文化人類学者・阿部年晴先生のこと

文化人類学者の阿部年晴先生が亡くなった。自分にとって心から先生と呼べる人のひとりだった。訃報を受けてから、いろんなことを思い出していた。前にも書いたことがあるが、30年も前、たまたま手にした『アフリカ人の生活と伝統』という本にとても感銘を受けた。それはアフリカ人の精神世界をみずからのフィールド体験と重ね合わせて読み解くように書かれた本だった。その著者が阿部先生だった。埼玉大学の教授だった。


手紙を書いた。なにを書いたかはもう覚えていない。たぶん自分のアフリカへの思いのようなものを稚拙な文章でつづったのだと思う。それから数日後、先生から電話がかかってきた。びっくりした。先生に呼び出されて向かったのは北浦和の居酒屋だった。うちの近所だった。先生に相談をしに来られていた京大の院生の方もいっしょだった。スーダン南部で調査をされているという。ぼくがアフリカへ行きたいと書いていたので紹介してくださったのだ。


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先生は酒がめっぽう強かった。しかも乱れない。でも、なによりうれしかったのは、先生が、20代半ばの未熟で、頭でっかちな若僧の話を、バカにしたり、頭ごなしに否定したりすることはいっさいせず、ていねいに聞いてくれたことだ。


それからまもなく長い旅に出た。1980年代の半ばだった。紹介してくださった研究者のスーダン南部のフィールドを訪ねるところから旅ははじまった。出発の日、先生は駅まできてくださり、「タナカ風アフリカを存分に見てこい」と声をかけてくださった。いまだに自分がアフリカにこだわりつづけているのは、あのときの先生の言葉が忘れられないからだ。


家がわりと近かったので、帰国してからも、先生とはときどきお会いした。会うと、かならず飲んだ。先生は酒に強かったが、その飲み方はもはや研究者の間でも伝説になっている。朝まで飲むのはあたりまえだった。しかし先生は、そこで終わらず日が昇っても飲みつづけ、仮眠をはさんで日が暮れるまで飲み、そのまま夜通し飲んでまた朝が来て、それでもまだ飲みつづけるというサイクルを、ときにはまる3日、あるいはそれ以上くりかえすという途方もないものだった。


ある夕方、近所の飲み屋から電話がかかってきた。行ってみたら先生は座敷の壁際にすわっていて「昨日からここで飲んでいるので、腰がもう直角だ」などとおっしゃる。そこでしばらく飲んだあと、夜中の北浦和を徘徊したが開いている店がなく、駅前の吉野家で飲んだ。当時の吉野家はビールは三本までだった。足りるはずがない。


そのあと、うちにお招きして、また飲みながら話をした。アフリカのフィールドでのエピソードですごく面白いのだが、そういうときは、こちらもかなり酔っている。だから、あとで思い出そうとしても、ほとんど思い出せないのが残念だった。明くる日「これからS女子大で講義だけど、かわりに授業をしてきてくれ」などとわけのわからないことをおっしゃるのをほっといて、ぼくは仕事に出かけた。帰ってきたら、ちゃんと食器が洗ってあった。


その頃、先生は薄い色のついた銀縁眼鏡をかけていて、一見その筋の人かと見紛う、こわもてな雰囲気だった。でも、先生の書くエッセイはすばらしかった。とくに講談社の「本」という冊子にのっていた「追想のアフリカ」というエッセイは本当によかった。それは20代で初めてアフリカを訪れたとき、西アフリカの港で立ち働く黒人たちを目の当たりにしたときの印象からはじまっていた。みずみずしい感性にあふれた、繊細で、奇跡のように美しいエッセイだった。


たしか80年代後半だったと思うが、アフリカについて、阿部先生と同じく文化人類学者の山口昌男さんと、作家の辻邦生さんが鼎談するという企画が、東京外大だったかで催された。辻邦生さんは学生の頃から私淑していた方で、ちょうどその頃朝日新聞でアフリカを舞台とした小説を書かれていた。その関係で、企画された公開シンポジウムだった。自分が好きだった辻さんと阿部先生がこうした形でつながることがうれしかった。辻さんと阿部先生はタイプはぜんぜんちがったけれど、二人ともひとを明るく励ます人だった。


先生は結婚式にも来てくださり、スピーチもしてくれた。けれども、ぼくがエジプトに移り住んでからは、ばたばたしているうちに疎遠になってしまった。


日本に帰国して10数年たってからインターネットで、先生が退官されてから地球ことば村というNPOの理事長をされていることを知り、そこにメールを書いた。すると、一週間くらいたって先生から電話があった。「阿部です、ひさしぶり」という声を聞いて、懐かしさで気が遠くなりそうだった。2年前(2014年)の秋だった。


20数年ぶりに再会を果たした先は居酒屋ではなかった。体調をくずされ、お酒をやめられたという。でも、せっかくだから最初だけビールで乾杯しようといわれた。それは一生のうちに何度かしかない、かけがえのない幸福な乾杯だった。


そのとき先生は自分が肝臓ガンであること、ずいぶん前に手術をして、もう10年以上入退院をくり返していて、いまだに生きているのを医者が不思議がっていると話してくれた。たしかにあれほど飲んでいたら肝臓をやられないほうがおかしい。先生は自分の症状や受けている治療法を事細かに話してくれる。どう聞いても相当深刻な状態なのはまちがいなかった。それでも口調は、どこか楽しげで、まるで自分のからだを観察するのを楽しんでいるかのようにすら聞こえた。


長いブランクがうそのように、話が弾んだ。60年代末から80年代のアフリカでのエピソードをいろいろ聞かせてくれた。それはひょっとしたら30年前にお互いに泥酔しながらうかがった話かもしれなかった。あのころはアフリカは牧歌的だったなあ、と先生はおっしゃった。危ないといわれていてもナイロビのリバーロードで朝までハシゴして飲んだり、ガーナのアクラで酔っぱらって歩いたりしていても大丈夫だったなあ、とおっしゃる。アフリカでも腰が直角になるほど飲んでいたのですね、というと、先生は笑った。


「空白の30年間」と先生はいった。それは肝臓をやられて酒が飲めなくなるまでの、酒の海を泳ぎつづけた年月のことだった。そんなに酒飲みというと、いかにも豪放磊落なタイプな気もするが、ぼくの印象はむしろ反対で、他人にやさしい気遣いのできる、とても繊細で、シャイな方だった。その照れくささをかくすために、酒を飲んでいたのかもしれない。あれほど飲んでいたにもかかわらず、先生は人望があり学部長や学長代行までつとめられていた。だが一方で、惜しげもなく酒につぎこんだ時間を、もっとフィールドワークや執筆にあてていたら、阿部先生しか書けない本や研究がもっとたくさん読むことができただろうにとも思う。


この再会から、ふたたび折にふれて先生を訪ねて、話をするようになった。ご自宅近くの喫茶店で会ったり、病院のロビーで会ったりした。先生に誘われて「世界ことば村」の活動にもかかわるようになった。その間にも入退院をなんどもくりかえされていたが、そんなときでも、これからこんな本が書きたいとか、こういう研究がしたいと遠大な計画を口にされた。けっして強がりではなく、本気でそういうことを考えていたのだと思う。すっかりやせていたし、体力も衰えているのは明らかなのに、先生が遠大な将来計画を、じつに自然に、楽しそうに語るのを聞いていると、こっちまで、きっとそうなるにちがいない気がしてくるのだった。


