『たまたまザイール、またコンゴ』第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞!

拙著『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社)が日本旅行作家協会の第一回斎藤茂太賞の特別賞にえらばれ、7月28日に目黒雅叙園で行われた授賞式に出てきました。正賞は菌類学者の星野保さんの『菌世界紀行 誰も知らないきのこを追って』(岩波書店)。

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日本旅行作家協会は1973年に創設され、精神科医でエッセイストで、大の旅好きであった斎藤茂太さんが会長をつとめてこられたそうです。2006年に斎藤さんが亡くなられた後は、あの兼高かおるさんが会長になられ、その後、退任されて現在は下重暁子さんが会長をつとめておられます。


斎藤茂太賞は「2015年に出版された紀行・旅行記、旅に関するエッセイ及びノンフィクション作品を対象」に、まず93冊をノミネート。そこから数次の審査を経て受賞作一作を決定するはずだったそうですが、わたしの『たまたまザイール・・』のために、急きょ「特別賞」がもうけられたそうで、ありがたいことに受賞のはこびとなりました。


旅にまつわる作品の賞というのは他にないそうで、これからも毎年、継続していくそうなので、コンゴが、いや今後が楽しみです。選考委員代表の椎名誠さんは、選考とは関係なく、何ヵ月前にすでに拙著を読んでくださっていたそうです。

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会場には斎藤茂太さんのご一族の方々をはじめ、前会長の兼高かおるさん、ホキ徳田さんら、伝説的な方々がおられて、びっくりしました。星野保さんといっしょに写真を撮ったら、星野さんが粘菌シャーレを取り出したので(!!!)、わたしも旅のお供のかっぱくんとあひるさんを取り出した。


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絶望したときには絶望読書を

頭木弘樹さんの『絶望読書』(飛鳥新社)が出た。頭木さんは『絶望名人カフカの人生論』『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(ともに飛鳥新社)と、カフカと絶望をキーワードにした著作を発表されてきた。このたびの『絶望読書』は、頭木さんの絶望哲学?の濃密なエッセンスを、みずからの絶望体験をまじえつつ、わかりやすく解説した、とても心にしみいる本だ。

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絶望読書といっても、読んだら絶望する本という意味ではない。絶望しているときに、自分の気持ちに寄りそってくれる本とはどういうものか、という意味だ。もちろん、絶望の奈落に落ちたばかりのときには本など読む気になれないかもしれない。しかし、少し落ち着いて、目をあげると、どんよりした暗い雲が重く、低く、行く手にどこまでも垂れこめているようなとき、ぼくたちは本を手に取りたくなるかもしれない。でも、それはどんな本なのか。


よくあるのは「あきらめなければ夢は叶う」とか「考え方を変えれば幸せになれる」といった前向きポジティブ本だったり、困難にめげることなく目的を達成した人の話とか、そうでなければドタバタコメディだったりするかもしれない。あるいは、本ではないが「アフリカで飢えている人たちにくらべれば」とか「シリアの難民たちにくらべれば」というふうに極端な例とくらべて相対的に「自分の絶望なんてたいしたことない・・・」と考えようとしたりする。


それで元気になれるひともいるかもしれないが、そうでないひともいる。むしろ、そういう本やアドバイスによって、ますます気持ちが暗く沈んでいくこともある。そうした本やアドバイスには、暗く落ち込んでいるのはよくないこと、ひとは幸福であるべき、明るくなければ人生に意味はない、というメッセージがこめられている。つまり、いま落ち込んでいる自分を望ましくないものとして否定し、そこから一刻も早く回復することを促そうとするからだ。


でも、それは絶望のさなかにあるひとにとっては酷だ。いま絶望している人に幸福のすばらしさを説いても、苦しくなるだけだ。では、どういう本がいいのか。頭木さんは、そんなとき「やはり絶望した気持ちに寄り添ってくれるような本」がいいと書く。暗い闇の中に長くいたひとを、いきなりまぶしい光の下に連れ出すようなものではなく、その絶望にしんぼうづよく寄りそってくれるような本だ。裁いたり、道を指ししめしたり、笑わせたりするのではなく、絶望の中にいることを否定も肯定もせず、ただそこにいることをゆるしてくれるような本だ。それが絶望読書だ。


頭木さんは大学生のとき難病になって、13年にわたる闘病と手術によって、なんとか普通の生活が送れるようになった。長い闘病の間、自分が「人生の外」にいるかんじだったという。これが会社とかキャリアを積む中での一時的な挫折だったら、あるいはポジティブ本に書いてあるようなことで気持ちをきりかえて、がんばろうという気になれるかもしれない。そのひとはただ後れをとっただけだから。前にもひとはいるが、後ろには「自分よりも不幸な人」や「シリアの難民」もいる。


