気持ちになった。


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佐保子さんが亡くなったあとに分けていただいたマイルス・デイビスの4枚組CDを聞きながら、これを書いている。「ふだんはスカルラッティをよく聞くわね。でも、休日にはマイルス・デイビスよ」と早口で快活におっしゃっていた佐保子さんの笑顔をおもいだす。いまごろ、あのローソクに火が灯っているかもしれない。


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小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』が楽しい!

旅に出ると、まず市場を見にいく。市場ほど、そこに暮らす人びとの生活がよく見える場所はないからだ。どんなものが売られているかだけでなく、売っている人たちや、そこにやってくる人たちが、どんな顔をして、どんな服を着て、どんなふうに歩き、どんなふうにしゃべり、どんなふうに笑うのか。どんな音や匂いや色があるのか。そういう刺激に五感をさらしていると、そこに暮らす人びとが生きているリズムが、じわじわとからだに伝わってくる。それくらい市場は土地と人びとをめぐる多様な情報にあふれている。それに、なんといっても楽しい!


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小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』(アリス館)は、まさに、そんな市場の楽しさをいっぱいに伝えてくれる。小松さんには『地球生活記』や「地球人記』(いずれも福音館書店)など世界の暮らしを撮影した写真集がたくさんある。世界中の変わった家を、まちがいなく世界でもっともたくさん撮影されている方だ。家といっても有名な建築家がつくった「作品」ではない。土地に根ざした暮らし方から生まれた、それはそれは不思議な家ばかりだ。そうした家はそこに暮らす人びとと切り離せない。だから、小松さんの写真集には人がたくさん出てくる。


この本も主役は人だ。東ティモールの市場、インドの花市場、ミャンマーの湖上の市場、ブルキナファソの壺の市場、アルバニアのヤギやヒツジの市場、オマーンの魚市場など、登場する市場はじつにさまざま。その市場をどんな人たちが行き交い、どんなふうにものを売って、どんなふうに食事をして、どんな屋台が出ていて、どんな「計り」が使われているのか。世界各地の市場から見えてくる人びとの暮らしぶりはじつにさまざまなのだけれど、でも、売ったり買ったり、食べたり、飾ったり、集ったりというひとびとの営みは、どこでも共通している。


この本では写真の中にちょっとした説明がついている。「おしゃべり中」とか「床には毛皮をしく」とか「屋根から草が生えている」とか、眺めているだけでは見逃してしまいそうなところにコメントがついている。おかげで、「こんなところにこんなものが」という発見がある。よく見ると、笑っているヒツジがいたり、手にヘナの模様を描いている女の子がいたりする。ほかにもいろいろある。ブリューゲルに「子どもの遊戯」という絵があるけれど、あんなふうに、一枚の写真の中にたくさんの物語が展開されている。


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小松さんは「市場は品物を売り買いするだけの場所ではなく、人の生活があらわれ、また文化がそだっていく、とても魅力的な場所」であり、「人と人とが出会い、集い、交じり合い、新しい力が生まれる場所」と書く。だから、市場はショッピングモールとはちがう。「誰に言われたわけでもないのに、人びとがあつまり、路上に品物をおき、売り買いをしている・・・それが定着していつしか町となった場所がたくさんある」と小松さんはいう。「誰に言われたわけでもない」というのが、だいじなところだ。誰に言われたわけでもなく生まれたものには、気持ちのよい自然な活気がある。市場が楽しいのはきっとそのせいだ。



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文化人類学者・阿部年晴先生のこと

文化人類学者の阿部年晴先生が亡くなった。自分にとって心から先生と呼べる人のひとりだった。訃報を受けてから、いろんなことを思い出していた。前にも書いたことがあるが、30年も前、たまたま手にした『アフリカ人の生活と伝統』という本にとても感銘を受けた。それはアフリカ人の精神世界をみずからのフィールド体験と重ね合わせて読み解くように書かれた本だった。その著者が阿部先生だった。埼玉大学の教授だった。


手紙を書いた。なにを書いたかはもう覚えていない。たぶん自分のアフリカへの思いのようなものを稚拙な文章でつづったのだと思う。それから数日後、先生から電話がかかってきた。びっくりした。先生に呼び出されて向かったのは北浦和の居酒屋だった。うちの近所だった。先生に相談をしに来られていた京大の院生の方もいっしょだった。スーダン南部で調査をされているという。ぼくがアフリカへ行きたいと書いていたので紹介してくださったのだ。


