わたしの訳した『自然のふしぎ大図解』という本が出ました

わたしが翻訳した『自然のふしぎ大図解』(作:A・ウッド&M・ジョリー/絵:O・デイビー/訳:田中真知/偕成社 3240円)という本が発売されました。英国のイラストレーターによる、とてもすてきなイラストが全編につかわれた自然と生きものをめぐる大判の図解解説本です。独特な味のあるイラストが魅力ですが、それぞれの動植物の特徴は正確に描かれています。


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絵本のように眺めているだけでも楽しい本ですが、内容も劣らずすばらしい。熱帯雨林、砂漠、水辺など、さまざまな環境にくらす生きものが、生きのびるためにどのような戦略をとり、互いにどのようにかかわりあっているか、しっかり押さえられています。


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平易ながら、食物連鎖や移動、生物多様性、群れと社会性、擬態など自然や生命の本質をきちんと伝えているのは、さすが環境生態学の先進国にして、あひる先進国でもあるイギリスです。こういう本はなかなかなかったと思います。総ルビなので小学生から読めますが、自然や動植物について基本的なことを学びなおしたい大人にもつよくおすすめです。<(˘⊖˘)ノ


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むすこの帰省、Y君のこと

3年前に就職して九州にいるむすこが正月に帰ってきた。盆と暮れに、たいてい一晩、うちに来る。今年は焼酎のお湯割を飲みながら、さいきん聞いている音楽を互いに聞かせあったりして夜を過ごした。いまはブラックミュージックが好きだといい、お気に入りのRobert Glasperなど聞かせてくれる。自分もさいきんはWeekndとか好きなので、すこし話が合う。どちらの音楽にも、どこかかわいたもの哀しさがある。焼酎がなくなると、残っていたワインを飲み、それもなくなるとお湯を飲みながら、音楽を聞きながら話す。


学生の頃、終電がなくなると渋谷の雑居ビルに住んでいた友人のY君の部屋にころがりこんだ。狭い四畳半の角にウッドベースがたてかけられていて、棚はおびただしい数のレコードで埋まっていた。飲むと、Y君は死体洗いのバイトをしていたときの話や、密航してアメリカにわたったときの話などをした。淡々とした口調で、細部にいたるまで生々しい話にはいくたびとなく驚かされた。それらがすべてホラだったことに気づいたのは、何年もたってからのことだった。


話をしながら、Y君は棚からジャズやプログレのレコードをひっぱりだしてかけた。マイルスもビル・エバンスもウェザーリポートも、リッチー・バイラークのパールも、キース・ジャレットの弾くマイ・バック・ペイジズも、彼の部屋で初めて聞いた。トースターで焼いてくれる厚揚げもおいしかった。


彼の部屋で朝を迎えたことは通算すればおそらく一ヵ月以上になる。いま思えば、それはY君のいる空間の居心地のよさに惹かれていたのだと思う。口は悪いし、辛辣だったが、それは繊細さの裏返しであることはわかっていたから、まったく気にならなかった。だから、渋谷の交差点で酔って車にはねられたときも、病院にいかずにふらつきながらY君の部屋へいった。事故をネタに飲んだ酒はなによりの癒しになった。もっとも翌朝起きたら体中痛かったけれど。


明け方、空が仄かに明るくなる頃、Y君はよくチック・コリアとゲイリー・バートンのクリスタル・サイレンスをかけた。その透明な音楽は、都会が夜から朝へと変わるときの、わずかなしじまにびったりだった。


むすこと話しているときに、そんな昔のことをふいに思い出し、まだ夜明けには2時間ほど早かったけれどクリスタル・サイレンスをかけた。そして、こうしていろんな話ができたことをうれしくおもうし、それを口に出していえる場所と時間が持てたこともうれしく思う、と彼にいった。そんな反応に困るおやじの感傷をさりげなく受けとめ、流してくれたこともありがたかった。