しかし「人生の外」へ出てしまったと感じているときには、そういう考え方はできない。そこはコース外であり、前も後ろもない。あらゆることから切れていて、どちらに歩いても、どこにもつうじていない。そこにいるのは自分だけ。それはひたすらに孤独な世界だ。しかも、いつまでつづくかわからない。そういう絶望とは無縁な人生もあるかもしれないが、なにかの偶然で、そんな人生を生きなくてはならなくなることも少なくない。そういうひとたちのために絶望読書が必要だ、と頭木さんはいう。それは気晴らしや娯楽、あるいは教養のための読書とはちがう。溺れているひとが空気を必要とするように、砂漠で渇いたひとが水を必要とするように、生きるうえでなくてはならないものを与えてくれるような読書なのだ。


この本の中では、カフカはもとより、ドストエフスキー、太宰治らの小説のほかに、桂米朝の落語、山田太一のテレビドラマ、金子みすずの詩など、さまざまな物語がとりあげられている。そこに付せられた頭木さんの解説がとてもいい。「落語の明るさ」とは「太陽のような、闇を追いはらう明るさではなく、月のように夜の暗さと共にある明るさ」だという。とても美しい表現だし、ああ、そうかとおもう。なにが「ああ、そうか」は、ぜひ本書を読んでほしい。


現生人類のことを「ホモ・サピエンス」(知恵のある人)というが、知恵があるがゆえに、ひとは現実と言葉やイメージの世界を混同して、しばしば現実を受け入れられなくなって絶望する。ひとは絶望するもの(ホモ・ディスペラトゥス?)といってもいいかもしれない。でも、そんなとき、すぐ答えを見つけなくてはとか、いそいでここから出なくてはと考えるのではなく、時間をかけて、あせらず、しっかり絶望とつきあったほうが結果的に生きる力につながることがある。その伴侶となってくれるのが絶望読書だ。


話はそれるが、その頭木さんが選りすぐった絶望本を集めた「絶望読書フェア」が青山ブックセンター本店で開催されている。選ばれている31冊の本の中には、拙著『たまたまザイール、またコンゴ』も選ばれていた。ある方が写真を撮影して送ってくださった。

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性暴力と紛争鉱物とーー『女を修理する男』 

見終わった後、圧倒されてしばらく声も出なかった。コンゴ民主共和国東部においていまなおつづいている性暴力の現実と、それを止めるために献身的に取り組んでいるコンゴ人婦人科医デニ・ムクウェゲさんの活動を追ったドキュメンタリー映画『女を修理する男』(2015)という作品である。

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立教大学ジェンダーフォーラムが主催した紛争下における性暴力をめぐるプログラムとして上映されたもので、今年の10月から12月に全国9大学で上映される予定。ショッキングなシーンも出てくるが、たんに陰惨な現実を訴えるものではない。そこからなにをどう捉え、なにができるかといったことを考えるきっかけを与えてくれる、ある意味、希望すら感じさせてくれる希有なドキュメンタリーだ。ジェンダーや国際問題やアフリカや暴力や紛争などに関心のあるひとはもちろん、そうでないひとも、ぜひ見てほしい。


コンゴ東部では1990年代後半から2000年代初頭にかけてのコンゴ紛争をきっかけに民兵や武装勢力による性暴力が蔓延し、紛争が一段落した現在もなおつづいている。それだけ聞くと、戦闘でストレスや性欲をもてあました兵士たちが、村の女たちを襲っているのだろう、と思われるかもしれない。ふつうは、ついそう考えてしまう。


だが、ちがうのだ。そんな単純なものではないのである。ぼくもこのフォーラムで解説をされた立教の米川正子さん(元UNHCRコンゴ・ゴマ所長)の話を聞いて、あらためて気づかされたのだが、紛争下におけるレイプなどの性暴力は性欲とは関係がないのだ。では、それはなぜ行われるのか? それは性暴力が「武器」になるからである。


コンゴ東部ではレイプの被害者は1歳から80歳におよんでいる。被害者の中には相当数の男性もいる。しかも、レイプの方法も夫や子どもたちの前で妻や娘をレイプしたり、子どもたちの前で夫婦を脅して性行為をさせたり、幼児や赤ん坊を犯したり、性器を切り裂いたり、銃で撃ったり、と書いているだけでもおぞましくなるが、要するに、性欲にかられてレイプに及んでいるわけではなく、それは組織的な「戦術」としておこなわれている。いわば性的テロなのである。