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先生は酒がめっぽう強かった。しかも乱れない。でも、なによりうれしかったのは、先生が、20代半ばの未熟で、頭でっかちな若僧の話を、バカにしたり、頭ごなしに否定したりすることはいっさいせず、ていねいに聞いてくれたことだ。


それからまもなく長い旅に出た。1980年代の半ばだった。紹介してくださった研究者のスーダン南部のフィールドを訪ねるところから旅ははじまった。出発の日、先生は駅まできてくださり、「タナカ風アフリカを存分に見てこい」と声をかけてくださった。いまだに自分がアフリカにこだわりつづけているのは、あのときの先生の言葉が忘れられないからだ。


家がわりと近かったので、帰国してからも、先生とはときどきお会いした。会うと、かならず飲んだ。先生は酒に強かったが、その飲み方はもはや研究者の間でも伝説になっている。朝まで飲むのはあたりまえだった。しかし先生は、そこで終わらず日が昇っても飲みつづけ、仮眠をはさんで日が暮れるまで飲み、そのまま夜通し飲んでまた朝が来て、それでもまだ飲みつづけるというサイクルを、ときにはまる3日、あるいはそれ以上くりかえすという途方もないものだった。


ある夕方、近所の飲み屋から電話がかかってきた。行ってみたら先生は座敷の壁際にすわっていて「昨日からここで飲んでいるので、腰がもう直角だ」などとおっしゃる。そこでしばらく飲んだあと、夜中の北浦和を徘徊したが開いている店がなく、駅前の吉野家で飲んだ。当時の吉野家はビールは三本までだった。足りるはずがない。


そのあと、うちにお招きして、また飲みながら話をした。アフリカのフィールドでのエピソードですごく面白いのだが、そういうときは、こちらもかなり酔っている。だから、あとで思い出そうとしても、ほとんど思い出せないのが残念だった。明くる日「これからS女子大で講義だけど、かわりに授業をしてきてくれ」などとわけのわからないことをおっしゃるのをほっといて、ぼくは仕事に出かけた。帰ってきたら、ちゃんと食器が洗ってあった。


その頃、先生は薄い色のついた銀縁眼鏡をかけていて、一見その筋の人かと見紛う、こわもてな雰囲気だった。でも、先生の書くエッセイはすばらしかった。とくに講談社の「本」という冊子にのっていた「追想のアフリカ」というエッセイは本当によかった。それは20代で初めてアフリカを訪れたとき、西アフリカの港で立ち働く黒人たちを目の当たりにしたときの印象からはじまっていた。みずみずしい感性にあふれた、繊細で、奇跡のように美しいエッセイだった。


たしか80年代後半だったと思うが、アフリカについて、阿部先生と同じく文化人類学者の山口昌男さんと、作家の辻邦生さんが鼎談するという企画が、東京外大だったかで催された。辻邦生さんは学生の頃から私淑していた方で、ちょうどその頃朝日新聞でアフリカを舞台とした小説を書かれていた。その関係で、企画された公開シンポジウムだった。自分が好きだった辻さんと阿部先生がこうした形でつながることがうれしかった。辻さんと阿部先生はタイプはぜんぜんちがったけれど、二人ともひとを明るく励ます人だった。


先生は結婚式にも来てくださり、スピーチもしてくれた。けれども、ぼくがエジプトに移り住んでからは、ばたばたしているうちに疎遠になってしまった。


日本に帰国して10数年たってからインターネットで、先生が退官されてから地球ことば村というNPOの理事長をされていることを知り、そこにメールを書いた。すると、一週間くらいたって先生から電話があった。「阿部です、ひさしぶり」という声を聞いて、懐かしさで気が遠くなりそうだった。2年前(2014年)の秋だった。


20数年ぶりに再会を果たした先は居酒屋ではなかった。体調をくずされ、お酒をやめられたという。でも、せっかくだから最初だけビールで乾杯しようといわれた。それは一生のうちに何度かしかない、かけがえのない幸福な乾杯だった。