だから数日前に訃報を聞いたときは、それは再会したときから覚悟していたことであったにもかかわらず、とても唐突な気がした。あれ、先生、仕事がまだ終わっていないじゃないですかといいたくなった。


通夜の席で、初めて阿部先生と初めて会ったときに紹介された栗本英世さんに再会した。いまは大阪大学で人間科学部長をされている。「あの村はもうないんだよ」と栗本さんはいった。「あの村」とは1985年に栗本さんといっしょに訪れた、スーダン南部の彼のフィールドだったラフォンという村だった。この訪問のあと、村は再燃したスーダン南北内戦のあおりを受けて、90年代になって焼き払われてしまったという。精霊のすむ大きな岩山の裾に集落がひろがる美しい村だった。


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ちなみに、その村をおとずれたあと、西部のダルフール地方へ足をのばし、山の中の小さな村で一ヵ月くらい過ごした。平和で、満ち足りた、かけがえのない日々だった。しかし、その後、ダルフールもまた長い紛争の舞台となり、山中の多くの村で殺戮や焼き討ちが行われ、いまだに入域は困難なままだ。あの平和な村が、どうなっているのか知るよしもない。


大切なものは人の思い出の中にしか残っていない。阿部先生が話してくださった、いろんなエピソードも阿部先生の思い出の中にしかない。だから、亡くなられるまでの2年間、ふたたび会って話をうかがえたのは、ほんとうに幸運だった。たくさん会うことはできなかったけれど、とても濃密な時間だった。先生に自分の本を読んでもらえたのもうれしかった。自分もまた先生になにか喜ばしい時間をあたえることができたと思いたい。


亡くなる20日前くらいに入院先の先生に「『アフリカ人の生活と伝統』を読みかえしています」とメールした。この本の中に、とても好きな一節がある。


・・・この伝承からある種の絶望を読みとることはできるけれども、打ちひしがれた湿っぽい無力感ではなく、むしろ勁さ(つよさ)のようなものをも感じることができるのではなかろうか。・・・現実に対する透徹した眼差しに由来する絶望は精神を受動的な閉塞状態に追いやることはない。悲劇的なものへの感受性は不屈の楽天性と背中合わせのものであり、より適切には、この両者を区別できないように統合した精神の在り方とも呼ぶべきものがそこにはある。これこそは、アフリカの諸民族の精神世界の基調低音として響き続けているものである」(「神と人間」)


今年の春くらいにお会いしたとき、「先生が昔書いた『追想のアフリカ』というエッセイがすごくよかった。あんなかんじでアフリカでの話を書いてほしいです」といったことがある。すると先生は、じつはそれは考えているんだよ、といった。「そうなんですか。ぜひ書いてください。すごく読みたいです。書くのがたいへんなら、インタビューでもいいですよ。直接会うのがたいへんならスカイプというのがあって、疲れない程度でちょっとずつでも話をするのはどうですか」と先生をたきつけた。でも、それは結局、夢になってしまったーー。


訃報を聞いてから、「追想のアフリカ」を読みかえしたくなり、押し入れの古い書類の中を探した。夜中まで探したが、どうしても見つからず、翌日もいろんなところを探しまわり、やっと見つけた。ほかではきっと読めないとおもうので、先生に許可はとっていないけれど、ここにあげる。(クリックで拡大)


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コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス

2016年5月21日にさいたまソニックシティで開催された「マインドフルネス精神療法研究」の第2回大会で「マインドフルネス 身体とことばから考える」と題して講演しました。以下はその採録。主宰者で、20年以上前からうつ病や不安障害の方たちへの支援を行っている大田健次郎先生の講座を一昨年から昨年にかけて受講した縁で、話をさせていただきました。いわゆる癒し系マインドフルネスの話ではないので、タイトルは「 コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス」としました。


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みなさん、こんにちは。田中と申します。私はあちこち旅をして本を書いたりしてきたのですが、とくにアフリカのような過酷といわれる場所にひかれてきたところがあります。たとえば、こんなところです。これはアフリカ中央部のコンゴの森の道です。
 

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一般に旅というと、計画を立てて、その計画に沿って動くものと思われているかもしれません。ツアーなどもそうですね。そういう旅では、旅がうまくいくかどうかは、なるべく多くのリスクを事前に予測して対処できるようにするかにかかっています。


もちろん、すべてが計画通りにいかないこともあります。飛行機が遅れたり、買いたかったお土産が買えなかったり、体調を崩したりということもあります。でも、そういう思いがけない、予想しなかった経験もまた旅の魅力でもあります。計画から少しずれたことが起きるくらいが、旅の楽しさになります。旅好きの人というのは、そういうハプニングもふくめて旅を楽しめるひとたちのことだと思います。つまり、ハプニングも「想定内」として楽しめる、ということです。


けれども、ここにお見せしたような旅だと、そういう適度なハプニングではすまないことが多い。ほぼ計画通りでハプニングが少し、というのではなく、ほとんどがハプニングかリスクか「想定外」という状態になることもしばしばです。もちろん、アフリカの旅がすべてそうというわけではありません。


たとえば、船がいつ来るかわからない。乗ってもいつ着くかわからない。出会うひとたちが敵か味方かわからない。いっていることがうそなのか、本当なのかわからない。市場で買い物をしても、相手のいっている値段が相場なのかどうかわからない。町を歩いていても、いつ襲われるかわからない。


 

想定内の世界に慣れていると、そういうところを旅していると、怖くなったり、不安になったり、いらいらしたりします。予測不能で、不確実で、状況がたえず変化する。次の瞬間になにが起きるかわからない。そういう場所だったりします。


そういう国というのは、たいてい政府や法がきちんと機能していません。その是非はさておき、そうした日常の中で生きることは旅行者だけではなく、そこに暮らす人たちにとってもたいへんです。そこは人間の作った観念や仕組みに依存できない環境です。国家や法の中にありながら、起きることの多くが想定外になってしまう。


はじめのうちは、なんとか旅をコントロールしようとして悪あがきします。いらいらしたり、腹を立てたり、でも結局コントロールできなくて、途方に暮れ、あきらめるしかなくなる。あきらめるといっても、状況は刻々と変化するので、ただただ現在起きている状況に対応しつづけるしかない。先のことは考えない、過ぎたことは悩まない。


ところが、そうやっていると、だんだん慣れてきます。慣れてくるというより、あきらめてしまう。自律性は失っていないのだけれど抵抗はやめる。すると、なぜかその状態を楽しめるようになるときがあります。楽しめるといっても、あいかわらず、いらいらするし、腹も立つ。恐かったりもする。でも、そのことにひっぱられすぎない。


あきらめてしまう、ゆるしてしまうことで、逆にゆとりが生まれ、冷静に対応できるようになることがあります。「こともある」だけで、もちろん、いつもそうなるとはかぎりません。ただ、「想定外」との向き合い方のモードが変わる。というか、変わらないとやってられない。だからといって、仏のように慈悲深くなるわけではなくて、やっぱりその都度、腹は立つし、けんかもするのですが。


