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2006年9月

夏休みの家 その6

子供の頃、大切なものを地面の下に隠しておいたものの、しばらくして行ってみるとすっかり雑草が茂っていて、埋めた場所がわからなくなってしまうようなことがあった。なんどか探してみるものの、どうしても見つからず、そのうちに本当に自分がそこになにかをうめたのかどうかすら確信が持てなくなってくる。

須坂の家の思い出も、そんな記憶の古層に埋もれて思い出すこともないままに、長い時が過ぎていった。十四歳の夏休み、父親とともに祖母の葬式に出て以来、自分には須坂を訪ねる理由はなくなってしまった。

高校に入学すると同時に父親のもとを離れ、その後も父親と十年近く連絡を絶ったこともあって、須坂の家のことは記憶の押し入れの床下にうち捨てたまま、かえりみることもなかった。やがて外国に暮らすようになり、その間に父が亡くなった。その葬式に来てくれた町田の伯父もそれから数年後に亡くなったと聞いた。父の親族とのつきあいはほとんどなかったから、あれからあの家がどうなっているのか知る機会もないまま、時は層を重ねていった。

ところが、いまから三年ほど前の春、須坂の伯母が亡くなったという知らせが入った。父もおらず、母も入院していているいま、自分に知らせが来るのは当然なのだが、その知らせを自分の記憶につなぎ合わせるのには時間がかかった。血流が長らく遮断されていた体の部位に、ふたたび血液が流れこんだときのように、じんわりと痺れるような違和感がしばらく体の中に渦巻いていた。

翌日、伯母の通夜に出るため、須坂に向かった。二十八年ぶりだった。そういえば二十八年前、父もやはり二十数年ぶりに須坂を訪れたのだった。あのとき自分は、父の目にどんな風に須坂の家が映るのかが気になったが、立場は異なるものの、あのときよりは父と近い目線でかつての記憶と向き合うのを、じつは少しばかりたのしみにしていた。折からの霧に煙る上信越道をのろのろと走りながら、自分がまるで時間を遡っていくような心持ちがしていた。

右目で見ている映像と、左目で見ている映像がぴったり重なり合わないまま、双方の輪郭が焦点をぼかしながら揺れ動いている。二十八年ぶりに須坂の家を目にしたときに感じたのは、そんな印象だった。予想していたことだが、家は変わり果てていた。中でもいちばん大きく変わっていたのは、敷地の半分が駐車場へと変貌し、家を囲んでいたはずの土塀が見る影もなくなっていたことだった。「つちころび」の住んでいたはずの味噌蔵もなければ、奥の竹藪や材木蔵もなかった。緑色の水をたたえていた古池はすっかり干上がっていた。あの山水画の描かれた便器のある便所も撤去されていた。

しかし、変わり果てた家を目の前にしながらも、そこに投影されるのは記憶の中にある家の姿だった。形は失われても、まるでそこに過去をふちどる透明な磁力線が張っているかのように、かつてそこにあったものの気配が感じられた。この三十年近く、忘れ去っていたはずなのに、記憶の中の映像は目の前の現実の家をかき消してしまいそうなほど濃密にそこに立ち上がってくるのだった。もちろん、昔と変わらないものも残っていた。入り口のくぐり門、庭にある曲がりくねった古い松の木などは以前のままだった。

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通夜のあとの親類からの話で、あれからこの家でなにがあったのか、おおまかなところを知った。着流しで碁を打っていた叔父も数年前に亡くなっていた。叔父は同じような暮らしをずっと続けていたようだった。しばしば蔵の中にあった古い骨董を勝手に持ち出して売り払っては、入れあげていたスナックの女性に貢いでいたそうだが、結局、金を巻き上げられたあげく、逃げられてしまったらしい。おかげでこの家に代々伝わっていためぼしい書画骨董も、おおかた失われてしまったという。それでも叔父が碁盤に向かっていた奥座敷には、子供の頃、怖くてたまらなかった鎧甲がいまでも置かれていた。

叔父が亡くなったあと、伯母はこの家に独りでずっと暮らしていた。八十歳を越えていた伯母ひとりで、この古い大きな家を切り盛りすることなど不可能だったものだから、彼女の晩年には家は荒れ放題だったという。庭は雑草で埋まり、使っていない部屋は湿気とカビと埃におおわれていた。伯母はそんな時の澱みに包まれて、何年も独りで暮らしてきたのだった。