そのとき先生は自分が肝臓ガンであること、ずいぶん前に手術をして、もう10年以上入退院をくり返していて、いまだに生きているのを医者が不思議がっていると話してくれた。たしかにあれほど飲んでいたら肝臓をやられないほうがおかしい。先生は自分の症状や受けている治療法を事細かに話してくれる。どう聞いても相当深刻な状態なのはまちがいなかった。それでも口調は、どこか楽しげで、まるで自分のからだを観察するのを楽しんでいるかのようにすら聞こえた。


長いブランクがうそのように、話が弾んだ。60年代末から80年代のアフリカでのエピソードをいろいろ聞かせてくれた。それはひょっとしたら30年前にお互いに泥酔しながらうかがった話かもしれなかった。あのころはアフリカは牧歌的だったなあ、と先生はおっしゃった。危ないといわれていてもナイロビのリバーロードで朝までハシゴして飲んだり、ガーナのアクラで酔っぱらって歩いたりしていても大丈夫だったなあ、とおっしゃる。アフリカでも腰が直角になるほど飲んでいたのですね、というと、先生は笑った。


「空白の30年間」と先生はいった。それは肝臓をやられて酒が飲めなくなるまでの、酒の海を泳ぎつづけた年月のことだった。そんなに酒飲みというと、いかにも豪放磊落なタイプな気もするが、ぼくの印象はむしろ反対で、他人にやさしい気遣いのできる、とても繊細で、シャイな方だった。その照れくささをかくすために、酒を飲んでいたのかもしれない。あれほど飲んでいたにもかかわらず、先生は人望があり学部長や学長代行までつとめられていた。だが一方で、惜しげもなく酒につぎこんだ時間を、もっとフィールドワークや執筆にあてていたら、阿部先生しか書けない本や研究がもっとたくさん読むことができただろうにとも思う。


この再会から、ふたたび折にふれて先生を訪ねて、話をするようになった。ご自宅近くの喫茶店で会ったり、病院のロビーで会ったりした。先生に誘われて「世界ことば村」の活動にもかかわるようになった。その間にも入退院をなんどもくりかえされていたが、そんなときでも、これからこんな本が書きたいとか、こういう研究がしたいと遠大な計画を口にされた。けっして強がりではなく、本気でそういうことを考えていたのだと思う。すっかりやせていたし、体力も衰えているのは明らかなのに、先生が遠大な将来計画を、じつに自然に、楽しそうに語るのを聞いていると、こっちまで、きっとそうなるにちがいない気がしてくるのだった。


だから数日前に訃報を聞いたときは、それは再会したときから覚悟していたことであったにもかかわらず、とても唐突な気がした。あれ、先生、仕事がまだ終わっていないじゃないですかといいたくなった。


通夜の席で、初めて阿部先生と初めて会ったときに紹介された栗本英世さんに再会した。いまは大阪大学で人間科学部長をされている。「あの村はもうないんだよ」と栗本さんはいった。「あの村」とは1985年に栗本さんといっしょに訪れた、スーダン南部の彼のフィールドだったラフォンという村だった。この訪問のあと、村は再燃したスーダン南北内戦のあおりを受けて、90年代になって焼き払われてしまったという。精霊のすむ大きな岩山の裾に集落がひろがる美しい村だった。


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ちなみに、その村をおとずれたあと、西部のダルフール地方へ足をのばし、山の中の小さな村で一ヵ月くらい過ごした。平和で、満ち足りた、かけがえのない日々だった。しかし、その後、ダルフールもまた長い紛争の舞台となり、山中の多くの村で殺戮や焼き討ちが行われ、いまだに入域は困難なままだ。あの平和な村が、どうなっているのか知るよしもない。


大切なものは人の思い出の中にしか残っていない。阿部先生が話してくださった、いろんなエピソードも阿部先生の思い出の中にしかない。だから、亡くなられるまでの2年間、ふたたび会って話をうかがえたのは、ほんとうに幸運だった。たくさん会うことはできなかったけれど、とても濃密な時間だった。先生に自分の本を読んでもらえたのもうれしかった。自分もまた先生になにか喜ばしい時間をあたえることができたと思いたい。


