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2006年8月

奥志賀のモーツァルト

須坂の家の話がつづいていたので、今回は気晴らしがわりの幕間。王様の耳そうじ、本来のテーマからどんどんはずれているが、それを悩みはじめると、また休眠状態に入りかねないので、あまり気にしないことにする。

信州に出かけたついでに、まわりにも少し足をのばしてみた。湯田中の先にある渋温泉というところに泊まって、夜、温泉街を歩いていたら、どこかで見たことのあるような旅館があった。

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一階の縁側(右下隅)に妙なものがいるが、ここが、あの映画のモデルになったのだろうか。ちなみに、朝になったらいなくなっていた。

志賀高原にも足をのばしてみた。志賀高原といえば、冬にスキーで来たことがあるくらいだが、夏はどうなっているかというと、なんとかなりの数のホテルが進学塾の貸し切りの夏期講習会場になっていた。道路沿いで目にするホテルというホテルに、「○○アカデミー」という垂れ幕がぶら下がっている。何面もあるテニスコートに塾の生徒らしき中学生や高校生が集合して、炎天下で弁当を食べていた。これも夏期講習の一環なのだろうか。

志賀高原でも、いちばん奥の奥志賀高原まで行くと夏期講習もなくなって、ひっそりとしている。チベットとまではいわないけれど、吹きわたる風はかるく、さわやかで、歩いているだけで胸が広がって呼吸が深くなる。夏の高原がこんなに気持ちのよいものとは思わなかった。

なだらかな丘の上に教会を思わせる木造のモダンなつくりの平屋の建物が見える。観光案内所でもらったチラシによると、「森の音楽堂」というコンサートホールとのことだった。数日後には小澤征爾もここで振るらしかった。中を見学したかったが、「室内楽の練習のため、関係者以外立ち入り禁止」と看板が出ていた。もっとも、練習しているらしき音は聞こえない。

昼も過ぎているし、せっかく、こんな気持ちのいいところまで来たのだから食事をしようと奥さんがいう。ぼくは、こういうところのレストランは、高くて、まずいよ、それより町で食べるところを探そうと提案すると、そんなこといってラーメン屋にでも行くつもりね、志賀高原まで来て、そんなのいやよとわがままをいう。ラーメンをバカにしてはいけない、小澤征爾だって中国で生まれ育ったんだぞと諭すが、そういう問題じゃないといわれ、しかたなく音楽堂のすぐそばの高級そうなリゾートホテルに入る。

レストランはどこですかとスタッフに聞くと、2階にフランス料理のレストランがありますという。そうか、フランス料理か。すこし緊張して2階に向かう階段を上がる。

フランス料理というのはどうも好きではない。「オマール海老のガスパッチョのココット仕立てのトリュフソースとバジル添えプロバンス風」とか名前だけはたいそう立派で、皿もやたら大きくて立派なのに、そこにのっている量といったらほんの一口で食べられるくらいだったりする。そのくせ、値段は名前と同じくらい立派で、その上にサービス料なども立派に上乗せされていたりして、立派すぎて騙されたような気がしてくるのだ。

学生の頃、初めてフランスに行ったとき、パリのレストランに一人で入ったものの、メニューが読めずに適当に注文したら、出てきたのが全部チーズだったことがある。前菜チーズ、メインもチーズ、デザートもチーズである。それも赤カビやら青カビからすごいのばかりだった。いくらなんでもこちらが言葉が不自由で困っていることくらいわかるだろうに、それを無言でそのまま持ってくるとは、なんて意地の悪い奴らだと思ったものだ。それにくらべると、パリのアルジェリア・レストランは親切だった。メニューの説明も、こちらにわかるようにゆっくりとしてくれたし、ウエイターは笑いかけてくれたりもした。もし、ここにアルジェリア料理店があれば迷わず入るのだがな。

そんなことを思いつつ、階段をのぼってレストランの入り口につくと、白いシャツに黒いエプロンのボーイがすまして立っている。入り口にはメニュー表もない。入り口から店内の様子もうかがえないし、なんとなく気後れさせられる雰囲気だ。せめて「今日のランチ」というのでも看板に出ていたら、値段のチェックもできたのだが、それも許されない。

だめだ。危険すぎる。ボーイに声をかけられてしまったら、もう逃げられない。しかし、急に足を止めて引き返すのもしゃくである。このまま吸い込まれるしかないのか。

と、そのときレストランの入り口の手前左に下に向かう階段があるのが目に入った。ボーイの視線がこちらに向けられる前に、間一髪、左へ折れて階段を下る。ちょっと、どこ行くのよと、背後で奥さんの声がするのを無視して足早に下まで降りるとそこはホテルの裏庭だった。巨大な空調装置がうなりを上げ、芝生のはげた地面にこわれたベンチが転がっている。

あそこはだめだ、とぼくはいう。どうしてよ。あそこは小澤征爾も食事するんだ、メニューだって出ていない、小澤征爾はきっと値段なんかみないで注文するから入り口にメニューなんていらないんだ。そんなところに、うかうか入っていったら、やつらの思うつぼだ。なにわけのわからないこといってるのよ。ほかのところにしよう、とにかくフランス料理は危険すぎる。

