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2006年10月

エジプト・エアはなつかしい

エジプト・エアに乗るのは久しぶりだ。カイロに暮らしていた頃はエジプト・エアばかりだったが、以後は選択の幅もひろがって、あえてエジプト・エアに乗ることもなかったのだが、久々に乗ってみると、とてもなつかしい。

まず座席のテーブルの留め金のプラスチックのツマミがかたい。かたいなんてもんではなく、両手でひねらないと動かない。どうしてこんなにかたいのだろうと、よく見てみるととなりのツマミと形がちがう。いったん座席から外れてしまったのか、市販のねじ釘でとめてあるのだ。それだけならいいのだが、そのねじ釘が途中で曲がってしまったのか頭の部分をペンチのようなもので切ったらしく、その切り口が外に飛び出している。これはちょっとワイルドだ。まわりを見渡すと、ほかにもそんなワイルドなつまみがある。

前にすわった若いやつが、離陸からすぐに背もたれを倒しっぱなしにしている。機内で読むためのものをあれこれ用意してきたのに、狭くて作業にならない。前をのぞくと、長髪でサングラスをかけていて、耳にiPodをねじこんで寝ている。腹が立ってきて、膝で前の座席を押したり、揺らしたりしてやるが反応がない。さすがに食事のときは、「おい貴様、いいかげんにしろよ!」という内容のことを大人の対応でいってやったので、敵も背もたれをもどしたが食べ終わると、またぐいんと背もたれを倒す。大人の対応も疲れるので、後ろの方の空席に移ることにする。

空席はいくつかあったのだが、どれも読書灯がつかない。つくにはつくのだが、なぜかスイッチを入れると、後ろの席の読書灯がついたりするものもある。これは困るだろう。でも、読書灯がつくのがそこだけなので、前の席でスイッチを入れて、後ろの席へ移る。一番後ろから二番目で、後尾には数人のエジプト人乗務員が待機している。みなからだがでかい。複数人で待機している間はずっとおしゃべりしている。エジプト人は声がでかいうえ、よく笑う。「へへへへ、ワッライ?」(「マジ、ホントかよ?」の意)。一人になると、口笛を吹きはじめる。肺活量があるせいか、口笛とは思えないほどよく響く。

食事が終わった後は、飲み物のサービスはぜんぜんない。さすがにのどが渇くのか、乗客がしばしば後ろにやってきて、飲み物をもらって帰って行く。ぼくものどが渇いたので、なにかもらいに後ろに行くと、エジプト人乗務員があいかわらず談笑している。「なにか飲み物がほしいんだけど」というと、「イエス・プリーズ」といって、カウンターの上を指す。紙パック入りのジュースとミネラルウォーターのボトルなどが並んでいて、その横に使い捨てコップがある。乗務員はまた仲間とおしゃべりをはじめてしまった。セルフサービス、らしい。

自分でジュースを注いで席に戻って、ふと上に目をやると天井に着いている金属製のカーテンレールが外れてぶらぶら揺れている。これあぶなくないかと思って、少し不安になるが、うしろから響いてくる陽気な口笛を聞いていると、まあいいかというおおらかな気分になる、わけはない。

しばらく作業して、数時間眠ると、つんつんと肩をつつかれる。ぼんやりと頭を起こすと、エジプト人女性客室乗務員がなにやら文字の書かれたナプキンを目の前に差し出している。よく見ると、日本語で「お肉、おかゆ、てんぷら」と書いてある。日本人の客室乗務員が書いたものらしい。

エジプト人女性乗務員は無言でその紙をつきだしたままなので、なにか反応しなくてはならないのだが、こちらも起き抜けなので頭がすぐには働かない。一瞬してからそれが食事のメニューらしいと気づくと、なぜか彼女は急にその紙を下げると、もう一方の手で指を上に向けてすぼめるようにして、上下にふった。これは「ちょっと待て」という意味のエジプトのジェスチャーだが、知らない人にはなんのことだかわからないだろう。ぼくもなぜ、ちょっと待てなんだかわからないうちに、彼女は行ってしまった。それから20分ほどして「てんぷら」が運ばれてきた。さっきの紙はなんだったのだろうか。

