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2002年6月

Non Stop Fright はお好き?

Pocari Sweat とか Calpis という商品名が、ネイティブからすると変に思えるという話題が掲示板に出ていた。Pocari Sweat のSweat は「汗」だし、Calpis は Cow Piss (牛の小便)に聞こえるからだ。

この手の英語は、たくさんある。以前エジプトで、外国人バックパッカーから、日本には近畿日本ツーリスト(Kinki Nippon Tourist )という会社があるんだってな、と皮肉まじりにいわれたことがある。Kinky という語には性的異常とか変態という意味がある。同じく、Kinki Kidsも危ない名前である。

近畿は地名だから仕方ないけれど、変な英語をあてた商品名も多い。たとえば、マニキュア用の除光液は、日本ではネイルリムーバーと呼ばれている。文字どおりに訳せば「爪剥ぎ」で、まるで拷問器具である。正しくは、Polish Remover だが、これも誤訳すれば、ポーランド人抹殺装置という意味になってしまう。

あと以前から気になっていたのが、文房具やティッシュの箱などに書かれているコピーともなんともつかない妙な英語だ。たとえば部屋にプラスチック製の衣装ケースがあるが、その引き出しにはこう書いてある。

This tasteful ornament can be of use at home anytime, anywhere

いいたいことは、なんとなくわかる。この衣装ケースは使いやすいよということなのだろう。しかし、 tasteful ornament とはなんだ。 tasteful は「品のいい」ことを表し、ornament はブローチや首飾りのような身につける装身具のことである。いくらなんでも衣装ケースをornament と呼ぶのは無理があるのではないか。

また、手許のカラー表紙のノートの片隅には、こう書いてある。

The natural blessings found in this powdery color base will give you a power brush up

なにがいいたいのか、さっぱりわからない。あえて直訳すると「この粉末状の色地に見られる自然の恩恵が、あなたにふたたびやり直す力を与える」とでもなるのだろうか。哲学的に過ぎて、ほとんど意味不明である。

こういうコピーは、まず読むことはないし、書くほうだってデザインのつもりで、適当に英語をならべただけだろう。東南アジアで売られている変な日本語の書かれたTシャツと同じ感覚なのだろう。

しかし、東南アジアのそれとちがって、一応文章になっているから、ネイティブには気になるようだ。こういう意味不明な英語を Japanese Engrish (Englishではない)と名づけてコレクションしているサイトもある。

ここをのぞくと、あらためて変な英語の氾濫ぶりに驚くのだけれど、こっちはネイティブではないので、そのフレーズのどこがどう変なのか、ぴんとこないのがちょっと悲しい。ついでに、変である理由と正しい用例も書いてもらえると、勉強になるのだけど。

わかりやすいのもある。たとえば、ひじやかかとの角質を落とすための Horny Removerと称された硬そうなブラシ。Horny には「性的に興奮した」という意味があるので、性欲をとりのぞくための器具という意味になる。しかし、どうやって使うのだ?

いまはなきJAS の秋田−沖縄便のポスターもすごい。

Non_stop_fright

コピーには、Akita to Okinawa, Non Stop Fright, Re Open とある。単純なスペルミスとはいえ、飛行機の宣伝文句に Non Stop Fright はあまりにシュールである。

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*クラブへ行こう

バリ島に滞在していたとき、あちこちの村を訪ねて祭りを録画している日本人に知り合った。日本では何をしているのかと訊くと、アート関係の仕事のほかに、クラブでDJなどもしているという。

帰国後、なにかイベントがあるたびにメールをもらった。しかし、そういう「イベント」というのは、なぜか、きまって夜10時からなのである。どうして、こんな遅く始めるのかわからない。

そんなわけで、ちっとも行けずにいたのだが、こんなことでは一生、クラブとかDJというものを知らずに終わってしまうかもしれない。そう考えると、なんだか焦りが湧いてきて、ある晩、夕食を食べたあと、よし、行こうと決意した。

なにしろクラブである。「たまごクラブ」のクラブとは発音からしてちがう。しかし、どういうかっこうをしていけばいいのだ。ディスコというのも、ほとんど行ったことがないのだ。店によっては入り口で服装検査があると聞いたこともある。そうなると、やはりヒップホップなかっこうをしないといけないのか。

