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2002年1月

*音楽をナマモノにせよ

正月にテレビを見ていると、紋切り型の言い回しがいつもにも増して耳につく。とくにニュース。「善男善女で境内は賑わいを見せていました」とか「訪れた人たちは名物の料理に舌鼓を打ち」とか「観客の間からはため息がもれていました」といった、千年一日のごとき紋切り型表現の乱れ打ちにはげんなりする。

紋切り表現は音楽の世界にもある。たとえば、表彰式のバックにかならず流れる音楽。あの原曲はヘンデルのオラトリオ「マカベアのユダ」のなかの「見よ、勇者は来たれり」という。また、運動会といえば定番の曲がある。文明堂のCMにも使われているオッフェンバックの「天国と地獄」の一節だ。

最初に表彰式や、運動会に、これらの曲をつかおうと考えた人は目の付け所がよかったかもしれないけれど、これだけくり返されてしまうと、もはや音楽というより効果音だ。サイレンが鳴ると、あ、救急車だと思うように、ヘンデルのこの曲がかかると、あ、表彰式やってるとしか思えない。音楽としてはすでに死んでいるといってよい。

音楽が死ぬとは、その音楽がもはや新鮮な驚きや発見を導いてくれるような力を失ってしまうことだ。使い古れさた紋切り型の言い回しがなにも訴えないように、音楽も好きだからといって垂れ流しつづけていれば、空っぽになってしまう。サティのジムノペディ、バッハの「G線上のアリア」や「トッカータとフーガニ短調」などもかなり危ない。

そこであることを思いついた。10回聴くと、データが壊れてしまう音楽CDというのを開発するのだ。いまのCDなどの再生ソフトは無限に再生可能だ。それが音楽の垂れ流しを促している。ところが、10回しか聴けなければ、みな一回一回を大切に、じっくり、ていねいに味わって聴くようになるだろう。

また、どうしても10回以上聞きたい人のために、ショップで有料でデータを回復できるようにする。こうすれば、音楽のむだな垂れ流しはなくなるし、ひとは自分のほんとうに望む音楽をだけを大切に聴くようになる。経済活動も活発化するし、環境にもやさしい。いいことづくめだ。

じつはもうひとつアイディアがある。賞味期限付きCDである。これは購入日からたとえば1カ月たつと自動的にデータが消えるようになっている。音質も賞味期限に近づくにつれ、悪くなっていく。ものによっては、購入から3日目くらいがいちばん音質がよくなって聴き頃というふうにする。CDの生鮮食料品化である。本来生のものである音楽を、CDでも生として扱うのだ。生ビールがあるのだから、生CDがあったっていいではないか。ほかにもアイディアがあるので、関心のあるレコード会社の方はコンタクトくださいね。

*後記

実際に、有効期限付きのCDやDVDが作られたことはあるらしい。しかし、人気がなくて結局、普及しなかったようである。思うに、マーケティングがまずかったのだ。一般のCDよりもお得だと思えるための付加価値をつけなくてはだめなのだ。

たとえば、温泉旅行付きとか、宝塚月組公演付きとかにする。そうなると、温泉マニアや宝塚ファンまでも購買層にとりこめるではないか。ちょっと頭を使えば、わかることである。

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*いい音なんかいらない

最近の映画館は昔にくらべて音響が抜群によくなった。それはうれしいことなのだけど、ひとつやりきれないことがある。それは本編が始まる前に流れるCMまで、その抜群の音響で聞かされることだ。

「千と千尋の神隠し」を見にいったとき、館内が暗くなるとリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の序奏がはじまった。これまで聞いたことがないほど音が立体的に迫ってくる。

スクリーンは宇宙空間である。無数の星が浮かび、銀河がしだいに迫ってくる。やや「2001年 宇宙の旅」の予告編かと、ちょっとぞくぞくしていたら、快速銀河とかいう洗濯機のCMだった。

テレビなら、これでスイッチを切るところだが、映画館ではそうもいかない。そのあともなおコンビニや電話会社のCMが、テレビ特有のせわしないテンポでつづく。

巨大なスクリーンにお笑いタレントの顔が大写しになり、なんたらテレコムで〜オッケーオッケーよ〜といった情けない歌が、重低音スーパードルビーサラウンド3Dボディーソニックなんとかで床を震わす立体音響となってリアルに迫ってくる。腹立たしいのを通り越して、なんだか気持ち悪くなってくる。

映画をテレビの画面で観ると迫力はなくなるが、観られなくはない。けれども、テレビCMを映画館で観ると、明らかに違和感を覚える。映画特有のゆったりとしたスケールに、そぐわないうえ、強制洗脳を受けてるような気がしてくる。テレビの小さな画面と音量だから耐えられるのであって、あれが巨大化・精細化すると見るにも聞くに耐えない。

最近ホームシアターといって、5台くらいのスピーカーをならべて映画館の臨場感を家庭で再現するシステムを宣伝している。たしかにDVDなど観るにはいいのだろうけど、ふつうのテレビを観るときはどうするのだろう。

しょうもないCMだけでなく、ワイドショーやバラエティ、ニュースや天気予報などを大画面でスーパードルビーなんとかで聞くなんて、ぼくには拷問のような気がする。キューブリックの「時計じかけのオレンジ」にもそんな場面があったではないか。

 

*後記

大画面テレビが流行っているが、ぜひ今後つけてもらいたい機能がある。それは画面の表示領域を拡大したり、縮小したりする機能である。

パソコンモニター上のファイルを拡大縮小するように、見たくない番組や、見たくないタレントが大写しになったとき、とっさに画像を小さくできたら、どんなにいいだろう。登録しておくことによって、ある特定のタレントが大写しになると自動的に画像が小さくなるといった機能もいい。需要はあるはずだ。

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*名曲を殺すな!