このような話から始めたのは、今日お話ししたいのが、「想定内」と「想定外」ということについてだからです。この2つのちがいを、かんたんにまとめてみます。


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旅だけでなく、なにかを計画したり、行おうとする場合、一般的には、想定外をできるだけ想定内に収めようとします。料理をするにしても、どんなものができるのかわからない、というのではレストランは成り立ちません。


想定外を想定内に収める、というのは近代合理主義の考え方です。近代合理主義とは世界をコントロールできるものにつくりかえていくことです。偶然をなるべく減らし、予測可能なものに世界を変えていく。そして、それをコントロールできる能力を持つ者が評価される。それが近代社会です。


いいかえれば、近代化やそれを支えるテクノロジーとは、同じことをなんどでも再現できることを目指してきたわけです。機械がそうです。そういう考え方が人間の進歩や発展につながる、という立場です。では、そのコントロールされるべき「想定外」の主たる対象とはなんでしょうか? それは「自然」といっていいと思います。


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自然というと海や山や森、草木虫魚などがイメージされるかもしれません。それらももちろん自然です。また、私たち人間も、身体という自然をかかえています。では、自然の特質とはなにか。それは、つねに生起しては消滅するという流動性であったり、機械とは逆にくりかえしがなく、一回性であったり、ということだといえると思います。


そんなことはない、自然には四季のようなくりかえしがあるではないか、といわれるかもしれません。しかし、四季のめぐりとは人間があたえたモデルであって、実際には去年の夏と今年の夏と来年の夏は同じではありません。わたしたち人間もそうです。あなたという人間は宇宙創生以来、はじめて出現した存在で、あなたとまったく同じ人は、もう2度と生まれることはありません。そして、そのあなたも、きのうと今日と明日とではおびただしい細胞が死んだり生まれたりして、同じものではない。次の瞬間どうなるかを予測することはできません。自然とは本質的に「想定外」なのです。仏教でいう「無常」といっても、いいと思います。


さきほど述べたように、近代合理主義とは想定外をなるべく想定内に収めようという考え方です。しかし、現実の社会を見てもそうであるように、すべてをコントロールして想定内に収めることは不可能です。どんなにリスク管理をしても、すべてのリスクが避けられるわけではありません。なぜなら、世界というのは相互に関連する多数の要因が合わさって全体としてなんらかの振る舞いを見せているからです。


その振る舞いは部分をいくら観察してもわかりません。これは複雑系とよばれています。世界は偶然と突然でできています。コンゴのようなところの旅は、それを痛感させてくれます。どんなに想定外のことを想定内に収めようとしても、それがかなわない。あきらめるしかない。あるいは「ゆるす」しかない。


けれども、さきほど申し上げたように、近代の歴史とは、執拗なまでに想定外を想定内に収めようとしてきました。それは非西欧地域に対しては、「支配」「差別」「意図的な無視」(見て見ぬふり)、あるいはロマン主義的な「理想化」などというかたちをとりました。よく自然の中で暮らす人たちや、近代化していない暮らしをしている人たちに対して、「われわれが失ったなにかをもっている」とかいいますね。でも、そういう理想化もまた、想定外を想定内に押し込めようとするレッテル貼りにすぎません。リアルを見ようとしないという意味では差別と変わりません。


 

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じつは、こういうことは近代にはじまったわけではありません。人間は世界を認識するにはモデルを必要とします。けれども、ときとしてそのモデルを世界ととりちがえます。「世界」は「想定外」ですが、モデルは認識のために、それを「想定内」に収めたものです。だから、わかりやすいし、すんなりと理解できる。そのためモデルのほうが世界より優先される。すると、おかしなことが起こります。これを見てください。


 


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これは2世紀ローマの医学者のガレノスの人体解剖図です。いま見たら、実際の人体がこの図とまるでちがうことは、中学生でも知っています。けれども、ヨーロッパでは1000年以上ガレノスは権威をもっていました。実際に解剖してみれば、この図がまちがっていることはわかるのですが、中世をつうじて解剖はほとんど行われなかった。


まれに解剖実習が行われると、それがガレノスの図とちがうことがわかります。すると、先生は困ってしまった。苦しまぎれに先生は「この人体はまちがっている!」といったという逸話があります(笑)。このエピソードはつくり話っぽいですが、モデルという枠組みをうのみにして、現実を観察をしようとしなかったということです。


想定内にこだわりすぎると、こういうことが起こります。想定内という枠組みを、世界にあてはめて、その範囲で世界を見ようとする。それに合わないものは無理矢理想定内に押し込めようとする。あるいは見方に合わないものは見て見ぬふりをする。そうやっていると、見えないものが増えていく。そのうち、見えていないことにすら気づかなくなってしまう。そういうことは、私たちの身のまわりでもたくさん起こっています。


人はたいてい見たいものしか見ていません。見たいものとは、その人の世界観を補強、もしくは強化してくれるものです。世界観を突き崩そうとするもの、つまり想定外は、最初からスルーされたり、避けられたり、差別や排除の対象になります。けれども、先ほどのようなハードな旅の現実にさらされると、すべてが想定外になってしまう。


理解しようとか、理想化しようとか、なんとか自分を納得させようとする、そういう試みもことごとくくつがえされる。逃げ場もない。けれども、コントロール不能な想定外の現実は次々と押し寄せてくる。いらいらするし、不快きわまりない。でも、あきらめるしかない、ゆるすしかない。すると、そこにある種の解放感が生まれてくるというお話しをしました。じつは、このことが今日のテーマである「マインドフルネス」にも通じるように思います。ようやく、テーマにたどりつきました(笑)。


マインドフルネスとは、「今この瞬間に心(マインド)を集中させ、判断をしないでありのままを観察すること」といわれています。名称からすると、だいじなのは心(マインド)だと一般的には思われがちです。心によって身体をコントロール、たとえばリラックスさせたり、ゆるめたりする、というイメージをもたれるかもしれません。しかし、これは先ほどの話でいえば、逆に、身体という自然を「想定内」に収めようとする機械化もしくは疎外になってしまいます。


太極拳やヨーガなどで「リラックスしましょう」といわれます。けれども、それを聞いて「ああ、リラックスしなくては」とマインドが思うとしたら、それは身体を心に従属させてしまうことになります。リラックスがいけないわけではありません。しかし、それは目的ではなく結果としてもたらされるものです。リラックスを目的とするとというのは、頭でイメージした理想状態に身体をはめ込もうとすることです。それはアタマによるカラダのコントロールです。ただ、アタマのコントロール力は強いので、それにカラダが反応して、暗示効果でリラックスしたつもりの感覚がこみ上げてきたりするので、なおさらややこしくなります。


マインドフルネスというのはマインドで身体をコントロールすることではなく、逆に身体をマインドによる支配から解放してやることだといえると思います。ちなみに、ここでいうマインドとは「自我」や「アタマ」といったような意味で、「マインドフルネス」というときの身心をともにふくめた広がりのある「こころ」の意味ではありません。ちょっと、ややこしいですが。


ともあれ、そうした狭い意味でのマインドによる身体のコントロールとは、結局のところ身体の機械化です。身体を道具として使うという意味で、それは身体の疎外です。ですから、マインドフルネスでむしろ注意を向けなくてはならないのは、マインドというとらえどころのないものではなく、身体のほうです。


