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夏休みの家 その3

夏の夕暮れのやわらかな光に包まれたような須坂の記憶の中で、一部だけ、やけにざらついた違和感のある部分がある。まるで色あせた白黒写真の中にむりやりはめ込まれたカラー映像のように、そこだけ思い出の均衡がとれていない。理由はわかっている。その年の夏休み、須坂に向かう列車のぼくの隣の席にはTくんがすわっていたからだ。

近所に住む同い年のTくんを須坂にいっしょに連れて行きたいと提案したのはぼくではない。なぜなら、ぼくはTくんと仲がよかったわけではないからだ。それどころか、かなり苦手としていたといってよい。Tくんはスポーツが得意で、頭の回転が速く、すばしこく、負けず嫌いだった。ぼくはといえば、まあ、ほぼその反対といってよかった。二人で野球をするときも、Tくんはずっとバッターで、ぼくはいつまでもピッチャーだった。Tくんが打った球が、近所の家に飛び込むと、それを取りに行って謝るのはぼくだった。ぼくとTくんは、そういう関係だった。

そんなわけだから、できれば、ぼくはTくんと遊びたくなかった。けれども、母親同士が仲がよく、しばしば互いの家を行き来していたものだから、その間、しかたなくTくんと遊ばなくてはならなかった。それを見ていて母親は、ぼくがTくんと仲がいいと思ったのかもしれない。知らぬ間に、互いの母親同士の間で、夏休みにTくんもいっしょに須坂に連れて行くということに話が決められていたのだった。

いまでもそうだが、Tくんの姿を須坂の家の中にはめこんでみると、どうしても奇妙な違和感が残る。自分にとって、この家は自分をとりかこんでいる日常とすっかり切れた、べつの時間に属していた。大きなくぐり門を抜けると、外で起こっているあらゆるできごとはにわかに遠くなり、代わって、この家の中でゆっくりと熟成してきた濃密な時が、からだのすみずみに流れ込んできた。母屋の大広間には和服を着こんだ祖母がいて、鎧甲のある奥座敷では、叔父が着流し姿で碁盤を見据えている。その姿はあたかも家そのものの化身のようでもあり、時の経過によっても、けっして失われることのない永遠の原像のようにも思われた。ところが、そんな空間の中に、Tくんがいるというのがどうにも釈然としなかった。

Tくんが、この家に足を踏み入れたとき、どう感じたかはわからない。たしかなことは、Tくんはここでも、ふだんと少しも変わらずにふるまっていたことだった。Tくんはぼくをひきつれて、少しだけ家の中や、庭を探検したものの、すぐに飽きてしまった。そして、やにわに野球をしたいといいだした。ぼくはTくんの言葉の意味を一瞬、つかみあぐねた。この家と野球というものが、ぼくの中ではどうしても結びつかなかった。ここには石の手水鉢や竹藪はあっても、野球のボールやグローブも見たこともなかった。

つまらねえな、とTくんはいった。いま思うと、むりもない。物静かな老人と、黙々と立ち働いている伯母、そして変わり者の叔父しかいない家では、活発なTくんの心を動かすものなどなかった。Tくんにいわれて初めて、この家には野球の道具もサッカーボールもなければ、おもちゃもマンガ本もないことに気づいた。そんなことをこれまで気にしたこともなかった。

ああ、つまんねえ、とTくんはくりかえし口にした。それは、ぼくにとって、この家にかけられた魔法を解く呪文のように響いた。上に隠し部屋があるという仏間の天井も、鎧甲のある奥座敷も、崩れかけた土塀も、濃い影の中にある古池も、じつは退屈で、つまらないものなのではないかという疑いが、心の中に針でついたような小さな灰色の曇りを生じた。

それでも、Tくんはこの家に畏怖を感じていなかったわけではなかった。とくに便所に行くのをとても怖がった。そこで、Tくんはひとつの提案をした。便所に行くときは、二人でいっしょに行って、一人が用を足し終えるまで、もう一人は扉を半分開けて待っていることにしようというのだった。これにはぼくも賛成だった。一人が用を足し終えるのを、もう一人に見ていてもらうという意味で、ぼくたちはこれを「見(み)」と名付けた。「見」をしよう、といえば、それは二人で便所に行くという意味だった。

