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夏のディーリアス

暑中お見舞い申し上げます。

更新を怠っているうちに、気がつくと真夏になってしまった。ご心配くださっていた方々には、心よりおわび申し上げます。

忘れていたのではない。更新までの間があくと、「読んでくれている人のため次は少し長めに書こう」と考え、なにを書くか考えているうちにさらに間があいてしまう。そうなると、「次は長いだけではなくて内容のあるものを書かないと、このブランクのいいわけにはならない」と思ってしまう。そのうちにまた時が過ぎ、こんどは「長くて、内容があるばかりではなく、なおかつ、あっと驚かせるものを書かなくてはもはや許されまい」などと悲壮な気持ちになってくるのである。

しかし重圧におされ、なおもブランクは広がりつづける。すると、もう文章だけでブランクをカバーするのは不可能ではないか。読者に粗品のサービスでもしなければしめしがつかない、と覚悟をかためたものの、粗品の種類が決まらぬまま、なおも月日は過ぎる。結局、粗品ではすまなくなり、それなりのブランド品でなくては申し訳が立たないのではないかと、さらに自分を追いつめつづけるのであった。

これではいけない。こんな状態が続けば、いずれブランド品どころか海外旅行でもプレゼントしなければ信用が回復できなくなる。コメントをくださったまきさんにはダイヤモンドでもさしあげないと落とし前がつかない。ただのブログなのに、どうしてそこまで妄想してしまうのか自分でも不可解だが、気持ちのうえでは多重債務で首が回らなくなった人の心境だ。こうなったら残された道は自己破産しかない。ダイヤモンドや海外旅行はもとより、ブランド品も、粗品も、あっと驚かせるものも、内容もないのだが、どうかおゆるしいただきたい。デザインもすっきりしたものに変え、思い切って更新である。

 
 
 
さて、季節は夏真っ盛りだが、夏になると聴きたくなるのがディーリアスである。ディーリアスは100年くらい前に生きたイギリス生まれの作曲家で、その名も「夏の歌」とか「夏の庭園で」といった夏をテーマとした作品をいくつか書いている。

ディーリアスの音楽には、とらえどころがないものが多い。テーマとなる旋律や構造があまりはっきりせず、まるで雲が形を変えながら風に流されていくように、あるいは、朝靄が光の中で薄れて消えていくように、あいまいで、きまったかたちをもたない。少し聞いただけでは叙情的でわかりやすい音楽のように響くのだけれど、悪くいえばめりはりがなく、聞いたあとで印象に残りにくい。嫌いではなかったけれど、とくに個人的に好きというほどではなかった。

そんなディーリアスの音楽が、自分の中で夏という季節と分かちがたく結びついたのは、恩師であった作家・辻邦生さんが亡くなってからだった。何年も前の夏の盛りだった。ささやかな葬儀が行われたのは、軽井沢の森の中にある辻さんの夏の山荘だった。

辻さんは夏が好きだった。地上にあることの豊潤なよろこびを夏ほど濃密に五感で味わえる季節はないからだ。その愛した夏に、大好きな軽井沢で辻さんが亡くなったのは、恩寵ともいえるはからいなのかもしれなかった。

山荘のまわりは高い木々にかこまれ、その無数の枝から広がる若葉の茂みを透かして夏の澄んだ光があたりを満たしていた。辻さんの死も、この光や陶酔の一部となって、この豊潤な夏の気配をささえているのではないか。そんなことを思った。

ディーリアスの「夏の歌」を聞いたのは、それからしばらくしてからだった。なんどか聞いていたはずの音楽だったが、軽井沢の夏の光がいまだからだを満たしていたせいか、その響きはずいぶんちがって聞こえた。いままで聞こえなかったこの音楽の音にならない部分が、からだの奥深くにしみこんで自分を内側から満たしていくようにすら感じられた。この音楽にこめられた夏の気配や陶酔やよろこび、哀感や絶望などが自分の肉体を通じて共鳴するような感覚だった。

のちに、ケン・ラッセルが晩年のディーリアスを主人公としてつくった映画「A Song of Summer」(1968)を見て、彼がこの曲をつくったのは梅毒のために目が見えなくなり、四肢の自由も失った最晩年であったことを知った。映画ではディーリアスは救いがたいまでに偏屈で意地の悪い老人として描かれているが、実際、そのとおりだったらしい。「夏の歌」はディーリアスを慕ってやってきた、けなげな若い弟子が、さんざんな意地悪を受けつつ、そのハミングや口頭による指示によって構成した作品である。

うつろいゆく夕闇が、刻々と一瞬前の風景を打ち消しながら闇に沈んでいくように、ディーリアスの旋律もあらわれるそばから消えてゆく。ある旋律が立ち上がりざま一瞬きらめいたと思ったら、はっきりとした輪郭をあたえられるいとまもなく、次の瞬間には大気の中にとけ込んでしまう。だから、ディーリアスの旋律は口ずさみにくいし、頭の中で反芻しにくい。

けれども、夏の光が大気の中に満ちてくるようなこの季節になると、なかなか思い出せなかったディーリアスの響きが、ふいに陽炎のように風景のなかに気配となって立ちあがっているのに気づく。風に揺れる若葉や、水に映る午後の日ざしや、暑い草いきれの中を舞う羽虫の恍惚のなかに、いつまでもけっして過ぎ去ることのないディーリアスの夏が奏でられている。

  