最初に座った席の前の背もたれ倒し男は、あいかわらず寝ている。背もたれ倒し男には、自分はどうも縁がある。よく覚えているのは、エジプトでガイドの仕事をしていた頃のことだ。当事者はツアーに参加していたぼくのグループの女子大生だった。国内線に乗っていて、お茶が配られたあと、突然彼女の前の席の背もたれが勢いよく、うしろに倒されたのだ。その弾みで紅茶のカップがひっくりかえり、彼女の白いブラウスにかかってしまった。彼女は悲鳴をあげた。

前に座っていたのは、別の日本人ツアーに参加していた中年のオヤジだった。そいつは後ろをちらっと見たものの、あやまることもなく、知らんぷりをしている。彼女はもちろん怒って、なにするんですか、といった。ところが、そのオヤジもその奥さんもあやまろうとしない。それどころか、私には関係ないというのだ。

離れた席に座っていたぼくは飛行機を降りたときに、彼女のとなりに座っていた友だちからこのトラブルを聞いた。ひどい話だ。すぐにぼくはそのおやじのところに行って、あんた、ひどいじゃないですか、あんたのミスでこの子に紅茶がかかったのに、一言の謝罪もないとはどういうつもりなんですか、といった。

ところが、そのとき帰ってきた言葉に耳を疑った。忘れもしない。そのおやじは、こうのたまわったのだ。

「私は国際人だから、そんなことであやまる必要はない」

「はっ?」

ぼくは頭の中で、そいつの言葉をくりかえした。

わたしは こくさいじんだから そんなことで あやまるひつようは ない

こいつはなにをいっているんだ。頭がおかしいのか。

「あんた、なにいってるんですか? あんたのせいで、この子の服が汚れちゃったんじゃないですか。なのに、なんであやまらないんですか?」

オヤジはにやにやしながら、グループについて歩き出している。われわれのグループの一人のおじさんも、さすがに腹を立てて、そいつに「あなた、なにをしたかわかっているんですか、あの子の服をあんなにしたのはあなたなんですよ」とそいつにつめよる。でも、オヤジはどこ吹く風である。

となりにいた奥さんにむかって、ぼくは「奥さん、あなたの旦那のしたことは許されることではないですよ」というが、似たもの夫婦というのか、奥さんもまるで取り合おうとしない。腹が立ってきて、ぼくは、そいつの前にたちふさがって「おい、おまえ! おまえバカか、なにをしたかわかってんのかよ」といった。

すると、そいつがなんといったか。

「私は東大を出ているんですよ」

「はっ?」

わたしは とうだいを でているんですよ

これは冗談でもなんでもない。本当にそいつはこういったのだ。いまどき、どんなベタなドラマでも使わない科白である。しかし、本当にその馬鹿オヤジはそういったのだ。

こいつ、ふざけているのか。それとも、ほんとうに頭がおかしいのか。しかし、これだけでは終わらなかった。そいつは、そのあとなぜか突然英語でしゃべり出したのである。

「I prepared」

一瞬何をいったかわからなかった。

「はっ?」

すると、そいつはこっちが英語がわからないと思ったのか、上を向いて笑うと、もう一度いった。

「アイ・プレペアド」

かかってこいというつもりなのだろうか。だが、おやじの意図をはかりかねて、こっちは一瞬詰まってしまった。すると、そのときそのグループを率いていたメガネのエジプト人ガイドが騒ぎを聞きつけてやってきた。そいつにむかって英語で事の事情を説明した。ところが背もたれという単語がわからず、しばし口ごもっていると、オヤジがせせら笑った。すると、そのエジプト人ガイドが、「ワタシ、ニホンゴ、ハナセマス」といった。