ある晩のこと、ぼくはTくんに、「見」をしたい、といった。小か、大かと聞かれ、大のほうだというと、Tくんはしょうがねえなという顔をしながらも、庭に面した暗い廊下をしずしずとたどって、いっしょに便所までついてきた。Tくんは戸の前で待ち、ぼくは中に入る。戸は少し開けたままだ。暗い灯りの下に山水画の描かれた小便器が浮かぶ。さらに奥にある木戸を開け、中に入ると細い竹の敷かれた床がみしっと音を立てる。その真ん中にかぶせてある細長い木のふたを持ち上げると、真っ暗な穴の奥から立ちのぼる臭気とともに大きな蠅が二、三匹飛び出し、仄暗い便所の中を狂ったように飛び回った。

打ち合わせどおり、二つの戸を半開きにしたまま、ぼくは便器の上にしゃがみこんだ。「ちゃんと見ている?」と声をかけると、Tくんは、ああ見てるよ、といった。そこで、こわごわ用を足しはじめると、その瞬間、扉がバタンと閉められ、つづいてあわただしく廊下をかけていくTくんの足音が聞こえた。

裏切られた! 予想していなかったわけではなかったが、いざこうなると、いつもTくんにこんな目に遭わされてばかりいる自分が情けなくて涙が出てきた。自分にとって、外の世界をすっかり忘れられる特別な場所だったはずのこの家でまで、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。情けなさと怖さがないまぜになってこみあげてきて、ぼくは便器の上でしゃがみこんだまま、しゃくりあげるように泣いた。

Tくんが、この家に持ち込んだのは「日常」だった。遊び道具らしき遊び道具もなかったこの家で、退屈していたTくんが見つけた巨大な日常は「テレビ」だった。以前から、須坂の家にはテレビはあったものの、自分の記憶の中では、祖母や叔父がみなでテレビに見入っている映像は浮かんでこない。テレビをまったく見なかったわけではないだろうが、その存在感はこの家ではとても小さかったし、自分もこの家であえてテレビをつけたいとは思わなかった。

けれども、Tくんはテレビを見たがった。だが、当時はまだ東京にくらべて、地方では映るチャンネルの数が極端に少なかったうえ、番組も東京より一週間遅れのものが多かった。Tくんとぼくが、大広間で見ていたコント55号の番組も、すでに見たことのあるものだった。Tくんは「オレ、これ見たことあるよ! こいつ、欽ちゃんに名前訊かれると『オレ、バカっていうんです』って答えるんだよ……」と声を上げ、番組のその後の展開をいちいち先回りして、得意げに説明しはじめた。そのかたわらでは、祖母が背筋を伸ばして正座し、にこりともせずに白黒の画面をしずかに眺めていた。伯母は台所で立ち働いていた。叔父は奥の部屋にこもったままだった。ときおりボーンボーンと居間の柱時計が、時を告げた。

野球好きだったTくんにとって、この家でなによりの退屈しのぎは高校野球中継だった。ぼくはといえば野球は得意ではなかったし、高校野球もとくに見たいと思ったことはなかったが、Tくんに引きずられるように、しばしば広間で野球中継を見るのにつきあった。それでも、蝉時雨が庭に降りそそぐような午後には、外に虫を取りに行きたくてしかたなかった。裏山には甲虫もいると叔父から聞いていたし、以前、庭で玉虫を見つけたこともあったから、今回も虫取り網と虫かごだけは家から持ってきていた。ただ、それを使う機会はなかなかなかった。ひとりで出かけられればいいのだが、Tくんにそれを切り出す勇気はなかった。野球の試合の長さがうらめしかった。

須坂にやってきて何日目かに、高校野球の決勝戦があった。ぼくはとくに興味もなかったが、Tくんは朝から興奮していた。午後になり、試合が始まったが、ぼくは内心、この試合はいつ終わるのだろう、そのあとはなにをしようということばかり考えていた。

両チームの力は伯仲していた。初めは、Tくんの応援の声を白々とした思いで聞き流していたのだが、回が進むにつれて、思いがけなく自分もゲームに引き込まれていった。戦っている高校のことなど、まるで知らなかったが、惜しい場面をなんどもくりかえしながらも、両チームともどうしても点を取れぬまま、試合は延長戦に入った。白い帽子をかぶったチームが青森代表の初出場の高校だということも、Tくんから聞かされて初めて知った。野球がこんなに面白いと感じたのは初めてだった。また、須坂の家に来て、これほど外の世界のことに心を奪われたのも初めてだった。

