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*ベートーベンになる

クラシック音楽は日本でもずいぶんカジュアルな存在になったけれど、それでもいまだにどこか堅苦しいイメージを脱せないのは、小中学校の音楽室に原因があると思う。音楽室そのものではなく、音楽室の壁に飾られている作曲家の肖像画である。

幼いころからピアノでも習わされていたのならいざ知らず、それまでクラシックなんて聞いたこともない子どもたちにとっては、教室の壁をずらりととりかこむ独特の肖像画はクラシック音楽にたいするイメージに決定的な影響をおよぼすのではないか。少なくとも自分はそうだった。

あれは左から年代順に並んでいて、最初がバッハである。このバッハが強烈だった。となりのヘンデルもそうだが、とんでもない髪型をしている。
Bach_1

羊の毛のようにくるくるカールした巨大な蜂の巣にも似たその髪は、とてもふつうの人間のものとは思えなかった。その髪がカツラだということなど知らなかったから、こういう髪をした特殊な人だったのだろうと思っていた。休み時間には、「バッハ!」と叫びながら友だちの頭にモップをかぶせて遊んだりした。

怖かったのはベートーベンである。ぼさぼさの髪を逆立て、口をへの字に結んで、怒っているかのように前方を睨みつけている。
Beethoven3_1

音楽を聴く前に、ベートーベンは怖いというイメージができてしまった。放課後の音楽室に入ったらベートーベンの目が動いたとか、そんな噂が囁かれたりもした。耳が聞こえないのに音楽をやっていたという話も、ふつうじゃない気がして怖かった。

そうなのだ。あの肖像画はどれもこれも怖いのだ。モーツァルトは目が飛び出していたし、
Mozart

チャイコフスキーはほとんど髭で顔が隠れていて熊みたいだったし、シベリウスは三白眼でゾンビのようだった。
Sibelius_j

丸い眼鏡をかけた滝廉太郎は、病弱で、薄幸そうで、見ていると、こっちまで暗い気持ちになった。
Taki

親近感がもてたのは、ロッシーニとフォスターくらいだった。ロッシーニはほっぺたがふくらんでいて、肖像画のなかで唯一、笑みのようなものを浮かべていた。
Rossini

頬杖をついたフォスターはハンサムで、やさしいお兄さんのようだった。
Foster02a

しかし、そのほかの作曲家はひげもじゃだったり、いかめしい顔をしていたりして、快活な日本の小学生の日常からすると、理解不能な異形の者たちにしか見えなかった。

考えてみれば、あんな肖像画セットが飾ってあるのは音楽室だけである。美術教室に、セザンヌやピカソの肖像画セットなどないし、理科教室にニュートンやガリレオの肖像画があるわけでもない。音楽室だけが異色なのだ。

いわば音楽室は学校という空間における異界なのだ。だから、そこには怪談も生まれる(ベートーベンの目が動いたとか、ピアノの鍵盤に血が付いていたとか)。音楽の先生がよくヒステリーを起こすのも、異界のメッセージを伝えるシャーマンの資質があるからかもしれない。あの肖像画セットにしても、たんに飾られているというより、神々として祀られているのかもしれない。

後年、好きでクラシックを聴くようになってからも、音楽室の記憶は自分に濃い影を落としている。ベートーベンの交響曲など聴いていると、つい頭をかきむしり、口をへの字に結んで、前方をカッと睨みつけてしまう。無意識にベートーベンの肖像画のようなポーズをしているのだ。見かけだけベートーベンが憑依してしまうのである。

また、フォスターを聴いていると、なんとなく頬杖をつきたくなるし、バッハを聴くとモップをかぶりたくなる(これはウソ)。それはそれで音楽を身をもって体験していることになるのかもしれないが、電車の中でウォークマンなどで聴いているときは、ちょっと困る。とくに前の席にやくざが座っているときなど、ベートーベンは聴けない。

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