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2002年4月

*恐れを知らないアルバイト

エジプトにいた頃の友人のアサカワ君は恐れを知らない男である。エジプト留学中もイスラム過激派とつきあっていたことから、当局に拘引されたり拷問を受けたりと、厄介な事件にしょっちゅう巻き込まれていた。

そのアサカワ君が、あるとき身を隠すためイスラエルに逃れた。キブツでしばらく働いたあと、彼は紛争の渦中にあったパレスチナのガザ地区に入りこんだ。ここでパレスチナの過激派であるハマスの連中と仲良くなった彼は、ハマスのアジトでナイフやヌンチャクの訓練を受けたりした。

やがて所持金が底を突き、アサカワ君はハマスの口利きでアルバイトをすることになった。バイト先は音楽テープを制作している会社。アラブ音楽好きのアサカワ君は喜んだ。

ところで、アサカワ君がガザにいた1993年前半は、イスラエルとの抗争が激化していた時期だった。軍事力で圧倒的にまさるイスラエルに対抗するため、パレスチナの若者たちが、からだに爆弾を巻きつけてイスラエルのバスに飛び込む、いわゆる自爆テロが頻発しはじめたのも、この頃である。

自爆テロの志願者の多くは10代前半の少年だった。少年たちはバスに飛び込む直前に、カセットテープに遺言を吹き込む。当時、こうした遺言テープはダビングされ、商品としてガザやヨルダン川西岸に広く出回っていた。

アサカワ君のバイト先は、この少年たちの遺言テープをつくっている会社だった。流行歌は禁じられていたので、これが音楽制作会社の唯一の仕事だった。アサカワ君に与えられた仕事は、ダビングされた遺言テープを試聴し、少年の名前の書かれたラベルを貼って、ケースに収めるというものだった。

さすがの恐れを知らない男にも、この仕事はこたえた。アラビア語が堪能な彼にとって、テープに収められた少年の声を試聴するのは、精神的にひどくつらい作業だった。それでもカネがなかったし、ハマスの口利きもあったので、やめるわけにいかなかった。アサカワ君は3週間少年たちの遺言を聞きつづけ、それからエジプトに戻った。

それから10年近くが経過した。いまやイスラエルの強引な軍事侵攻の前に、パレスチナ人による自爆テロは日常化し、抗争は泥沼化している。自爆テロに向かうパレスチナの若者たちは、いまではカセットテープではなく、ビデオに遺言をのこすようになり、その重い映像はニュースをつうじて、日本でも流されている。このビデオテープも、どこかの制作会社でつくられているのだろうか。

一方、アサカワ君はというと、その後、エジプトを強制退去になり、それからイラクで映画制作を画策して失敗。しばらく日本で風俗の客引きなどしたあと、ソニーに入ってモロッコに渡りラジカセなどを売り歩いていたが、逃げた彼女を追って日本に戻り、なぜかいまは農業関係の仕事をしている。くわしくはいえないが、あいかわらず恐れを知らないのである。

Asa

*後記

エジプトで会ったときアサカワ君は19歳だった。あれから10年と少したち、現在彼は某会社の取締役になり、農業コンサルタントとして大学教授の相手に講演やレクチャーなどをしている。出張で行ったイスラエルでは、仕事の合間にパレスチナの詩人の集まりに参加し、帰りのテルアビブの空港では買い込んだアラビア語の本を見咎めたユダヤ人係官相手にイスラエルの法律について講義して、頑固な係官を屈服させたりしている。

*恋するディジュリドゥ

友人のボーカルの女性がライブをすることになり、その手伝いをたのまれた。手伝いといっても切符のもぎりではない。ゲスト・ミュージシャンとして参加してほしいというのである。楽器は最初キーボードとのことだったが、自分としては、このところ練習を怠っていたディジュリドゥを吹きたいと希望した。

ディジュリドゥとはオーストラリア原住民の伝統的な楽器である。楽器といっても構造はじつに単純で、シロアリが食い荒らして空洞になったユーカリの幹を切った、長さ1メートル半くらいの木の筒である。この筒の一方に口を押しあて、唇をリード代わりにぶりぶり震わせながら吹く。
Dige