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コメント

ぃやった〜〜〜〜〜更新がされているー!
ヨカッタです。待っていました。
ダイヤモンドも海外旅行プレゼントももちろんほしいですが、とりあえず復活をおよろこびもうしあげます。
きのう、高橋幸宏の一番新しいアルバムを聴いていて(夫が買ったのだが)、真知さんの音楽を思い出していました。
「この旋律は真知さんの作った音楽に似てるなあ」とかぼんやり考えていました。

ケン・ラッセルの映画というのは見てみたいですね。
でもレンタルであるかしら。

投稿: 三谷眞紀 | 2006年8月 8日 (火) 12時19分

>三谷眞紀さま
遅くなってまことにあいすみませんでした。ブログだけでなく、最近いろんなことがこげついていて途方に暮れ気味です。ひとつひとつ辛抱強く動かしていくしかないですね。

高橋幸宏の曲というと、YMOのライディーンくらいしか思い浮かびませんが、そうですか。機会あれば聞いてみましょう。

ケン・ラッセルの「夏の歌」はいいですよ。ケン・ラッセルでいちばんいいんじゃないかな。レンタルではなかなか見ないですね。目も見えないし、身動きもとれなくなったディーリアスの偏屈じじいを、若いフェンビーという青年がいすにのせて、かついで山に登るんです。楢山節考ではなく、彼に日没を見せるためにね。ディーリアスはもちろん目も見えないんだけど、夕暮れの山頂でじっとそれをかんじている。ケン・ラッセルだと、あとエルガーを撮ったのもいいですよ。自転車に乗ってね、草原を走るんです。

投稿: 田中真知 | 2006年8月 8日 (火) 13時45分

夏、ですね。梅雨の最中にキューバに行き、帰国したら夏になっていました。
東京でエアコンの中で寝て、どうにも深く眠れないので伊豆の小屋に行きました。海のそばの山で標高はそう高くないが、小屋の周りは森。生態系が循環していて虫、鳥、小動物の気配が濃厚に漂う。庭にはイノシシが山芋を掘りにきたのだろうか、または泥浴びに来たのだろうか、彼らが掘り返した跡があった。
自然の循環に包まれて良く眠れました。
夜は涼しく、朝はセミがうるさいほどだった。

「プランクトン」という民族音楽を手配してくれるところに頼んで送ってもらったルーマニアのジプシーミュージックをフルボリュームで聞いても人に迷惑がかからないので、今度はミュージック・コンポを買ってもって行き、大きな音で聞いてみよう。

来週、中国に行きます。

そうこうしているうちに夏も終わりか。
もう秋の気配。

投稿: 小松田 銅鐘 | 2006年8月11日 (金) 11時38分

>小松田さま
こっちはちょっと用事があって、長野に行っていました。須坂というところに死んだ父親の実家があるのですが、一昨年、そこに最後まで住んでいた伯母がなくなり空き家になっていました。

250年ほど前につくられたという古い家で、けっして開けてはいけないという封印された隠し部屋やら、隠し階段やら、二階につくられた茶室やらのある不思議な作りをしていて、子供の頃にはそこいらじゅうに謎の隠された怖くも魅力的な家でした。

ひとの住まなくなったいまも、壁に掛けられた祖父や曾祖父の写真や、関ヶ原の合戦の時に使われたという血糊のついた鎧甲や、古い長持ちなどはそのままで、いまもまだ家が時を止めたまま、息をひそめているような怖さを感じました。

今回、仏壇の裏から大量に見つかった書類や写真の中にあったという、父親の赤ん坊のときの写真や尋常小学校のときの通知票、明治時代に撮られた祖父母の結婚写真などを見て気が遠くなりそうになりました。

釘で封印された隠し部屋の入り口は、いまも怖くて開けられません。古い家というのは、すごい力を持っていますね。

投稿: 田中真知 | 2006年8月12日 (土) 02時50分

祖品よりも何よりも、たまに更新してもらえることが一番嬉しいです@
この、長野のおうちの記事も、、、みたい☆

投稿: ;-) | 2006年8月13日 (日) 19時33分

> ;-)さま
コメント、ありがとう。
リクエストにこたえて、長野のおうちの話を書いてみました。書き出したら、いろいろ思い出して長くなってしまったので、次回へのつづきにします。

投稿: 田中真知 | 2006年8月15日 (火) 01時11分

真知さん

一昨日、更新された「夏のディーリアス」を読みました。ほんとうに長い休みでしたね・・・・。私も2日に1度は更新をチェックしていました。宇宙旅行でもサービスして貰わなければならないくらいです。

今回、久しぶりに真知さんの清々しい文章を読みながら、少し違和感がありました。たぶんそれは前半と後半の文章の書き方が違うものだったからかもしれません。ブログは雑記的なものだとは思いますが、全体が断片的だったように感じました。言い換えれば、私は一ファンとして田中真知ワールドに入りたいにもかかわらず、前半で「普段着の真知ワールド」入ろうと心構えしていると、そこから突如「私小説的な真知ワールド」が登場し、戸惑ってしまいました。真知さんは半ば冗談、半ば本気で語った言葉でしょうが、ファンとしては待たされ、待たされしながら、断片的なものしか読めないのは、不燃性のまま終わり未消化のモノがたまった感じがしてなりません。

ただ、そのあとのコメントで長野の実家の簡単な描写がありましたが、これはとてもよかったです。数行という短さにかかわらず、一気に引き込まれました。

・・・ここまで書いていると更新されているのに気付きました。さっそく読ませて頂きます。

投稿: 河江肖剰 | 2006年8月20日 (日) 19時59分

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