では、どのようにして身体をマインドのコントロールから解放するのか。時間がないので技法的なことにはふれませんが、だいじなのは身体の知を浮上させることだと思います。身体の知とはなんでしょう。かんたんにいうと、2つの大きな特質があると思います。1つは、「つねに生きようとしている」ということ。もう1つは、「つねに現在に反応している」ということです。


「つねに生きようとしている」とは、どのような瞬間においても身体は無条件に生きようとしている、ということです。怪我をしても身体はその瞬間から修復をはじめます。身体が「重症だから治療しても無駄だ」とみずから修復をやめることはありません。そう考えるのはアタマです。身体には死をむかえるそのときまで、つねに生命へ向かうベクトルとともにあります。


もうひとつの「つねに現在に反応している」ですが、これは身体はいま起きていることにだけ反応するようにできているということです。アタマがちょっかいを出さないかぎり、いま起こっていることが身体にとってはすべてです。いま殴られたら、いま痛い。そしてその次の瞬間から修復を開始する。そうやってたえず生命の更新をくりかえしている。それを身体の知といっていいかと思います。


これに対して、マインドは、みずからの思考を正当化するためには自分を傷つけたり、ときには自分を殺したりすることもいといません。また、「現在」よりも、言語によってつくられた「過去」や「未来」のイメージに反応しがちです。目の前で展開していることよりも、過去の想念のほうにリアリティを感じます。これは言語能力と大きく関わっています。この能力があるがゆえに、人間は作戦や計画を立てたり、本を読んだり、なにかを創りあげたりという、いまここにある現実以外の、もうひとつのリアリティを経験することができます。マインドと身体はけっして対立しているわけでも、どちらがよくて、どちらが悪いというわけでもなく、互いに補完しあう関係にあります。

 


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そろそろ、まとめに入りたいと思います。先ほど近代合理主義とは想定外を想定内に収めようとする考え方だと申し上げました。しかし、現代という時代は、もはやそれが立ちいかなくなっています。無理に行おうとすると、差別や暴力がかならず起こってきます。金融や市場の分野では VUCA(ヴーカ)の時代といわれます。これは、Volatility(不安定) Uncertainty(不確実)、 Complexity(複雑性) Ambiguity(曖昧性)という4つの単語の頭文字をつなげたことばで、アフリカの過酷な地を旅するのと同じように、予測不能な不確実な状況を意味します。


そうした時代に大切なのは、想定外を想定外のままに受けいれ、対応する力です。変化があっても、まあ、なんとかなるさと思えるような自分と他者への信頼感です。それはマインドではなく身体からもたらされる柔軟な知である気がします。なぜなら、わたしたちのだれもが身体という想定外な存在とともにあるからです。


ただし、それは、よくいわれるように、かならずしも安らぎに満ちた、おだやかで、スッキリと癒されるような感覚とはかぎらないと、わたしは思います。さきほど旅の話でお話ししたように、イライラするときはするし、腹も立つし、ときには爆発もする。でも、それでもまあいいや、と感じられるようなありかたです。感じられないときもありますが。


マインドフルネスとはモヤモヤがなくなってスッキリするのではなく、モヤモヤしていても、リラックスできなくても、スッキリしなくても、まあいいや、そんなもんさと感じられる、というありかただと思います。だから、安心してモヤモヤしましょう。あまり説得力がないですが(笑)。


逆に「スッキリした」というのが、想定外を想定内に収めたことでしかないこともあるでしょう。スッキリするにこしたことはないですが、生きていくうえではスッキリしないことのほうが圧倒的に多いので、むりにスッキリしなくてもかまわないということです。


「わたし」が生きているとは、それだけで、すでに想定外なことです。想定外だけど、なんとか生きている。そこに深くふれていくことが、マインドフルネスということの一面なのではないか、と思います。また、マインドフルネスへの関心は、複雑で読めない想定外の世界を、むりに読めるものにつくりかえず、そのままの状態で受けとめていくためのありかたとして注目されているからではないかと思います。ありがとうございました。


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今回の選挙はアメリカにとって、もっとも民主主義的で希望に満ちた選挙 !?

前のエントリーで紹介した『ドナルド・トランプ 黒の説得術』(東京堂出版)を書いたカイロ時代からの友人アサカワ君こと浅川芳裕さんが、fbのコメント欄で、別のある方のコメントに応えて「今回の大統領選はアメリカ、世界にとってもっとも希望に満ちた選挙だとみている」と書いていた。「超少数派の意見」と断りをつけてはいたが、その見方がとても面白かったので、本人の許可を得て、「今回の選挙はアメリカにとって、もっとも民主主義的で希望に満ちた選挙である」と題して転載します。


さらに、その後、私信として送られてきたトランプ現象についてのアサカワ君の解説も、とてもおもしろかった。きちんとまとめて記事か本にしてほしいが、自分のサイトもまだできていないようなので、「オバマ革命の継続か、阻止かの闘い」と題してあひる商会特約で特別公開! 


かんたんにいうと、今回トランプに投票する層の中心は「トランプに感情を揺さぶれた無学な層ではなく、あるポリシーをもったミドル、アッパーミドル層以上の地方の個人事業主や中小企業経営者、農家層」「彼らはアメリカの土着文化である保守・自由主義(俺のメシは俺がかせぎ、俺の家族は俺が守り、子供は俺が教育し、近くで困っていた人がいたら俺が守る・・・)の独立自尊を旨として、基本的に「あらゆる党派に属したくない、独立孤高の人たちだった」。しかし、オバマ革命によって、その生活の基盤を危機にさらされ、「やむなくトランプに消極的に投票することで、オバマ革命の継続阻止の確率を少しでもあげようとしている」ということ。アーミッシュの話や、かれの専門である農業や農家からの視点が興味深いです。


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その1
今回の選挙はアメリカにとって、もっとも民主主義的で希望に満ちた選挙である (浅川芳裕)


・・・じつは私はまったく違う意見で、今回の大統領選はアメリカ、世界にとってもっとも希望に満ちた選挙だとみなしています(超少数派の意見ですが・・・3つ根拠があります)。


というのは、


1)共和党・民主党の予備選の投票数をみると、生まれてはじめて投票した人がいちばん多い選挙であること。オバマのときよりずっと多いです。これは、トランプの言葉と説得術によってはじめて、無党派層やサイレントマジョリティに届いたおかげです(なぜ届いたかは、拙著をお読みいただければわかります)。本選でも同様の結果になるでしょう。つまり、アメリカで民主主義が機能しはじめる記念すべき希望に満ちた選挙なのです!


2)しかも、生まれてはじめて投票した層は、地方のミドルクラス、アッパーミドル層がメインです。アメリカの地域社会、経済を支える主要な納税層でもあります。さらにいえば、その層のなかでも中年から高齢者層が多い。逆にいえば、彼らの声がこれまで政治に反映されていなかったのです。つまり、今回、その声がワシントンDCに届き、政治が有権者目線に変わるきっかけになる希望に満ちた選挙なのです!(その層は、メディアでは現状に不満をもつホワイト・プアなどと表現されていますが、投票者調査を厳密にみていくと、まったく的外れです)


3)そして、大統領選の二人の候補者について、表も裏もほぼすべてが明らかになる記念すべき選挙です! アメリカの民主主義とは、私の定義では、4年に一度、2つの欠陥商品からどちらを買うか強制的に決めなければならないショッピングのようなものです。その欠陥商品が決める政策が、国民所得の3割(税金)を方向付けるほどの重みをもっています。商品の欠陥性について、今回の大統領選ほど、さまざまな角度から評価、検討された選挙はありません。中傷合戦とよく評されますが、これも的違いです。政治家の欠陥についての評価基準が定まる過程にある、民主主義にとって希望に満ちた選挙です!