耳に残るといえば、CMソングも最たるものである。しかし、これについてはもうなにもいうまい。宣伝という目的がある以上、印象に残りやすい旋律を使うのは、しかたないと思う。

しかし、どうしても許せないCMの音楽の使い方がある。それはクラシックの名曲を安易に採用することだ。たとえば、ショパンの前奏曲第7番。こう書いても、ぴんとくる人はあまりいないだろう。しかし、太田胃散の曲といえば、ほとんどのひとが、おお、あれかと思い出すだろう。

ぼくもずっとあの曲は太田胃散の曲だと思っていた。ところが、学生時代、ショパンのピアノ曲のレコードを聴いていたら、なんと途中で太田胃散のCMが入ってきたのでびっくりした。そのとき初めて、この曲のオリジナルがショパンだと知った。

けれども、それからというもの、もうショパンの前奏曲集は聴けなくなった。聴くことがあっても、7曲目はスキップする。太田胃散とのイメージの結びつきがあまりに強固すぎて、純粋な音楽的な美しさを味わうことが不可能になってしまった。どうやって聞いても、太田胃散のCMにしか聞こえないのだ。

しかし最近、もっとも腹が立ったのは、スタッフサービスのCMだ。あの「おーじんじ、おーじんじ」というやつである。よりによって、あんなばかばかしいCMに、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを使っている。

この曲の第一楽章は、青春の悲痛さを、このうえなく美しく情熱的に歌いあげた傑作だ。個人的な思い出もあって、自分でもめったに聴かずに大切にしていた曲だった。

ところが、なんてことだ。あのCMを見て以来、脳裏に浮かぶのは、はかなくも美しい青春の思い出ではなく、バニーガールの恰好をしたオヤジたちの姿になってしまった。ものすごく悲しい。これは許しがたい犯罪だと思う。

あのCMを見てしまった人は、もはや新鮮な気持ちで、あの曲を聞くことはできないのではないか。あのCMによって、ぼくのなかでチャイコフスキーの弦楽セレナーデは完全に死んでしまった。

 

*後記

スタッフサービスのCMはあいかわらず弦楽セレナーデである。しかし、その後もあまりにもいろんなパターンのCMがつくられたので、いつも特定の場面が思い浮かぶということはなくなった。

それでもこの曲を茶化した罪は重いぞ、スタッフサービス! サンクトペテルブルグにあるチャイコフスキーの墓に詣でて、きちんとあやまりなさい。

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*脳内ウォークマン

旅行人読者の方もそうでない方もこんにちは。それにオリジナルCDを購入していただいた方、ありがとうございます。ご感想をくださった方は、よりいっそうありがとうございます。

日頃のご愛顧(?)に応えて、この部屋を借りて連載コラムを始めることになりました。「王様の耳掃除」というタイトルにはそれほど深い意味はないのですが、このコラムが音(音楽をふくむ)についてのものだということは、なんとなく感じてもらえますよね。いずれ音声ファイルを加えたり、いろいろやってみたいと思っているので、リクエストお待ちしています。

ところで家で仕事をしていると、いろんな巡回販売車がやってくる。やってくるだけならいいのだけれど、たいていスピーカーでバックミュージックを流す。パン屋は「バイオリンのお稽古」、灯油屋は「あったかと〜ゆだもんね」というCMソング。そのほかにも有機栽培野菜などを売る○マギシ、竿竹、焼き芋、生協、それに市や警察の広報カーなどが、それぞれにテーマソングを流しながらやってくる。

ぼくは昔からこの手の音が生理的にだめだった。いわゆる「聞き流す」ということができないのだ。しかも一度耳にした節回しが、耳の底に残像のように留まり、販売車が去ったあとも、「あったかと〜ゆだもんね、あったかと〜ゆだもんね」といったフレーズがエンドレステープ状態で頭のなかをめぐりつづける。

こうなると本も読めず、なにもできなくなる。必然性のない音を、それらを必要としていないひとにまで押しつけるのは、はっきりいって暴力だ。しかも、そういう不快な音にかぎって残る。

さらに困ったことに、いちど音の記憶が消え去っても、なにかの刺激で、いきなり頭のなかでアナウンスやテーマソングの再生がはじまることがある。まるで脳内に組み込まれた見えないウォークマンのスイッチを入れたみたいに。そのスイッチがどこにあり、いつどんな刺激で入るのか見当がつかない。そのうえ、このウォークマンにはストップボタンもない。

だれかと話をしているときにスイッチが入ってしまうのがいちばん困る。話題と何の脈絡もなく「脇見運転はやめましょう」といった放送が、突如として頭のなかで再生し始めるのだ。話をさえぎって、「すみません、いま交通標語が頭のなかに流れだしたので、ちょっと待ってください」ともいえない。深刻で孤独な悩みなのである。

そんなわけなので、会話の折に、こちらが突然ぼおーっとしていたら、「ああ、きっと灯油の巡回販売の歌が流れているんだな」とでも思って、やさしく見守ってあげてくださいね。


*後記

「王様の耳そうじ」第一回です。最近は、鈍感になってきたせいか、ある程度、聞きたくない音を無視できるようになった。それだけならありがたいのだが、覚えておきたい音や音楽まで忘れてしまうことがあるので困る。最近の灯油の巡回販売は、原油価格の変動が激しいためか、音楽に合わせて値段を連呼するパターンに変わり、ますます興醒めである。なお、冒頭のオリジナルCDというのは2001年に制作したもので、サイドバーから試聴コーナーに行けます。


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