その伯母は、いま奥座敷の畳の上に目を閉じてしずかに横たわっていた。その後ろに何十人もの通夜の客が並んでいた。子供の頃に会ったきりの従姉妹もいたが、大半は知らない人たちだった。となりに座っていたおばあさんは、近所の人らしいが、ぼくが自己紹介すると、父が子供だった頃のことを話し出した。「熙ちゃん(父親の昔の名前)は、いつも二階で勉強をしていたわ。ご飯のときも二人のお兄ちゃんが下りてきても、なかなか降りてこないの。澄さん(祖母)が呼びに行っても、この本を読み終えてから行くといって、下りてこようとしないのよ」。どうして近所の人が、そんなことまで知っているのか不思議だったが、そういう時代だったのだろう。それ以上に、もう亡くなって十年にもなる父の子供の頃の話を、こうしてこの家で聞くというのは不思議な気持ちだった。

通夜に来ていた人たちの多くは老人で、祖父や祖母がまだ若く、子供たちがみなここで暮らしていた頃の、活気のあった時代の空気をまとっていた。彼らは半世紀以上も昔のことをまるで昨日のことのように語った。子供時代、夏をなんども過ごしたこの家で、いまも過去に生きているような老人たちの話を聞いていると、それに誘われるように記憶の底で干からびていた少年の夏の日の感覚が自分の奥からゆっくりと浮上してきた。とろとろと溶けいりそうな奥座敷での午睡のひとときや、蝉の抜け殻や、湯浴みのあとの花火や、庭を満たす夜の虫の音などが、皮膚の表面を走るようなむずがゆい感覚となってよみがえってくるのだった。

そのとき親類が、上座にすわっているまだ若い女性を目でさしていった。「あの人が本家の奥様よ」。本家というのは聞いたことがあった。本家は江戸時代、穀物や油、煙草などを扱っていて、大名に金を貸し付けていたほどの豪商だったという。祖父の家系は百年くらい前にそこから分かれた、いわゆる分家である。本家の屋敷はこの家からほんの数百メートルしか離れていなかったが、いまでは屋敷ごと博物館として保存され信州の観光名所になっていた。もっとも子供の頃は、そんなことには興味もなかったから本家を訪れたこともいちどもなかった。

むしろ、気になったのは、伯母の死によって、住む人を失ったこの家がどうなるかであった。二百年以上たっている家だけに、その荒れようは痛々しかった。最低限の水回りは改修されていても、いまや屋根を含め、ほとんどの部分はあばら屋か幽霊屋敷同然だった。こまやかな保存がなされている本家とは、いかにも対照的だった。子供の頃に聞いた二階の隠し部屋がどうなっているのかも、わかっていなかった。仏壇の裏に隠し階段があるという話も結局、確かめられてはいなかった。

須坂をあとにするとき、従兄が「よく見ておいてくださいね。次に来られるときまで、この家があるかどうかわかりませんから」といった。ぼくも含めて、この家にかかわっている者たちの多くはなんとかして残したいと思ってはいたが、税金や修繕のことなど考えると、それは現実的にとても困難だった。

そうか。この家はなくなってしまうかもしれないのか。いままで三十年近く思い出すこともなかったとはいえ、この家で過ごした夏が、いかに自分の奥に深い刻み目を残しているかをあらためて知った。けれども、それと入れ替わるように、この家は姿を消そうとしていた。

そのときになって、この家がいったいどういう由来をもっているのか、この家にかかわっていたのはどんな人たちなのか、祖父や祖母は、伯父や伯母はどんな人たちだったのか、そして自分の父親はここでどんな暮らしを送っていたのか、自分がほとんどなにも知らなかったことに気づいた。この家が消えるとともに、それらの記憶も失われてしまうのであろう。九歳の夏に心をよぎった、いつかみんないなくなってしまうのだという重い予感が胸を針のように突くのを感じながら、二十八年ぶりの須坂をあとにした。

***

今回も終われなかった。。。つぎがほんとうに最後になります。

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ダンディな男にはパパイヤが似合う

以前書いたエジプトについての本の中で、砂漠の中の岩窟修道院に暮らすコプト教の修道士の話を書いたことがある。

エジプトには4世紀にまでさかのぼる修道生活の伝統があり、いまでも各地に古い修道院がある。ところが、あるときエジプト西部の砂漠にクジラの化石を見に行ったとき、その砂漠のさらに奥で、10人ばかりの修道士が岩穴に住み込んで古代さながらの修道生活を送っているという噂を聞いて、そこまで訪ねていった。