民間ビジネスなら商品・サービスの事前評価は当然のことですが、ようやく「政治ビジネス=所得の3割を決める」において、購入を決める前に一般国民が吟味できる状況ができたきた記念すべき選挙なのです。


これは、ソーシャルメディアの発達もありますが、ウィキリークスが果たした役割が大きいです。主要メディアが片方の候補者を一方的に応援する言論状況=ビジネスでいえばマーケット独占状態に対して、機密暴露サイトウィキリークスが市場参入したわけです。そのおかげで、繰り返しになりますが、商品の欠陥性について、政治家のイメージではなく、商品の製造プロセス(たとえば政治家のメールのやりとり)まで透明化が実現しつつあるわけです。


>それぞれ自分達が支持する民主党、共和党の候補を応援していた私の友人たちも今年は冷めてました。

 

おそらくアメリカ全体でみれば、アッパー層のいわゆるエリートの方々で、もともと支持政党が明確で、投票率も高い層です。現地取材してみて、今回の選挙でいちばん混乱、当惑、もっといえば絶望していたのはこの層のみなさん。


彼らはもちろん良識的な方々で自分では意識できていませんが、これまでの選挙という政治ビジネスにおいて寡占化の勢力であったのです。別の見方をすれば、これまで政治家はこの層が理解できる言語と政策を訴え、それをメディアが伝え、結果が決めっていたのです。それが今回、トランプの登場によって、この少数派層の理解を超え、これまで伝達を独占していたメディアをもすっ飛ばし、直接もっと広い層(ミドルクラスとアッパーミドル)の心を動かす選挙になっているのです。


つまり、彼らは自分たちが国をリードしてきたと思い込んでいたけれど、じつは少数派であったことにはじめて気づきはじめていて、その状況が今後、永続化することに無意識的に恐怖を感じるか、少なくとも頭が混乱している状況といえるでしょう。


いずれにせよ、世界の民主主義に発展において、アメリカがその先導役であるとすれば、その大統領選において、サイレントマジョリティが自分たちの運命を自分たちが決めるという期待をもって政治参加する今回の選挙が、いかに希望に満ちた(生まれてはじめて投票するのです!)ものか、想像いただけるかとおもいます。


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その2
オバマ革命の継続か、阻止かの闘い


トランプが勝つと、


アメリカ革命?
アメリカの春?


そのあと


アメリカの嵐、そして分断?
世界で多元文化主義が終焉?


しかし、革命はすでに8年前に起きています。 


言うまでもなく、オバマ革命です。
アメリカの土着文化を守りたい人々がたちあがっている。そのあとの嵐と分断の激しさを象徴的に表出しているのが今回の大統領選挙です。


「過激なオバマ革命信奉者」vs「身の丈にあった生き方をしたい人々」の戦いです。


オバマ革命とは、アメリカ納税者差別的な世界公平主義革命です。正義と公正の名のもと、アメリカ人より外人(不法移民)、アメリカ人のなかでも納税者より税金を払っていない層が多いヒスパニックと黒人、アメリカ国内実業家よりグローバル企業、アメリカの雇用より自然環境保護、アメリカより外国を優遇する革命です。


優遇される対象は当然、オバマ支持者(購入者)です。投票または献金と利益供与の交換が民主主義ビジネスの原則です。その意味で、これまで1000億円以上献金を集めたオバマは民主主義ビジネスの成功者といえます。舛添元都知事のようなチンケな私的流用レベルではありません。


優遇(利益供与)される対象は、具体的に、オバマへの投票率の高い民主党州、低所得投票者層、献金企業、外国政府(系団体)です。プラス、公平実現に向けて仕事が増える公務員労働者組合と、社会の公平を信じるゆとりのある一部のアッパークラス(メディア含む、マスコミ献金の100%近くがオバマ・クリントン献金。見返りに広告料と政府高官)です。


利益供与のすさまじさがオバマ革命です。わずか8年で、生活保護(SNAP)受給者数は5000万人を突破し、公務員数は50万人純増すると同時に、有力献金者から選んだ物見遊山のセレブ大使が激増している。


そうしてアメリカの借金は2倍に膨れ上がる一方、利益供与の肩代わりをしているミドル、アッパーミドル層以上の地方の個人事業主や中小企業経営者、農家層で、その象徴的な悪策がオバマケアです。


その負担料は倍増(保険料の名を借りた大増税)し、生活・事業継続が成り立たなくなっている(一方で、オバマ献金グローバル企業は優遇され株価は高騰し、公務員給与は上昇しているのが現実です)。


「これまで自分たちだけが損をしているよう気がしていた・・・」という情緒的で典型的なトランプ支持層描写がありましたが、事実なのです。


先のコメントでは、読者の感情を揺さぶると同時に、「ポリティカルコレクトネス」を尊重するだろう読者の直接的な反論をあらかじめ封じるために、生まれてはじめて投票する層を美化して、アメリカ歴史上、もっとも希望に満ち溢れた民主選挙と書きましたが、深層はもっと深いところにあります。


表面的にはクリントンvsトランプの戦いにみえていますが、本質は
「オバマ革命の継続・拡大(クリントン)を選ぶか?」「オバマ革命を阻止するか(トランプ)?」の選択選挙なわけです。


生まれてはじめて投票する層の多くは、トランプに感情を揺さぶれた無学な層ではなく、あるポリシーをもっています。


それはアメリカの土着文化である保守・自由主義(俺のメシは俺がかせぎ、俺の家族は俺が守り、子供は俺が教育し、近くで困っていた人がいたら俺が守る・・・)です。独立自尊のアメリカ人です。


(ちなみに、黒人・ヒスパニック・アジア・ムスリム系のトランプ支持者はこの新興独立自尊系とその予備軍です。俺たちを憐れんだふりをして、なにかを恵んでくれるのをもうやめてくれ、と。お前たちがしているのは、俺たちをダシにしているだけだ、と)。


オバマ革命が推し進める社会民主主義・多元文化主義(自分のメシは自分で稼がず、困った人にメシを国が配分し、アメリカ人から収奪した金で外国人を守り・・・をみんなで選挙で決める・・・)など、忌み嫌っているわけです。


もっとわかりやすくいえば、彼らにとってそんな民主主義が気持ち悪いのです。だから、その制度に参加しないのは生き方、価値観として、当然です。投票しないで、多少損しても、文句は言わない。メシが自分で稼げないやつらのママゴト、寝言として放っておいたわけです。ほおっておけば、自分たちのことも放ってくれると思っていた。


彼からしてみれば、価値観に近いとはいえ、共和党も似たり寄ったりのママゴトをしているようにみえる。だから男(女)らしく共和党にも投票しないし、なによりもあらゆる党派に属したくない、独立孤高の人たちなわけです。