たとえ、いっしょの時間を過ごしていようと、そういうことを口にできる機会はなかなかないし、気づくのもずいぶんあとになってからだったりする。Y君にも、そのことを伝えたかった。あの部屋ですごした時間がどんなに豊かで、かけがえなく、自分にとって救いになっていたか。でも、そのことを十分伝えられたかどうか確信が持てないうちに、きみは世を去ってしまった。今年はきみの墓参りにでかけようとおもう。



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おひるね茶屋へ

やっとおひるね茶屋をおとずれることができた。おひるね茶屋は、作家の故・辻邦生さんの奥さまで美術史家だった故・辻佐保子さんの元実家で、北名古屋にある。いまは辻邦生さんと佐保子さんのプチ文学記念館になっている。

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辻邦生さんはとても気さくで、オープンな方だった。だから、辻さんのまわりには、彼を慕って集まる学生や編集者や、私のようなファンがいた。佐保子さんの役目は、そんな人たちから辻さんの時間を守ることだった。私も昔、佐保子さんに辻さんへの電話を取り次いでもらえなかったことがある。


その後、佐保子さんとも親しくさせていただけるようになったが、辻邦生さんは1999年に亡くなり、佐保子さんはひとりになった。私はときどきお宅におじゃましてお話したり、いっしょに辻邦生さんの墓参りにいったりした。


2011年のクリスマス・イブの前日、イスラエル土産の丸いローソクを佐保子さんに送った。火を灯すと、ローソクのまわりの幾何学模様が幻想的にうかびあがる。でも、そのローソクが到着したクリスマス・イブの朝、彼女は自宅でひとりで亡くなっていた(そのことは以前ブログに書いた)。


その後、親族の方からローソクを受けとりましたと連絡があった。私の送ったローソクはご実家だったおひるね茶屋に置いてあるとも聞いていた。


それから5年、ようやくおひるね茶屋を訪ねた。そこにはかつて夫妻の東京のマンションにあった品々や、若い頃の写真が並べられていて、とてもなつかしかった。昔、私が書いた「辻邦生さんへの最後の手紙」もファイルにはさんであった。ローソクはお二人が帰郷したときに使っていたという部屋に置かれていた。毎年、クリスマスには火を灯していますと弟さんからうかがい、ほっとした気持ちになった。


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佐保子さんが亡くなったあとに分けていただいたマイルス・デイビスの4枚組CDを聞きながら、これを書いている。「ふだんはスカルラッティをよく聞くわね。でも、休日にはマイルス・デイビスよ」と早口で快活におっしゃっていた佐保子さんの笑顔をおもいだす。いまごろ、あのローソクに火が灯っているかもしれない。


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小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』が楽しい!

旅に出ると、まず市場を見にいく。市場ほど、そこに暮らす人びとの生活がよく見える場所はないからだ。どんなものが売られているかだけでなく、売っている人たちや、そこにやってくる人たちが、どんな顔をして、どんな服を着て、どんなふうに歩き、どんなふうにしゃべり、どんなふうに笑うのか。どんな音や匂いや色があるのか。そういう刺激に五感をさらしていると、そこに暮らす人びとが生きているリズムが、じわじわとからだに伝わってくる。それくらい市場は土地と人びとをめぐる多様な情報にあふれている。それに、なんといっても楽しい!


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小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』(アリス館)は、まさに、そんな市場の楽しさをいっぱいに伝えてくれる。小松さんには『地球生活記』や「地球人記』(いずれも福音館書店)など世界の暮らしを撮影した写真集がたくさんある。世界中の変わった家を、まちがいなく世界でもっともたくさん撮影されている方だ。家といっても有名な建築家がつくった「作品」ではない。土地に根ざした暮らし方から生まれた、それはそれは不思議な家ばかりだ。そうした家はそこに暮らす人びとと切り離せない。だから、小松さんの写真集には人がたくさん出てくる。


この本も主役は人だ。東ティモールの市場、インドの花市場、ミャンマーの湖上の市場、ブルキナファソの壺の市場、アルバニアのヤギやヒツジの市場、オマーンの魚市場など、登場する市場はじつにさまざま。その市場をどんな人たちが行き交い、どんなふうにものを売って、どんなふうに食事をして、どんな屋台が出ていて、どんな「計り」が使われているのか。世界各地の市場から見えてくる人びとの暮らしぶりはじつにさまざまなのだけれど、でも、売ったり買ったり、食べたり、飾ったり、集ったりというひとびとの営みは、どこでも共通している。


