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2002年2月

*重低音はバブルの夢を見るか

クルマに乗っていると、すれちがうクルマのオーディオからブンバ、ブンバといったかんじの異様に重低音のきいたリズムが響いてくることがある。信号待ちで、こういうのが隣りになると迷惑なのだけど、ひとりだけ場違いにいきんでいるようなその様子がおかしくもある。遠ざかるときにドップラー効果がかかるのも、まぬけくさくていい。

この手のクルマだけでなく、気がつくと巷で再生されている音楽はどれもこれも低音が過剰ブースト気味な気がする。低音が利いていないと聴いている気がしないのか、テクノだろうがラップだろうが、スピーカーから響くベース音はドベドベに震え、バスドラはズンダ、ズンダと餅のように重くもたれる。

低音は音に存在感を与える。だが、低音が利いていればいるほど、いい音というわけでもあるまい。明らかに音がモコモコして聞きづらいのに、それでも低音をブーストしたがる感覚は何なのか。

思うに、世の中に蔓延する慢性的重低音中毒をもたらした原因は、いまのCDラジカセやウォークマンにかならずついている重低音強調機能(Super Bassなどという名前がついている)というやつにあるのではないか。この機能がラジカセに搭載されるようになったのは、1980年代半ばである。この時期、各メーカーは競って低音ブースト機能付きラジカセを発売し、重低音はたちまちのうちに日本中に広がっていった。

たしかに重低音ラジカセの音は画期的だった。それまでラジカセといえばスカスカの軽い音が当たり前だと思っていたわれわれにとって、ドスの利いた重低音には麻薬のような魅力があった。いちどこの快楽を知ってしまったら、もう二度とは抜け出せない。その快楽に魅入られたあげく、大晦日の晩にお寺の鐘の中にしのびこむ者が跡を絶たなかった(嘘)。

ところで、ほぼ同じ頃、日本全国を席巻したもうひとつのブームがあった。激辛ブームというやつである。じつは、この激辛ブームと重低音ブームはよく似ているような気がするのだ。

重低音中毒者にとって低音が利いていないと音楽を聴いている気がしないように、激辛中毒者は辛くないと食べている気がしない。素材そのものより、刺激によって存在感をあおろうとする安直な発想はそっくりである。

しかし、重低音と激辛ブームを結ぶもっと重要なポイントがある。それは、両者がともにバブル全盛期の産物であるということだ。

バブル経済とは本来の価値を超えて、価格だけが上昇していくことであったけれど、ラジカセの低音強調機能も発想は同じだ。低音をブーストすることで、質の悪いスピーカーでも擬似的に存在感のある低音を出す。激辛も同じである。要は、どちらもバブル時代の落とし胤なのである。

バブル崩壊後も、重低音中毒や激辛趣味は、すでに市民権を得たかたちで生き残った。さすがにドデカホーン(というラジカセがあった)といったようなバブルもろ出しの恥ずかしいネーミングの製品はなくなったけれど、かたちを変え、品を変えた重低音=激辛の陰謀は地下に潜伏して、今夜もバブルの夢を見つづけているのである。

 

*後記

重低音はいまやごく当たり前のものになっている。それにくわえて擬似的に臨場感を演出する機能がAV装置につくようになった。いわゆる「サラウンド・システム」というやつだ。これも結局のところ、実際には貧弱な音しか鳴っていないのに、空間に擬似的な広がりをもたせるという技術である。

一方、激辛ブームはどうなったのか。あいかわらずハバネロやカラムーチョといった激辛スナックは販売されているが、むしろこの数年目立ってきたのはオーガニック、スローフードといった安全性を強調した食への流れである。そのきっかけは社会がバブリーな食に疲れたからというのではなく、じつは規制緩和によって外国からの輸入農産物や食材が大量に流入することになった危機感に由来しているように思う。

そこに来て昨今のIT関連企業の急激な伸長と没落である。これはなにを意味するのか。

じつは人びとはサラウンドシステムも、ITバブル、株式もみんないんちきだと知っている。でも、そうしたフィルターを通さずして現実を見つめる勇気がない。そこで食べ物くらいはオーガニックやらスローフードにして、せめてもの贖罪としているのだ、という解釈はやや強引な感は否めないが、たしかにいえるのは、食の嗜好、音への嗜好というのが社会のありかたと密接に関わっているということだ。

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*おい、聞いてるのか!