そのホテルから数百メートル離れた高台に、アルプスの山小屋風のホテルがあった。テラスもあり、雰囲気も明るそうである。こっちのほうなら、いいかもしれない。こんどは逃げないのよ、と奥さんが釘をさす。逃げるなんて人聞きの悪いことをいう。

山小屋風ホテルは新しいらしく、雰囲気もいい。高原をのぞむオープンテラスにパラソルのあるテーブルが並んでいて、小さな子供をつれた家族連れが何組か食事している。こっちはイタリアン・レストランだった。値段も手頃だった。

テラスに出ると、かわいた風がさわやかで、緑が目にまぶしい。目の前には目の覚めような緑の丘がゆるやかな起伏をなして、遠くの森までつづいている。丘のところどころに白樺や楡の木立が影を落としている。その影の中で昼寝している人がいる。遠くでカッコウの鳴き声がする。料理も、思いのほか量もあり、しかもおいしい。幸福感がこみあげてきて、気持ちも大きくなってくる。

町なかのラーメン屋かなんかにしなくてよかったでしょ、と奥さんがいう。そうかもしれない。もし、そっちになっていたらと思うと、ありえたはずの場面がリアルに浮かんでくる。赤い文字で大正軒とか書かれている戸をガラガラと開けると、へい、らっしゃいと声がかかり、壁のテレビでやってる高校野球中継を横目で見ながら席につくと、すぐさまおかみさんがテーブルを拭きにやってくる。テーブルの下にはラーメンの汁を吸ってよれよれになったスポーツ新聞やちょっと古い週刊誌。調理場では、ときどき中華鍋がジューッと音を立てて炎を吹き上げ、舞い上がった油っこい熱気が天井の蛍光灯をとおして、薄い霧のように店内に広がってゆくのが見える。勘定を終えて外に出ると、待っていたかのようにむっとした外気が体を包む。そこを大きなトラックが黒い煙を吐き出しながら通過し、あとに残された生温かい排ガスが顔をもわっとなでてゆく。その想像のほうが目の前のさわやかな高原の風景をかき消してしまうほど、現実感をともなっているのが悲しい。考えるのはもうやめよう。

食事の後、高原を散歩する。こういうところでは貴婦人ならば日傘をさして散歩するのがならいだが、日傘をもってこなかったので奥さんは雨傘をさして散歩している。しばらく、高原を歩き回ったり、木陰で寝ころんだりしていると、ふと彼女が、風の中にかすかに音楽が聞こえるという。ふだんのこの人らしからぬ詩的な発言におどろく。どうしたんだ。頭が変になったんじゃないのか、と心配になる。聞こえるわよ、聞いてごらんといわれ、高原のひんやりとした風の流れに耳を澄ませる。でも、なにも聞こえない。

なにも聞こえないよ。そんなことないわ、聞こえるわよ。そこで、もういちど、目を閉じて耳を澄ます。けれども耳に届くのはさわさわという空気の流れだけである。やっぱり聞こえないよ。そうなの、ひょっとして顔面神経痛やったせいで耳が遠くなっちゃたのかもしれないわね。なにが聞こえるの? 音楽、バイオリンみたいな高い音。どっちのほうから? あっちのほうと彼女が丘の向こうを指さす。行ってみよう。

丘を歩き出してしばらくすると、風に乗って、かすれるような弦の音がかすかに耳をよぎった。音は、さっきそばまで行った「森の音楽堂」のほうから流れてくる。室内楽の練習が始まったのかもしれない。なだらかな斜面を音楽堂に向かって下っていくと、下から風に乗って弦の調べが吹き上がってくる。妙な感じだ。
 
音楽堂のホールは、幾何学的な半球を伏せたようなかたちをしている。内部は木の質感を生かした板張りで、壁に大きく開けた窓から、やわらかい午後の光がさしんでいる。その澄んだ光の中でバイオリンやチェロを手にした4人が、聞きおぼえのある旋律をくりかえし練習していた。モーツァルトの弦楽四重奏曲の一節だった。だが、その耳慣れていた旋律が、これほどしみいるように聞こえるのは初めてだった。ぬくもりのあるあたたかい響きにしても、ふくよかな音のひろがりにしても、かけぬけていくような疾走感にしても、これほど美しく聞こえるのはおどろきだった。

生演奏だし、木造の丸いホールの音響効果がすばらしいせいもあるだろう。だが、それ以上にこの夏の高原にモーツァルトが、こんなにも似合うとは思いもよらなかった。モーツァルトの音楽がもつ、とどまるところなくどこまでも無辺に広がりつづける無邪気で軽やかな躍動感が、ここでは寸分も去勢されることなく、目の見える動きのなかに浸透していく。風のそよぎや、アゲハチョウの舞や、形を変えながら流れていく雲の動きのなかにモーツァルトがしみいっていく。

しばらく、ホールの窓の外にあった折りたたみ椅子に腰掛けて、流れる雲の影を映す山々を眺めながら、ホールの外にあふれだしていく、だれのためでもない調べに耳を傾けていた。その音の流れの中を一匹のカラスアゲハが黒い羽を光にきらめかせながら舞いつづけていた。自然が惜しげもなく美を蕩尽していくように、モーツァルトの音楽も人知れず湧く泉のように自然の中にあまねく広がっていくのが、なによりふさわしいありかたなのかもしれない。ふくよかで豊かなその調べは、高地の希薄な空気の中に広がって、それが大地や木々や生き物の息として吸い込まれ、さらに微細に浸透してその細胞の隅々までを精妙な振動で満たす。夏の奥志賀で聴いたのは、そんなモーツァルトだった。
 