しかし、オバマ革命はそんな彼らの土着文化に土足で入ってきた。その象徴が、コモンコア(連邦政府による教育カリキュラム)の強制であり、農場の経営介入、地方労働文化の象徴である炭鉱の相次ぐ強制閉鎖など・・・です。


オバマは2008年の大統領選で、「アメリカを根本的に変容させる」ことを訴えて当選しましたが、まさに変容させることに成功したわけです。


本当は投票したくないけれど、自分たちの生き方を守るために追い込まれているのです。ポリシーに反するけれど、トランプに消極的に投票することで、オバマ革命の継続阻止の確率を少しでもあげられれば・・・


まさに苦渋の選択です。


現地取材でみた苦渋の選択の象徴例が、近代生活を否定するアーミッシュ派(自給自足だから全員農家)の人たちです。かれらはすべてトランプ支持。政府の農場、教育、生活介入=信仰介入を積極的に進めたいわゆる進歩派革命政権のオバマに完全に追い詰められている。


普段は投票しない(宗教上、地上の権威に関与しない)が今回は、クリントンになれば介入強化が4年続くのは耐え難い。そこで、自分たちの自治的な農業・生活・信仰を守るためにやむをえずトランプ投票にむけて運動を展開中なのです。


とくに大票田(選挙人が多い)のペンシルバニア州にアーミッシュ派が多いから、彼らの投票率が高ければ、全体のトランプ勝利の確率が高まる。ほとんどが生まれてはじめて投票だから、トランプ票が純増するわけです(彼らは電話どころか、スマホやパソコンもなく、世論調査など受けないから数値にでてこない)。


数十万人のアーミッシュなど少数派と思われるでしょうが、もっと大きな有権者層アメリカの全農家の立場と同じです。農家から大統領選をみるとマスコミと全く違う世界がみえてきます。


農家のトランプ支持73%、クリントン支持10%(ファームフューチャーズ誌農家世論調査)。別調査(ファームジャーナル誌)でも同様の結果(トランプ74%クリントン9%)。両誌ともアメリカを代表する農業メディア。


最新の農家世論調査「アグリパルス」(200エーカー=80ha以上の農場のみ対象)では、トランプ支持55%、クリントン支持18%。農家女性でもトランプ支持が多数派。(ちなみに、アグリパルスは大統領選2週間前に、毎回、農家の規模別や年代別の詳細投票意向とその理由や背景としての農業経済分析をきっちりだしてくる信頼できる調査。調査内容については、アメリカ開拓、建国時代から独立自尊の農家は共和党支持が大多数派だから、当然の結果。農場経営の自立に対して、政府が介入していく民主党支持農家は、あとからやってきた少数のアジア系・ヒスパニック系・少数の黒人系小規模農家が中心。地域によっては商売的に民主党支持をしておかないと問題が起こるので、消極的支持派も)


そんな彼らをいちばん動かしたは、じつは、自分たちの文化や価値観擁護といった自己利益でさえありません。オバマ=ヒラリー革命の腐敗です。


公平実現の美辞麗句と表裏一体なのが腐敗です。何が公平で、そのためにだれを優遇するか判断する人が、無数の人が参加するマーケットではなく、一部の特権階級が独占的に決められる。そして、その特権階級が固定化する。


新興貴族階級の登場です。その象徴的な存在がクリントン家とクリントン財団であり、アラブ産油国やイランからの貢物が献金トップリストに入っている。その金でクリントンから献金で買収されたサンダースや職を得たFBI関係者(猟官)です。この腐敗の構造を権力で強化していたオバマ自身はつかまりたくないから、当然、クリントンを擁護しています。


オバマ、クリントンに代表される新興貴族は民主党を支持する一般労働者や公務員、新興アッパークラスの人にとって憧れの的、アイドルですから、何があってもアイドルに投票する。(オバマは海外経験と腐敗と美辞麗句の街「シカゴ」で頭角を現した都会型政治家だから、クリントン家のように田舎から苦労して這い上がってきた大根役者とちがって、立ち振る舞い・言葉遣いふくめアイドル維持能力が高い・・・)


ところが、独立自尊の人たちはそんなくだらないアイドルには一瞥もくれない。メシを稼けず、他人の金に寄生してえばっているやつらは唾棄すべき存在であって、一切の関わりをもちたくなかった。


そんな彼らを今回動かしたのは、目にあまる腐敗を彼らの目前にあぶりだした、トランプの説得術のなかでも「誇張法」なわけです。


彼らが表現できなかった感情をトランプが言葉にしてくれたのではなく、放っておいた腐敗を看過できない細部までクローズアップして、トランプがみせてくれたわけです。


みてしまった以上、(遠くにみえていた腐敗が、トランプ話法の遠近等価作業で、近くでの出来事にみえてきた結果)「近所で問題があれば俺が解決するしかない」という彼らの男気・女気を触発したといってもいいでしょう。


近所、台所、子供・・・まで差し迫った、オバマ革命を継続するか? 阻止するか? の選択選挙なのです。


・・・と以上(すべて)、語ってきたようなビジュアル的な構図に位置づけ訴求し(アピール)、価値観を揺さぶり(エンゲージメント)、絶対に選挙に行かなかった独立自尊の人々を家から引きずり出せる(エンパワメント)のは、トランプ以外にいなかっただけです。


トランプが勝利した場合、当然、嵐や分断とみえるような事象をいま以上にメディアが取り上げるでしょうが、土着のアメリカ文化(開拓・独立精神)が再び花開く(Make America Great Again!)ことだけは間違いありません。


日本でも腐敗した武士の時代から、庶民の自主独立を説いた福沢諭吉は、明治維新後、政府の憲兵に長年、監視されていました。困った人がいないと困るのが政府であり、困った人が精神的に自立する自由主義は過激思想なわけです。分断をあおるのは、そのほうが得する人がいるからです・・・明治政府は勲章授与で懐柔しようとしたが、福沢はそれも拒否した。自らメディアになって戦ったわけです。その意味で、トランプの過激にみえるツイッターは、現代アメリカの「学問のすすめ」なのです。

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浅川芳裕さんが 『ドナルド・トランプ 黒の説得術』という本を出した

米国大統領選決着が間近の中、ジャーナリストの浅川芳裕さんが『ドナルド・トランプ 黒の説得術』(東京堂出版)という本を出した。浅川さんは、農業分野での仕事がメインだが、もとはカイロ大学でアラビア語やヘブライ語を学びつつ、イスラム主義者の取材やらなんやらでエジプトで計6回留置場に入った経験をもつ恐れを知らない男である。


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その彼がどうしてトランプの本を? しかも、トランプへの逆風が吹いているこの時期に? あとがきにも書いているが、浅川さんはもともと共和党候補の一人だったランド・ポール上院議員に親近感を抱き、ランド・ポールの著書『国家を喰らう官僚たち』(新潮社)の翻訳を手がけたほどだった。


ランド・ポールは共和党議員の中でもきわめて理性的・現実的な人物だ。彼は「アメリカをだめにしているのはワシントンに巣くう特権階級やロビイストといった既得権益者である」という立場から現実的な議論を展開していた。ところが、そのランド・ポールが共和党の予備選で、泡沫候補と見なされていたトランプとテレビ討論で相まみえるや瞬殺されてしまった。。。