ガールフレンドが部屋に遊びに来る。そのときバックにどんな音楽をかけるか。これは男にとって、けっこう大きな問題だ。

ウディ・アレンの映画「ボギー、俺も男だ」にも、そんな場面が出てくる。アレン扮する小心者の主人公は、初めて女の子を部屋に招いた日、なにを考えたのかBGMにオスカー・ピーターソンを選ぶ。この選択は裏目に出る。ムードづくりにオスカー・ピーターソンはないだろう。

かといって、下心見え見えなのも困る。マリリン・モンローの「七年目の浮気」では彼女に一目惚れした中年おやじが、あらぬ妄想を抱きながらラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をかける。これは美しい曲なのだけど、狂おしいほどロマンティックで暗い情念をはらんでいて、いきなり、こんなのをかけられたら引いてしまうだろう。

自分も昔、彼女(のちの奥さんです、念のため)が遊びに来る日には、どんな曲をかけようか、とあれこれ思案した。その日の気分や季節や天気なども考慮して、レコード棚から候補を引っぱり出す。よし、初めはリッチー・バイラーク、つぎはポポル・ヴー、そのあとゲッツ/ジルベルトでいこう、などと順番も考える。けっこう楽しい。

彼女がやってくると、選んだ曲をかけ、お茶など飲んで話す。けれども、こちらとしては会話の内容よりも、細心の配慮で選んだ曲を聞いてくれているかどうかのほうが気になってしかたがない。

曲が盛り上がるときなど、このかっこいいフレーズをちゃんと聞いてくれているかな、とやきもきしたりする。さりげなくボリュームを上げたりもする。

ところが、そんなときに「ねえ、なんだか、おなか空かない」とか「それにしても、この家って、隙間風ひどいわよね」とか、どうでもいいような話をされたりすると、だんだん邪険な気分になってくる。

むすっとしていると、「ねえ、わたしの話、聞いてないの?」と怪訝そうにいわれる。思わず「そっちこそ、聞いてないじゃないか!」といいかえすと、きょとんとされる。聞いているものが、お互いちがうのである。

ひとはそれぞれちがう。音にたいする繊細さも、音楽の趣味も、千差万別である。それでも自分に聞こえているものが相手に聞こえていないのは、ときとして淋しい。音楽だけでなく、灯油の巡回販売や廃品回収や移動パン屋や警察の広報車などの放送にも、いちいち傷ついているのに、この痛みをわかってもらえない。孤独である。

いちど、そういうことを訴えたところ、彼女はぼくの部屋のカーテンや食器などを指して、わたしだって、こういうカーテンやこういう食器を平気で使えるひとのセンスって理解できないわ、こういうの見てるとなんだか悲しくなってくる、などという。

なにをいうか! この赤い馬車の模様のカーテンのどこがいけない? 安かったし、部屋の雰囲気だって明るくなるではないか。このコーヒーカップだって、粗品のわりには花柄がパリっぽくてプリティーではないか。まったく、わけのわからないことをいう。

こういう衝突をくりかえすうちに、互いの感覚のちがいは、どうしようもないことがつくづくわかった。要するに、こちらが音に繊細で、視覚的なものに寛大であるのに対し、彼女は音に鈍感で(それに音痴である)、視覚的なものに神経質なのだ。

よく、相手の身になって考えなさい、といわれる。しかし、この言い方は、じつは相手と自分が同等な感覚世界を共有しているという前提の上にしか成り立たない。

けれども実際は、相手の見ているものは、こちらには見えてないし、こちらの聞いているものは、相手には聞こえていない。いや、たとえ聞こえていたとしても、相手がなにも感じなかったら、こちらの身になって考えることなど、どだい不可能である。

いまでは、うちにおける音楽的な決定権は自分にある。タリバン並みの独裁体制との批判もあるが、平和と秩序を維持するには、これがいちばんなのである。そのかわり、同居人がいつまでたってもバッハとモーツァルトのちがいもわからなくても、もうなにもいわない。こちらもカーテンや食器や家具や服については、なにもいわないことにしている。
 