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夏休みの家 その3

夏の夕暮れのやわらかな光に包まれたような須坂の記憶の中で、一部だけ、やけにざらついた違和感のある部分がある。まるで色あせた白黒写真の中にむりやりはめ込まれたカラー映像のように、そこだけ思い出の均衡がとれていない。理由はわかっている。その年の夏休み、須坂に向かう列車のぼくの隣の席にはTくんがすわっていたからだ。

近所に住む同い年のTくんを須坂にいっしょに連れて行きたいと提案したのはぼくではない。なぜなら、ぼくはTくんと仲がよかったわけではないからだ。それどころか、かなり苦手としていたといってよい。Tくんはスポーツが得意で、頭の回転が速く、すばしこく、負けず嫌いだった。ぼくはといえば、まあ、ほぼその反対といってよかった。二人で野球をするときも、Tくんはずっとバッターで、ぼくはいつまでもピッチャーだった。Tくんが打った球が、近所の家に飛び込むと、それを取りに行って謝るのはぼくだった。ぼくとTくんは、そういう関係だった。

そんなわけだから、できれば、ぼくはTくんと遊びたくなかった。けれども、母親同士が仲がよく、しばしば互いの家を行き来していたものだから、その間、しかたなくTくんと遊ばなくてはならなかった。それを見ていて母親は、ぼくがTくんと仲がいいと思ったのかもしれない。知らぬ間に、互いの母親同士の間で、夏休みにTくんもいっしょに須坂に連れて行くということに話が決められていたのだった。

いまでもそうだが、Tくんの姿を須坂の家の中にはめこんでみると、どうしても奇妙な違和感が残る。自分にとって、この家は自分をとりかこんでいる日常とすっかり切れた、べつの時間に属していた。大きなくぐり門を抜けると、外で起こっているあらゆるできごとはにわかに遠くなり、代わって、この家の中でゆっくりと熟成してきた濃密な時が、からだのすみずみに流れ込んできた。母屋の大広間には和服を着こんだ祖母がいて、鎧甲のある奥座敷では、叔父が着流し姿で碁盤を見据えている。その姿はあたかも家そのものの化身のようでもあり、時の経過によっても、けっして失われることのない永遠の原像のようにも思われた。ところが、そんな空間の中に、Tくんがいるというのがどうにも釈然としなかった。

Tくんが、この家に足を踏み入れたとき、どう感じたかはわからない。たしかなことは、Tくんはここでも、ふだんと少しも変わらずにふるまっていたことだった。Tくんはぼくをひきつれて、少しだけ家の中や、庭を探検したものの、すぐに飽きてしまった。そして、やにわに野球をしたいといいだした。ぼくはTくんの言葉の意味を一瞬、つかみあぐねた。この家と野球というものが、ぼくの中ではどうしても結びつかなかった。ここには石の手水鉢や竹藪はあっても、野球のボールやグローブも見たこともなかった。

つまらねえな、とTくんはいった。いま思うと、むりもない。物静かな老人と、黙々と立ち働いている伯母、そして変わり者の叔父しかいない家では、活発なTくんの心を動かすものなどなかった。Tくんにいわれて初めて、この家には野球の道具もサッカーボールもなければ、おもちゃもマンガ本もないことに気づいた。そんなことをこれまで気にしたこともなかった。

ああ、つまんねえ、とTくんはくりかえし口にした。それは、ぼくにとって、この家にかけられた魔法を解く呪文のように響いた。上に隠し部屋があるという仏間の天井も、鎧甲のある奥座敷も、崩れかけた土塀も、濃い影の中にある古池も、じつは退屈で、つまらないものなのではないかという疑いが、心の中に針でついたような小さな灰色の曇りを生じた。

それでも、Tくんはこの家に畏怖を感じていなかったわけではなかった。とくに便所に行くのをとても怖がった。そこで、Tくんはひとつの提案をした。便所に行くときは、二人でいっしょに行って、一人が用を足し終えるまで、もう一人は扉を半分開けて待っていることにしようというのだった。これにはぼくも賛成だった。一人が用を足し終えるのを、もう一人に見ていてもらうという意味で、ぼくたちはこれを「見(み)」と名付けた。「見」をしよう、といえば、それは二人で便所に行くという意味だった。

ある晩のこと、ぼくはTくんに、「見」をしたい、といった。小か、大かと聞かれ、大のほうだというと、Tくんはしょうがねえなという顔をしながらも、庭に面した暗い廊下をしずしずとたどって、いっしょに便所までついてきた。Tくんは戸の前で待ち、ぼくは中に入る。戸は少し開けたままだ。暗い灯りの下に山水画の描かれた小便器が浮かぶ。さらに奥にある木戸を開け、中に入ると細い竹の敷かれた床がみしっと音を立てる。その真ん中にかぶせてある細長い木のふたを持ち上げると、真っ暗な穴の奥から立ちのぼる臭気とともに大きな蠅が二、三匹飛び出し、仄暗い便所の中を狂ったように飛び回った。