亡くなる20日前くらいに入院先の先生に「『アフリカ人の生活と伝統』を読みかえしています」とメールした。この本の中に、とても好きな一節がある。


・・・この伝承からある種の絶望を読みとることはできるけれども、打ちひしがれた湿っぽい無力感ではなく、むしろ勁さ(つよさ)のようなものをも感じることができるのではなかろうか。・・・現実に対する透徹した眼差しに由来する絶望は精神を受動的な閉塞状態に追いやることはない。悲劇的なものへの感受性は不屈の楽天性と背中合わせのものであり、より適切には、この両者を区別できないように統合した精神の在り方とも呼ぶべきものがそこにはある。これこそは、アフリカの諸民族の精神世界の基調低音として響き続けているものである」(「神と人間」)


今年の春くらいにお会いしたとき、「先生が昔書いた『追想のアフリカ』というエッセイがすごくよかった。あんなかんじでアフリカでの話を書いてほしいです」といったことがある。すると先生は、じつはそれは考えているんだよ、といった。「そうなんですか。ぜひ書いてください。すごく読みたいです。書くのがたいへんなら、インタビューでもいいですよ。直接会うのがたいへんならスカイプというのがあって、疲れない程度でちょっとずつでも話をするのはどうですか」と先生をたきつけた。でも、それは結局、夢になってしまったーー。


訃報を聞いてから、「追想のアフリカ」を読みかえしたくなり、押し入れの古い書類の中を探した。夜中まで探したが、どうしても見つからず、翌日もいろんなところを探しまわり、やっと見つけた。ほかではきっと読めないとおもうので、先生に許可はとっていないけれど、ここにあげる。(クリックで拡大)


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コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス

2016年5月21日にさいたまソニックシティで開催された「マインドフルネス精神療法研究」の第2回大会で「マインドフルネス 身体とことばから考える」と題して講演しました。以下はその採録。主宰者で、20年以上前からうつ病や不安障害の方たちへの支援を行っている大田健次郎先生の講座を一昨年から昨年にかけて受講した縁で、話をさせていただきました。いわゆる癒し系マインドフルネスの話ではないので、タイトルは「 コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス」としました。


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みなさん、こんにちは。田中と申します。私はあちこち旅をして本を書いたりしてきたのですが、とくにアフリカのような過酷といわれる場所にひかれてきたところがあります。たとえば、こんなところです。これはアフリカ中央部のコンゴの森の道です。
 

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一般に旅というと、計画を立てて、その計画に沿って動くものと思われているかもしれません。ツアーなどもそうですね。そういう旅では、旅がうまくいくかどうかは、なるべく多くのリスクを事前に予測して対処できるようにするかにかかっています。


もちろん、すべてが計画通りにいかないこともあります。飛行機が遅れたり、買いたかったお土産が買えなかったり、体調を崩したりということもあります。でも、そういう思いがけない、予想しなかった経験もまた旅の魅力でもあります。計画から少しずれたことが起きるくらいが、旅の楽しさになります。旅好きの人というのは、そういうハプニングもふくめて旅を楽しめるひとたちのことだと思います。つまり、ハプニングも「想定内」として楽しめる、ということです。


けれども、ここにお見せしたような旅だと、そういう適度なハプニングではすまないことが多い。ほぼ計画通りでハプニングが少し、というのではなく、ほとんどがハプニングかリスクか「想定外」という状態になることもしばしばです。もちろん、アフリカの旅がすべてそうというわけではありません。


たとえば、船がいつ来るかわからない。乗ってもいつ着くかわからない。出会うひとたちが敵か味方かわからない。いっていることがうそなのか、本当なのかわからない。市場で買い物をしても、相手のいっている値段が相場なのかどうかわからない。町を歩いていても、いつ襲われるかわからない。


 

想定内の世界に慣れていると、そういうところを旅していると、怖くなったり、不安になったり、いらいらしたりします。予測不能で、不確実で、状況がたえず変化する。次の瞬間になにが起きるかわからない。そういう場所だったりします。


そういう国というのは、たいてい政府や法がきちんと機能していません。その是非はさておき、そうした日常の中で生きることは旅行者だけではなく、そこに暮らす人たちにとってもたいへんです。そこは人間の作った観念や仕組みに依存できない環境です。国家や法の中にありながら、起きることの多くが想定外になってしまう。