では、その目的はなにか? コンゴ東部の場合、そこには鉱物資源がからんでいる。コンゴは携帯電話やゲーム機などに不可欠なレアメタルを豊富に産する。長年にわたるコンゴ紛争のおおもとの原因も、この鉱物の権益をめぐるグローバル需要にある。これらの鉱物資源の権益を得るために、国内外の複数の武装勢力が鉱山周辺のコミュニティを恐怖で支配し、弱体化させ、人口を減少させ、強制的に離散させる。そうした目的をもって組織的に性暴力が行われているのである。


性的テロはなによりも手軽だ。お金がかからない。しかも効果はてきめんで、相手に着実なダメージを与えることができる。女性の被害者は心身ともに傷ついたうえコミュニティから排除される。男性も深い心理的ダメージを追う。こうしてコミュニティは破壊されていく。いちばん問題なのは、こうした性暴力を取り締まる法律が最近までなかったため処罰もされなかったことだ。罪として認識されてこなかったため、性暴力の蔓延に歯止めがかからなかった。


国際社会はどう対応してきたか。これも歯切れが悪い。巨大な利権がからんでいるためにか調査そのものが中止されたり、ほとんど取りあげなかったり、コンゴに駐留するPKOもとくに性暴力に対して対策を講じることもないまま今日にいたっている。


このような中、性暴力を生き残った女性(サバイバー)を献身的に治療し、精神的にケアしてきたのがコンゴの婦人科医のムクウェゲ氏である。1998年にコンゴ東部のブカブに病院をつくって、これまでに4万人以上の性暴力の被害者の治療にあたってきた。ノーベル平和賞の候補にもなんどもあがっていて、今年5月の「タイム」誌では「もっとも影響力のある100人」に選ばれている。


映画はこのムクウェゲ氏の活動を追ったものだ。その活動は命がけだ。2012年にはニューヨークの国連総会で性暴力の実態についてスピーチすることになっていた。しかし本国の保険大臣からスピーチをしないよう脅迫された。スピーチを断念して帰国したムクウェゲ氏は武装集団に銃撃され、かろうじて一命を取り止める。いったんは亡命するが、地元の女性たちの帰ってきてほしいという声に押されて、2013年に帰国し、いまにいたっている。


2012年というと、ぼくがコンゴ河を旅していた時期だ。あのときはなかなかつながらないインターネットを通じてM23というコンゴ東部の反政府武装勢力がキサンガニをめざしているというニュースにふれて不安になったりもしていたが、ブカブではそのようなことが起きていたのだ。河を下る物資輸送船の中で出会った学生が「この国ではいいことをしたら殺されてしまう」と口にしたことを思い出した。


はじめに書いたが、にもかかわらず、この映画の底には希望が感じられた。およそ考えられるかぎり絶望しかない状況に見えるのだけれど、それでもここには希望があると感じられたのがふしぎだ。『女を修理する男』は2016年10月から12月にかけて、全国9大学(宇都宮大、岡山大、神戸外国語大、静岡県立大、上智大、同志社大、東京大、長崎大、早稲田大)で上映される予定。


コンゴの性暴力と紛争鉱物をめぐる複雑な背景については、立教での上映会でも解説された元毎日新聞ヨハネスブルグ特派員でいまは三井物産戦略研究所研究員の白戸圭一さんのこの記事が参考になる。コンゴ紛争の背景については白戸さんの『ルポ資源大陸アフリカ』(朝日文庫)や、米川正子さんの『世界最悪の紛争「コンゴ」』(創成社新書) が参考になる。コンゴ紛争や紛争鉱物についてもふれているが、紛争ばかりではないコンゴについても書かれた拙著『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社)も。


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京都でコンゴ・トークイベント「コンゴ河二人旅」

5月22日(日)に京都の堺町画廊さんでコンゴ・トークイベントがあります。関西の方、この機会にぜひ! なんとコンゴ料理イベントもあります。40名様限定なので、ご予約(下に予約用メールアドレスがあります)はお早めに(´Θ`)ノ

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コンゴ河二人旅
田中真知(作家・翻訳家・あひる商会代表)& 高村伸吾(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

アフリカ最奥部のジャングルを流れるコンゴ河。1991年にこの河を妻とともに丸木舟で下った田中真知が、21年の時を経て、こんどは若きパートナー(男)の高村伸吾とともに、ふたたびこの河を下った。手こぎの丸木舟とカオスの輸送船で下った1700キロの河の旅で世代の異なる2人が見たものは?


