« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

カッパの皿回し、はじめました

発作的にもう一つブログをつくりました。前々から、自分の聞いているCDについての覚え書きみたいなのを書きたいと思っていたのだが、ここ(耳そうじ)では個人的な趣味はあまり出したくなかったので、そのうちべつにやろうと思っていたまま何年もたってしまっていた。

 
気がつけば、そういうことが人生に多すぎるので、ふと思い立ってごそごそと書いてつくってみました。こんなんでできてしまうのだから、便利な時代だな。右側のバーのクラブ系のカッパをクリックしてください。

 
こっちだけでも更新が滞りがちなのに、もう一つできるのかといわれればそのとおりなのですが、発作的な行動力というのは人生において意外とだいじだと思うので、なしくずし的に始めます。
 

Pict0002

| | コメント (0)
|

おばさま、芸術の秋をゆく

芸術の秋である。今季はピカソやフェルメールも来ているので見に行きたいのだけれど、なかなか時間がとれない。ピカソといえば、以前、だれかがピカソ展に出かけたときのことを書いた文章で忘れられないものがある。


どこで読んだのか、だれが書いていたのかも思い出せないのだが、その人がピカソのミノタウロスの絵を見ていたとき、となりに二人組の中年女性がきたという。二人はしばらくミノタウロスの絵を眺めていたのだが、そのうち女性のひとりがぼそりとこういったという。


「……肉、食べたいわね」


聞いていた著者は思わず絶句したそうだ。たしかに、ミノタウロスは半分ウシの化け物だが、それで食欲が刺激されて、肉を食べたくなってしまうとは。ちなみに、ピカソのミノタウロスには、いくつかバリエーションがあるが、こんな絵だ。


Minotaur


まあ、ワイングラスももっているし、カモがネギ背負っているようなもので、思わずワインでステーキでも食べたくなってしまったのかもしれない。でも、そのおばさまはステーキではなく、「肉」を食べたいわといったというから、あるいはもっと野性的で、生々しい衝動が湧いてきたのかもしれない。ピカソの芸術の力は偉大だが、それ以上に、そのおばさまのセンシュアルなインスピレーションもすばらしい。みなさんも肉を食べたくなりましたか。


ピカソではないが、何年か前に「人体の不思議展」という展覧会に行ったことがある。これは人気があって、いまも全国を巡回中らしいので、見た人も多いだろう。人間の死体を解剖して、血管だけにしたり、筋肉だけにしたり、神経系だけにしたり、薄くスライスしたり、手足や内臓をばらばらにして見せたりという、公開当時はかなり衝撃的な展覧会だった。


こんな感じの展示です。

4

有楽町の国際フォーラムで公開されたときは、とても混んでいて、たしか1時間くらい並んで中に入った。ちょうど、ぼくの前に、二人組のおばさまがいた。おばさまというより、どちらかといえばおばあさまに近い雰囲気だった。


中はとても混んでいた。ショーケースの周りも黒い人だかりで、近づくのも一苦労だった。やっとケースの前にいた人がどいて、ぼくの前の二人のおばさまがその間にするりと入った。すると、おばさまの一人が「さて、冥土のみやげに見せてもらおうかしらねえ」といった。冥土のみやげ……。


ショーケースに展示されていたのは脚だった。ちょうど膝下から足首、足先にかけての部分で、一部、皮膚を取り除いて筋肉や血管の様子がわかるようになっていた。それを見ていたおばさまのひとりが、ぼそっといった。


「……あら、カトウさんみたい」


「そうねえ……」


そうねえ、って、解剖された死体の足首を見て、思わず思い出されてしまうカトウさんて、どんな人なんだ。二人は相づちを打ちながら、カトウさん、どうしているかしらとか世間話をはじめた。人体の不思議展を見ながら、ご近所なのかお友だちなのか知らないけれど、あたかも本人の写真を前にしているかのように世間話を始めてしまう、あなたがたの感性に感動しました。

 
以来、展覧会に行っておばさまの二人組などがいると、ついなにを話しているのか気になってしまう。これが若い女の子を連れたおやじなんかだと、にわか仕込みのうんちくをならべたてたりしていて、やれやれと思うこともあるのだが、おばさまはストレートで新鮮だ。


そんなわけで、ああ久しぶりに美術館に行きたいなあと思っていたら、奥さんが、今日は仕事が休みだからフェルメール展に行ってくるといって出かけていった。ぼくは時間がないのでパス。平日の午前中ならゆっくり見られるだろう。フェルメールの絵に流れる穏やかな時間にひたるのは、精神的にもいいことだし、できればぼくも行きたかった。

Wineglass


夕方、帰宅した彼女に、どうだったと聞くと、どうもこうもないわよ、ああ、疲れたと、ぶつぶついっている。なんだか様子がちがう。フェルメールで癒されてきたのではないのか。


彼女によると、着いてから知ったのだが、なんでも東京都美術館は第3水曜日は65歳以上入場料無料になるのだそうだ。平日だから空いているだろうと思っていったのに、逆に65歳以上が怒濤のように押しよせて、いつもよりもずっと混んでいて、中に入るのに2時間待ちだったそうである。中もたいへんな混みようで、とてもゆっくり見られるような状態じゃなかったといって憤慨している。


