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夏休みの家 その6

子供の頃、大切なものを地面の下に隠しておいたものの、しばらくして行ってみるとすっかり雑草が茂っていて、埋めた場所がわからなくなってしまうようなことがあった。なんどか探してみるものの、どうしても見つからず、そのうちに本当に自分がそこになにかをうめたのかどうかすら確信が持てなくなってくる。

須坂の家の思い出も、そんな記憶の古層に埋もれて思い出すこともないままに、長い時が過ぎていった。十四歳の夏休み、父親とともに祖母の葬式に出て以来、自分には須坂を訪ねる理由はなくなってしまった。

高校に入学すると同時に父親のもとを離れ、その後も父親と十年近く連絡を絶ったこともあって、須坂の家のことは記憶の押し入れの床下にうち捨てたまま、かえりみることもなかった。やがて外国に暮らすようになり、その間に父が亡くなった。その葬式に来てくれた町田の伯父もそれから数年後に亡くなったと聞いた。父の親族とのつきあいはほとんどなかったから、あれからあの家がどうなっているのか知る機会もないまま、時は層を重ねていった。

ところが、いまから三年ほど前の春、須坂の伯母が亡くなったという知らせが入った。父もおらず、母も入院していているいま、自分に知らせが来るのは当然なのだが、その知らせを自分の記憶につなぎ合わせるのには時間がかかった。血流が長らく遮断されていた体の部位に、ふたたび血液が流れこんだときのように、じんわりと痺れるような違和感がしばらく体の中に渦巻いていた。

翌日、伯母の通夜に出るため、須坂に向かった。二十八年ぶりだった。そういえば二十八年前、父もやはり二十数年ぶりに須坂を訪れたのだった。あのとき自分は、父の目にどんな風に須坂の家が映るのかが気になったが、立場は異なるものの、あのときよりは父と近い目線でかつての記憶と向き合うのを、じつは少しばかりたのしみにしていた。折からの霧に煙る上信越道をのろのろと走りながら、自分がまるで時間を遡っていくような心持ちがしていた。

右目で見ている映像と、左目で見ている映像がぴったり重なり合わないまま、双方の輪郭が焦点をぼかしながら揺れ動いている。二十八年ぶりに須坂の家を目にしたときに感じたのは、そんな印象だった。予想していたことだが、家は変わり果てていた。中でもいちばん大きく変わっていたのは、敷地の半分が駐車場へと変貌し、家を囲んでいたはずの土塀が見る影もなくなっていたことだった。「つちころび」の住んでいたはずの味噌蔵もなければ、奥の竹藪や材木蔵もなかった。緑色の水をたたえていた古池はすっかり干上がっていた。あの山水画の描かれた便器のある便所も撤去されていた。

しかし、変わり果てた家を目の前にしながらも、そこに投影されるのは記憶の中にある家の姿だった。形は失われても、まるでそこに過去をふちどる透明な磁力線が張っているかのように、かつてそこにあったものの気配が感じられた。この三十年近く、忘れ去っていたはずなのに、記憶の中の映像は目の前の現実の家をかき消してしまいそうなほど濃密にそこに立ち上がってくるのだった。もちろん、昔と変わらないものも残っていた。入り口のくぐり門、庭にある曲がりくねった古い松の木などは以前のままだった。

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通夜のあとの親類からの話で、あれからこの家でなにがあったのか、おおまかなところを知った。着流しで碁を打っていた叔父も数年前に亡くなっていた。叔父は同じような暮らしをずっと続けていたようだった。しばしば蔵の中にあった古い骨董を勝手に持ち出して売り払っては、入れあげていたスナックの女性に貢いでいたそうだが、結局、金を巻き上げられたあげく、逃げられてしまったらしい。おかげでこの家に代々伝わっていためぼしい書画骨董も、おおかた失われてしまったという。それでも叔父が碁盤に向かっていた奥座敷には、子供の頃、怖くてたまらなかった鎧甲がいまでも置かれていた。

叔父が亡くなったあと、伯母はこの家に独りでずっと暮らしていた。八十歳を越えていた伯母ひとりで、この古い大きな家を切り盛りすることなど不可能だったものだから、彼女の晩年には家は荒れ放題だったという。庭は雑草で埋まり、使っていない部屋は湿気とカビと埃におおわれていた。伯母はそんな時の澱みに包まれて、何年も独りで暮らしてきたのだった。

その伯母は、いま奥座敷の畳の上に目を閉じてしずかに横たわっていた。その後ろに何十人もの通夜の客が並んでいた。子供の頃に会ったきりの従姉妹もいたが、大半は知らない人たちだった。となりに座っていたおばあさんは、近所の人らしいが、ぼくが自己紹介すると、父が子供だった頃のことを話し出した。「熙ちゃん(父親の昔の名前)は、いつも二階で勉強をしていたわ。ご飯のときも二人のお兄ちゃんが下りてきても、なかなか降りてこないの。澄さん(祖母)が呼びに行っても、この本を読み終えてから行くといって、下りてこようとしないのよ」。どうして近所の人が、そんなことまで知っているのか不思議だったが、そういう時代だったのだろう。それ以上に、もう亡くなって十年にもなる父の子供の頃の話を、こうしてこの家で聞くというのは不思議な気持ちだった。