延長になっても決着はなかなかつかなかった。スコアボードには両チームとも「0」が連なり、やがて日も傾いてきた。開け放した母屋の広間には祖母のほかに伯母や叔父も集まっていた。物静かな祖母や伯母はとくに声を立てることもなかったが、叔父は柱に背中をもたれて懐手をして、立ったままテレビの画面を見つめ、どちらかのチームがチャンスを逃すとため息をつき、ぼくがふりむくと照れくさそうな苦笑いを浮かべた。やがて庭も暮れなずみ、母屋の広間に灯りがともされる頃、18回の裏の攻撃が無得点で終わり、試合は翌日に持ち越されることになった。やわらかい光に満たされた夕暮れの庭にひぐらしの声が響いていた。

翌日の再試合は見られなかった。どうしてそうなったのかわからないが、ぼくとTくんはこの日、善光寺参りに行くことになってしまったからだ。もちろん、Tくんは再試合を見たかったはずだし、ぼくも同じだった。それがなんの興味もない善光寺参りに化けてしまったのは、あるいは祖母か伯母が騒々しいぼくたちを外に出したかったからかもしれない。だれが連れて行ってくれたのかも、善光寺がどんなところだったのかも記憶にない。ただ、境内でたまたま聞こえてきたラジオの中継で、青森代表の高校が点を取られて負けているらしいことはわかった。

Tくんは退屈していたのだろう。善光寺の長い参道で、じゃんけんをして負けたら、相手の荷物をもつというゲームをしようといいだした。本当はそんなゲームはしたくなかったが、口では「いいよ」といっていた。Tくんは負けたほうは、100メートルほど先にある灯籠のところまで荷物をもち、そこでまたじゃんけんをしようといった。案の定、負けたのはぼくだった。Tくんのバッグをもって灯籠まで歩いた。次のじゃんけんではTくんが負けたが、荷物を運ぶ距離はとても短かった。要するにTくんは、ぼくが負けると長い距離をあてがい、自分が負けると距離を短くするのだった。理不尽だけれど、なにもいえなかった。それが自分の宿命なんだとあきらめていた。

夏の終わり、須坂の家をあとにするときには、いつも子ども心に甘悲しいような、せつない痛みをおぼえたものだった。この家にたたえられている、ひっそりとしずかな中にも秘密を隠しているような甘美な時間から離れがたかった。ところが、この年の夏休みはそうではなかった。去りがたいどころか、滞在の終わりの頃には、Tくんと寝食を共にすることがつらくてならず、早く帰りたいと気がはやった。

鎧甲のある奥座敷も、壁の崩れかけた土蔵も、苔むした古池も、Tくんといっしょだとなにも語りかけてこなかった。それはTくんのせいばかりではなく、九歳という自分の年齢のせいもあったかもしれない。現実の世界が重みを増し、想像力に彩られた魔法の世界がしずかに消えていく、そんな微妙な年ごろだった。さらに、ここで見た夏の高校野球の決勝戦の鮮烈な印象によって、自分の中で初めて、この家に流れる時間が外の時間と結びついた気がした。

外の時間の中でさまざまなことが起きるように、この家の中でも同じように時が流れていくのだと、この夏の滞在をとおしてぼくはなんとなく理解した。それはいま思えば、死や滅びというものを意識した最初の瞬間かもしれなかった。広間で背筋を伸ばしてお茶を飲む祖母も、奥座敷で碁を打っている叔父も、いずれはいなくなってしまう。そのことが鈍い痛みとともに実感されるとともに、Tくんの「ああ、つまんねえ」という言葉によって生じたかすかな曇りが、うっすらと心の中に広がっていくのを苦い思いで見つめていた。
(つづく。また、あと二回くらいか)

 ***

どうも書いていると、長くなってしまう。次回は幕間がわりに別の話題で。


 

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コメント

10年ほど前まで昭和のはじめに建てられた日本初の建売住宅に住んでいました。(同洵会。この字でいいのか?)関東大震災のときアメリカから被災援助されたアメリカ檜を使った家でした。そんなわけで私を含め家族は檜の柾目の廊下を歩いて生活していました。
長野の家にも廊下があって(便所につながる)うらやましいなあ、と思いました。

たまに廊下を歩きたくなります。
今の家には廊下はありません。

投稿: 小松田堂鐘 | 2006年8月26日 (土) 08時56分

>小松田堂鐘さま
どうじゅんかいは「同潤会」のようです。
廊下というのは、いいですね。
初夏に永平寺に行ったのですが、あそこでもいちばんよかったのは、つるつるに磨かれた古い板張りの廊下でした。
修道院にある中庭をかこんだ回廊もいいですね。
回廊という形式は日本にもヨーロッパにも中東にもありますが、人間を落ち着かせるデザインなのでしょうか。

投稿: 田中真知 | 2006年8月27日 (日) 13時45分

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