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2006年4月

認知症病棟のエナジー・フロー

間がちょっとあいてしまった。今回は、久々に音楽の話。

二週間に一回くらいの割合で、入院している母親の見舞いに出かける。彼女はいわゆる認知症で、入院しているのもその専門の病院である。ただ、記憶はとぎれがちではあるけれど、ある程度、意思疎通はできる。

認知症といっても、その進行度合いはさまざまであり、一見ふつうの受け答えのできる人もいれば、徘徊するひとや、大声を上げる人、まったく意思疎通のできなさそうなひともいる。

見舞いに行くときには、ぼくと奥さんと、都合がつくときには中学生の息子も連れて行く。なんといっても、子供がいっしょだと母親の表情も明るくなるし、会話の間がもつからだ。

ほかの患者さんたちも、子供がいると反応がちがう。とくに、まだ彼が小学生だった頃は、広間に入っていくと、それまで無表情だった認知症の老人たちの顔に明るさや好奇心のようなものがよみがえってくるのがわかった。

認知症の人たちといっても、ほかに疾患がなければ、からだは動く。だから、患者たちは一日のほとんどの時間を病室ではなく、大広間で過ごす。

広間にはデパートの大食堂のようにたくさんのテーブルが並んでいる。ソーシャルワーカーの指導でかんたんな工作をしている人たちもいれば、おしゃべりしているひとたちもいる。

もっとも、大半の人たちは、いすに座ったまま、ぼおーっとしてなにもしていない。大画面のテレビがつきっぱなしになっているが、見ている人はほとんどいない。

この広間のすみにアップライトピアノがある。音楽療法の意味もあってか、ときどき本職のピアニストがやってきて弾いているらしい。息子もピアノを習っているので、見舞いに来たときには、母親(彼にとっては祖母)のためになにか弾くようにしている。とはいえ、ろくに練習しないのでレパートリーはあまりない。

何年か前、義父(彼にとっては祖父)がホスピスに入っていたときにも、彼は談話室にあったピアノを弾いた。ただ、そのとき彼の弾ける曲といったらオッフェンバックの「天国と地獄」だけだった。文明堂のCMで有名な「カステラ一番、電話は二番」という景気のいい曲である。

いくらなんでもホスピスで「天国と地獄」というのもなんだかなあと思ったが、それでも義父はじっと聞いていたし、部屋に引きこもっていたほかの患者さんたちもピアノの音が聞こえると、つられるように談話室に集まってきた。ある人は車いすに乗って、ある人は杖をついて足を引きずりながら、遠巻きにピアノをかこんだ。

その激しいリズムはひょっとしたら患者たちにとって生命そのもののしるしのように響いたのかもしれない。場違いな「天国と地獄」が鳴り出すと、モノクロームに沈んだまま動かなかったホスピスの空気がかき回され、色が満ちてくるような気がしたものだ。それから、ほどなくして義父は、ほんとうに天国に行ってしまった。

それと入れ替わるように、それからまもなく母親が入院した。彼はここでもピアノを弾くようになった。ただ、問題はレパートリーだった。老人が多いのだから、わらべうたとか、古い流行歌でも弾ければいいのだが、そういうのはぜんぜん弾けない。

練習しないものだから、弾けるものといったら、だれも聞いたことのない指の練習曲みたいなのばかりだったが、さすがにこれではまずいと本人も思ったのか、モーツァルトのトルコ行進曲やら、メンデルスゾーンの「狩の歌」くらいが、たどたどしいながらレパートリーに加わった。あと最近になって坂本龍一の「エナジー・フロー」などもぶらさがった。

けれども、ホスピスのとぎすまされた空気の中と、認知症患者たちの中とでは、同じピアノを弾くのでも、ずいぶん様子がちがった。ホスピス患者たちのように音楽にじっと耳を傾ける人はほとんどおらず、たいていはまったく無反応である。