はじめのうちは、なんとか旅をコントロールしようとして悪あがきします。いらいらしたり、腹を立てたり、でも結局コントロールできなくて、途方に暮れ、あきらめるしかなくなる。あきらめるといっても、状況は刻々と変化するので、ただただ現在起きている状況に対応しつづけるしかない。先のことは考えない、過ぎたことは悩まない。


ところが、そうやっていると、だんだん慣れてきます。慣れてくるというより、あきらめてしまう。自律性は失っていないのだけれど抵抗はやめる。すると、なぜかその状態を楽しめるようになるときがあります。楽しめるといっても、あいかわらず、いらいらするし、腹も立つ。恐かったりもする。でも、そのことにひっぱられすぎない。


あきらめてしまう、ゆるしてしまうことで、逆にゆとりが生まれ、冷静に対応できるようになることがあります。「こともある」だけで、もちろん、いつもそうなるとはかぎりません。ただ、「想定外」との向き合い方のモードが変わる。というか、変わらないとやってられない。だからといって、仏のように慈悲深くなるわけではなくて、やっぱりその都度、腹は立つし、けんかもするのですが。


このような話から始めたのは、今日お話ししたいのが、「想定内」と「想定外」ということについてだからです。この2つのちがいを、かんたんにまとめてみます。


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旅だけでなく、なにかを計画したり、行おうとする場合、一般的には、想定外をできるだけ想定内に収めようとします。料理をするにしても、どんなものができるのかわからない、というのではレストランは成り立ちません。


想定外を想定内に収める、というのは近代合理主義の考え方です。近代合理主義とは世界をコントロールできるものにつくりかえていくことです。偶然をなるべく減らし、予測可能なものに世界を変えていく。そして、それをコントロールできる能力を持つ者が評価される。それが近代社会です。


いいかえれば、近代化やそれを支えるテクノロジーとは、同じことをなんどでも再現できることを目指してきたわけです。機械がそうです。そういう考え方が人間の進歩や発展につながる、という立場です。では、そのコントロールされるべき「想定外」の主たる対象とはなんでしょうか? それは「自然」といっていいと思います。


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自然というと海や山や森、草木虫魚などがイメージされるかもしれません。それらももちろん自然です。また、私たち人間も、身体という自然をかかえています。では、自然の特質とはなにか。それは、つねに生起しては消滅するという流動性であったり、機械とは逆にくりかえしがなく、一回性であったり、ということだといえると思います。


そんなことはない、自然には四季のようなくりかえしがあるではないか、といわれるかもしれません。しかし、四季のめぐりとは人間があたえたモデルであって、実際には去年の夏と今年の夏と来年の夏は同じではありません。わたしたち人間もそうです。あなたという人間は宇宙創生以来、はじめて出現した存在で、あなたとまったく同じ人は、もう2度と生まれることはありません。そして、そのあなたも、きのうと今日と明日とではおびただしい細胞が死んだり生まれたりして、同じものではない。次の瞬間どうなるかを予測することはできません。自然とは本質的に「想定外」なのです。仏教でいう「無常」といっても、いいと思います。


さきほど述べたように、近代合理主義とは想定外をなるべく想定内に収めようという考え方です。しかし、現実の社会を見てもそうであるように、すべてをコントロールして想定内に収めることは不可能です。どんなにリスク管理をしても、すべてのリスクが避けられるわけではありません。なぜなら、世界というのは相互に関連する多数の要因が合わさって全体としてなんらかの振る舞いを見せているからです。


その振る舞いは部分をいくら観察してもわかりません。これは複雑系とよばれています。世界は偶然と突然でできています。コンゴのようなところの旅は、それを痛感させてくれます。どんなに想定外のことを想定内に収めようとしても、それがかなわない。あきらめるしかない。あるいは「ゆるす」しかない。


けれども、さきほど申し上げたように、近代の歴史とは、執拗なまでに想定外を想定内に収めようとしてきました。それは非西欧地域に対しては、「支配」「差別」「意図的な無視」(見て見ぬふり)、あるいはロマン主義的な「理想化」などというかたちをとりました。よく自然の中で暮らす人たちや、近代化していない暮らしをしている人たちに対して、「われわれが失ったなにかをもっている」とかいいますね。でも、そういう理想化もまた、想定外を想定内に押し込めようとするレッテル貼りにすぎません。リアルを見ようとしないという意味では差別と変わりません。


