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*素直になったわたしを見て

大学生の頃、一時期バンドに入っていたことがある。当時クロスオーバーと呼ばれていた音楽をやっていたのだが、苦手だったのが、学園祭などに出るときに、それっぽい恰好をしなくてはならないことだった。

リーダーのフジイ君は、そういうとき変な恰好をするのが好きで、ぼくのもっていた人民服を着たり、ほかのメンバーにアラブの王様みたいな恰好をしろとか、わけのわからないことをいった。

ぼくはこういうときこそ、逆に普段着のほうがスマートだと思っていた。無地のシャツとジーパンでピアノの前に座って流麗な即興をするキース・ジャレットを見よ。人間、衣装なんぞで気分が変わってたまるものか。だいじなのは中身である。

ところが、衣装と気分の結びつきを、身をもって実感させられたことがあった。長期旅行の資金を稼ぐために、しばらく工場で夜勤のバイトをしていたときのことだ。

けっこう汚れる肉体労働だったので、工場からは作業服を支給された。ズボンは裾がふくらんでいて、その頃不良学生がよくはいていたボンタンというのに似ていた。仕事が終わると、作業服を脱いで普段着に着替え、それから出勤する会社員や学生で込み合う電車に乗って帰った。

ある朝、いつものように仕事を終えて、作業服を脱ごうとすると、工場に着てきたズボンが、だれかが床にこぼしたジュースの上に落ちて、べたべたになっていた。これでは着替えられない。仕方なく、その日は、汗と油で汚れた作業服を着たまま、家路につくことにした。

ところが、駅に着いてみると、いつもとなにかちがう。ふだんは、ここで自販機の清涼飲料水を買って飲むのだが、この日はどういうわけかその隣にある缶ビールの自販機へと自然に足が向かった。朝っぱらからビールを買うことに抵抗感がない。そうするのが、当たり前という感じなのだ。この気分の変化はなんだろう。

缶ビールを手に改札をぬけ、出勤客でがさがさ込み合うホームへと下りる。やがてやってきた電車に乗り込むと、混んでいるのに自分の周りだけ余裕ができている。そうか、この恰好のせいか。そう気がつくと、なんだか気が大きくなってくる。

肉体は疲れているので、立っているとしんどい。思わず「あ〜あ」と声が出てしまう。その瞬間、自分でもはっとする。周りの通勤客はなにもいわない。なにごともなかったかのように居眠りしていたり、新聞を見つめていたりする。ふだんなら、どんなに疲れていても電車の中でそんなことけっして口に出ないのに、この恰好だと思わず自分に素直になってしまう。

いちど声が出てしまうと、そのあとは自然に言葉が出てくる。吊革につかまったまま、「あ〜あ、やんなっちゃった〜」とか「ばか、いってんじゃないよ〜♪」とか、ちょっとした歌まで飛び出してしまう。酔っていたわけではない。朝の出勤時刻には場違いなこの服を着て、缶ビールを手にしているだけで、これほど気分が変わるとは自分でも驚きだった。

それにしても頭のなかに浮かんだことを、公衆の面前でそのまま口に出せるとは、なんと気持ちいいのだろう。ひとが読んでいるスポーツ新聞の見出しを見て、「おっ、巨人負けたか」とかもいえる。

ふだんは電車に乗り合わせたほかの客の顔をまじまじ見ることもないが、この恰好だと人の顔を堂々と正面から見ることができる。女の子に笑いかけることだってできる。自分らしく、いや、人間らしくなれるのだ。もっとも、そんな素直で人間らしくなったぼくなのに、むこうはなかなか視線を合わせてくれない。

これがもしスーツにネクタイのような恰好だったら、こうはいかない。周りの人はもっと恐がり、緊張するだろう。第一、独り言を口に出すなんて発想自体が浮かんでこないし、からだが反応しないと思う。

朝の通勤電車の中で声に出して歌を口ずさんだのは、あとにも先にも、あのときだけだ。そんなとき出てくる歌が、どういうわけか、ふだんけっしてすすんで聴くことのない演歌だったりするのは不思議である。

  

*後記

電車の中でちょっと風変わりな人に出会うことが、以前より増えている気がする。先日も「つぎわあ〜、しんじゅく〜、しんじゅく〜、おてまわりひん、おわすれものないようにねがいます」と駅に近づくたびに告知している乗客がいた。ただ、まわりの乗客もこういうのには慣れているのか、とくに遠ざかろうとはしない。

かと思うと、この前は、満員電車で携帯電話で大声で話している若者がいた。「うるせー! ふざけんじゃねーよ、ぶっ殺してやるぞ」と物騒なことを怒鳴っているので、ちらっとその人の方を見て、思わず息を呑んだ。若者が耳に当てていたのは携帯電話ではなく、自分の右手こぶしだった。そして窓の外を見つめながら、「だまれ、うるせーんだよ、こんどあったらぶっ殺すぞ」とつぶやきつづけているのだった。

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