癒しのメロディーであるはずの坂本龍一の「エナジー・フロー」なんかを弾いても、唐突に「ギエー」とか雄叫びが上がるし、音楽と関係なくずっと泣き続けている人もいる。「あー、うるさい、うるさい」とわめき出すおばあさんもいる。たぶん坂本龍一を連れてきて弾いてもらっても、同じようなものだろう。

最初は、息子もそんな特異な雰囲気に少々怖じ気づいていたのだけれど、軽い症状の患者の中には、拍手をしてくれる人もいるし、「よかったわよ」と声をかけてくれる人もいる。

そのうちに彼も開き直ったのか、いくら背後から「あー、うるさい、はやく終わんないかしら」という声が聞こえても、患者の悲鳴があがっても、ガラガラドーンとなにかが倒れる音がしても、もくもくと岩のように弾きつづけるようになった。

あるとき、病院のおやつの時間に、彼がトルコ行進曲を弾き始めた。患者たちの前には、おやつのプリンの皿がならべられていた。

母親はピアノのすぐ後ろのテーブルに座っていたのだが、そのとき一人のおじいさんがふらふらとピアノに近寄ってきた。人の良さそうな顔をしたこのおじいさんは、以前から彼がピアノを弾いていると、ときどき寄ってきてなにやら話しかけたり、ピアノの鍵盤を叩いたりしていた。

ところが、このときは、どういうわけか、ピアノのすぐ後ろの席にいた母親のプリンを取り上げようとした。母親が「なにすんのよー」と声を上げ、ぼくもそばに行って、おじいさんのプリンをとりかえそうとしたのだが、おじいさんは頑として返そうとしない。

騒然とした雰囲気になり、やがて腕っ節の強そうな男性看護士がやってきて、おじいさんからプリンを取り上げようとした。しかし、おじいさんはピアノの鍵盤のところにもたれかかり、身体をよじらせて抵抗する。その間も息子は下を向いて、なにごともないかのように、ごりごりとトルコ行進曲を弾きつづけていた。

「放しなさい! これは○○さんのじゃないの。○○さんのはあっちにあるんだから」と看護士。

「……▲*◎†※&」おじいさんは抵抗する。

「だめですよ、これはタナカさんのなんだから返しなさい!」

「……○§△◇☆※!」

トルコ行進曲がエンディングにさしかかったころ、看護士が強引にプリンを取り上げた。その反動でバランスを崩したおじいさんのからだが、棒でも倒すようにすーっと後ろに倒れたかと思ったら、「グワーン!」とものすごい音がした。おじいさんの後頭部がピアノの角にぶつかったのだ。トルコ行進曲が止まった。

床にあおむけに倒れたおじいさんは放心したように目を見開いたまま動かなくなった。と思ったら、まるでドラマの場面のように頭の下からすーっと赤黒い血が床に広がっていった。息子はピアノのいすに座ったまま、硬直していた。

すぐに看護士が何人もやってきた。

「○○さん、大丈夫ですかあー?」

プリンを取り上げた看護士が声をかけたが、返事がない。まもなく彼は担架にのせられると、どこかに運ばれていった。

それから、しばらく病院に行ってもおじいさんの姿を見かけなくなった。どうしたのだろうかと気になっていたが、何ヶ月かたったある日病院に行くと、いすにすわってぼおーっとしているおじいさんの姿があった。「こんにちわ」と声をかけたが反応はなかった。

久々にいっしょに病院に来た息子は、その日も少しピアノを弾いた。けれども、いつもなら「あー、うるさい、うるさい」というはずのおばあさんも、心なしか反応が鈍くなっていた。これまで拍手してくれていた紙おむつのおばあさんも、あらぬ方向を見つめてぼおーっとしている。

ピアノの黒い筐体から発したたどたどしい「エナジー・フロー」の音符が、尿のにおいをふくんだ生温かい広間の空気の中を、行き場を失ったまま、ただよいつづけていた。

 