彼らはきわめて厳格といわれるコプト派修道院の暮らしにも飽きたらず、さらなる孤独を求めて砂漠に修行の場を求めた人たちだった。けれども、そんな修行者にもかかわらず、思いのほか、オープンで、気持ちのいい人たちで、以来、エジプトを訪ねるたびに彼らのもとに足を運んでいる。

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もっとも、行くたびに、以前いた修道士が砂漠を去っていたり、新しい修道士がふえていたり、新しい建物ができていたり、岩壁に絵が描かれていたりと、ちょっとずつ変化がある。本では、そんな修道士たちの暮らしぶりや彼らとの会話、そこから見えてきたエジプトの思いがけない一面などについて書いてある。もっとも、編集長からは「この原稿、ちょっと長いよお」といわれたりしていたのだが、先日、ユダの福音書についてネットで調べていたところ、偶然、こんな記事を見つけた。おお、見ている人は、ちゃんと見てくださっているではないか! どうだい、編集長。

植島さんが書いているように、あれは5年くらい前にバリ島のウブドに行ったときのことだ。ちなみに、あのときはエジプトから戻る途中ではなく、日本から行ったのだけれど、そんなことはどうでもいい。植島さんの本は、ずいぶん前に何冊か読んでいて、このときも偶然ウブドのカフェ・パディの本棚で植島さんの『男が女になる病気』を見つけ、なつかしいなと思っていたところだった。

それから数日後のある朝、ロスメンで朝ご飯を食べていたら、うしろのテーブルでダンディな中年男性が、テーブルにひろげた書類に目をやりつつ、眉間にしわを寄せてパパイヤを食べていた。彼はときどき顔をあげて庭の木々に渋い視線を投げかけ、ふたたび書類に目をやり、パパイヤをそっと口に運ぶ。

そのしぐさが、いかにもダンディで、自分もいつかあんなふうにパパイヤの食べられる男になりたいと思いながら、となりの息子を「ほら、よそ見してたらこぼすでしょ!」とたしなめていたのだが、ふいに、あれ、このひとの顔はどこかで見たことあるなと思い、しばし考えるうちに、はっと思い出した。そうだ、このダンディな中年男性こそ、アカデミズム界の火野正平(古い!?)とたたえられる宗教学者の植島啓司さんその人にちがいない。

なんで顔を知っていたかというと、カイロにいたとき、だれかからもらった雑誌に、ぼくの訳したことのあるグラハム・ハンコックと植島さんとの対談がのっていたからだ。そんなわけで、「植島さんですよね」と声をかけさせていただいたのだった。

植島さんはロスメンのいちばん奥にある二階建ての広いバンガローに泊まっていた。夜になると、彼のゼミの学生たちが十数人もやってきて、夜遅くまで楽しそうな笑い声が響いていた。植島さんのゼミはすごく人気があって、毎年50人以上も集まるので、ほかのゼミの先生からやっかまれるのだという。

「でも、たいていの先生は学生の就職の面倒なんてちゃんと見ないんです。でも、ぼくは学生がちゃんと就職できるように、できるかぎり面倒は見てあげるべきだと思う。だから、ぼくのゼミの就職率はとてもいいですよ。いろいろ紹介もしてあげるから、マスコミに行った学生もずいぶんいます」と植島さんはいった。なんて、いい先生なんだ。この面倒見の良さ、マメさこそもてる秘訣にちがいない。

植島さんは「いま聖地についての本を書いています。世界中の聖地には、かならず共通する要素があるんです」といっていた。「へえ、なんですか」「たとえば、石です」聖地と呼ばれる場所はなんらかの形で、かならず特別な意味をもった石と関係しているというのだ。なるほど、たしかにエルサレムの神殿の丘にしても、ピラミッドにしても、ギリシアのデルフィにしても、日本の出雲や伊勢にしてもそうだ。それはのちに『聖地の想像力』という本になった。頭の中を整理してくれるような本だった。

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ともあれ、旅先でのほんの短い出会いだったのに、おぼえていてくれたとはとてもうれしかった。わたしも近々、バリ島にパパイヤを食べに行く。ダンディな男にはパパイヤが似合うのだ。

あ、それと最近こんな本を出しました。なんで毒なの? って、そりゃ、ダンディな男には毒があるからです。

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夏休みの家 その5

須坂の家の広間には古い箪笥と座卓、それに黒光りした柱にかけられた古時計くらいしか調度品はなかった。その片隅に地味な和服を端正に着こんだ祖母が背筋を伸ばして座っている姿は、まるで古くからそこにはめ込まれた風景のように違和感がなかった。