そこでぼくは、このオヤジがどんなに無礼なことをしたのか、まくしたてた。エジプト人ガイドは、こちらの話を聞くと、両手を合わせて合掌のポーズをすると、「アナタハ イイヒトデス」といってこっちをさし、それからオヤジをさして、「コノヒトモ イイヒトデス」といった。おいおい、そいつはいい人じゃない、そいつは悪いやつなんだよ。どーしよーもないやつなんだよ、といっても、銀縁メガネのエジプト人ガイドは合掌するばかりである。なんなんだ、こいつは。話にならない。

ふたたびオヤジに向き直ってぼくはいった。おまえは最低だ。恥だ、日本人としてお前のようなやつが存在することが恥ずかしい。何が国際人だ。頭がおかしいのか、お前は……。すると、そいつもさすがにカチンときたのか、「それは聞き捨てならない言葉ですね」といいだした。こっちはもっとカチンと来た。バカヤロー、お前も、お前の奥さんも、自分たちがなにをやっているのかわからないのか。おまえら、人間の恥だな。

「だれか来てくださーい」と奥さんが声を上げた。さっきのアホ・エジプト人ガイドが、「サア、モウイキマショウ」といった。しかし、こっちはもう沸騰していた。おい、このホマール!(「バカ」の意) おまえの出る幕じゃないんだよ、このアホバカおやじは許せないんだよ。ぼくはオヤジの胸ぐらをつかんだ。奥さんがヒステリックに叫んだ。するとそばにいた被害者の女の子が、「もういいです」といって泣き出した。しかたなく、それ以上つめよるのをやめた。ツーリストポリスが来て、なにやらエジプト人ガイドに聞いている。「もういいです」と彼女の友だちもいうので、そのままオヤジのグループと別れることにする。後味が悪かった。じつに悪かった。そう、そんなことがあったのだ。

飛行機の窓からカイロの夜景が見える。カイロの夜は美しい。夜を彩るオレンジ色の光が、ところどころ闇の中に島をなしている。日本からカイロに着く便はたいてい夜だ。だから、このオレンジ色の夜景を見ることができる。あふれんばかりの人びとがあの光の下にいるのだと思うと、わくわくしてくる。あんなにエジプトにうんざりしていたのに、この夜景だけは別格である。

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発作的に水津さんのサイトをつくったこと

あすの午後の便でエチオピアに行かなくてはならないのに、まだろくに準備をしていない。というのも、けさ、衝動的に水津英夫さんのウェブサイトをつくろうと思い立ち、ほとんどさわったこともないソフトをこねくりまわして、さっきまで半日がかりでつくっていたからだ。
lalombeさん、授業の合間にソフトのことをおしえてくれてありがとうございました。

収録したのはこれまでに書いた原稿ばかりだったものの、サイト作りなんてしたこともないので、デザインもなにもあったもんじゃないいいかげんなつくりになってしまった。半日ではやはりきびしいな。でも、とりあえず読めるようにはなったと思う。

水津英夫、おおいに語る

突然、そんな気持ちになったのにはいろんな事情があるし、書きたいこともたくさんあるのだけれど、さすがに準備しないとまにあわないし、買い物にも行かなくてはいけないので、これはこんどにします。すでに棋士の森信雄さんが、水津さんの写真をスキャンしてサイトにアップしておられる。こちらもぜひ、のぞいてみてください。

旅の仙人写真館

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マハカム河にたゆたう その2

すっかり間があいてしまって、たゆたっているというより、押し流されているという毎日だ。陸地にいると、なかなかたゆたう感覚が遠くなってしまう。プールで泳いでも、風呂につかっても、なかなかたゆたえない。

せめて音楽でたゆたおうと、マハカム河にいっしょに行ったスミオさんが聴いていたポポル・ヴーの「アギーレ」を聴こうと思ってCDをiMacG5のドライブに入れたところ、CDを吸い込んだまま、イジェクトボタンを押しても出てこなくなってしまった。内部ではガーガー異音がしている。こわれたら修理代がいくらかかるだろう、輸入盤の中古CDはこれだから困る、こんどは高くても国内版を買おうなどと考えはじめると、ますますたゆたえない。マハカム河にたとえるならば、乾季になって水がどんどん蒸発していって、乾いてしまった湖底に置いてけぼりにされた魚のように途方に暮れてしまった。