 

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じつは、こういうことは近代にはじまったわけではありません。人間は世界を認識するにはモデルを必要とします。けれども、ときとしてそのモデルを世界ととりちがえます。「世界」は「想定外」ですが、モデルは認識のために、それを「想定内」に収めたものです。だから、わかりやすいし、すんなりと理解できる。そのためモデルのほうが世界より優先される。すると、おかしなことが起こります。これを見てください。


 


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これは2世紀ローマの医学者のガレノスの人体解剖図です。いま見たら、実際の人体がこの図とまるでちがうことは、中学生でも知っています。けれども、ヨーロッパでは1000年以上ガレノスは権威をもっていました。実際に解剖してみれば、この図がまちがっていることはわかるのですが、中世をつうじて解剖はほとんど行われなかった。


まれに解剖実習が行われると、それがガレノスの図とちがうことがわかります。すると、先生は困ってしまった。苦しまぎれに先生は「この人体はまちがっている!」といったという逸話があります(笑)。このエピソードはつくり話っぽいですが、モデルという枠組みをうのみにして、現実を観察をしようとしなかったということです。


想定内にこだわりすぎると、こういうことが起こります。想定内という枠組みを、世界にあてはめて、その範囲で世界を見ようとする。それに合わないものは無理矢理想定内に押し込めようとする。あるいは見方に合わないものは見て見ぬふりをする。そうやっていると、見えないものが増えていく。そのうち、見えていないことにすら気づかなくなってしまう。そういうことは、私たちの身のまわりでもたくさん起こっています。


人はたいてい見たいものしか見ていません。見たいものとは、その人の世界観を補強、もしくは強化してくれるものです。世界観を突き崩そうとするもの、つまり想定外は、最初からスルーされたり、避けられたり、差別や排除の対象になります。けれども、先ほどのようなハードな旅の現実にさらされると、すべてが想定外になってしまう。


理解しようとか、理想化しようとか、なんとか自分を納得させようとする、そういう試みもことごとくくつがえされる。逃げ場もない。けれども、コントロール不能な想定外の現実は次々と押し寄せてくる。いらいらするし、不快きわまりない。でも、あきらめるしかない、ゆるすしかない。すると、そこにある種の解放感が生まれてくるというお話しをしました。じつは、このことが今日のテーマである「マインドフルネス」にも通じるように思います。ようやく、テーマにたどりつきました(笑)。


マインドフルネスとは、「今この瞬間に心(マインド)を集中させ、判断をしないでありのままを観察すること」といわれています。名称からすると、だいじなのは心(マインド)だと一般的には思われがちです。心によって身体をコントロール、たとえばリラックスさせたり、ゆるめたりする、というイメージをもたれるかもしれません。しかし、これは先ほどの話でいえば、逆に、身体という自然を「想定内」に収めようとする機械化もしくは疎外になってしまいます。


太極拳やヨーガなどで「リラックスしましょう」といわれます。けれども、それを聞いて「ああ、リラックスしなくては」とマインドが思うとしたら、それは身体を心に従属させてしまうことになります。リラックスがいけないわけではありません。しかし、それは目的ではなく結果としてもたらされるものです。リラックスを目的とするとというのは、頭でイメージした理想状態に身体をはめ込もうとすることです。それはアタマによるカラダのコントロールです。ただ、アタマのコントロール力は強いので、それにカラダが反応して、暗示効果でリラックスしたつもりの感覚がこみ上げてきたりするので、なおさらややこしくなります。


マインドフルネスというのはマインドで身体をコントロールすることではなく、逆に身体をマインドによる支配から解放してやることだといえると思います。ちなみに、ここでいうマインドとは「自我」や「アタマ」といったような意味で、「マインドフルネス」というときの身心をともにふくめた広がりのある「こころ」の意味ではありません。ちょっと、ややこしいですが。