この本では写真の中にちょっとした説明がついている。「おしゃべり中」とか「床には毛皮をしく」とか「屋根から草が生えている」とか、眺めているだけでは見逃してしまいそうなところにコメントがついている。おかげで、「こんなところにこんなものが」という発見がある。よく見ると、笑っているヒツジがいたり、手にヘナの模様を描いている女の子がいたりする。ほかにもいろいろある。ブリューゲルに「子どもの遊戯」という絵があるけれど、あんなふうに、一枚の写真の中にたくさんの物語が展開されている。


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小松さんは「市場は品物を売り買いするだけの場所ではなく、人の生活があらわれ、また文化がそだっていく、とても魅力的な場所」であり、「人と人とが出会い、集い、交じり合い、新しい力が生まれる場所」と書く。だから、市場はショッピングモールとはちがう。「誰に言われたわけでもないのに、人びとがあつまり、路上に品物をおき、売り買いをしている・・・それが定着していつしか町となった場所がたくさんある」と小松さんはいう。「誰に言われたわけでもない」というのが、だいじなところだ。誰に言われたわけでもなく生まれたものには、気持ちのよい自然な活気がある。市場が楽しいのはきっとそのせいだ。



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文化人類学者・阿部年晴先生のこと

文化人類学者の阿部年晴先生が亡くなった。自分にとって心から先生と呼べる人のひとりだった。訃報を受けてから、いろんなことを思い出していた。前にも書いたことがあるが、30年も前、たまたま手にした『アフリカ人の生活と伝統』という本にとても感銘を受けた。それはアフリカ人の精神世界をみずからのフィールド体験と重ね合わせて読み解くように書かれた本だった。その著者が阿部先生だった。埼玉大学の教授だった。


手紙を書いた。なにを書いたかはもう覚えていない。たぶん自分のアフリカへの思いのようなものを稚拙な文章でつづったのだと思う。それから数日後、先生から電話がかかってきた。びっくりした。先生に呼び出されて向かったのは北浦和の居酒屋だった。うちの近所だった。先生に相談をしに来られていた京大の院生の方もいっしょだった。スーダン南部で調査をされているという。ぼくがアフリカへ行きたいと書いていたので紹介してくださったのだ。


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先生は酒がめっぽう強かった。しかも乱れない。でも、なによりうれしかったのは、先生が、20代半ばの未熟で、頭でっかちな若僧の話を、バカにしたり、頭ごなしに否定したりすることはいっさいせず、ていねいに聞いてくれたことだ。


それからまもなく長い旅に出た。1980年代の半ばだった。紹介してくださった研究者のスーダン南部のフィールドを訪ねるところから旅ははじまった。出発の日、先生は駅まできてくださり、「タナカ風アフリカを存分に見てこい」と声をかけてくださった。いまだに自分がアフリカにこだわりつづけているのは、あのときの先生の言葉が忘れられないからだ。


家がわりと近かったので、帰国してからも、先生とはときどきお会いした。会うと、かならず飲んだ。先生は酒に強かったが、その飲み方はもはや研究者の間でも伝説になっている。朝まで飲むのはあたりまえだった。しかし先生は、そこで終わらず日が昇っても飲みつづけ、仮眠をはさんで日が暮れるまで飲み、そのまま夜通し飲んでまた朝が来て、それでもまだ飲みつづけるというサイクルを、ときにはまる3日、あるいはそれ以上くりかえすという途方もないものだった。


ある夕方、近所の飲み屋から電話がかかってきた。行ってみたら先生は座敷の壁際にすわっていて「昨日からここで飲んでいるので、腰がもう直角だ」などとおっしゃる。そこでしばらく飲んだあと、夜中の北浦和を徘徊したが開いている店がなく、駅前の吉野家で飲んだ。当時の吉野家はビールは三本までだった。足りるはずがない。