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旅の翁に会いに行った

先週末、大阪である集まりに参加した。今年85歳になる年金バックパッカー、水津英夫さんをかこむガーデンパーティーである。水津英夫さんのことは、これまで「旅行人」誌などでなんどか書いたことがあるので、ご存じの人もいるだろうけれど、知らない人のために、かんたんに紹介しておく。

初めて水津さんに会ったのは、1993年だから、もう10年以上前、まだカイロに暮らしていた頃である。ある日、カイロの安宿に滞在していた知り合いの旅行者から、「すごいひとがやってきたんです」と電話をもらった。聞けば、そのひとは72歳のバックパッカーだという。中国、パキスタン、イラン、トルコなどを経て、半年がかりで陸路でアジアを横断してエジプトまでたどりついたというのだ。その年で、そんな旅をしているとは、いったい、どんなひとなのか。興味がわいて、彼の滞在する安宿を訪ねて話を聞いた。

1泊150円のドミトリーの一室で会った水津さんは、よけいな力の抜けた飄々とした雰囲気をまとった小柄な方で、とてもアジアを横断してきたような強者には見えなかった。しかも意外なことに、大正10年生まれの水津さんが旅をはじめたのは、定年になった60歳からだという。暇でやることもないので、旅行でもするかと軽のバンに生活道具をのせて日本をまわった。しかし、4年もすると行くところがなくなってしまったので、リュックを背負って台湾に行ってみた。それが初めての海外一人旅だった。

この旅がきっかけで、水津さんはバックパックの旅の愉しさにめざめた。それに外国を旅行していた方が日本にいるよりお金がかからないことも知った。貧乏旅行だと月6万ほどしか使わないので、乏しい年金でも貯金ができてしまう。しかも安宿では若い人たちと話もできる。言葉ができなくても、なんとかなることもわかった。疲れたと感じたら、近くの病院に入院する。年寄りだと、たいてい断られないし、回診は午前中なので、午後は観光もできる。入院費も帰ってから保険で払い戻される。

こうして貧乏旅行の世界にはまった水津さんは、以後1年のうち10カ月を旅の空で過ごすようになった。初めのうちは中国を丹念にまわっていたが、だんだん行動範囲をひろげて、今回ついにアジア・中東を横断してエジプトまで足を伸ばしたというのだった。

水津さんは、そうした旅の話をぽつぽつと語ってくれたのだが、ぼくにとって他人の旅の話をこれほど面白く聞いたのは初めてだった。他人の旅の話とは、たいてい語っている本人は楽しくても、聞いているほうはどこか白けてしまうことが多い。けれども、水津さんの脱力したようなとぼけた語り口には聞く者をひきつけてやまない不思議な魅力があった。

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エジプト・シナイ山頂の水津さん(72歳)

このとき水津さんはエジプトに何ヶ月か滞在して、そこからまた旅を続けた。その後も、水津さんの噂はときどき耳にした。オーストラリアで水津さんらしき人にあったとか、マレーシアで会ったとか、中国で会ったとか、世界各地から水津さんの噂が聞こえてきた。しかし、ぼくも日本に帰国し、2000年を迎える頃には水津さんの噂も、とんと聞かなくなった。最初に会ってから7年がたち、水津さんも80歳になる。さすがに、もう旅を続けているとは思わなかった。

ところが、そんなとき偶然、人づてに水津さんがいまでも旅を続けているらしいことを知った。ぼくはおどろくやら、あきれるやら、うれしくなるやらで、なんとか水津さんが日本にいる時期をつきとめて連絡をとり、大阪の彼のアパートまで会いに行った。

水津さんは、「もうすっかりボケましたわ、旅行者に『前に会いましたよね』と声をかけられても、ちっとも思い出せんのですよ」といっていたが、そのわりには、旅の話をはじめると、いくらでも話が出てくる。おどろいたのは、エジプトを出た後、彼はトルコで睡眠薬強盗にやられ、またそのあとの南米の旅ではペルーで首締め強盗に遭ったという。しかし、運が悪ければ命を落としていたかもしれないそんな災難のことを、彼はまるで他人事のような口ぶりで話すのだった。