打ち合わせどおり、二つの戸を半開きにしたまま、ぼくは便器の上にしゃがみこんだ。「ちゃんと見ている?」と声をかけると、Tくんは、ああ見てるよ、といった。そこで、こわごわ用を足しはじめると、その瞬間、扉がバタンと閉められ、つづいてあわただしく廊下をかけていくTくんの足音が聞こえた。

裏切られた! 予想していなかったわけではなかったが、いざこうなると、いつもTくんにこんな目に遭わされてばかりいる自分が情けなくて涙が出てきた。自分にとって、外の世界をすっかり忘れられる特別な場所だったはずのこの家でまで、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。情けなさと怖さがないまぜになってこみあげてきて、ぼくは便器の上でしゃがみこんだまま、しゃくりあげるように泣いた。

Tくんが、この家に持ち込んだのは「日常」だった。遊び道具らしき遊び道具もなかったこの家で、退屈していたTくんが見つけた巨大な日常は「テレビ」だった。以前から、須坂の家にはテレビはあったものの、自分の記憶の中では、祖母や叔父がみなでテレビに見入っている映像は浮かんでこない。テレビをまったく見なかったわけではないだろうが、その存在感はこの家ではとても小さかったし、自分もこの家であえてテレビをつけたいとは思わなかった。

けれども、Tくんはテレビを見たがった。だが、当時はまだ東京にくらべて、地方では映るチャンネルの数が極端に少なかったうえ、番組も東京より一週間遅れのものが多かった。Tくんとぼくが、大広間で見ていたコント55号の番組も、すでに見たことのあるものだった。Tくんは「オレ、これ見たことあるよ! こいつ、欽ちゃんに名前訊かれると『オレ、バカっていうんです』って答えるんだよ……」と声を上げ、番組のその後の展開をいちいち先回りして、得意げに説明しはじめた。そのかたわらでは、祖母が背筋を伸ばして正座し、にこりともせずに白黒の画面をしずかに眺めていた。伯母は台所で立ち働いていた。叔父は奥の部屋にこもったままだった。ときおりボーンボーンと居間の柱時計が、時を告げた。

野球好きだったTくんにとって、この家でなによりの退屈しのぎは高校野球中継だった。ぼくはといえば野球は得意ではなかったし、高校野球もとくに見たいと思ったことはなかったが、Tくんに引きずられるように、しばしば広間で野球中継を見るのにつきあった。それでも、蝉時雨が庭に降りそそぐような午後には、外に虫を取りに行きたくてしかたなかった。裏山には甲虫もいると叔父から聞いていたし、以前、庭で玉虫を見つけたこともあったから、今回も虫取り網と虫かごだけは家から持ってきていた。ただ、それを使う機会はなかなかなかった。ひとりで出かけられればいいのだが、Tくんにそれを切り出す勇気はなかった。野球の試合の長さがうらめしかった。

須坂にやってきて何日目かに、高校野球の決勝戦があった。ぼくはとくに興味もなかったが、Tくんは朝から興奮していた。午後になり、試合が始まったが、ぼくは内心、この試合はいつ終わるのだろう、そのあとはなにをしようということばかり考えていた。

両チームの力は伯仲していた。初めは、Tくんの応援の声を白々とした思いで聞き流していたのだが、回が進むにつれて、思いがけなく自分もゲームに引き込まれていった。戦っている高校のことなど、まるで知らなかったが、惜しい場面をなんどもくりかえしながらも、両チームともどうしても点を取れぬまま、試合は延長戦に入った。白い帽子をかぶったチームが青森代表の初出場の高校だということも、Tくんから聞かされて初めて知った。野球がこんなに面白いと感じたのは初めてだった。また、須坂の家に来て、これほど外の世界のことに心を奪われたのも初めてだった。

延長になっても決着はなかなかつかなかった。スコアボードには両チームとも「0」が連なり、やがて日も傾いてきた。開け放した母屋の広間には祖母のほかに伯母や叔父も集まっていた。物静かな祖母や伯母はとくに声を立てることもなかったが、叔父は柱に背中をもたれて懐手をして、立ったままテレビの画面を見つめ、どちらかのチームがチャンスを逃すとため息をつき、ぼくがふりむくと照れくさそうな苦笑いを浮かべた。やがて庭も暮れなずみ、母屋の広間に灯りがともされる頃、18回の裏の攻撃が無得点で終わり、試合は翌日に持ち越されることになった。やわらかい光に満たされた夕暮れの庭にひぐらしの声が響いていた。

翌日の再試合は見られなかった。どうしてそうなったのかわからないが、ぼくとTくんはこの日、善光寺参りに行くことになってしまったからだ。もちろん、Tくんは再試合を見たかったはずだし、ぼくも同じだった。それがなんの興味もない善光寺参りに化けてしまったのは、あるいは祖母か伯母が騒々しいぼくたちを外に出したかったからかもしれない。だれが連れて行ってくれたのかも、善光寺がどんなところだったのかも記憶にない。ただ、境内でたまたま聞こえてきたラジオの中継で、青森代表の高校が点を取られて負けているらしいことはわかった。