ともあれ、そうした狭い意味でのマインドによる身体のコントロールとは、結局のところ身体の機械化です。身体を道具として使うという意味で、それは身体の疎外です。ですから、マインドフルネスでむしろ注意を向けなくてはならないのは、マインドというとらえどころのないものではなく、身体のほうです。


では、どのようにして身体をマインドのコントロールから解放するのか。時間がないので技法的なことにはふれませんが、だいじなのは身体の知を浮上させることだと思います。身体の知とはなんでしょう。かんたんにいうと、2つの大きな特質があると思います。1つは、「つねに生きようとしている」ということ。もう1つは、「つねに現在に反応している」ということです。


「つねに生きようとしている」とは、どのような瞬間においても身体は無条件に生きようとしている、ということです。怪我をしても身体はその瞬間から修復をはじめます。身体が「重症だから治療しても無駄だ」とみずから修復をやめることはありません。そう考えるのはアタマです。身体には死をむかえるそのときまで、つねに生命へ向かうベクトルとともにあります。


もうひとつの「つねに現在に反応している」ですが、これは身体はいま起きていることにだけ反応するようにできているということです。アタマがちょっかいを出さないかぎり、いま起こっていることが身体にとってはすべてです。いま殴られたら、いま痛い。そしてその次の瞬間から修復を開始する。そうやってたえず生命の更新をくりかえしている。それを身体の知といっていいかと思います。


これに対して、マインドは、みずからの思考を正当化するためには自分を傷つけたり、ときには自分を殺したりすることもいといません。また、「現在」よりも、言語によってつくられた「過去」や「未来」のイメージに反応しがちです。目の前で展開していることよりも、過去の想念のほうにリアリティを感じます。これは言語能力と大きく関わっています。この能力があるがゆえに、人間は作戦や計画を立てたり、本を読んだり、なにかを創りあげたりという、いまここにある現実以外の、もうひとつのリアリティを経験することができます。マインドと身体はけっして対立しているわけでも、どちらがよくて、どちらが悪いというわけでもなく、互いに補完しあう関係にあります。

 


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そろそろ、まとめに入りたいと思います。先ほど近代合理主義とは想定外を想定内に収めようとする考え方だと申し上げました。しかし、現代という時代は、もはやそれが立ちいかなくなっています。無理に行おうとすると、差別や暴力がかならず起こってきます。金融や市場の分野では VUCA(ヴーカ)の時代といわれます。これは、Volatility(不安定) Uncertainty(不確実)、 Complexity(複雑性) Ambiguity(曖昧性)という4つの単語の頭文字をつなげたことばで、アフリカの過酷な地を旅するのと同じように、予測不能な不確実な状況を意味します。


そうした時代に大切なのは、想定外を想定外のままに受けいれ、対応する力です。変化があっても、まあ、なんとかなるさと思えるような自分と他者への信頼感です。それはマインドではなく身体からもたらされる柔軟な知である気がします。なぜなら、わたしたちのだれもが身体という想定外な存在とともにあるからです。


ただし、それは、よくいわれるように、かならずしも安らぎに満ちた、おだやかで、スッキリと癒されるような感覚とはかぎらないと、わたしは思います。さきほど旅の話でお話ししたように、イライラするときはするし、腹も立つし、ときには爆発もする。でも、それでもまあいいや、と感じられるようなありかたです。感じられないときもありますが。


マインドフルネスとはモヤモヤがなくなってスッキリするのではなく、モヤモヤしていても、リラックスできなくても、スッキリしなくても、まあいいや、そんなもんさと感じられる、というありかただと思います。だから、安心してモヤモヤしましょう。あまり説得力がないですが(笑)。


逆に「スッキリした」というのが、想定外を想定内に収めたことでしかないこともあるでしょう。スッキリするにこしたことはないですが、生きていくうえではスッキリしないことのほうが圧倒的に多いので、むりにスッキリしなくてもかまわないということです。


「わたし」が生きているとは、それだけで、すでに想定外なことです。想定外だけど、なんとか生きている。そこに深くふれていくことが、マインドフルネスということの一面なのではないか、と思います。また、マインドフルネスへの関心は、複雑で読めない想定外の世界を、むりに読めるものにつくりかえず、そのままの状態で受けとめていくためのありかたとして注目されているからではないかと思います。ありがとうございました。


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