だいたい、なんで65歳以上がただなのよ、いったい、65歳以上の人口がいまどれくらいいると思ってるのかしら、あのひとたちって、いちばんお金もってんのに、それをなんでタダにしなきゃいけないの? お金払ったって、見たい人なら見るわよ。中には品の良さそうな老夫婦もいるけれど、あきらかに絵なんか、どうでもいいわ、タダだから来たのよというかんじでしゃべりまくっているのもいるし、ラジオ聞きながら見ているひともいるし、タダにして2時間立たせて、中はぎゅうぎゅうで、ろくにゆっくり見られないなんて、美術館にとっても手間がかかるだけだし、なんにもならないじゃない。愚策よ、愚策! だったらお金のない若い人たちこそ、ただで入れてあげるべきよ……(中略)……それに並んでいるときだって、アタシの後ろにいた老夫婦なんか、ダンナが奥さんを前に割り込ませようと思ってなんども押してくるのよ、ずらーっと何百メートルも並んでいて、ひとり追い抜かしたからってそれがなんなのよ、せこい!もー、なに考えてんのかしら!(`ヘ´)#%、§δ*’&ξ∇#(&?!(`ヘ´)……(後略)


 

……さすが、おばさま、ストレートだ。あのー、ところで、フェルメールはどうだったんでしょうか?


 
ひとりギャンブラー日記:
前々回も負けているので、マイナス9万8000円。
このところ負け通しである。プレッシャが足りないせいかもしれないので、つぎの一週間以内の更新には100万円を投じることにする。


 


| | コメント (2)
|

イトヒロさんのこと

歩いて10分ほどのところに、ときどき散歩に行く公園がある。その公園へ向かう途中、いつも目に入る看板があった。「あった」というのは、その看板に描かれていたイラストが1年ほど前に描き直されてしまったからだ。


それはマンガのようなシンプルな線で描かれたメガネをかけた男性の絵だった。横に、道にゴミを捨てるのはやめましょうと書かれていた。けっして巧い絵ではなかったが、そのイラストの男性のほのぼのとした雰囲気が、なんとなくイラストレーターのイトヒロさんを思わせた。


イトヒロさんが脳の病気で長いこと入院しているのは聞いていたから、ぼくは公園へ散歩に行くたびに、その看板のイラストを目にして、イトヒロさんのことを思い出した。ぼくがイトヒロさんと過ごした時間は多くはないけれど、それでも公園に着くまでの短い時間、ナイロビのホテルで市場で買った米から小石を取り除いたりしたことなど、あれこれ思い出すのに不自由はしなかった。


けれども、1年くらい前に、その看板がカバの親子の絵に描き直されてしまってからは、正直、あまりイトヒロさんのことを思い出さなくなっていた。だから、今回イトヒロさんの訃報を耳にしたとき、とても申し訳ない気がした。


イトヒロさんと最初に会ったのはケニアのナイロビだった。もう15年以上前になる。グロスブナー・ホテルという、ナイロビ郊外にある長期滞在型のホテルだった。おだやかで、几帳面で、他人にとても気をつかう繊細な人、というのがぼくの彼に対する最初の印象だった。その印象は、その後も変わらなかった。


イトヒロさんは動物が本当に好きだった。イトヒロさんの描いた動物や虫や鳥の絵はヨーロッパの博物画に匹敵するほどみごとな出来映えだった。それは科学的に正確でありながらも、どこかユーモラスで、動物の存在そのものにいとおしさを感じてならないというか、ひたすらの慈しみを感じさせる絵だった。


ぼくはかわいがっているわけではないが、ベランダでカメを飼っている。あるとき、そのカメについての他愛ない話をイトヒロさんにしたら、とても面白いといってくれて、折り返しカメの生態についてくわしいメールをくれた。


ああ、こんな話でもイトヒロさんは面白がれるんだなと思って、さらに調子に乗って、やはりかわいがっていたわけではないが、その頃うちにいたアフリカツメガエルの話などをしたら、また面白がってくれた。それからなんとなく、ちっぽけな生き物が愛おしく感じられるようになって、メダカやエビなども飼うようになった。


ちっぽけなメダカやエビでも、ずっと飼っていると些細ではあるが、それなりにいろんなことが起きる。きっとイトヒロさんなら、そんな話でもすごく面白がって聞いてくれたにちがいないと思う。


病気になる前のイトヒロさんと多摩川の上流に石を拾いに行ったことがある。ほかにエッセイストの宮田珠己さん、イラストレーターの森優子さんもいっしょだった。なにをしにいったかというと、文字どおり、ただ石を拾いに行っただけである。川原の石を適当に拾って、適当な名前をつけて楽しむという、なんの生産性もない、じつに適当な企画だった。イトヒロさんは、「この企画は秘密です」といっていたが、あまりにすばらしいのでばらしてしまった。


