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*隣人よ、目覚めよ

一人暮らしをすることになって初めて借りたのは古い一軒家だった。アパートでなく一軒家を選んだのは、隣の音に煩わされず、自分の好きな音楽を心ゆくまで聴きたいと思ったからだ。

アパートで、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音ほど気になるものはない。床の傾いた築35年の家だったが、一軒家にはちがいなかった。それに家賃がアパートより安かった。

ところが、住みはじめると両隣の家の音が筒抜けであることに気がついた。さすがアパートより安いだけあった。左側の家には高校生くらいの息子がいるらしく、しょっちゅう母子で喧嘩していた。

ぼくが部屋で夜、ラファエロ前派の画集など眺めながら、ジェネシス(という英国のプログレバンドがあります)の曲など聴いていると、となりから柄の悪い声が飛び込んでくる。

「うるせえなあ、ババア。だまってろよ」

「な、なんだ、その言いぐさは、おまえのためを思っていってるんじゃないか。カツユキ!」

「うるせえっつってんだろお」

「カツユキ!」

実際、カツユキは柄の悪い息子だった。台所の窓が向かい合わせになっていたので、朝、窓を開けると、歯を磨いているカツユキと顔を合わせることがあった。すると、カツユキはなもいわず、ぴしゃんと窓を閉めるのだった。あいさつぐらいしろ、カツユキ!

幸いカツユキはロック少年ではなかったらしく、たまに聞こえてくるのは流行りの歌謡曲くらいであった。

ところがあるとき急に、松田聖子に目覚めたらしく、寝ても覚めても彼女の歌がかかるようになった。ボリュームも大きくなってきた。これではいけない。なんのために、独り暮らしを始めたのか、わかりゃしない。

しかも、松田聖子を聴くようになってからも、カツユキと母親との喧嘩はやむようすがない。これではいけない。音楽は人格を陶冶し、深い人類愛を目覚めさせるためのものであるはずだ。それにこっちは松田聖子ノイローゼになりそうだった。

そこで、隣で松田聖子がかかったり、母子喧嘩が始まったりすると、ワーグナーの「タンホイザー序曲」や、バッハの「マタイ受難曲」などで対抗することにした。

ちなみに、その頃うちにあったのは昔、流行った4chステレオというやつだった。ボリュームを上げて4つのスピーカーで聴くワーグナーは迫力に満ちていた。

聴け、カツユキ! これこそ偉大な音楽というものだ。人間を大いなる愛に目覚めさせ、地上を超えた聖なる世界へと導いてくれる音楽なのだ。ちっぽけな諍いはやめて、愛に目覚めるんだ、カツユキ!

その後、カツユキが愛に目覚めたかどうかは知らない。その後、まもなく母親との仲がこじれてカツユキは家を飛び出したからである。いまでもワーグナーの楽劇を聴くと、カツユキを思い出す。

あれがきっかけでカツユキがクラシック好きになったとは思わないが、ひょっとしてなんかの折りにワーグナーの一節を耳にして、「あれ、この曲は」と思ったりするといいな、と思うこともある。

*後記

カツユキの家から聞こえてくるのは親子げんかばかりではなかった。ときには台所の窓を通してくぐもった破裂音が聞こえてくることがあった。最初はそれがなんの音かわからなかったのだが、あるときその音のあと、「くせー」というカツユキの声がして、それが放屁の音だとわかった。

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