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イルカのくる渚に感動は待っているか?

文化人類学者のlalombeさんが、自身のウェブサイトの一コーナーで「簡単に感動してたまるか」という一文を書いていた。World Baseball Classicの感想に寄せて、あいかわらず「感動」という言葉が日本人は好きなようだという話だった。

感動という言葉は、最近では以前ほどは使われなくなってきたように思うのだけれど、数年前までの感動の乱発ぶりはほんとにひどかった。そのきっかけは、2001年、優勝した横綱・貴乃花に小泉首相が「痛みに耐えてよくがんばった。感動した!」といったあたりだったような気がする。

あの頃から、スポーツ中継をつければ「感動をありがとう」「みなさまに感動をおとどけします」という紋切り型のいいまわしが赤字国債さながらに乱発されだした。地味なスポーツは実況で盛り上げ、それでもだめなら選手にまつわる人間ドラマや家族や恋人まで総動員して強引に感動につなごうとする。スイングしなけりゃ意味がないのではなく、感動しなけりゃ意味がないのである。

スポーツばかりではない。旅ものや自然もののテレビ番組でも、いまや「感動」は絶対条件である。「そこには思いがけない感動の出会いが待っていた」とか「自然の恵みにあふれた感動の毎日のなかで」とか、どうしようもなく紋切り型の常套句が旅を語るエクリチュールにはあふれている。

感動のほかにも「目をきらきらさせた子供たち」、「私たちが失ってしまった何か」、「ふれあい」といったボキャブラリーも定番である。その使われ方もひどく安易なことが多い。

以前、旅の番組で、外国の市場で商品を値切っている場面で、「現地の人びととのふれあい云々」というナレーションが流れていた。だが、市場で買い物することのどこが「ふれあい」なのか。それなら、東南アジアの人たちが、秋葉原で電化製品を値切って買うのも「ふれあい」なのか。日本のすけべなおやじが、東南アジアに少女の性を買いに行くのも「ふれあいの旅」ということなのか。まあ、ふれあいといえば、ふれあいと呼べるのかもしれないが。

感動やふれあいという言葉がまったくいけないというわけではない。ただ、その使われ方があまりにも軽すぎるのだ。はっきりいって、現在メディアで使われている「感動」という言葉の九割以上は「快楽」あるいは「興奮」という語に置き換えても、なんら差しさわりないように思う。「みなさんに快楽をお伝えしたい」とか「興奮をありがとう」とか「快楽が待っています」というほうが、ずっと本質を衝いているのではないか。

そんな感動強要型のテレビにうんざりしていたころ、知人から、パプア・ニューギニアの島の人びとの暮らしについてのドキュメンタリーのDVDをいただいた。タイトルは「イルカのくる渚」。制作は『海が見えるアジア』などの著書のあるカメラマンの門田修さん。ネーミングからすると、内容はNHKで放送される「なんとか自然紀行」のようなものであろうと思った。

再生してみると、癒し系の音楽をバックに、画面には美しい海の風景、のどかな島の人びとの様子が映った。まさに南太平洋の素朴な暮らしという雰囲気である。

やがて渚に迷い込んでくるイルカの群れが映った。詩情あふれる光景だ。久保純子や宮崎美子の「この美しい渚に、仲の良いイルカの群れがやってきました……」というナレーションが聞こえてきそうだ。このあと、島の子供たちがイルカと戯れたりすれば完璧な感動のできあがりである。

ところが、そこから様子が変わってきた。十数頭からなるイルカの群れが渚に迷い込むと、村人たちは何そうものカヌーを出し、竹を海中に突き立てて、渚の入口をふさぎにかかった。竹同士の間隔は何メートルも開いているので、逃げ出そうと思えば、かんたんに外洋に出られる。しかし、イルカは竹のそばまで来ると、なぜか渚に引きかえしてくる。人間と遊びたいのだろうか。

