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マハカム河にたゆたう その2

すっかり間があいてしまって、たゆたっているというより、押し流されているという毎日だ。陸地にいると、なかなかたゆたう感覚が遠くなってしまう。プールで泳いでも、風呂につかっても、なかなかたゆたえない。

せめて音楽でたゆたおうと、マハカム河にいっしょに行ったスミオさんが聴いていたポポル・ヴーの「アギーレ」を聴こうと思ってCDをiMacG5のドライブに入れたところ、CDを吸い込んだまま、イジェクトボタンを押しても出てこなくなってしまった。内部ではガーガー異音がしている。こわれたら修理代がいくらかかるだろう、輸入盤の中古CDはこれだから困る、こんどは高くても国内版を買おうなどと考えはじめると、ますますたゆたえない。マハカム河にたとえるならば、乾季になって水がどんどん蒸発していって、乾いてしまった湖底に置いてけぼりにされた魚のように途方に暮れてしまった。

マハカム河の中流にはジュンパン湖という湖があるのだけれど、訪れた時期が乾季の終わりにあたっていたため、水はおおかた干上がっていて、かろうじて船外機付きのボートが通れるくらいの流れにまでやせ細っていた。水深も50センチくらいしかないところもあり、われわれの乗ったボートは途中でスクリューに藻が絡まってスタックしてしまった。

船頭が修理の手を借りに、近くの村まで戻っている間、ボートを下りてみた。すっかり干上がったかつての湖底は結晶のように整然とひび割れている。そのひび割れた地面に目をこらすと、いたるところに半ばミイラ化した魚の死骸がころがっている。いちばん多いのはナマズに似た古代魚のような魚だった。いずれも腹を下にして、泳いでいたときそのままの姿でみまかっている。

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きっと、よほどの速さで水が引いたのだろう。魚はその減っていく水を追っていったものの、コースをまちがえて、浅い水たまりのようなところにはまりこんでしまったのだろう。そこから出られぬまま、上向きの目で薄くなった水の層を透かして空を仰いでいるうちに、やがてその目をおおっていた水がなくなり、眼窩は落ちくぼみ、ほどなくしてただの虚ろに乾いた空洞になり、こうして上からスミオさんに写真を撮られることになってしまうとは、魚としても想像もしなかったにちがいない。

そう、そんな魚の気分で再起動をくりかえしたり、あらゆる方法でイジェクト操作をくりかえすうちに、一時間ほどもたった頃、不意にグガーと音を立ててCDが排出された。やれやれ。。。

で、ふたたび「たゆたう」である。マハカム河の本流をゆったりとさかのぼっているとき、スミオさんが河を眺めながら、「こういうのをたゆたうというんだろうね」といった。「そうだね、たゆたっているね」とぼくもいった。気分も何となくたゆたっている。

ところが、「たゆたう」について話をしていると、どうも互いの「たゆたう」イメージがちがう。

「たゆたうっていうのは、水にゆらゆら気持ちよく浮かんでいる感じじゃないの」とぼくはいった。

「でも、それは〈漂う〉でしょう」とスミオさん。

「いや、〈漂う〉ってのは水の表面に浮かんだ状態だけれど、〈たゆたう〉は水に半分くらい沈みながら、揺れているかんじじゃないかな。漂うは、どこへ行ってしまうのかわからない心許ないかんじがあるけれど、たゆたうはもっと安心感がある」

「うーん、オレは、〈たゆたう〉というのは、水があふれていて、豊かに満ちているかんじだと思うんだけど」とスミオさん。

「ていうと、浮かんでいる物がたゆたっているのではない?」

「うん、たゆたうのは〈水〉のほうなんだよ。水が豊かに満ちあふれていて、滔々と流れていくのが〈たゆたう〉んだよ」

「そういわれると、そんな気もしてくるな。ぼくは水がたゆたうんじゃなくて、水に浮かんでいるものがたゆたっているんじゃないかと思っていたけれど」

辞書などなかったので、どちらが正しいかはわからなかったし、実際のところ、辞書の定義などどうでもよかった。むしろ、「たゆたう」について互いが抱いているイメージをひもとくのがおもしろかった。そのとき河の縁をペットボトルが流れているのが目に入った。

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「ペットボトルは、たゆたってないと思う」ぼくはいった。

「ペットボトルはたゆたわないのかあ。じゃあ、死体は?」スミオさんがいう。

「うーん、死体はたゆたうのかなあ」

「死体がたゆたっていたら面白いね」

「〈たゆたう〉からには、たゆたっている本人が気持ちいいと感じていなくてはだめなんじゃないかな。死体が気持ちよさそうにしていれば、たゆたっていることになると思うんだけど……でも、諸星大二郎のマンガにそういうのがあったっけな」

「材木もたゆたってないね」

「材木はたゆたわないねえ」

マハカム河を航行していると、上流から伐採した材木を筏のようにつないで船で引っぱっている光景をしばしば目にする。筏の全長は200メートルほどもあり、まるで桟橋がちぎれて流れてきているようである。たいていの筏には小さなテントが張られ、人が番をしている。夜になると、ほかの船と接触しないようにするためか、筏のまわりに小さなランプが灯される。筏はすべるように流れていくけれども、たゆたっているようには思えない。

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ヨーガの技法の中に、次のようなものがあると聞いたことがある。自分がゆるやかな清流の中に横になっている。その自分の頭の方から水が流れてくる。水はからだの中のすみずみを満たして流れ、指先や足先から抜けていく。そんなふうにイメージするのだという。じつは自分の「たゆたう」のイメージの原型はそのあたりにある。主客の境目があいまいになった、ゆったりとした心地よい運動状態。それが「たゆたう」の基本ではないか。

だが、水でなければたゆたえないのだろう。花の香りはどうなのだろう。やはり、「漂う」が自然だろうな。「花の香りがたゆたっている」というと、そこにしばらくとどまっているというイメージになるのだろうか。けれども、香りがたゆたうというのは、いまひとつぴんとこない。やはり水のような媒質があって。その媒質と浸透し合っているというのでないといけない。

では、宇宙はたゆたえるだろうか。「宇宙飛行士が宇宙にたゆたっている」というのは、どうだろう。いや、この場合、宇宙飛行士と宇宙は宇宙服で完全に隔てられているので、主客の区別があいまいになる「たゆたう」感覚とは相容れない気がする。

そう考えると、やはり水でないとたゆたえないのかもしれない。それもウェットスーツなど着ていてはだめだ。なるべく裸に近い状態であることが必要だ。また水面からあまり深くてはいけない。深いと、そこに悲壮感が生まれてくるし、光の届く範囲で水面に近いところでないと「たゆたう」ことはできない。

だが、なにも水がなくても、意識をたゆたわせることはありうるのではないか。目に見えなくてもいいから、このマハカム河のようなゆったりとした流れが自分を支えていて、その流れと浸透し合っているような感覚があれば、それがたゆたっていることになるのではないか。

たとえば、太極拳などは、空間を満たしている気の大きな流れをからだのすみずみでとらえながら動いていく。これも、考えてみれば「たゆたっている」といえなくもない。また、まったく別だが酒にたゆたうというのも考えられる。ほろ酔い加減で、気持ちがゆったりと心地よくなっている状態なら、「たゆたっている」といってもさしつかえないかもしれない。

漂うのでもなければ、浮かんでいるのでもない。泳ぐのでもなければ、あやつるわけでもなく、溺れるのでもない。そんな「たゆたう」に心ひかれながらも、なかなかたゆたえぬまま、もうすぐエチオピアに出かけます。

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