音色はというと、倍音をたっぷり含んだ低くうなるような響きといっても、よくわからないだろう。一応、木管楽器の仲間だが音階が出るわけではなく、知らないひとには、ひたすらブイブイ唸っているようにしか聞こえないと思う。それでも、吹いている本人はけっこう楽しい。ほかの楽器とちがって、下手でも周りにわからないのもいい。もっとも、上達してもわかってもらえない。

さて、久しぶりにディジュリドゥの練習である。だが問題は練習場所なのだ。けっこう音がでかいし、低周波が出るので周りに響く。家で吹いていると奥さんが「下のウメモトさんに、また苦情をいわれるのいやよ」とかいう。灯油の巡回販売がきても気にしないくせに、こういうときだけは神経質なことをいう。

でも、ぼくもウメモトさんから苦情をいわれたくはないので、仕方なく近所の大きな公園に行く。元は米軍キャンプ地だった広い公園である。トランペットやサックスの練習をしている人もいる。バイオリンでバッハを弾いている女性の周りには、なんとなく人が集まっている。ぼくも芝生の上の手頃な場所にすわってディジュリドゥを取りだす。

ところが、ディジュリドゥを吹きはじめると、なんとなくそれまでふつうに散歩していた人たちの様子が変わる。吹いているときに目が合うと、向こうの方がなに食わぬ顔をして、さっと視線をそらす。見てはいけない、気づいたふりをしてはならない、といった雰囲気が散歩している人たちの間に漂っているのが感じられる。こっちに向かって歩いていた人など、あえて遠回りをするように迂回して行く。

一方で、放し飼い中の犬が反応することがある。なんとかという舶来産のちっこい犬が近づいてきて、音の出ているディジュリドゥの開口部をくんくん嗅ぎだしたことがあった。そこでブオーッと大きな音を出してやると、犬はあわてて飛び退き、キャンキャン狂ったように吠えはじめた。すると、どこからか飼い主の女性が飛んできて、あわてて犬を抱きかかえると、こちらを見ようともせずに、さっさと行ってしまった。会釈くらいしたっていいだろうに。

あるとき、練習を終えてひと休みしていたら、10メートルくらい前に、ギターを抱えた女の子の二人組がやってきた。彼女たちは、ギターを弾きながら「この思い、あなたに伝えたい〜」といったような歌詞の歌を歌いはじめた。オリジナルらしい。そこで、ぼくも彼女たちの歌に合わせて、ディジュリドゥを吹いてみた。飛び入りセッションである。

ところが、ディジュリドゥを吹きはじめてまもなく、曲の途中なのに急に彼女たちの歌が止まった。こちらも吹くのをやめた。ちょっとすると、また歌が再開されたので、こちらもまた吹きはじめた。すると、また歌がやんだ。どうしたのだろう。彼女たちは下を向いて、顔はほとんど動かさず一瞬ちらっと視線だけこちらに向けた。それから二人で顔を寄せ合い、こそこそ話している。恥ずかしがっているのかもしれない。

そこで彼女たちの歌をふたたび引き出すべく、切ない春の乙女心をイメージしながら心を込めてディジュリドゥを吹いた。ベニー・グッドマンは思いを寄せる女性にクラリネットの演奏で愛を告白し、二人はみごと結ばれたという。クラリネットもディジュリドゥも同じ管楽器である。さあ、いっしょに歌おう。季節は春、春は曙、曙といえば太郎。この思い、あなたに伝えたい。

ところが、その後、彼女たちは急にそわそわしはじめ、ギターや譜面を取り片づけると、後ろも振り向かずに、そそくさと行ってしまった。お嬢さん方、そんなに恥ずかしがらなくてもよいものを。

 

*後記

ディジュリドゥの音を初めて聞いたのはドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの1984年の作品「緑のアリの夢見るところ」の中だった。その古い記憶を揺さぶりおこすような蒼古たる響きに、こんなすごい楽器があるのかと衝撃を受けた。いまではディジュリドゥの音色は耳にする機会も多いし、演奏する人も増えた。

でも、少し悲しいのは以前ほど、この音に不気味さを覚えなくなってしまったことだ。ディジュリドゥの音はこわい音だった。幽霊があらわれるときのドロドロといった効果音にも似た異世界からの響きだった。この音が鳴るだけで、なにか騒然とした気持ちになり、そわそわしてくるような不気味さがあった。それがエスニック音楽ブームなどを経て、数あるエスニックな音の素材の一つとして聞くことに慣れてしまったことで、また聴覚のきめ細かさを失ってしまったような気もする。