【日 時】 2016年5月22日(日) 14時半開場 15時開演
     15:00-17:00 トークイベント
     17:30-19:00 コンゴ料理で交流会


【会 場】 堺町画廊 phone+fax:075-213-3636 
〒604-8106 京都市中京区堺町通御池下ル
http://sakaimachi-garow.com/blog/
アクセス http://sakaimachi-garow.com/blog/?page_id=110


【内容】 
1 「コンゴ河、2度の旅から」(田中真知)20年余年の時をおいて、2度のコンゴ河下りで見えたもの、見えなくなったもの。
2 「そして旅はつづく」(高村伸吾)コンゴ河の旅をきっかけに文化人類学研究者となり、いまなおコンゴで調査をつづける高村が見たものは?
3 「バトルトーク・コンゴ河」(田中真知 vs 高村伸吾)いまだから話せる、とんでもなかった旅のこと。


【参加費】 トークイベント1500円/コンゴ料理で交流会1500円 (トークイベントだけの参加もオーケーです)
【ご予約・お問い合わせ】 congo.river.trip@gmail.com までメールでお名前、人数、交流会参加の有無をお知らせください。
 ※ 先着40名様限定 (席に限りがありますのでご予約はお早めに)


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パレスチナ映画「オマールの壁」を見た

パレスチナ映画「オマールの壁」を見た。原題は「オマール」(主人公のパレスチナ人青年の名前)なのだが、日本では「オマールの壁」というタイトルで公開された。外国映画の日本語タイトルには(「愛と悲しみのなんとか」とか)がっくりくるようなものが少なくないが、この作品については、見終わって、とても気の利いたタイトルをつけたものだと感心した。

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ネタバレになるので内容にはふれないが、壁で分断された現代のパレスチナが舞台となっている、ということから、政治的な意図や、告発的要素がつよい映画なのかなと思っていた。


たしかに、そういう見方はできる。実際、動画サイトにひんぱんにアップされるイスラエル兵によるパレスチナ人への過剰暴力や虐待の映像を重ね合わさずに、この映画を観ることは困難かもしれない。けれども、その点からだけ、つまり現在のパレスチナの現状報告という視点ばかりが強調されすぎると、この作品の魅力が平板になってしまう気もした。


なにより、この作品は映画として、とてもていねいにつくられている。アクション、それにサスペンスタッチのエンターテインメント性もある。パレスチナという時代と場所に限定されない普遍的なテーマもきっちり描かれている。それでいながら、ストーリー展開に予定調和的ながっくり感がない。


「壁」は人の移動を物理的に妨げるものであるとともに、人間同士の「信頼」にも分断をもたらしていく。壁によって、オマールやその周囲の人たちの内面にも壁が築かれ、それは容易に乗り越えられないものになっていく。その過程がこまやかに描かれている。オマールの壁という日本語タイトルが気が利いていると感じたのは、そのせいだ。


この作品はイスラエル当局の許可をとって撮影されているのだろうか。だとしら、イスラエル兵を絵に描いたような悪役として表現することに制限が入ることはないのだろうか(あとでパンフを見たら、すべてパレスチナ領内で撮影されたらしい。壁を登ることについては許可を取ったという)。


この映画だけではなく、イスラエル兵はしばしは機械のように冷酷で無慈悲な悪役としてカリカチュアされる。それはイスラーム武装勢力が暴力性に支配された野蛮な輩として描かれがちなのと同じだ。そういう描かれ方をされることにイスラエル当局が干渉してくることはなかったのだろうか。


「表現の自由」というのは悩ましい表現だ。中国や北朝鮮のように表現に対してあからさまに規制をかける体制もある。しかし、規制がないからといって自由だというわけではない。表現の自由が認められている、とは、その表現が体制に及ぼす影響が取るに足らないと見なされているからでもある。「文化人」がなにをいおうと、体制にほとんど影響はないという状況下での「表現の自由」をけっして喜ばしいとはいえない。むしろ、それはあからさまな表現の規制以上に厄介かもしれない。


上映後、主演のオマール役の俳優アダムさんが舞台挨拶に登場した。場内(とくに女子)がどよめいた。映画では坊主頭だったが、いまはウェーブのかかった黒髪で、しかもハンサム。スタイルもいい。

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席からの写真撮影はかまいません、というアナウンスがあるや、客席のあちこちから携帯やカメラがいっせいにとびだした。話しだしたら声もいい。受け答えもスマート。前の列の女性はずっと携帯をかまえたままだ。液晶画面に彫りの深い顔がアップになっている。何枚撮っているんだ。うーん、世の中はやっぱり不公平だ。。。

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