そのあと、うちにお招きして、また飲みながら話をした。アフリカのフィールドでのエピソードですごく面白いのだが、そういうときは、こちらもかなり酔っている。だから、あとで思い出そうとしても、ほとんど思い出せないのが残念だった。明くる日「これからS女子大で講義だけど、かわりに授業をしてきてくれ」などとわけのわからないことをおっしゃるのをほっといて、ぼくは仕事に出かけた。帰ってきたら、ちゃんと食器が洗ってあった。


その頃、先生は薄い色のついた銀縁眼鏡をかけていて、一見その筋の人かと見紛う、こわもてな雰囲気だった。でも、先生の書くエッセイはすばらしかった。とくに講談社の「本」という冊子にのっていた「追想のアフリカ」というエッセイは本当によかった。それは20代で初めてアフリカを訪れたとき、西アフリカの港で立ち働く黒人たちを目の当たりにしたときの印象からはじまっていた。みずみずしい感性にあふれた、繊細で、奇跡のように美しいエッセイだった。


たしか80年代後半だったと思うが、アフリカについて、阿部先生と同じく文化人類学者の山口昌男さんと、作家の辻邦生さんが鼎談するという企画が、東京外大だったかで催された。辻邦生さんは学生の頃から私淑していた方で、ちょうどその頃朝日新聞でアフリカを舞台とした小説を書かれていた。その関係で、企画された公開シンポジウムだった。自分が好きだった辻さんと阿部先生がこうした形でつながることがうれしかった。辻さんと阿部先生はタイプはぜんぜんちがったけれど、二人ともひとを明るく励ます人だった。


先生は結婚式にも来てくださり、スピーチもしてくれた。けれども、ぼくがエジプトに移り住んでからは、ばたばたしているうちに疎遠になってしまった。


日本に帰国して10数年たってからインターネットで、先生が退官されてから地球ことば村というNPOの理事長をされていることを知り、そこにメールを書いた。すると、一週間くらいたって先生から電話があった。「阿部です、ひさしぶり」という声を聞いて、懐かしさで気が遠くなりそうだった。2年前(2014年)の秋だった。


20数年ぶりに再会を果たした先は居酒屋ではなかった。体調をくずされ、お酒をやめられたという。でも、せっかくだから最初だけビールで乾杯しようといわれた。それは一生のうちに何度かしかない、かけがえのない幸福な乾杯だった。


そのとき先生は自分が肝臓ガンであること、ずいぶん前に手術をして、もう10年以上入退院をくり返していて、いまだに生きているのを医者が不思議がっていると話してくれた。たしかにあれほど飲んでいたら肝臓をやられないほうがおかしい。先生は自分の症状や受けている治療法を事細かに話してくれる。どう聞いても相当深刻な状態なのはまちがいなかった。それでも口調は、どこか楽しげで、まるで自分のからだを観察するのを楽しんでいるかのようにすら聞こえた。


長いブランクがうそのように、話が弾んだ。60年代末から80年代のアフリカでのエピソードをいろいろ聞かせてくれた。それはひょっとしたら30年前にお互いに泥酔しながらうかがった話かもしれなかった。あのころはアフリカは牧歌的だったなあ、と先生はおっしゃった。危ないといわれていてもナイロビのリバーロードで朝までハシゴして飲んだり、ガーナのアクラで酔っぱらって歩いたりしていても大丈夫だったなあ、とおっしゃる。アフリカでも腰が直角になるほど飲んでいたのですね、というと、先生は笑った。


「空白の30年間」と先生はいった。それは肝臓をやられて酒が飲めなくなるまでの、酒の海を泳ぎつづけた年月のことだった。そんなに酒飲みというと、いかにも豪放磊落なタイプな気もするが、ぼくの印象はむしろ反対で、他人にやさしい気遣いのできる、とても繊細で、シャイな方だった。その照れくささをかくすために、酒を飲んでいたのかもしれない。あれほど飲んでいたにもかかわらず、先生は人望があり学部長や学長代行までつとめられていた。だが一方で、惜しげもなく酒につぎこんだ時間を、もっとフィールドワークや執筆にあてていたら、阿部先生しか書けない本や研究がもっとたくさん読むことができただろうにとも思う。