「こわくなかったんですか?」とぼくは訊いた。

「こわくはなかったですね。やられるまでなにもなくて、やられてるときは瞬間的だし。ぼくは、どこで終わってもいっしょやないかと思うんです。十年やそこら長く生きたって同じじゃないですか」

そこには強がりも、自嘲も感じられなかった。けれども、ぼくにはわからなかった。初めて水津さんに会ったときから感じていたことだけれど、年をとっても元気に旅行できるうちはいい、しかし、年齢のことを考えれば、身ぐるみはがれたり、旅先で病気になったり、あるいはだれにも知られずに死んだりという可能性だって低くはないし、じつは内心、不安や心配だってあるのではないか。

水津さんは、そうした感情を無意識に押し隠して、あえて元気にふるまっているのではないか。心のどこかで、ぼくはまだそう疑っていた。しかし、そんな勘繰りをよそに、水津さんは、「つぎはアフリカに行こうと思っとるんです」といった。「まあ、本当に行けるかどうかわからないですけど、行けなくてもいいんです。でも、アフリカいいなあ、行きたいなあと思っていることが楽しい。でも、そんなことばかり考えていると、いつか本当に行けたりするんです」

それからまもなく、80歳の水津さんは本当にアフリカに行った。もっとも80歳でアフリカを旅行するというだけなら、そんなにむずかしくはない。豪華なロッジに泊まって、チャーター車で国立公園をサファリするくらいなら、ヨーロッパからの高齢のツアー客がよくやっていることだ。

しかし、水津さんがアフリカを旅するというのは、そういうことではまったくなかった。彼はあろうことか、東アフリカでもとりわけ過酷なケニアからエチオピアの陸路ルートをたどった。バスや列車はないので、移動するには物資輸送のトラックの荷台に乗ることになる。しかも、ケニア北部の道は洗濯板のような凹凸があるため、揺れ方が尋常ではない。水津さんも振り落とされないよう荷台にしがみつき、二日がかりで国境までたどり着いたのだ。強者のバックパッカーでも尻込みするような旅をしながら、水津さんは東アフリカから南アフリカまで半年近くかけて旅行した。

帰国した水津さんは、つぎは南極に行こうと考えた。ただ、膝をはじめ、からだのいろんなところにガタがきていたので、しばらく休養しながら日本を旅行していた。そんなとき、たまたま日本の旅先の病院で肺にガンがあることがわかったのだった。

人づてに、そのことを知ったぼくは、とうとう来てしまったなという思いがした。そして、本当に死を覚悟しなくてはならなくなったいま、水津さんはどう感じているのだろうかと思った。お見舞いに行くにも、いつも飄々としていた水津さんが弱音を吐いたりしたらどうしよう、あるいは逆にことさらに元気にふるまったりしたら、どうすればいいのだろうと、すこし悩んだ。

けれども、ぼくは水津さんのことを、まるでわかっていなかったのだ。病院の水津さんは、旅行していたときと少しも変わらず、力の抜けたような雰囲気を身にまとい、やはり飄々としていた。彼は、こちらが切り出す前に、自分のガンが末期であること、頭にも転移が見られること、手の施しようがないことなどを話してくれた。しかし、その話しぶりは以前トルコで睡眠薬強盗に遭ったときのことを話してくれたときのように、どこか他人事のようで、ときに愉しそうな表情すら浮かべていた。

「でもね、ぼくは、むしろこれからが本当の人生のような気がしておるんですよ」

「どうしてですか」

「ガンが頭に来とるせいか、ボケがひどくなっているんです。自分の撮った写真を見ても、それがどこだか思いだせんのですわ。だから、かえって写真を見ていると愉しいんです。行ったことないところを旅をしているような気がして新鮮なんです」

ふつうの人が、そんなことをいうと強がりのように聞こえるかもしれない。けれども、水津さんは無理しているわけでもなく、本当にそう感じているのだ。死への恐怖があるとかないとか、あるいは、恐怖があってもそれを隠すとか、この人の場合、そういうことはたいした問題ではなさそうなのだ。老いというものを、ことさらに哲学や生死のテーマに引きつけて考えようとすることもないし、あるいはその逆に、開き直ったりするでもない。