薄暮のせまる頃、明かりをつけるにはまだ少し早いくらいの頃合に広間をのぞくと、一瞬そこにいる祖母の姿に気づかぬことさえあった。祖母がそっと目をあげると、その瞬間、薄闇に埋もれていた祖母の気配がふいに甦るのだった。独りでいるとき祖母の魂はこの家に溶けこんでいて、だれかがやってくるとふいに、こちらの世界に帰ってくるかのように思えたものだった。

だからだったのか、祖母が亡くなったという知らせを聞いたときも、おどろきや悲しみはなかった。人の死をこれほど自然に、特別な関心もなく、かといって無関心でもなく、あたりまえに受けとめられたのは、いま思い出しても、あのときだけだったかもしれない。

夏休みの終わりで、ぼくは中学三年生になっていた。この数年、須坂を訪れていなかったし、家庭や学校や高校受験のことなどが頭の中の大半を占めるようになっていたこともあって、須坂の記憶はすでに、すっかり奥の方にしまいこまれていた。

葬儀に出るために、ぼくは父と二人で須坂へと向かった。父にとってはじつに二十数年ぶりの帰郷だった。学生時代に須坂を出て以来、父はいちども帰省したことがなかった。

父は両親にずっと恨みを抱いていた。自分の父親が亡くなったときも葬式には行かなかったし、今回の知らせがあったときも、おれは行くつもりはないといった。母がいれば代わりに葬儀に出ただろうが、その母はこの年の春に、家を出ていた。伯父からは再三、父に葬式に出るようにと電話がかかってきた。結局、父も重い腰を上げざるをえなくなった。

ぼくには数年ぶりに訪れる須坂の家がどうなっているのかということよりも、二十何年ぶりに帰郷する父の目に、須坂の家がどう映るのかが気になった。

父が両親を恨んでいた理由は、母から聞いたことがある。父は大学生のとき、検事になりたくて司法試験の勉強に集中したかった。ところが、父親が学費を出してくれなかったため、アルバイトに明け暮れることになり、結局、試験どころではなくなってしまった。それで以後、父親とは死ぬまでいっさい会わなかったというのだ。母親については、もっと情けない理由だ。父が子供の頃、ズボンの尻が破けてしまった。ところが、母親はそれを見ていながら、繕おうとしなかった。そのおかげで恥をかいたので、生涯恨みつづけていたというのである。いずれにしても、そんなことで一生恨みに思って葬式にも出ないというのも、なんだかなあと思う話である。

慢性アルコール中毒だった父は、飲んでいないときには、神経が高ぶるのか、たえずいらいらしていて、家族の前ではちょっとしたことで感情を激しく爆発させ、手が付けられなくなることもしばしばだった。難を避けるため、ぼくも小さい頃から父の微妙な顔色の変化をすばやく察知する術を磨いてきた。このときも、恨みを抱いていた実家への帰還ということもあって、歩いているときも、列車に乗っているときも、ずっと父の表情や仕草をひそかに観察していた。だが、父の感情を読みとることに慣れていたつもりだったぼくにも、父がなにを感じているのかは見てとれなかった。

祖父の葬式のときには、船を思わせる大きな白木の祭壇が、まばゆいほどの白い光の海に浮かび、そのまわりは一面の花で埋め尽くされていた。濃密な香の匂いの中に、金属のふれあうようなきらびやかな音が降りそそぎ、灰色の和服に白い帯をしめた祖母が祭壇のかたわらで、まるで船出を待つ船頭のようにしずかにたたずんでいたはずだった。

ところが、いま祖母の葬式を目のあたりにして、ぼくはそれが幼心にきざまれた幻の映像だったことに気がついた。死化粧をほどこされて横たわる祖母の前には特別な祭壇もなければ、そこに灯された明かりもまばゆいというにはほどとおい、ありふれたものだった。香の匂いはただよっていたものの、ぼくの記憶の中にある、途方もない祝祭のような光あふれる雰囲気を思わせるものはなにもなかった。そのとき、あらためて小さい頃の自分が、この家でのできごとを内なる想像の光に照らして見ていたこと、そしてそれが祖母の死によって完全に過去のものになったのを知った。

葬式が終わってかたづけられた広間には、あたりまえのことだが、祖母の姿はなかった。それはたんに祖母がいないというだけでなく、祖母の姿をかりて、その気配を表していたなにものかが、完全に見えなくなったという感覚だった。いつも祖母がすわっていたあたりに開いていたはずの、この家の神秘にいたる穴が祖母の死によってふさがれてしまったかのようだった。広間には、町田の伯父や、北海道の伯父、それにこの日ばかりは黒いスーツを着ていた着流しの叔父、それに父の姿などがあったが、彼らさえも、その穴への入り口で踏み迷っているかのように見えた。