*後記

なにもいわないことにしているとはいえ、しょっちゅう家人の前でかけている音楽をかけているだけなのに、「この曲って、初めて聴くわよね」などといわれるとがっくりくる。その芸術的失望感の大きさに比べれば、さっき食べ終えた夕食のメニューを忘れたくらい些細きわまりないことである。

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*隣人よ、静かに眠れ

その家を借りるとき、不動産屋は「風通しのいい家ですよ」といった。たしかに風通しはよかったのだけど、要は隙間風がひどかったのである。

夏は涼しかったが、冬はつらかった。家の中にいても、吐く息が白くなったし、暖房も効かない。飲みかけのコップの水が凍ることもあった。

隙間風が入るのだから当然、外の音も入る。左隣の家の親子喧嘩のことは前回書いたが、そのほかにもいろんな音が侵入してきた。右隣には中年の夫婦が住んでいた。こちらは二人暮らしらしく、子どものたてる音はなかったものの、午後になるとテレビのワイドショーの音が聞こえてきた。

その頃うちにはテレビがなかった。テレビのせわしない音がだめだったのだ。それなのに、午後になると隣から「徹子の部屋」に始まり、「2時のワイドショー」「3時に会いましょう」そして4時から「水戸黄門」の再放送という、奥さま番組の王道を毎日くり返されるのは苦痛だった。

とくに「水戸黄門」は音を聞いているだけで、あ、いま弥七が天井裏から裏取引をのぞいているな、などと場面が浮かんでくるので仕事もできない。

音を物理的に消すことができない以上、これに対抗するためにはこちらも音を出すほかない。カツユキ対策と同じである。けれども、ロックやジャズだとこっちのほうが騒音を出していると思われかねないので、ここはやはりクラシックしかない。

そんなわけで、カツユキにはワーグナーとバッハ、右隣のおばさんには宗教曲やミサ曲で立ち向かった。室内楽だと隣の音に負けてしまうので、壮大な音楽のほうが効果的だった。

ある日のことだった。洗濯物を干していると、おばさんに声をかけられた。

「あなた音楽好きみたいね」

「はい……」

「あたしの姪が合唱団にいてね。こんど演奏会があるの。よかったら行ってあげてくれない」

おばさんがくれたのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」のチケットだった。「ハ〜レルヤ、ハ〜レルヤ」というアレだ。宗教曲ばかりかけていたので、そういうのが好きなのだと思われたのだろう。買ったら3800円するチケットである。騒音対策は思わぬ副産物をもたらしたのだ。

副産物はそれだけではなかった。その後、それまで歌謡曲以外の音楽が聞こえたことがなかったおばさんの家からバッハのブランデンブルク協奏曲が聞こえてきたのである。

やった!

ぼくは静かな感動に包まれた。隣人は、ついに目覚めたのだ。

その後、友人に留守番をたのんで、長い旅行に出た。一年ばかりして帰ってくると、おばさんの家からほとんど物音がしなくなっていた。

ある午後、洗濯物を干しているときに隣を見ると、開いた窓の向こうの部屋でおばさんが布団に横になっていた。そのかたわらで娘なのか、若い女性が世話をしていた。おばさんは病気だったのだ。

容態が芳しくないのは、ときどき聞こえてくるかすかなうめき声や、咳き込み、すすり泣きでわかった。親子喧嘩や松田聖子の歌やテレビの音より、それははるかに耐えがたく、胸が痛かった。

とはいえ、なにもできず、ぼくはモーツァルトの室内楽やビル・エバンスのトリオなど、心慰められそうな音楽を選んでひかえめにかけた。宗教曲やミサ曲など縁起でもなかった。

おばさんが亡くなったのは、それから数カ月後だった。その場に居合わせたわけではないけれど、音さえ聞いていればおおかたの見当はついた。

翌日、寝坊して起きると、おばさんの家の前で葬儀が行なわれていた。親戚らしき人たち、それに近所の人たちも集まっていた。近所づきあいもなかったので、外にも出られず、窓の外から流れてくる読経を、部屋の中で虚ろな思いで聞いていた。