そうではなかった。村人たちはとまどうイルカと戯れるどころか、銛や棍棒をふりあげると、雄叫びを上げて、そのあとを追いまわしはじめたのだった。パニックを起こしたイルカに、村人たちはつぎつぎに銛を投げ始める。銛の刺さったイルカはカヌーの船縁に引き寄せられ、棍棒でしたたか頭をたたかれ、つぎつぎと絶命していく。イルカの悲鳴や、棍棒で頭をつぶすバコッという鈍い音が、のどかな風景のなかにくりかえされる。こうして子イルカも含めて、最後の一頭にとどめを刺すまで殺戮はつづく。

Dolphin1

やがて場面は変わり、海岸では村人によるイルカの解体が始まる。割かれた腹から腸が飛び出し、渚はイルカの血で真っ赤に染まる。そのそばを、死んだイルカの臓物をもって、子供たちが文字どおり「目をきらきら輝かせて」走りまわっている−−。

Beach

ぼくは口をぽかんと開けて、映像に見入った。予期せぬ展開に、すっかり不意をつかれた。これを感動といっていいのかどうかわからないが、衝撃を受けたのはたしかだった。イルカのくる渚、たしかにそのとおりではあった。

以前、モーリタニアで行われているイルカ漁の様子をやはりドキュメンタリーで見たことがある。これはイルカ漁といっても、イルカが人間のいる浜辺に魚の群れを追ってきて、それを人間が網で捕らえるという話であった。人間とイルカが協力して漁を行うという、なんとなく共生とか、知能の高い生き物同士のコミュニケーションといったイメージと結びつくためか、とてもNHK的な番組だった。

だが、パプアのイルカ漁は、それとは対照的だ。とはいえ、これだって自然の中で生きる人間のたくましさや、漁の伝統の姿を生き生きと描いているではないか。イルカを追うときの男たちのたくましさ、解体されていくイルカを見つめる子供たちのキラキラしたまなざし、そしてどこまでも美しい青い海。感動の条件をしっかり満たしているではないか。

そのときふと頭の中で、あの「なんとか自然紀行」のナレーションが聞こえてくる気がした。「自然の中にはかならず感動が待っています。日本人が忘れてしまった何かが、ここにはまだ生きているのです。子供たちのきらきらしたまなざしが、そのことをなによりも語っています。またひとつ、地球のかけがえのなさを見つけました……」

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コメント

 テレビ場組の「感動」につぃては本気で考察すると怒りになるが、そうすると健康によくない。先日も公共放送を名乗る局がドキュメントを装い、話を都合の良いようにはしょって「感動」に無理やり誘導、あとは撮影した場面で「感動」に都合の良い部分だけを細切れにつないでゆき、スタジオに本人を呼び、収録後彼の話の「感動」にふさわしい部分だけ切り取り編集して流していた。取材された本人を知るだけにあきれてしまった。
 取材対象が企業などの組織である場合は取材された側も取材対象が拡散しているので、まあ例のパターンか、と気分的に流して見れるが、取材対象が人間一人で、その人一人で「感動」を無理やりつくる。もっと違った作り方があるだろうに、とガックリきていました。というか、作る側の都合が優先して撮影される側に対するデリカシーのかけらもない、という傲慢さには少なからず不愉快な気分がしました。撮られた側も何らかの意味でダメージをくらうでしょう。

 「イルカの来る渚」はそんなテレビドキュメンタリーの作り方への強烈な批判だと思います。淡々としているが、淡々さがよい。確かにイルカの虐殺は強烈な印象を受けましたが。
私はイルカの腸を見てヤキトリのシロを思い出し、本当にそのあとヤキトリ屋に行ってシロを頼んで食べたのです。それほどまでに食欲をそそったDVDでした。

 冬、大島沖から舟で太鼓をたたきながらイルカを、ある港に追い込み、日が暮れても夜を徹して大量のイルカを流れるように処理し、次の日の朝、港はなにごともなかったような日常的風景になる、のを見たことがあります。追い込みの話は何らかの方法で東京に伝わり、トラックが秘かに終結し、解体された獲物を運び去ります。そして東京のヤキトリ屋でイルカの腸がシロとして串にさされて焼かれます。ああ、またシロを食いたくなった。豚のシロより美味いんですよ。