Tくんは退屈していたのだろう。善光寺の長い参道で、じゃんけんをして負けたら、相手の荷物をもつというゲームをしようといいだした。本当はそんなゲームはしたくなかったが、口では「いいよ」といっていた。Tくんは負けたほうは、100メートルほど先にある灯籠のところまで荷物をもち、そこでまたじゃんけんをしようといった。案の定、負けたのはぼくだった。Tくんのバッグをもって灯籠まで歩いた。次のじゃんけんではTくんが負けたが、荷物を運ぶ距離はとても短かった。要するにTくんは、ぼくが負けると長い距離をあてがい、自分が負けると距離を短くするのだった。理不尽だけれど、なにもいえなかった。それが自分の宿命なんだとあきらめていた。

夏の終わり、須坂の家をあとにするときには、いつも子ども心に甘悲しいような、せつない痛みをおぼえたものだった。この家にたたえられている、ひっそりとしずかな中にも秘密を隠しているような甘美な時間から離れがたかった。ところが、この年の夏休みはそうではなかった。去りがたいどころか、滞在の終わりの頃には、Tくんと寝食を共にすることがつらくてならず、早く帰りたいと気がはやった。

鎧甲のある奥座敷も、壁の崩れかけた土蔵も、苔むした古池も、Tくんといっしょだとなにも語りかけてこなかった。それはTくんのせいばかりではなく、九歳という自分の年齢のせいもあったかもしれない。現実の世界が重みを増し、想像力に彩られた魔法の世界がしずかに消えていく、そんな微妙な年ごろだった。さらに、ここで見た夏の高校野球の決勝戦の鮮烈な印象によって、自分の中で初めて、この家に流れる時間が外の時間と結びついた気がした。

外の時間の中でさまざまなことが起きるように、この家の中でも同じように時が流れていくのだと、この夏の滞在をとおしてぼくはなんとなく理解した。それはいま思えば、死や滅びというものを意識した最初の瞬間かもしれなかった。広間で背筋を伸ばしてお茶を飲む祖母も、奥座敷で碁を打っている叔父も、いずれはいなくなってしまう。そのことが鈍い痛みとともに実感されるとともに、Tくんの「ああ、つまんねえ」という言葉によって生じたかすかな曇りが、うっすらと心の中に広がっていくのを苦い思いで見つめていた。
(つづく。また、あと二回くらいか)

 ***

どうも書いていると、長くなってしまう。次回は幕間がわりに別の話題で。


 

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夏休みの家 その2

子供の頃、父から「須坂の家でいちどだけ幽霊を見たことがある」と聞いたことがある。彼がまだ幼い頃ころ、夜中に、ふとめざめて目を開けると、部屋の天井に、侍の顔が浮かんでいたのだという。

「こわかった?」と聞くと、「こわいとは思わなかったな。若い侍で、白粉を塗ったような、とてもきれいな顔をしていた」と父はいった。

くわしいことは聞かなかった。その幽霊が出たのはどの部屋だったの、という質問が喉から出かかったが、それを聞いてしまったら、こんど須坂を訪れたとき、もうその部屋に入ることはできなくなってしまう。それを思うと、くわしいことをたずねる勇気はとてもなかった。

けれども、夏休みになって須坂を訪れる日が近づくにつれて、父親から聞いた幽霊の話が想像のなかでふくれあがっていった。幽霊の出た部屋というのは、母屋の奥の鎧甲と写真の飾ってある、あの部屋だろうか、だとしたらその幽霊というのは、あの鎧甲を着ていた侍だったのかもしれない。

いや、もしかしたら、父が子供の頃に寝ていたのは二階だったのではないか。以前、祖母が二階に上がってはいけないといったのは幽霊が出るせいなのだ。二階につづく階段を隠してしまったのもそのためなのではないか。そんな想像が頭のなかをぐるぐるめぐった。

たとえ、きれいな顔をしていても幽霊にはちがいない。もし運悪く幽霊に出会ってしまったときのために、ぼくはひそかに水木しげるの本に書いてあったいろんな幽霊の弱点を頭に入れたり、雑誌の付録についていた怪しげな幽霊退散のおまじないをそらんじたりした。

幸いにして実際に須坂の家で幽霊を目にしたことはいちどもなかった。けれども、この家にいると、ふとした拍子になにかに見つめられている気がしてはっとすることが、たまにあった。

それはたとえば、奥の部屋でひとりで夏休みの宿題をしているときだったり、障子を開け放した部屋の畳の上で午後のまどろみに入りかけたときだったり、夕暮れどき土蔵の暗がりをのぞき込んだときだったりした。そんなとき、ふと、あたりの音がかき消され、降るような蝉時雨だけががらんとした空間を満たす。そして、なにか見えないものが、その空虚な空間の奥からじっと自分を見つめているのを感じ、あわてて祖母の姿をもとめて居間へと走った。それは、ひょっとしたら、かつてこの家に暮らし、この家で亡くなった多くの祖先たちのまなざしだったのかもしれなかった。

祖父もこの家で亡くなった。祖父の記憶はほとんどないのだが、その葬式の場面はいまでもなんとなく覚えている。ふすまを取り外して大広間にした母屋に、白木の大きな祭壇がつくられ、その前にいくつもの灯明がともされていた。いつも薄暗かった部屋がその日は灯明のせいか、やけに明るく感じられた。

小学校に上がる前だったぼくには初めて目にする明かりの灯された葬式の祭壇は、心をときめかす、とてもきれいなものに見えた。門口に置かれた黒い枠のあるぼんぼりや灯明、ふだんは見たこともない花飾りも、なんとなくいつもとちがった華やいだ気分を呼びおこした。ふだんはがらんとした庭に黒い服を着たおおぜいの人たちがいるのを見るのも、わくわくして愉しかった。