父は、久しぶりに顔を合わせた伯父たちと淡々と、あたりさわりのないことばをかわしていた。その表情からはなつかしさも恨めしさも見てとれず、むしろ事の核心をさけるために互いに細心の注意を払っているという印象を受けた。祖母もそうだったが、この家の人たちは概して無口で、感情を表に出さないのがつねだった。なにか問題があっても、それをあえて問題としてとりあげずに、時間の中に塗りこめてしまおうとするのが、この家の伝統なのかもしれなかった。伯父たちは、父がなぜ母と来なかったのか、どうしてこれまでいちども帰ってこなかったのかについても、いっさいふれようとしなかったし、父もなにもいわなかった。

家そのものの印象もずいぶん変わった。母屋の台所や水回りは修繕され、薪で沸かしていた風呂もガス釜にタイル張りの浴槽に変わっていた。その一方で、使わなくなってしまった部分は朽ちるにまかされていた。土間には埃だらけになった釜や錆びた包丁や食器が蜘蛛の巣の中に埋もれていた。古いものと新しいものが、うまく折り合えぬまま、お互いを無視し合っているような居心地の悪さが家全体をつつんでいた。

葬式の翌朝、庭を散策した。小さい頃、果てがないように思われた庭も、歩いていくと意外とすぐに敷地の境目である土塀につきあたった。このくらいの距離を、かつては無限に遠く感じ、奥へ歩を進めるたびに、自分の想像力に押しつぶされそうになっていたのだった。それから、幼い頃、「つちころび」という妖怪がいると叔父にいわれた古池の奥の味噌蔵や、裏庭にころがっている石灯籠や、竹藪の奥の材木蔵などを丹念に見てまわった。自分はもうこの家に来ることはないかもしれない、と感じていたからかもしれない。

庭の奥から戻ると、母屋の手前の小川のたもとに父が一人でぽつねんと立っていた。子供の頃のことでも思い出していたのかもしれないが、ぼくに気がつくと、あわてたように急に「トマトがなっている」といって、足下になっていた赤くなりかけたトマトの実を手を伸ばしてもぎとると、おいしそうにかじりついた。ぼんやりとしているところを見られた照れ隠しだったのかもしれない。

「食べられるの」と聞くと、父はもう一つトマトをもぎとってさしだした。アルコールが切れていたためだろう、その手は小刻みに震えていた。わたされた固いトマトをシャツの裾でぬぐってから、かじりついた。青臭い苦みが口の中に広がって、とても食べられたものではなかった。「うまいだろ、これが本当のトマトだ」そういうと父はまたトマトにかじりついた。そのトマトも青くて、見るからに苦そうだった。「うまいな」と父は顔をしかめながらいった。「うん」とぼくも顔をしかめながら答えた。
(つづく)

***

やれやれ長くなった。つぎでおしまいです。その前に次回はまた幕間話で。

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夏休みの家 その4

記憶とは、かならずしも新しくなるほど鮮明さを増していくというものではないようだ。須坂の家の記憶にしても、近所のTくんをともなって訪れた小学四年の夏休みを境に、それ以後の日々については、思い出せることが極端に少なくなってしまう。あのあとも、二、三度、夏に、あの家を訪れているはずなのに、記憶の引き出しから取り出せるのは、どこか干からびかけた、よそよそしい映像ばかりだ。

おそらくあの年の夏休みを最後に、ぼくは自分の内に灯した小さなランプをかざしてあの家を見るのをやめてしまった。この家の中にも、外と同じ時間が流れているのだと漠然と感じるようになったことで、それまで永遠の形象のように見えていたこの家に生じつつあった微妙なきしみを、ふとした拍子に感じるようになった。

それはたとえば、分厚い萱葺きだった屋根がトタン張りに変わっていたり、いつも赤々と炎を燃やしていた土間の土造りの竈に蜘蛛の巣が貼っているのを見たときだったりした。庭を流れる小川を挟んだ向こう側にはいつからかプレハブの離れが建てられ、叔母と従兄弟たちが暮らすようになっていた。家のここかしこから仄暗い空間が影をひそめ、それとともに闇の中でしずかに息を凝らしていたものたちの気配もしだいに薄れていった。