それがきっかけで、トランプとは何なのだと関心を持った浅川さんは、予備選終盤の時期に米国を訪れ、トランプの政治集会やその参加者、ワシントンのシンクタンク研究員らに広く取材した。日本のトランプ報道は基本的にCNNをはじめ米国の反トランプ側メディアの見かたを踏襲しているが、浅川氏は逆にトランプ陣営の側に身を置いて、投票所などをこまめに訪れ、そこから見えてくるものをさぐった。また、過去のトランプのインタビュ−やスピーチ動画を子細に分析し、なぜトランプがこれほどの支持をとりつけることができたのかを明らかにしようとした。


興味深いことに、トランプの基本認識はランド・ポールや、そしてクリントンに敗れた民主党候補のバーニー・サンダースらに近い。「移民出ていけ」という話ではなく、ブッシュやクリントンといった特権的エスタブリッシュメントが力を持ちすぎたことが、アメリカをだめにしている、という見方だ。しかし、サンダースもランド・ポールも、トランプのように支持をかためられなかった。それは彼らに「説得術」というノーハウが欠けていたからだという観点からまとめたのが、この本だ。


では、どのような説得術なのか。たとえば意地悪なインタビュアーに「あなたの女性の支持率は低いですね。どうしますか?」と問われたら、ふつうの候補者なら「いや、そんなことはありません」といって、それに反するデータを提示したりするだろう。だが、トランプはこう返す。


「女性は私のことが好きです。とても多くの女性が私のことを支持しています。彼らはこういいます。私たちがドナルド・トランプを好きなのは、強さを感じるからです。この国を守ってくれるからです。女性を守るだけでなく、みんなを守るので、みんなトランプが好きです」(2016.3.31 Fox Newsによるインタビュー)


答えになっていない。。。女性の支持が低いというツッコミなのに、「女性はトランプが好きな話」に変わり、最後は「みんなトランプが好き」という結論にすりかわってしまう。


これが説得術と呼べるのか? 詭弁とも呼べないではないか。事実そのとおりなのだが、こうしたやり方でトランプが支持を伸ばしてきたのも紛れもない事実だ。それがどうして通用するのか。そのことを社会心理学やアリストテレスやキケロまで引き合いに出して分析したのが、この本である。


つまり、トランプの一見支離滅裂なスピーチが、じつはダブルバインドやフレーミング、認知バイアスやバンドワゴン効果といった社会心理学の諸法則や、古代ギリシア・ローマの弁論術の原則にかなっており、トランプ自身もそうした効果を見越して、ライバル候補へのあだ名のつけかた一つをとっても、緻密な計算にもとづいて、言葉を組み立てていることを、スピーチの分析から明らかにしていく。


たとえば、トランプはわざと曖昧な文言を用い、細部を語らない。それは彼が無知だからではなく(無知もあるのかもしれないが。。)、「聞き手一人ひとりが自分の信念に応じてトランプの発言を都合よく解釈し、つくりかえていく」効果を見越しているからだという。


物語のピースをあたえることによって、聞き手がそれを勝手に解釈して、自分の物語を作っていく。単一のストーリーを強圧的に与えるのではなく、聞き手の解釈を優先し、それに応じて、次のピースをばらまいていくのがトランプのやり方だ。その意味でトランプには強固な政治信条があるわけではなく、人びとの無意識を巧みに浮き彫りにして、それを自分への支持にむすびつけていく手腕に長けているといえる。


興味深かったのは、トランプが唯一師匠と呼んでいるビンセント・ピールという人物にふれている箇所だ。ピールは第二次大戦後に活躍した国民的に人気のあった米国人牧師で、今日自己啓発やビジネス成功哲学などでよく使われる「ポジティブ・シンキング」という言葉の生みの親でもある。また、キリスト教をエンターテインメント的なショー(スピーチ)によって成功哲学とセットにして伝える、というアメリカ的なキリスト教普及のあり方を確立した人物でもある。


ピールはアメリカ的なプロテスタンティズムをビジネスやライフスタイルと結びつける強固なモデルをつくった。その意味でカーネギーなどと同様、自己啓発型処世術の元祖である。そのやり方を忠実に受け継ぎ、エスタブリッシュメントなき本来のアメリカという理念のもとで、さらに発展させたのがトランプだというのが浅川さんの分析だ。


ただ、トランプもそうであるように、ポジティブ思考とはネガティブの徹底的な否定の上に成り立つ。そこにはポジティブが善で、ネガティブが悪であるという強固な二元論がある。つまり、ポジティブ思考の背後にはつねに恐怖がある。ネガティブなものへの強迫観念が、熱狂的なポジティブの礼賛へと結びついている。トランプが「移民」や「テロリスト」への恐怖をあおることによって、みずからのポジティブな印象を強化し、支持に結びつけようとしてきたのはいうまでもない。そして、それが機能してしまう社会的背景がアメリカにはある。


人をすぐ動かすのにもっとも効果的なのは恐怖である。政治とは本質的に、恐怖を背景に暴力をちらつかせることで成り立っている。この本は、トランプの説得術の緻密さを知ることで、アメリカに連綿と流れてきたポジティブ思考や成功哲学の背景に恐怖があること、さらに、その恐怖によって、いともかんたんに大衆が動かされてしまうことをリアルに感じさせてくれる。


成功哲学やポジティブ思考は、結局のところ、洗脳にほかならない。洗脳する側としてこのトランプの「説得術」を用いるか、それとも洗脳されないために用いるかは読者の自由だ。その意味で、この本はトランプの手の内を明かすことによって、逆説的に、自己啓発や成功哲学への辛辣な批判にもなっている。



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性暴力と紛争鉱物と2ーーデニ・ムクウェゲ医師の来日講演会

コンゴ民主共和国東部における紛争と性暴力の被害者の治療と精神的ケアを15年以上にわたってつづけているコンゴ人医師デニ・ムクウェゲ氏が来日された。東京で開催された2度の講演会(笹川平和財団と東京大学)を聞いた。


ムクウェゲ医師のことは以前にも書いた。彼の活動を追ったドキュメンタリー映画『女を修理する男』(2015)はBSでも短縮版が放映されたが、そこに描かれたコンゴ東部の性暴力の実態はすさまじいものだった。とりわけ驚いたのは、紛争地域における性暴力が性欲からではなく、組織化された指揮の下で、周到に計画された戦略として用いられている、ということだった。


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戦争における性暴力は、兵士のストレスや性欲の発散ととらえられがちだ。たしかに、被害者の圧倒的多数を占めるのは女性で、コンゴ東部に暮らす女性の3人に2人が性暴力の被害者だという。しかし、被害者の中には6ヵ月の乳児から80歳の老人までが含まれ、男性の被害者もいるという。性欲にもとづく暴力ではなく、武器として性暴力を用いているからである。


だが、なんのために? 