この再会から、ふたたび折にふれて先生を訪ねて、話をするようになった。ご自宅近くの喫茶店で会ったり、病院のロビーで会ったりした。先生に誘われて「世界ことば村」の活動にもかかわるようになった。その間にも入退院をなんどもくりかえされていたが、そんなときでも、これからこんな本が書きたいとか、こういう研究がしたいと遠大な計画を口にされた。けっして強がりではなく、本気でそういうことを考えていたのだと思う。すっかりやせていたし、体力も衰えているのは明らかなのに、先生が遠大な将来計画を、じつに自然に、楽しそうに語るのを聞いていると、こっちまで、きっとそうなるにちがいない気がしてくるのだった。


だから数日前に訃報を聞いたときは、それは再会したときから覚悟していたことであったにもかかわらず、とても唐突な気がした。あれ、先生、仕事がまだ終わっていないじゃないですかといいたくなった。


通夜の席で、初めて阿部先生と初めて会ったときに紹介された栗本英世さんに再会した。いまは大阪大学で人間科学部長をされている。「あの村はもうないんだよ」と栗本さんはいった。「あの村」とは1985年に栗本さんといっしょに訪れた、スーダン南部の彼のフィールドだったラフォンという村だった。この訪問のあと、村は再燃したスーダン南北内戦のあおりを受けて、90年代になって焼き払われてしまったという。精霊のすむ大きな岩山の裾に集落がひろがる美しい村だった。


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ちなみに、その村をおとずれたあと、西部のダルフール地方へ足をのばし、山の中の小さな村で一ヵ月くらい過ごした。平和で、満ち足りた、かけがえのない日々だった。しかし、その後、ダルフールもまた長い紛争の舞台となり、山中の多くの村で殺戮や焼き討ちが行われ、いまだに入域は困難なままだ。あの平和な村が、どうなっているのか知るよしもない。


大切なものは人の思い出の中にしか残っていない。阿部先生が話してくださった、いろんなエピソードも阿部先生の思い出の中にしかない。だから、亡くなられるまでの2年間、ふたたび会って話をうかがえたのは、ほんとうに幸運だった。たくさん会うことはできなかったけれど、とても濃密な時間だった。先生に自分の本を読んでもらえたのもうれしかった。自分もまた先生になにか喜ばしい時間をあたえることができたと思いたい。


亡くなる20日前くらいに入院先の先生に「『アフリカ人の生活と伝統』を読みかえしています」とメールした。この本の中に、とても好きな一節がある。


・・・この伝承からある種の絶望を読みとることはできるけれども、打ちひしがれた湿っぽい無力感ではなく、むしろ勁さ(つよさ)のようなものをも感じることができるのではなかろうか。・・・現実に対する透徹した眼差しに由来する絶望は精神を受動的な閉塞状態に追いやることはない。悲劇的なものへの感受性は不屈の楽天性と背中合わせのものであり、より適切には、この両者を区別できないように統合した精神の在り方とも呼ぶべきものがそこにはある。これこそは、アフリカの諸民族の精神世界の基調低音として響き続けているものである」(「神と人間」)


今年の春くらいにお会いしたとき、「先生が昔書いた『追想のアフリカ』というエッセイがすごくよかった。あんなかんじでアフリカでの話を書いてほしいです」といったことがある。すると先生は、じつはそれは考えているんだよ、といった。「そうなんですか。ぜひ書いてください。すごく読みたいです。書くのがたいへんなら、インタビューでもいいですよ。直接会うのがたいへんならスカイプというのがあって、疲れない程度でちょっとずつでも話をするのはどうですか」と先生をたきつけた。でも、それは結局、夢になってしまったーー。


訃報を聞いてから、「追想のアフリカ」を読みかえしたくなり、押し入れの古い書類の中を探した。夜中まで探したが、どうしても見つからず、翌日もいろんなところを探しまわり、やっと見つけた。ほかではきっと読めないとおもうので、先生に許可はとっていないけれど、ここにあげる。(クリックで拡大)


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