祖父の死を悲しむには、自分はまだ幼すぎた。けれども、祖父の写真と骨壺が安置された仏壇に手を合わせていたとき、ふと背後からだれかに見つめられている気がした。そうなのか、と幼心にふと思ったのは、祖父は、いまやこの家をつつみこむ、しめやかな空気とひとつになったのだという奇妙な確信だった。

祖父はぼくにとって初めから遠い存在だった。奥の部屋の鎧甲や、そこに飾ってある古い写真に写っている知らない人と同じくらい遠かった。祖父はいま、そんな遠い知らない死者たちの仲間になったのだ、そして、この家のしずかな空間のなかで、それとわからないほどゆっくりと息をしているのだ。それは少し怖いことではあったけれど、いたずらをしたり、うかつなこと−−夜中に便所に行くとか−−をしなければ出会わずにすむとも思った。

祖母や伯母や叔父も、しずかな人たちだった。一時期、従兄弟がこの家の離れに暮らしていたことがあったけれど、それでも母屋の居間に流れていたのは、いつも静寂にひたされた端正な時間だった。従兄弟たちと遊んでいて、大声を出したりすると、座卓のそばにすわった祖母が、和服の背筋をのばしたまま一言強い口調で「騒々しい!」といった。大きな声ではなかったが、ぼくたちは冷たい刃物を当たられたように、身をすくませた。

町田の伯父や、北海道の伯父が来ているときは、ふだんよりはにぎやかだったし、談笑の声がはじけることもあった。そんなときでも、いつしか声もひそやかになり、やがて会話の間にさしはさまれる沈黙の存在感がしだいに大きくなり、ついにはこの家をつつみこむ深い静寂の中にとりこまれてしまうのだった。あたかも、この家を包んでいる静寂の底に分厚い澱が堆積していて、大きな音を立てて、その澱が舞い上がるのを怖れているかのようだった。

だから、ぼくは何度も会っているはずの伯父たちがどういう人なのか、ほとんど知らなかった。町田の伯父は恰幅がよく、堂々としていた。「伯父さんは英語がぺらぺらだから」と、親類のだれかが話していたのを聞いたことがある。北海道の伯父は穏やかな人で、会うとまず、ぼくの頭をやさしくなでてくれた。こちらの伯父は大学の先生をしているらしかった。二人ともやさしかったが、ぼくの他愛もない悪ふざけに、まともにつきあってくれるのは、着流しで、いつも碁を打っている叔父だけだった。
(つづく、たぶんあと2回くらい)

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夏休みの家 その1

子供時代の記憶の中でも、信州の須坂の家でいくたびか過ごした夏休みの日々は、そこだけ、琥珀の中に閉じこめられたように、ずっと時が止まっていた。その飴色に煙る記憶の底をのぞきこむこともないまま、気がつけば30年もの月日が過ぎていた。

前の記事のコメント欄でもふれたが、須坂の家は父の実家だった。江戸時代半ばからつづく商人の屋敷で、明治期には生糸の仲買いなどをしていたらしい。つくられて250年ほどたつという古い茅葺きの家だったが、幼い頃の自分はもちろんそんなことは知らなかった。

夏休み、母親に連れられてやってくる自分にとってこの家は、たいそう古めかしくて、怖いのだけど、なんだかどきどきする不思議な場所だった。通りに面した、かんぬきのある分厚いくぐり門を入ると、もうその中には、外側とは異質な時間が流れていた。左手には茅葺きの大きな母屋があり、その正面に複雑な枝ぶりの見るからに年老いた松の木があり、その後ろに苔むした石でかこまれた古い池があった。池の背後には、使われていない暗い土蔵があった。

その頃、この家に暮らしていたのは祖母、伯母と従兄、そして叔父だった。祖母は着物を端正にまとい、いつも広い居間の座卓の前に正座して、背筋を伸ばして、しずかに庭の方を眺めていた。

祖母は無口で、喜怒哀楽の表情をあまりあらわさない人だった。ぼくのような孫が来ても、とくに表情を変えることもなく、淡々とした口調で「よくきましたね、おあがり」といって、背筋を伸ばしたまま座卓に置かれていた菓子などを指した。祖母の立ち居振る舞いは子供のぼくから見ても優美だった。立ち上がるときも、歩くときも、座るときも、音も立てず、あたりの空気を乱すことなく、つねに凛としたたたずまいを崩さなかった。

ぼくと母親は、いつも居間のとなりの仏間に寝かされた。ぼくはこの部屋があまり好きではなかった。古い仏壇はとても大きく感じられ、夜寝るときにはその奥からなにかがやってきそうで怖くてしかたなかった。

布団に入ると、夜の薄明かりの中で天井や柱の古い木目模様が、侍の顔に見えてきた。障子を隔てた庭の古池からは、ときどきぽちゃんと水音がした。早く、眠ってしまいたいと思えば思うほど、目はますますさえ、しかも、そんなときにかぎって小便がしたくなるのだった。