タンスを開けるが、ヒップホップな服がぜんぜんない。ユニクロのポロシャツとか、バリやエジプトのお土産Tシャツでは、どう見てもヒップホップではない。鏡を見ると、髪型もヒップホップでない。カバンも靴もヒップホップでないような気がする。支度をしているうちに、だんだん気が滅入ってくる。

それでも気力を奮いたたして出かける。スクエアプッシャーという、図書館で借りたテクノっぽい音楽をMDで耳に流し込み、気分だけでも昂揚を図ろうとするが、やかましいだけにしか聞こえない。遊びに行くというのに、なんでこんなに緊張するのか。

そもそもクラブとはなんなのか。予想では、ディスコみたいなところで、DJがイェーッとかいって、客もイェーッとか応えて、DJがサイコーですかーとかいって、客もサイコーとか応えるようなところなのだろう。

パラパラとかいう踊りをするのだろうか。踊らないと、バカにされたり、チーマーにいじめられたりするのかもしれない。おい、だせーオヤジがまじってるぜ、とかいわれたどうしよう。そしたら、年上の人間をバカにするんじゃないとガツンといってやらなくては。しかし、そんなこといって、逆に刺されたりしたら、さびしい一生だなあ。電車に乗りながら、そんなことを考えていると、しみじみしてくる。

くだんのクラブは渋谷だった。妙な形の建物で、カーブしたネオン管で店の名前が書いてある。いかにも慣れているふりをして、さっと入ったものの、やはり受付で、あのー、こういうところ初めてなんですけど、と正直に申告したほうがよかったのだろうか。

ことによると、この世界独特の隠語などがあって、お客さん、ケセマタでいいですか、それともベクーパカにしますかなんて訊かれて、しどろもどろになっていると、なんだよ、こいつタマタブかよ、マンジューしちまおうか、なんていわれて、わけがわからず身の縮む思いをするのではないか。

おそるおそる中に入る。思ったほどは広くない。ほかのところを知らないので、なんともいえないが、上がバーになっていて、階段を下りると、学校の教室くらいの広さのフロアがある。

ベースのきいた激しいリズムがフロア全体をびりびり震わせている。ミラーボールがコンクリートの打ちっ放しの壁に青や赤の光の玉を走らせ、前方スクリーンには、古い洋画やアニメを編集した忙しない映像が流れている。

ひとは少なかった。チーマーというのは会ったことがないが、そういう悪そうな若者も見あたらないし、暗いのでこちらに視線を向けられることもない。絶対踊らなくてはいけないという雰囲気でもない。

11時を過ぎた頃から、ひとが増えだした。どういうひとが入ってくるのか気になり、フロアに下りてくるひとを観察しては、頭の中で評価をつける。

ドレスや水着まがいの非日常性の高い服装は「松」、ラスタやスキンヘッズなど一点非日常主義は「竹」、その他カジュアルなのは「梅」に分類したところ、松は1割、竹が3割くらいだった。つまり大半は梅なのである。もちろん自分もそうなのだが、とくにここで浮き上がってしまう存在ではないことが確認された。

どうやらクラブというのは思っていたのとはかなりちがう。だいたいDJの彼も、ちっともしゃべらない。イェーッともいわないし、サイコーですかーともいわない。ブースで、からだを揺らしながら、ひたすら機械を操作し、ときどきレコード盤を取り換えるくらいだ。これがDJというものなのか。小林克也みたいにしゃべるわけではないのか。

イベントというから、ゲームをしたり、ことによるとチークタイムなどもあるのかもしれないと思っていたが、そういうこともない。ひたすら切れ目なく、ビートのきいた激しい音楽が流れているだけだ。場違いだからといって、迫害を受けることもない。要するに、この非日常的な音と光の空間に身を浸し、気分が乗れば踊るということらしい。だとすれば気は楽だが、これのどこが楽しいのか。

フロアが人でいっぱいになった頃、突然、壁際にある朝礼台みたいな台に女の子が上がった。女の子はカウボーイハットをかぶり、お尻のはみ出そうな豹柄のビキニを着ている。少し楽しくなってきた。

女の子は、台の真ん中から伸びている金属の棒をつかんで、それにからみつくように腰をくねらせ、やがて腰の上下動を中心とした踊りをはじめた。なんということだ。せっかく楽しくなってきたというのに、こんなに照明が暗くては踊りが見えないではないか。

終電に間に合うように店を出たが、ほかに帰ろうとするひとはいない。それどころか入り口には客がどんどんつめかけている。平日だというのに、いったいみんな何をしているひとたちなのか。「松」や「竹」ならまだしも、「梅」にいたるまで終電で帰らないとは。