*サカナを食べても、アタマは痛い

最近スーパーの鮮魚コーナーでサカナなんとかという曲が猛威を振るっている。このコラムでも再三書いているが、この手の音の垂れ流しに免疫のない者にとっては、かなり苦痛である。たいてい売場の片隅に置いたCDラジカセから流れているので、見つけしだい即刻ボリュームを10分の1に下げている。

文句をいわれたことはない。営業妨害だと文句でもつけてくれたら、経営者サイドにお得意さまの声というものを、とくと聞かせてやるつもりでいるのだが、まだその機会がない。苦情をいわれるのを、ちょっと期待しているところもある。いや、苦情をいいたいのは、こっちのほうなのだが。

話は変わる。前回、音楽室にある作曲家の肖像画の話を書いたが、1950年代初め生まれで美大の講師をしている友人と話していたところ、彼が小学生の頃、音楽室にあんなポスターのセットはなかったという。

彼がいうに、日本でカラー印刷が普及しはじめたのが、東京オリンピック以降の高度成長期以後だという。それ以前は、町なかでもカラーポスターなんてほとんど見かけなかったらしい。だとすれば、公立の小学校にカラーポスターを飾るゆとりなどなかったのではないか。

東京オリンピックといえば1964年だ。すると、あの作曲家ポスターも、それ以降の産物だったのだろうか。正確には、いつから音楽室に作曲家の肖像画を飾るという習慣が定着したのか。いや、その前に、あのポスターは、どこがつくっているのだろう。

音楽室にあるのだから音楽教科書の出版社が各小中学校に配っているのかなと思って電話で訊いてみると、うちではつくっていないという。あれこれ訊いてくれて、どうやら、ある楽譜専門の出版社がつくっているらしいという情報を得る。

その楽譜出版社に訊いたところ、たしかにうちでつくっているという。だが、この出版社が作曲家ポスターの販売を始めたのは1970年代の終わりだという。計算が合わない。遅くとも1960年代後半には、すでに小学校の音楽室にポスターは飾ってあったのだから。

「うちがオリジナルでつくったわけではないんです。その元になった作曲家ポスターのセットがすでにあって、それをうちで模写して販売したのが、だいたい70年代の終わり頃だったんです」と出版社の人はいった。

「その元になったセットは、どこから出ていたんですか?」

「それがわからないのですよ。おそらく元のセットも西洋絵画からの模写で、それをさらにうちのデザイナーが模写してつくったものなので。版権の問題があるので、まったく同じではまずいので」

なるほど、そうやって模写を重ねてゆくうちに、作曲家の顔もだんだん歪んで、グロテスクになっていったのだ。

おそらく作曲家ポスターの誕生は、1964年以降の高度成長期だろう。この時代、クラシック音楽=高級というイメージがつくられ、ピアノの生産台数はそれまでの4、5倍に増え、ピアノを弾くとアタマがよくなるという風評が出回った(サカナを食べるとアタマが良くなるというのと、たいして変わらない)。作曲家ポスターは、高度成長期における西洋音楽の啓蒙ムーブメントの名残なのだろう。

 

*後記

スーパーの食料品売り場で流れるキャンペーン・ソングのその後については、こちらに書いた。

作曲家ポスターについては、その後、読者の方から「こんにちは、ホームページをみさせていただきました。実は、私は大のクラシック好きで部屋に作曲家のポスターでも貼ろうかなと考えていました」(正道)というメールをいただいた。

この作曲家ポスターをつくっているのは全音楽譜出版社というところで、ヤマハや山野楽器のような大きな楽器屋に注文すれば、個人でも購入できるそうである。ただ値段が高い。26枚セットで1万3000円(!)もするという。ちなみに近所の小学校の音楽室に貼られているのは21名なので、この出版社のほかにもポスターをつくっているところがあるのかもしれない。その21名は以下の通り。

バッハ−ヘンデル−モーツァルト−ベートーベン−シューベルト−シューマン−ショパン−リスト−ブラームス−サン・サーンス−ビゼー−チャイコフスキー−ドボルザーク−グリーグ−プロコフィエフ−滝廉太郎−山田耕筰−宮城道雄−ハチャトリアン−カバレフスキー−アンダソン