夜、小便に行くのは怖いなんてものではなかった。障子を開けると、庭を包む闇がいまにも意志をもって動き出しそうで、ぼくは庭を見ないようにしながら、母屋の端にある便所をめざして暗い廊下をたどった。ただし、便所に行くには、古い鎧甲や色あせた肖像写真の飾られた大きな部屋の前を通らなくてはならなかった。昼間でも一人では怖くて入れなかったくらいなので、たとえ、障子が閉まっていたとしても、その前を通るとには恐怖で身が縮んだ。

黒光りする古い板張りの廊下は、歩くとぎちぎちと音を立てた。けれども、夜、そんな音を立てたら、その部屋をつつんでいる目に見えない何かが目を覚ましそうに思えた。そこで、ぼくはなるべく息をこらし、たのむから起きないでくださいと祈るような気持ちで、すり足をしながらそうっと便所へと足をすすめた。

しかし、この便所も怖かった。電気のスイッチをひねると、薄明かりの下に、中国風の山水画の描かれた陶製の小便器が浮かび上がるのだった。絵柄の中には戯れる唐子の姿があり、それを見ていると便器の中の山水画に引き込まれそうな気がして、目をつむった。おかげで小便はいつもあたりに飛び散ってしまうのだが、そんなことにはかまっていられず、いそいで用を足すと、手も洗わず、一目散に部屋まで逃げ帰った。

そんな怖しさの一方で、この家にただよう、時から隔てられたような神秘的な空気はきらいではなかった。母屋には二階があり、その奥には隠し部屋があるとも聞いていたが、二階へつづく階段はなぜか押し入れの中に隠されていた。危ないから登ってはいけないといわれていたが、こっそり途中まで登ってはその先の濃い闇をのぞき、堆積した古い埃のにおいを吸い込んでは、にわかに怖くなって下の明かりのある間へと逃げ降りてきた。

家の敷地の中には、使われていない蔵や廃屋などがいくつかあった。母屋の裏手には小川が流れていて、その向こう側に崩れかけた蔵と竹藪があった。その竹藪の奥にはさらに材木が重ねられた木材蔵があった。それらの材木はいつ切り出されたものかわからぬほど古く、その先に行くと帰ってこられなくなりそうで、竹藪から奥にはめったに足を踏み入れなかった。庭のところどころに石の手水鉢や、すっかり摩耗して形のわからなくなった灯籠のようなものもあった。

この家を訪ねるたびに楽しみにしていたのは叔父に会うことだった。叔父は日中はいつも鎧甲のある奥の部屋にいて、分厚い碁盤を前に、着流し姿でひとりで碁を打っていた。そのころはたしか30代初めくらいで、教科書に出てくる芥川龍之介に風体や雰囲気が似ていた。碁盤に向かっているとき以外は、ぶらぶらしていて、夕方など、着流しのままふらりと散歩に出ていった。そんな叔父についていっしょに隣の寺のあたりを散歩した。

叔父にはよくからかわれたし、子供好きというわけでもなかったが、それでも叔父のそばにいるのはきらいではなかった。夏休みの宿題をしていると、ふいに叔父がやってきて、「まちくん、アルファ、ベータの次はなんだい?」と聞かれたことがある。ぼくは小学校の低学年くらいだった。「わからない」と答えると、「なんだそんなことも知らないのか、まちくんはバカだね」といって頭をこつんとされた。

お盆近くになると、北海道に住んでいる伯父や、神奈川の伯父も須坂の家にやってきた。しかし自分の父親よりもずっと年長だった彼らといるより、毎日、家にいて碁を打つか、ぶらぶらしている叔父と過ごす方が楽しかった。叔父が、どうしていつも家にいるのかは知らなかったし、なにをしている人なのかも知らなかったが、ぼくにはどうでもいいことだった。

叔父とは庭の木についているセミの抜け殻を集めたり、ひとりでは行けなかった庭の奥の竹藪の中に入ったりもした。けれども、なによりぞくぞくしたのは、どこまで本当なのかわからない家の中に隠された秘密や、蔵に入っているという昔の巻物の話などを聞くときだった。

叔父はおしゃべりではなかったし、話をするときも断片的なことしかいわなかったが、それがむしろこちらの想像力をかき立てた。そんなとき、この家全体が謎めいた魔法にかけられていて、自分はその謎の中に包まれているのだと思うと甘美な陶酔感が胸の中に広がった。その陶酔の中にいると、時がすっかり止まってしまうようで、この夏休みがいつまでも永遠に続くようにすら感じた。

そんなおじにひとつだけ恨みがある。縁側で水木しげるの妖怪の本を読んでいたときのことだ。気がつくと後ろから叔父がのぞき込んでいた。叔父はそこに載っていた全身に毛の生えた妖怪の絵をさして、「それはなんだい?」といった。「つちころびという妖怪だよ」と答えると、「これならあそこに住んでるよ」といって庭の古池の向こうの古い蔵を指した。「5、6匹いると思うよ。昼は出てこないがね」

その夜は、もう怖くて寝られなかった。布団をかぶっても、古池の奥でうごめいている「つちころび」の姿がありありと目に浮かび、泣きたくなった。池の方からぽちゃんという音がすると、身がすくんだ。つちころびがやってきたら、どうしようと、どこに逃げようなどと考えているうちに、涙が出てきた。それ以来、ぼくはもうその蔵にはおろか、古池にも近づけなくなった。(つづく)