マハカム河の中流にはジュンパン湖という湖があるのだけれど、訪れた時期が乾季の終わりにあたっていたため、水はおおかた干上がっていて、かろうじて船外機付きのボートが通れるくらいの流れにまでやせ細っていた。水深も50センチくらいしかないところもあり、われわれの乗ったボートは途中でスクリューに藻が絡まってスタックしてしまった。

船頭が修理の手を借りに、近くの村まで戻っている間、ボートを下りてみた。すっかり干上がったかつての湖底は結晶のように整然とひび割れている。そのひび割れた地面に目をこらすと、いたるところに半ばミイラ化した魚の死骸がころがっている。いちばん多いのはナマズに似た古代魚のような魚だった。いずれも腹を下にして、泳いでいたときそのままの姿でみまかっている。

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きっと、よほどの速さで水が引いたのだろう。魚はその減っていく水を追っていったものの、コースをまちがえて、浅い水たまりのようなところにはまりこんでしまったのだろう。そこから出られぬまま、上向きの目で薄くなった水の層を透かして空を仰いでいるうちに、やがてその目をおおっていた水がなくなり、眼窩は落ちくぼみ、ほどなくしてただの虚ろに乾いた空洞になり、こうして上からスミオさんに写真を撮られることになってしまうとは、魚としても想像もしなかったにちがいない。

そう、そんな魚の気分で再起動をくりかえしたり、あらゆる方法でイジェクト操作をくりかえすうちに、一時間ほどもたった頃、不意にグガーと音を立ててCDが排出された。やれやれ。。。

で、ふたたび「たゆたう」である。マハカム河の本流をゆったりとさかのぼっているとき、スミオさんが河を眺めながら、「こういうのをたゆたうというんだろうね」といった。「そうだね、たゆたっているね」とぼくもいった。気分も何となくたゆたっている。

ところが、「たゆたう」について話をしていると、どうも互いの「たゆたう」イメージがちがう。

「たゆたうっていうのは、水にゆらゆら気持ちよく浮かんでいる感じじゃないの」とぼくはいった。

「でも、それは〈漂う〉でしょう」とスミオさん。

「いや、〈漂う〉ってのは水の表面に浮かんだ状態だけれど、〈たゆたう〉は水に半分くらい沈みながら、揺れているかんじじゃないかな。漂うは、どこへ行ってしまうのかわからない心許ないかんじがあるけれど、たゆたうはもっと安心感がある」

「うーん、オレは、〈たゆたう〉というのは、水があふれていて、豊かに満ちているかんじだと思うんだけど」とスミオさん。

「ていうと、浮かんでいる物がたゆたっているのではない?」

「うん、たゆたうのは〈水〉のほうなんだよ。水が豊かに満ちあふれていて、滔々と流れていくのが〈たゆたう〉んだよ」

「そういわれると、そんな気もしてくるな。ぼくは水がたゆたうんじゃなくて、水に浮かんでいるものがたゆたっているんじゃないかと思っていたけれど」

辞書などなかったので、どちらが正しいかはわからなかったし、実際のところ、辞書の定義などどうでもよかった。むしろ、「たゆたう」について互いが抱いているイメージをひもとくのがおもしろかった。そのとき河の縁をペットボトルが流れているのが目に入った。

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「ペットボトルは、たゆたってないと思う」ぼくはいった。

「ペットボトルはたゆたわないのかあ。じゃあ、死体は?」スミオさんがいう。

「うーん、死体はたゆたうのかなあ」

「死体がたゆたっていたら面白いね」

「〈たゆたう〉からには、たゆたっている本人が気持ちいいと感じていなくてはだめなんじゃないかな。死体が気持ちよさそうにしていれば、たゆたっていることになると思うんだけど……でも、諸星大二郎のマンガにそういうのがあったっけな」