あれっと思うのは、ここにはハイドンもシベリウスもフォスターもワーグナーもドビュッシーもストラヴィンスキーもいないことだ。宮城道雄は日本人だからいいとしても、代わりにカバレフスキーやアンダソンといった比較的マイナーな作曲家が入っている。どういう基準でこの面々を選んだのだろう。

*ベートーベンになる

クラシック音楽は日本でもずいぶんカジュアルな存在になったけれど、それでもいまだにどこか堅苦しいイメージを脱せないのは、小中学校の音楽室に原因があると思う。音楽室そのものではなく、音楽室の壁に飾られている作曲家の肖像画である。

幼いころからピアノでも習わされていたのならいざ知らず、それまでクラシックなんて聞いたこともない子どもたちにとっては、教室の壁をずらりととりかこむ独特の肖像画はクラシック音楽にたいするイメージに決定的な影響をおよぼすのではないか。少なくとも自分はそうだった。

あれは左から年代順に並んでいて、最初がバッハである。このバッハが強烈だった。となりのヘンデルもそうだが、とんでもない髪型をしている。
Bach_1

羊の毛のようにくるくるカールした巨大な蜂の巣にも似たその髪は、とてもふつうの人間のものとは思えなかった。その髪がカツラだということなど知らなかったから、こういう髪をした特殊な人だったのだろうと思っていた。休み時間には、「バッハ!」と叫びながら友だちの頭にモップをかぶせて遊んだりした。

怖かったのはベートーベンである。ぼさぼさの髪を逆立て、口をへの字に結んで、怒っているかのように前方を睨みつけている。
Beethoven3_1

音楽を聴く前に、ベートーベンは怖いというイメージができてしまった。放課後の音楽室に入ったらベートーベンの目が動いたとか、そんな噂が囁かれたりもした。耳が聞こえないのに音楽をやっていたという話も、ふつうじゃない気がして怖かった。

そうなのだ。あの肖像画はどれもこれも怖いのだ。モーツァルトは目が飛び出していたし、
Mozart

チャイコフスキーはほとんど髭で顔が隠れていて熊みたいだったし、シベリウスは三白眼でゾンビのようだった。
Sibelius_j

丸い眼鏡をかけた滝廉太郎は、病弱で、薄幸そうで、見ていると、こっちまで暗い気持ちになった。
Taki

親近感がもてたのは、ロッシーニとフォスターくらいだった。ロッシーニはほっぺたがふくらんでいて、肖像画のなかで唯一、笑みのようなものを浮かべていた。
Rossini

頬杖をついたフォスターはハンサムで、やさしいお兄さんのようだった。
Foster02a

しかし、そのほかの作曲家はひげもじゃだったり、いかめしい顔をしていたりして、快活な日本の小学生の日常からすると、理解不能な異形の者たちにしか見えなかった。

考えてみれば、あんな肖像画セットが飾ってあるのは音楽室だけである。美術教室に、セザンヌやピカソの肖像画セットなどないし、理科教室にニュートンやガリレオの肖像画があるわけでもない。音楽室だけが異色なのだ。

いわば音楽室は学校という空間における異界なのだ。だから、そこには怪談も生まれる(ベートーベンの目が動いたとか、ピアノの鍵盤に血が付いていたとか)。音楽の先生がよくヒステリーを起こすのも、異界のメッセージを伝えるシャーマンの資質があるからかもしれない。あの肖像画セットにしても、たんに飾られているというより、神々として祀られているのかもしれない。

後年、好きでクラシックを聴くようになってからも、音楽室の記憶は自分に濃い影を落としている。ベートーベンの交響曲など聴いていると、つい頭をかきむしり、口をへの字に結んで、前方をカッと睨みつけてしまう。無意識にベートーベンの肖像画のようなポーズをしているのだ。見かけだけベートーベンが憑依してしまうのである。

また、フォスターを聴いていると、なんとなく頬杖をつきたくなるし、バッハを聴くとモップをかぶりたくなる(これはウソ)。それはそれで音楽を身をもって体験していることになるのかもしれないが、電車の中でウォークマンなどで聴いているときは、ちょっと困る。とくに前の席にやくざが座っているときなど、ベートーベンは聴けない。

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