それでも廊下の奥まりにある便所や、鎧甲のある奥座敷だけは昔と同じく、時のうつろいから取り残されたようにひっそりと息をしていた。鎧甲のある奥座敷では、以前より歳はとったものの、変わらぬ着流し姿の叔父が、分厚い碁盤の前で腕を組んでいた。

叔父はあいかわらず気軽に声をかけてくれた。だが、もはや叔父にからだごとぶつかっていくような年でもなかったし、働きもせずに碁ばかり打っている叔父を、まわりがどんなふうに見ているのか、ぼくにもなんとなく感じられた。

叔父が東京の大学を三カ月でやめて須坂に戻ってきたこと。以来、働くこともなく、遊び人のような暮らしをしていることなども、いつのまにか知るようになっていた。だからというわけではないが、須坂を訪れても、以前ほど叔父と話さなくなっていたし、叔父もどこへ出かけたのか夜になっても戻ってこないことがあった。

だが、大広間で和服で座っている祖母だけは、以前とほとんど変わらなかった。周囲がどんなにざわついていても、祖母のまわりだけは、つねに水を打ったような静けさが支配していた。そんな祖母にぼくは畏怖さえ覚えたものだった。

まだ幼かった頃、夏の夕暮れ、庭で見つけた虫を祖母に見せようと大広間に行った。祖母はいつものように背筋を伸ばして正座し、うつろなまなざしでじっと庭を眺めていた。庭を眺めていたのか、あるいは物思いにふけっていたのかはわからない。ただ、子ども心にも、そこになにか侵しがたい気配をおぼえて、ぼくは声をかけられず、その場に立ちすくんだ。すぐ目の前にいるのにもかかわらず、祖母がおそろしく遠いところにいるように感じたのだった。

しばらくして祖母のほうがぼくに気がついた。祖母は口元にかすかな笑みを浮かべたものの、目の表情は虚ろなまま、「まあちゃん、どうしました?」としずかにいった。そういわれても、ぼくには祖母がすぐそこにいるようには思えなかった。

そうだった。祖母はすぐそこにいながら遠い人だった。ほとんど記憶のない祖父とはちがって、いまでも祖母の立ち居振る舞いや、ゆっくりとした話し方、少ししわがれた声は、はっきり思い出せる。幼い頃には、祖母の布団で寝たこともある。にもかかわらず、自分が祖母と同じ空間の中にいると感じたことはなかったように思う。祖母が身にまとっている目に見えない気配は、あるいはこの家を包み込んでいる物の怪めいた気配と通じていたのかもしれない。

あるとき、祖母に手相を見てもらったことがある。祖母にそんな能力があることなど知らなかったし、どうしてそんなことになったのかも覚えていないが、たしか、その場には帰省した伯父や従兄弟たちもいた。眼鏡をかけた祖母は、伯父−−つまり自分の息子−の手をとり、しばらく眺めてから、ぽつりと「○○歳」とある年齢を口にした。それは生命線から読み取れる寿命を意味していた。

祖母は、伯父や従兄弟の手をとっては、無表情な声で「○○歳」とその人生の終わりをつぎつぎと告げていった。祖母がどういうつもりで、そんなことをしたのかわからない。祖母が「○○歳」とつめたく告げるたびに、ぼくは恐ろしさで身が縮む思いだった。
 
やがて、怖れていたことが起こった。祖母はぼくのほうを向くと、ぽつりと「まあちゃんも、見てあげましょうか」といったのだった。心臓が止まりそうだった。そのころぼくは小学校の低学年くらいだったはずだが、それでも祖母の告げる歳がなにを意味しているかは理解していた。だが、動転していて、いやというゆとりさえなく、気がつくとぼくは手を祖母の前にさしのべていた。祖母はぼくの手のひらに黙って視線を落とした。手を引っ込めたかったが、力が入らず冷や汗がにじんでくる。と、次の瞬間、あっけないほど淡々とした口調で、祖母が「○○歳」と告げた。全身の力が一気に抜けていった。

祖母はかけていた眼鏡をはずすと、もう手相のことにはふれなかった。手相なんてあてになりませんよ、という一言でもあったならば、少しは気も楽になったかもしれないが、祖母はなにもいわなかった。ああ、ぼくは○○歳に死ぬのだ。祖母がいうのであれば、まちがいないのだろう。あきらめと悲しみの入り交じったなんともいえない虚しさが、心の奥深くの水面に音もなく波紋を広げていった。
(つづく)

***

また、あと2回くらい。夏が終わってしまう。

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