現在では、その漁はやっていないかもしれない。
上は1980年の話です。

 田中さんの文章はゆるやかに「感動」について書いていて、読んでしばらくして底深くヤラセ「感動」にたいして軽蔑の気分になれます。少し、気分がスッキリしました。

では。

投稿: 小松義夫 | 2006年3月27日 (月) 10時06分

わたしは、この海豚のDVDの話には "感動" しました。
感動のベクトルが決められているものには感動できませんが(立腹はするけど^^,感じて動ずる、なら、立腹でも感動の一種か@)このDVDは素敵です。

投稿: *^^* | 2006年3月28日 (火) 01時11分

>小松義夫さま
この内容のDVDに「イルカのくる渚」というポエティックなタイトルをつけたのが、なにより強烈な皮肉ですね。『エクソシスト』を『お嬢さん、ふりむかないで』というタイトルで公開するようなもの、とはちょっとちがうかな……?

>*^^*さま
自分のなかのパターン化されたものの見方を覆してくれるものが感動だとすれば、たしかにこのDVDは感動的です。でも、ベクトルつきの感動というのは、逆にかえってパターンを強化してしまう。ああ、やっぱりイルカはかわいいな、こんなかわいい生き物を殺すのは絶対に許せない、というふうに。

投稿: 田中真知 | 2006年3月28日 (火) 03時58分

 まだ、日本がとても先進国とは呼べなかった高度成長の頃、社会科の教科書には必ず、捕鯨が紹介されていました。捕鯨量世界一、鯨はこんなに役に立つ、と。テレビでもよく捕鯨船のドキュメントを、それはそれは感動的に流したものでした。
 巨大な哺乳類を追い回し、銛で打ち、解体し。
 当時欧米ではまだ、日本人はちょんまげに刀で町を歩いている、と信じられていたらしいですが。

投稿: ヨ | 2006年3月29日 (水) 06時10分

 どうも、lalombeです。
 門田さんのイルカの映像、授業で使ったことあります。その時はあらかじめ、「不快・苦痛に感じることもあるでしょうけれど、これが現実ですから」と断りを入れて、強制的に見せました。血を見るのが嫌だという学生には、その瞬間だけ目を伏せていろ、とも付け加えて。
 でもあの映像に、たとえば「母を失った子イルカのけなげなたくましさ」とか、そういうナレーションが入ったとすると、またもやお涙頂戴・感動垂れ流しになっちゃうんですよね。
 ……とかいいながら、ミリオンダラーベイビーを観て激泣きした増田でした。ちゃんちゃん。

投稿: lalombe | 2006年3月30日 (木) 00時01分

>ヨさん
昔の捕鯨の紹介のされた方には「勇ましさ」が、かならずフューチャーされていましたね。ヘミングウェイに出てくる魚釣りのシーンもそうだけど、クジラをとるのが残酷という視点は西洋でもわりと最近なのではないか。プレヴェールの詩に「クジラ捕り」の話があって、息子を殺された母クジラが、クジラ捕りに仕返しにやってくる話だった。でも、エコとか自然保護という発想ではなかったな。

>lalombeさん
授業にあの映像を使ったのですか。その授業を見学したかったな。そのあとで、学生たちと焼鳥屋でシロを食べるという企画付きで。

たしかに映像があれでも、ナレーションによって奇妙な感動ものになってしまうところが映像の怖いところですね。以前、ネットで「ジョーズ」の予告編映像をそのまま使って音楽とナレーションで、あれを南海のラブストーリーものに変えてしまったものをみたことがあります。なんとなくみていたら、奇妙にねじれたラブストーリーものとして受け取れそうになっていたのがこわかった。
ミリオンダラーベイビーは泣かなかったけど、最近は水戸黄門で涙ぐんだりしてしまうこともある。

投稿: 田中真知 | 2006年3月31日 (金) 00時16分

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