カラシニコフよりも安価に、共同体の構成員(とくに女性と子ども)に一生癒えない傷や恐怖を植え付け、コミュニティを崩壊させるためである。それでも「戦争にレイプはつきものだ、仕方がない」という長年の慣習的な見方がじゃまをして、法的な罰則もない状態(現在は状況は変わってきている)が、90年代後半からはじまったコンゴ紛争に伴う性暴力被害を野放しにしてきた。


紛争の原因はというと、コンゴ東部で産出するタンタルのようなレアメタルの奪い合いである。タンタルは携帯電話やパソコンなどの電子機器に不可欠な材料であり、世界的に膨大な需要がある。国や反政府勢力が鉱山の占有をめぐって争い、それを長引かせ、泥沼化させてきたのは、これらの鉱物をほしがる多国籍企業の需要だ。


紛争そのものは2002年に和平合意が成立して一段落したものの、鉱物の奪い合いはいまだにつづいており、政府軍、そして無数の反政府勢力、それを支援する外国勢力、さらに多国籍企業が複雑にからみあって、いまだに紛争状態が続いている。紛争鉱物と性暴力とグローバル経済が密接に結びついている。


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ムクウェゲ氏はとくに大柄というわけではないが、物静かな存在感を感じさせる大きな方だった。言葉を選んで、とつとつとしゃべるが、力が入ってくると手振りをまじえながら、それでも冷静さを失うことなく、しずかに語ったーー。



「天然資源は開発の可能性の1つなのに、貧困や苦しみを生みだしている。性的暴力や殺人を伴う開発のメカニズムが働いている。コストダウンを求めるがゆえに、原料の供給地は脆弱な国になりがち。脆弱な国家を供給地にすることでコストが下がる。多国籍企業は、悪意、あるいは無知からそれを容認。そのことがコンゴ民主共和国で、女性が暴力にさらされる状況を継続させている。・・・」


「15年前から4万人以上の性暴力を受けた女性の治療やケアにあたってきた。武装勢力のいるところと、鉱山のあるところは重なり、その地域の村で女性の被害が多い。暴力が経済的な理由と結びついている。性欲ではなく、性的なテロ。・・・」


「それぞれの武装勢力に、特有の暴力の方法がある。女性器の傷の状態を見れば、どういうグループがそれをしたかがわかる。その方法を教える研修があることを示している。・・・木の棒を使ったり、銃を使ったりして、直腸膣中隔を破り、殺さずに一生残るトラウマを植え付ける・・・」


「レイプは村人全員の前で行われる。子どもや家族を含むコミュニティの人たちすべてがトラウマを持つように仕向けている。村によっては、村の女性300人が一晩でレイプされた例もある。目的を持った計画的なものでなければ、そんなことはできない・・・傷ついた村人は村を出て、武装勢力は鉱山を支配する。村民の一部は奴隷のように労働力として使われる・・・」


「この紛争は部族紛争ではない。内戦でもない。大統領が憲法も守らないのだ。国の法律に従った戦争ではない。宗教戦争でもない。テロという非対称の戦いですらない。そうではなく、住民、女性、子どもを犠牲にした経済戦争だ。それがこの戦争の真実だ・・・」


 

話の内容はとても重い。が、状況はけっして膠着しているわけではない。90年代から紛争鉱物を買わないよう法律がつくられたり、その適用のための国際社会の努力が時間をかけてなされてきて、一定の成果も上がっている。2014年現在、3Tと呼ばれるタンタル、すず、タングステンの鉱山の7割からは武装勢力は撤退した。トレーサビリティーの徹底によって、いま世に出回っている3Tの99パーセントは紛争鉱物ではないことが証明されている。ただし、金鉱山については、いまだに9割が武装勢力によって支配されているという。


問題をややこしくしているのは、武装勢力がいなくなっても、国の正規軍が同じことをしていて暴力がなくならない状況があること。ムクウェゲ氏の招聘に尽力された立教大の米川正子さんは、コンゴにおいては、いまだ国家は、国民保護や安全保障のために存在しているとはいいがたく統治の意志もない。むしろ国家と反政府勢力の区別が曖昧で、両者は対立し合っているというより、戦闘せずに資源を共同で搾取し合っているとすらいえる。それを米川氏はアフリカのことわざをひいて、「二頭の象が争うと、もっとも苦しむのは草原である。でも、二頭の象が愛し合っても、やはりもっとも苦しむのは草原である」と述べた。二頭の象のみならず、現実には紛争を解決するはずのPKOにしても、紛争解決どころか戦争犯罪人を保護して、草原を苦しめている状況がある。


講演会のくわしい記録については、いずれ正式なレポートが出ると思うので、ここではくわしくはふれない。コンゴ紛争の複雑な背景については米川さんと華井和代さんによるNewsweek誌の記事があり、講演のもっとくわしい内容については望月優大さんによる、よくまとまった記事もある。


とても衝撃的な話で、こうした話にリアリティを感じることは日本人としては、とてもむずかしいかもしれない。あまりにも強烈な事実に直面すると、相手を自分とは関係のない絶対的な他者として位置づけようとする解離反応のようなものが働き、共感的な想像力が堰き止めてられてしまうことがある。コンゴ河を旅していて、反政府勢力の動きについてのニュースを間近で聞いていた自分にとってさえ、このような状況がそう遠くないところで展開されていた、ということが想像しにくい。いままでもそうだったように、時とともに話のディテールや、状況が刻々と変化しているという印象が薄れていって、「アフリカは怖いところだ」「かわいそうだ」「残酷だ」というシングルストーリーというか、ステレオタイプな見方の強化につながってしまうとしたら残念だ。


しかし、実際には消費者としてわれわれがふだん使っている携帯電話やパソコン、電子機器を通じて、この問題はコンゴの密林の奥とつながっている。「自分たちの使っているものになにが使われていて、それが、どこから来ているのか。それが女性への暴力によって作られたものかどうか、それを確認できるような仕組みをつくっていくことが必要」とムクウェゲ氏はいう。


会場から「武装勢力は鉱物資源の売買によって闘争の資金を得ているというが、むしろ鉱物資源のビジネスをするために紛争をしているように見える」というコメントがあった。たしかに武装勢力は政治的な統治の主体を目指しているというより、営利を目的とした活動になっている、とも見える。これは国家も同じで、会社化していくというのは、グローバル化が進んだいまの多くの国家についてもいえることかもしれない。ドバイやシンガポールも国家というより会社のようだ。イデオロギーが空洞化したこの時代、いわゆる反政府武装勢力もそうなっていくのかもしれない。


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講演中、こんなことがあった。ムクウェゲ氏の話が始まってまもなく、会場にいた1人の若いコンゴ人が立ち上がり、壇上にむかってつかつかと歩いてきた。彼は壇に上がると氏の横に立ち、手にしていた紙を頭上に掲げた。そこには「性暴力日本の株式会社も共犯」と日本語で書かれていた。しばし会場は静まりかえっていた。若者はそのまま立ちつづけていた。会場にいた数人のコンゴ人が壇上にやってきて、抵抗する彼を数人がかりで壇上から下ろした。若いコンゴ人は、片言の日本語で「コルタンは、だめ、日本は・・」と訴えていたが、結局会場の外へ連れ出されてしまった。


ムクウェゲ氏はその間、その様子を無言で見ていた。若者がいなくなったあと話を再開したムクウェゲ氏は、「私の国にはこの問題で深いフラストレーションとトラウマの中にいる若者がたくさんいる。彼のもその一人だ。申し訳ない」と頭を下げた。


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