「材木もたゆたってないね」

「材木はたゆたわないねえ」

マハカム河を航行していると、上流から伐採した材木を筏のようにつないで船で引っぱっている光景をしばしば目にする。筏の全長は200メートルほどもあり、まるで桟橋がちぎれて流れてきているようである。たいていの筏には小さなテントが張られ、人が番をしている。夜になると、ほかの船と接触しないようにするためか、筏のまわりに小さなランプが灯される。筏はすべるように流れていくけれども、たゆたっているようには思えない。

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ヨーガの技法の中に、次のようなものがあると聞いたことがある。自分がゆるやかな清流の中に横になっている。その自分の頭の方から水が流れてくる。水はからだの中のすみずみを満たして流れ、指先や足先から抜けていく。そんなふうにイメージするのだという。じつは自分の「たゆたう」のイメージの原型はそのあたりにある。主客の境目があいまいになった、ゆったりとした心地よい運動状態。それが「たゆたう」の基本ではないか。

だが、水でなければたゆたえないのだろう。花の香りはどうなのだろう。やはり、「漂う」が自然だろうな。「花の香りがたゆたっている」というと、そこにしばらくとどまっているというイメージになるのだろうか。けれども、香りがたゆたうというのは、いまひとつぴんとこない。やはり水のような媒質があって。その媒質と浸透し合っているというのでないといけない。

では、宇宙はたゆたえるだろうか。「宇宙飛行士が宇宙にたゆたっている」というのは、どうだろう。いや、この場合、宇宙飛行士と宇宙は宇宙服で完全に隔てられているので、主客の区別があいまいになる「たゆたう」感覚とは相容れない気がする。

そう考えると、やはり水でないとたゆたえないのかもしれない。それもウェットスーツなど着ていてはだめだ。なるべく裸に近い状態であることが必要だ。また水面からあまり深くてはいけない。深いと、そこに悲壮感が生まれてくるし、光の届く範囲で水面に近いところでないと「たゆたう」ことはできない。

だが、なにも水がなくても、意識をたゆたわせることはありうるのではないか。目に見えなくてもいいから、このマハカム河のようなゆったりとした流れが自分を支えていて、その流れと浸透し合っているような感覚があれば、それがたゆたっていることになるのではないか。

たとえば、太極拳などは、空間を満たしている気の大きな流れをからだのすみずみでとらえながら動いていく。これも、考えてみれば「たゆたっている」といえなくもない。また、まったく別だが酒にたゆたうというのも考えられる。ほろ酔い加減で、気持ちがゆったりと心地よくなっている状態なら、「たゆたっている」といってもさしつかえないかもしれない。

漂うのでもなければ、浮かんでいるのでもない。泳ぐのでもなければ、あやつるわけでもなく、溺れるのでもない。そんな「たゆたう」に心ひかれながらも、なかなかたゆたえぬまま、もうすぐエチオピアに出かけます。

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マハカム河にたゆたう その1

ボルネオの東カリマンタンのマハカム河の河口に近いバリクパパンという町のホテルにいます。マハカム河の中流域まで船とボートでさかのぼり、きのう戻ってきたばかりなので、なかなか更新できずにいるのだけど、もう少ししたらマハカム河のことも書くつもりなので、しばしお待ちを。

マハカム河についてはいろいろあるのだけど、ひとつ問題となったのが「たゆたう」という言葉である。この言葉は船に乗っているとふいに浮かんでくるのだが、それ以外のときは、なかなかたゆたう機会がないせいか、ふだんの生活の中で思い浮かぶことはあまりない。しかし、マハカム河をさかのぼっていると、どうしても「たゆたう」が気になってくる。河のゆれとともに頭の中を「たゆたう」がたゆたいはじめるのだ。はじめに、そのことを指摘したのが旅に同行したスミオさんだった。

「たゆたう」とは、どういう意味か。航海をとおして、このことが大きな論議を呼んだ……とここまで書いたところで、チェックアウトタイムになってしまった。中途半端で申し訳ない。(つづく)

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マハカム河にたゆたう?小舟

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