出棺の時間になったとき、家のステレオでフォーレのレクイエムをかけた。霊柩車に積みこまれた棺の中で冷たくなっているおばさんにも聞こえるくらい音量を上げた。

まもなく霊柩車の出る音がした。近所のひとたちがひそひそしゃべりながら引きあげる音がした。それからつぎつぎと扉の閉まる音がして、外はすっかり静かになった。あとに残されたつめたく虚ろな空間にレクイエムの合唱だけが希薄な霧のように吸い込まれていった。

 

*後記

偶然なのだが、おばさんが亡くなって一ヶ月の間に、ぼくの家のあった路地では二人の住人が相次いで亡くなった。近所のおばさんたちは怖れ、なにかあるんじゃないかしらと不吉な噂をささやきあっていた。すきまだらけの家には、いつも線香のにおいがしのびこんできて、ただでさえ冷え込む家の中がいっそう冷たくなった。そんな冷気に亀裂を入れて、押し広げるべく、毎日のようにフォーレの宗教曲ばかりかけていた。

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*隣人よ、目覚めよ

一人暮らしをすることになって初めて借りたのは古い一軒家だった。アパートでなく一軒家を選んだのは、隣の音に煩わされず、自分の好きな音楽を心ゆくまで聴きたいと思ったからだ。

アパートで、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音ほど気になるものはない。床の傾いた築35年の家だったが、一軒家にはちがいなかった。それに家賃がアパートより安かった。

ところが、住みはじめると両隣の家の音が筒抜けであることに気がついた。さすがアパートより安いだけあった。左側の家には高校生くらいの息子がいるらしく、しょっちゅう母子で喧嘩していた。

ぼくが部屋で夜、ラファエロ前派の画集など眺めながら、ジェネシス(という英国のプログレバンドがあります)の曲など聴いていると、となりから柄の悪い声が飛び込んでくる。

「うるせえなあ、ババア。だまってろよ」

「な、なんだ、その言いぐさは、おまえのためを思っていってるんじゃないか。カツユキ!」

「うるせえっつってんだろお」

「カツユキ!」

実際、カツユキは柄の悪い息子だった。台所の窓が向かい合わせになっていたので、朝、窓を開けると、歯を磨いているカツユキと顔を合わせることがあった。すると、カツユキはなもいわず、ぴしゃんと窓を閉めるのだった。あいさつぐらいしろ、カツユキ!

幸いカツユキはロック少年ではなかったらしく、たまに聞こえてくるのは流行りの歌謡曲くらいであった。

ところがあるとき急に、松田聖子に目覚めたらしく、寝ても覚めても彼女の歌がかかるようになった。ボリュームも大きくなってきた。これではいけない。なんのために、独り暮らしを始めたのか、わかりゃしない。

しかも、松田聖子を聴くようになってからも、カツユキと母親との喧嘩はやむようすがない。これではいけない。音楽は人格を陶冶し、深い人類愛を目覚めさせるためのものであるはずだ。それにこっちは松田聖子ノイローゼになりそうだった。

そこで、隣で松田聖子がかかったり、母子喧嘩が始まったりすると、ワーグナーの「タンホイザー序曲」や、バッハの「マタイ受難曲」などで対抗することにした。

ちなみに、その頃うちにあったのは昔、流行った4chステレオというやつだった。ボリュームを上げて4つのスピーカーで聴くワーグナーは迫力に満ちていた。

聴け、カツユキ! これこそ偉大な音楽というものだ。人間を大いなる愛に目覚めさせ、地上を超えた聖なる世界へと導いてくれる音楽なのだ。ちっぽけな諍いはやめて、愛に目覚めるんだ、カツユキ!

その後、カツユキが愛に目覚めたかどうかは知らない。その後、まもなく母親との仲がこじれてカツユキは家を飛び出したからである。いまでもワーグナーの楽劇を聴くと、カツユキを思い出す。

あれがきっかけでカツユキがクラシック好きになったとは思わないが、ひょっとしてなんかの折りにワーグナーの一節を耳にして、「あれ、この曲は」と思ったりするといいな、と思うこともある。

*後記

カツユキの家から聞こえてくるのは親子げんかばかりではなかった。ときには台所の窓を通してくぐもった破裂音が聞こえてくることがあった。最初はそれがなんの音かわからなかったのだが、あるときその音のあと、「くせー」というカツユキの声がして、それが放屁の音だとわかった。

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