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夏のディーリアス

暑中お見舞い申し上げます。

更新を怠っているうちに、気がつくと真夏になってしまった。ご心配くださっていた方々には、心よりおわび申し上げます。

忘れていたのではない。更新までの間があくと、「読んでくれている人のため次は少し長めに書こう」と考え、なにを書くか考えているうちにさらに間があいてしまう。そうなると、「次は長いだけではなくて内容のあるものを書かないと、このブランクのいいわけにはならない」と思ってしまう。そのうちにまた時が過ぎ、こんどは「長くて、内容があるばかりではなく、なおかつ、あっと驚かせるものを書かなくてはもはや許されまい」などと悲壮な気持ちになってくるのである。

しかし重圧におされ、なおもブランクは広がりつづける。すると、もう文章だけでブランクをカバーするのは不可能ではないか。読者に粗品のサービスでもしなければしめしがつかない、と覚悟をかためたものの、粗品の種類が決まらぬまま、なおも月日は過ぎる。結局、粗品ではすまなくなり、それなりのブランド品でなくては申し訳が立たないのではないかと、さらに自分を追いつめつづけるのであった。

これではいけない。こんな状態が続けば、いずれブランド品どころか海外旅行でもプレゼントしなければ信用が回復できなくなる。コメントをくださったまきさんにはダイヤモンドでもさしあげないと落とし前がつかない。ただのブログなのに、どうしてそこまで妄想してしまうのか自分でも不可解だが、気持ちのうえでは多重債務で首が回らなくなった人の心境だ。こうなったら残された道は自己破産しかない。ダイヤモンドや海外旅行はもとより、ブランド品も、粗品も、あっと驚かせるものも、内容もないのだが、どうかおゆるしいただきたい。デザインもすっきりしたものに変え、思い切って更新である。

 
 
 
さて、季節は夏真っ盛りだが、夏になると聴きたくなるのがディーリアスである。ディーリアスは100年くらい前に生きたイギリス生まれの作曲家で、その名も「夏の歌」とか「夏の庭園で」といった夏をテーマとした作品をいくつか書いている。

ディーリアスの音楽には、とらえどころがないものが多い。テーマとなる旋律や構造があまりはっきりせず、まるで雲が形を変えながら風に流されていくように、あるいは、朝靄が光の中で薄れて消えていくように、あいまいで、きまったかたちをもたない。少し聞いただけでは叙情的でわかりやすい音楽のように響くのだけれど、悪くいえばめりはりがなく、聞いたあとで印象に残りにくい。嫌いではなかったけれど、とくに個人的に好きというほどではなかった。

そんなディーリアスの音楽が、自分の中で夏という季節と分かちがたく結びついたのは、恩師であった作家・辻邦生さんが亡くなってからだった。何年も前の夏の盛りだった。ささやかな葬儀が行われたのは、軽井沢の森の中にある辻さんの夏の山荘だった。

辻さんは夏が好きだった。地上にあることの豊潤なよろこびを夏ほど濃密に五感で味わえる季節はないからだ。その愛した夏に、大好きな軽井沢で辻さんが亡くなったのは、恩寵ともいえるはからいなのかもしれなかった。

山荘のまわりは高い木々にかこまれ、その無数の枝から広がる若葉の茂みを透かして夏の澄んだ光があたりを満たしていた。辻さんの死も、この光や陶酔の一部となって、この豊潤な夏の気配をささえているのではないか。そんなことを思った。

ディーリアスの「夏の歌」を聞いたのは、それからしばらくしてからだった。なんどか聞いていたはずの音楽だったが、軽井沢の夏の光がいまだからだを満たしていたせいか、その響きはずいぶんちがって聞こえた。いままで聞こえなかったこの音楽の音にならない部分が、からだの奥深くにしみこんで自分を内側から満たしていくようにすら感じられた。この音楽にこめられた夏の気配や陶酔やよろこび、哀感や絶望などが自分の肉体を通じて共鳴するような感覚だった。

のちに、ケン・ラッセルが晩年のディーリアスを主人公としてつくった映画「A Song of Summer」(1968)を見て、彼がこの曲をつくったのは梅毒のために目が見えなくなり、四肢の自由も失った最晩年であったことを知った。映画ではディーリアスは救いがたいまでに偏屈で意地の悪い老人として描かれているが、実際、そのとおりだったらしい。「夏の歌」はディーリアスを慕ってやってきた、けなげな若い弟子が、さんざんな意地悪を受けつつ、そのハミングや口頭による指示によって構成した作品である。

うつろいゆく夕闇が、刻々と一瞬前の風景を打ち消しながら闇に沈んでいくように、ディーリアスの旋律もあらわれるそばから消えてゆく。ある旋律が立ち上がりざま一瞬きらめいたと思ったら、はっきりとした輪郭をあたえられるいとまもなく、次の瞬間には大気の中にとけ込んでしまう。だから、ディーリアスの旋律は口ずさみにくいし、頭の中で反芻しにくい。

けれども、夏の光が大気の中に満ちてくるようなこの季節になると、なかなか思い出せなかったディーリアスの響きが、ふいに陽炎のように風景のなかに気配となって立ちあがっているのに気づく。風に揺れる若葉や、水に映る午後の日ざしや、暑い草いきれの中を舞う羽虫の恍惚のなかに、いつまでもけっして過ぎ去ることのないディーリアスの夏が奏でられている。

  

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