達観しているとか、枯れているというのともちがう。老人にありがちな、そうしたわざとらしさが、この人にはまるでないのだ。そもそもこの人は、最初から死への恐怖などというテーマが頭に思いつかないのではないか。そんなことよりも、こうして自分が病気になっているという、生の不思議さが面白くて仕方ないのではないか。

ガンがわかって数か月後たったその年の秋、「生前葬」の名目で水津さんをかこんで、ささやかな食事会をした。彼が旅先で知り合った親しい人たちで集まって、水津さんが旅先で撮ったスライドを見て、食事をしようという会だった。しかし、このときはまだ彼と長年のつきあいのある人たちでさえ、どのように彼に接すればいいのか図りかねていた。水津さんの中に、他人の踏み込めない孤独とか、死を前にした独特の感慨などがあるはずだと思いこみ、そこにみだりにふれぬようにと気を遣っていたように思う。

しかし、本人はそんなこちらの心配をよそに、おおいに食べて飲んで、じつに愉しそうにしゃべった。「葬式は金がかかるから、いらんです。骨壺は電車の網棚に置き忘れてくれるのがいいですわ」といつもの調子でのたまうのだった。冗談というわけでもなさそうだった。いずれにしても、もし来春も水津さんが元気だったら、お花見をしようという話になった。そこには祈りのような気持ちがなかったとはいえない。

そして2005年の春がやってきた。水津さんは冬に少し体調を崩したものの、春には元気になり、彼の病院のそばの大学の敷地にある桜並木の下で花見をした。エチオピアの麦わら帽子に、作務衣という出で立ちであらわれた水津さんは元気で、顔色もよかった。聞けば、前の年の生前葬の後、しばらく退院して、その間、北陸をクルマで旅行していたという。

それからまた一年がたって、2006年の春になった。ふたたび桜の咲きほこる時期、水津さんをかこんで知人の家でガーデンパーティーを開いた。今年85歳になる末期ガンの水津さんは、あいかわらず元気で、食欲旺盛で、よくしゃべった。「本当にあの人、末期ガンなのですか」と初めて水津さんに会ったひとはいぶかしんだ。

しかし、本人は「ぼくもね、いよいよ、だめなんですわ。頭に転移したガンがもう手の施しようがなくて、なんの治療もしとらんのですわ。医者からも見放されとります。これから苦しくなってくるんですわ、でもね、ぼくはそれが楽しみなんですわ」とのたまい、それからそこに来ていた若いひとたち(彼にくらべれば、四〇代、五〇代だって若い)相手に、酒を飲み、串カツを食べながら、ずっとおしゃべりしつづけていた。

ぼくはもうなにを聞いても、おどろかなかった。ひょっとして、この人はじつはもう死んでいるんじゃないか。もちろん肉体的に死んでいるわけではないけれど、死者がもはや何者にも傷つけられないように、水津さんもこの世のことでは傷つかないのだ。その意味で彼は死者なのだ。でも、この死者は生きていることが愉しくてしかたなさそうに見える。その生きていることの中には、だまされることや、病気になることや、襲われることや、死ぬことも、もちろん含まれている。

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水津翁(左端)おおいに語る(85歳)

かんたんに書くつもりが、ずいぶん長くなってしまった。どうもブログというのは、どう書いたらいいものか、よくわからないな。けれども、水津さんをめぐる話は、とても書ききれないので、これまでぼくが彼について書いたものや、彼へのインタビュー記事や、まだ書いていない話などを、別にウェブサイトをつくってまとめてアップしたいと考えている。ただ、なるべく、はやくつくらないと、水津さんが死んでしまう。いや、さっき、水津さんはすでに死者だといったばかりだったっけ。まあ、どっちにしても、彼にとっては同じようなものかもしれない。

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