通夜に来ていた人たちの多くは老人で、祖父や祖母がまだ若く、子供たちがみなここで暮らしていた頃の、活気のあった時代の空気をまとっていた。彼らは半世紀以上も昔のことをまるで昨日のことのように語った。子供時代、夏をなんども過ごしたこの家で、いまも過去に生きているような老人たちの話を聞いていると、それに誘われるように記憶の底で干からびていた少年の夏の日の感覚が自分の奥からゆっくりと浮上してきた。とろとろと溶けいりそうな奥座敷での午睡のひとときや、蝉の抜け殻や、湯浴みのあとの花火や、庭を満たす夜の虫の音などが、皮膚の表面を走るようなむずがゆい感覚となってよみがえってくるのだった。

そのとき親類が、上座にすわっているまだ若い女性を目でさしていった。「あの人が本家の奥様よ」。本家というのは聞いたことがあった。本家は江戸時代、穀物や油、煙草などを扱っていて、大名に金を貸し付けていたほどの豪商だったという。祖父の家系は百年くらい前にそこから分かれた、いわゆる分家である。本家の屋敷はこの家からほんの数百メートルしか離れていなかったが、いまでは屋敷ごと博物館として保存され信州の観光名所になっていた。もっとも子供の頃は、そんなことには興味もなかったから本家を訪れたこともいちどもなかった。

むしろ、気になったのは、伯母の死によって、住む人を失ったこの家がどうなるかであった。二百年以上たっている家だけに、その荒れようは痛々しかった。最低限の水回りは改修されていても、いまや屋根を含め、ほとんどの部分はあばら屋か幽霊屋敷同然だった。こまやかな保存がなされている本家とは、いかにも対照的だった。子供の頃に聞いた二階の隠し部屋がどうなっているのかも、わかっていなかった。仏壇の裏に隠し階段があるという話も結局、確かめられてはいなかった。

須坂をあとにするとき、従兄が「よく見ておいてくださいね。次に来られるときまで、この家があるかどうかわかりませんから」といった。ぼくも含めて、この家にかかわっている者たちの多くはなんとかして残したいと思ってはいたが、税金や修繕のことなど考えると、それは現実的にとても困難だった。

そうか。この家はなくなってしまうかもしれないのか。いままで三十年近く思い出すこともなかったとはいえ、この家で過ごした夏が、いかに自分の奥に深い刻み目を残しているかをあらためて知った。けれども、それと入れ替わるように、この家は姿を消そうとしていた。

そのときになって、この家がいったいどういう由来をもっているのか、この家にかかわっていたのはどんな人たちなのか、祖父や祖母は、伯父や伯母はどんな人たちだったのか、そして自分の父親はここでどんな暮らしを送っていたのか、自分がほとんどなにも知らなかったことに気づいた。この家が消えるとともに、それらの記憶も失われてしまうのであろう。九歳の夏に心をよぎった、いつかみんないなくなってしまうのだという重い予感が胸を針のように突くのを感じながら、二十八年ぶりの須坂をあとにした。

***

今回も終われなかった。。。つぎがほんとうに最後になります。

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コメント

 長野の「家」が壊される運命にあるのは本当に残念ですね。現実の風景、そして心の風景のよりどころが消えるのは残酷なことですね。
 確かに、税金という現実、そして面白いことに、家は生き物みたいで、住む人がいなくなると材木などが組まれているだけなのに、それを察して崩れてゆくのですね。まるで家に意志があるように、、、。
 10月にルーマニアへ行こうと思っているのですが、狙いの地方とは離れてはいますが、マラムレシュで滅びつつある家の姿も撮りたくなっています。あそこに行く時間、あるかなあ。
 昨年、マラムレシュに行ったとき、14年前に機能していた家が住む人を失ってゆっくりと崩壊に向かっているのを数多く見ました。その姿が生き物のように感じられました。
 一昨日と昨日にかけて、伊豆の倉庫に行ってみましたらイノシシが山芋を食べるため庭を掘り起こしていました。人の気配を微妙に察して、出没するのですが、、、。別荘地の住人も老齢化が進み、そのあたりをイノシシが感じているのでしょうか。
 コンポをフルボリュームにして家全体をスピーカーにして木を切ったり、しました。木の手入れは、自分の運動のためです。現在売られているオーディオ製品はフルボリュームにしてもスピーカー音が割れなくて驚きました。自動的にスピーカーの限界性能に合わせてボリューム調整するみたいですね。エジプトなどのフルボリュームとはちょっと違いますね。
 昔、チュニジアで大晦日にレストランに入って、席がひとつしか残っていなく、そこがスピーカーのまん前でした。あんなひどい大晦日の夜は無かった。脳も体もバラバラになりそうでした。

投稿: 小松田堂鐘 | 2006年9月22日 (金) 11時44分

家は、まだ壊されていませんが、住む人がいないと確実に死んでいきますね。マラムレシュの家もそうなのでしょうか。
ところで、10日ばかり、バリとそのまわりに出かけます。
むこうで更新ができればやってみます。

投稿: 田中真知 | 2006年9月25日 (月) 02時06分

こんにちは。
大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。
ルーマニアのマラムレシュのこともとりあげはじめました。
よかったら、寄ってみてください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611

投稿: kemukemu | 2007年8月12日 (日) 12時33分

 そしてそのごこの夏休みの家はどうなったのか。
 私はずうっと気になっているのですが。
 このような旧家では全く持ってないのですが、自身の夏の家=母の実家と重ねあわせ、私はあの頃をどのように仕舞い込むのか考えあぐねている所です。真知さんのように文才があればいいのですが。
 

投稿: しほ | 2008年3月 5日 (水) 23時17分

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