終電が終わったあと、クラブはどうなるのだろう。じつは、このあとゲームをしたり、サイコーですかーというふうに盛り上がるのだろうか。あるいは、ぼくのような「梅」がいなくなったあと、ディープな「松」の世界が、そこに展開することになるのだろうか。

 

*後記

このとき以来、クラブに行っていない。いまでもいくつかの疑問は解けていない。あのヒョウ柄のビキニを着て踊っていた女の子だが、チラシには「ドラッグクイーン」と書いてあった。ドラッグの女王? そんなことを書いたらまずいのではないか。警察につかまらないのか。それともクラブというのは一種の治外法権になっていて、そういうことがゆるされているのか。考えても、よくわからない。だれか、私をもういちどクラブに連れて行ってもらえないだろうか。

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*ここ掘れ、わんわん

動物が主人公だったり、人間の言葉をしゃべったりする話が、昔からあまり好きではない。

その最たるものにドリトル先生シリーズがあるが、イヌやオウムならいざしらず、クラゲやカタツムリのような、どう見ても意識の暗そうな生きものの言葉までわかってしまうという世界観が、どうしても解せなかった。

だいたいクラゲやカタツムリは、言葉というかたちで思考を展開しているのだろうか。いや、そもそも思考というものが存在するのだろうか。快・不快といった傾向はあるだろうが、それは言葉にはならないのではないか。

あるいはドリトル先生は、じつは動物の言葉なんてわからないのだけど、わかったふりをしているだけなのかもしれない。仮に、いっさいが、自分は動物の言葉がわかると主張するドリトル先生の妄想であったとしよう。そうであっても、この物語は十分成立する。

どういうことか? たとえば、ぼくがカメの言葉がわかるといったとしよう。カメの水槽に耳をあて、ふんふん、わかった、餌がほしいんだね、といいながら餌をやる。それを食べないので、また水槽に耳をあて、なになに、この餌じゃイヤだというのか、贅沢だねえ、えっ、しばらく寝たいって、じゃあ、勝手にしなさい、というようなやりとりをしていたとしよう。その様子をそばで見ていた人が、ぼくがカメの言葉なんかわからないと証明することは論理的には不可能なのである。

これ以上つっこむと話がややこしくなるので、ここまでにする。こんなことを書いたのは、最近、ドリトル先生を地でいくような道具が開発されたというニュースを聞いたからである。夏にタカラから発売される予定の「バウリンガル」という装置である。これは首輪のようにイヌの首に付け、犬の鳴き声を声紋分析して、その意味するところを液晶モニターに言葉で表示するのだという。
Bau_1

実物を見てないので、なんともいえないが、鳴き声に応じてモニター上には「やったね、楽しいね」といったような、きわめて現代的な翻訳語が表示されるらしい。メスだと「やったわね、楽しいわ」となって、老犬だと「でかしたぞ、愉快じゃ」となるのかどうかは知らない。

いずれにしても、イヌの鳴き声を「翻訳」してイヌとの、よりいっそう親密なコミュニケーションを図るというものらしいが、そういうお題目は明らかにフィクションでしかない。要は、本来言語化できないものを、無理やり都合よく言語にしてしまうことで、相手をコントロールし、コミュニケーションを図っているという安心、幻想を得たいのである。

イヌでもカメでも人間でもそうだが、ときに生き物はまったく予期しないメッセージを発する。そんなとき、人間は不安になる。そのとき、そうしたわからないメッセージに、無理やり言葉を与えてしまえば楽になる。言葉にすることによって、本来の混沌は失われ、脅威も減じてしまう。

混沌を避け、なんでもかんでもマニュアルに沿って紋切り型に解釈する。それによって軋轢や摩擦を回避するという方法は、じつはこれからの時代にぴったりなのかもしれない。

そこで考えた。人間の赤ん坊に「オギャリンガル」という装置を付けるのだ。泣き声に応じて「ミルクがほしいよ」とか「オムツをかえて」といったメッセージがモニターに表れるようにする。

親孝行モードにすると、赤ん坊がどんなに泣き叫ぼうと、「とくに理由はないの。うるさいけど、がまんしてね」というメッセージが出る。子育てに悩むお母さんに朗報である。

案外、売れるかも知れない。しかし、ほんとうに、そんなものが売れてしまう世の中なんて、どうも、なんだかなあ……。

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