平日の昼間、働き盛りの大人が、川原で石ころ拾いにうつつを抜かす。効率優先の時代の流れに飄々と逆らうような、ある意味、挑発的ともいえる、そんな企画を思いつくイトヒロさんの感性に感心した。ぼくは赤っぽい石をカツ丼石、角の尖った石を不良石、黒くて気むずかしそうな石を怒れる刑事石と名づけて、即興の刑事ドラマをつくった。じつにくだらなく、ぜいたくで、幸福な時間だった。


イトヒロさんが入院して1年目くらいにお見舞いに行ったとき、イトヒロさんがこんなことをいった。「この病気になって、ああ、オレは自分の人生の主人公じゃなかったんだなと思うようになったよ」。それは、いつものようにおだやかで、やさしい口調だった。イトヒロさん自身、自分の病気が完治の難しいものだとは知っていたから、それは正直な気持ちだったのだろう。


イトヒロさんがいつかぼくにいってくれた、いくつかの言葉は、いまもとても大切なものになっている。それはイトヒロさん本人にとっては、なにげないひとことだったかもしれないが、ぼくにとっては、心の底に灯火をともされたような暖かさをおぼえる言葉だった。イトヒロさんは、そういう小さなことをきちんと見てくれる人なのだ。どんな言葉だったかは秘密にしておく。

| | コメント (2)
|

定額給付金による補填+王道進行の話

負けてしまった。更新が遅れてマイナス一万円である。まあ、昨今の金融危機に比べればたいした損失ではないし、もうすぐ定額給付金とかで一人あたり1万2000円もらえるそうだ。じつにありがたい制度であり、政治家というのはやはり賢い人たちだなあ……などと思う人が本当にいるのだろうか。


政治の話などしたくないのだけれど、アメリカでオバマが大統領になるという、ちょっと前まで想像もできなかった現実が起きているというのに、日本では金のばらまき政策が真剣に議論されている。いったい、一人1万2000円もらって、なにが変わるのだろう。冗談ではないのか。国民一人に1万2000円あげることで、いまの日本社会を覆っている数え切れない矛盾や問題の、いささかの解決にでもつながると本気で政治家は考えているのか。


いやいや、政府というのはありがたいねえ、1万2000円ももらっちゃったよ、どうやって使おう。やはり貯金しようかしら、それともユニクロで家族みんなの分の冬物でも買おうかしら、それともデニーズで豪遊しちゃおうかしら、でも、そんな贅沢しちゃバチが当たるわね。それにしても、さすが優秀な政治家は国民のことを考えてくれているのね、日本に生まれてよかった……なんて思う人が、ほんとうにいるのだろうか。


たとえば、多額の負債を抱えて自殺しようとしている中小企業経営者のもとに1万2000円がふりこまれたら、彼は自殺を思いとどまるのだろうか。仕事が見つからず、ネットカフェで寝起きしている人が1万2000円給付されたら、よし明日も頑張ろうと生きる希望が湧くものだろうか。


いったい、この政策が施行されたとして、1億2000万人のうち、どのくらいの人が、ああ、よかった、ありがたいことだと思えるだろうか。もちろん、政策とは危機的状況に対処するためのものばかりとはかぎらない。けれども、なぜ、いま、この時期に焼け石に水以下のばらまきなどという発想が出てくるのだろう。わからない。

 
思うに、いまの日本が抱える深刻な問題は、将来に希望が見えないことだ。自分がいま歩いている道が、なにか、より確実で、自由なものにつながっているはずだという予感があれば、ひとは、たとえいまがつらくたって、歩いていこうという勇気を持てる。

 
今日一日を充実して生きるのに必要なのは、今日の糧だけではない。意識的であれ無意識的であれ、今日のあとに明日があり、その先に未来があると思えることが大切なのだ。けれども、ぽんと1万2000円もらったからといっても、そんな希望が見えるだろうか。せいぜい一人ギャンブルの穴埋めをするのが関の山である。それだって、この先ぼくが負け続けて負債がふくれあがったら、そうもいかない。


一人1万2000円といえば全国民なら1兆5000万円くらいになる。たしかに中途半端な額かもしれない。でも、これだけの予算があれば、たとえ国民全員をどうにかすることはできなくても、なにかの制度やシステムを変えて、山積する問題の一つや二つを解決することは、頭を使えばある程度、できるはずである。そのための政治家ではないのか。都市部の救急医療システムを改善するとか、母子家庭の支援を充実させるとか、年間3万人を超える自殺者が出る状況を本気でなんとかするとか、いくらでもあるだろう。ばらまきというのは、いちばん頭を使わなくていい、しかも、失敗しても責任を問われない、もっとも下らない金の使い方である。


ガンで亡くなった筑紫哲也さんがネットで最後に語っていたのが、この国はガンに冒されているということだったそうである。ガン細胞は、本来宿主が必要としている栄養分を吸い取ってしまう。そのため宿主である本人には栄養が十分いかず衰弱していく。今回の給付金制度というのも、同じようなものではないか。必要なのは、宿主つまり人びとが希望が持てるような社会システムに栄養を与えることになのに、そっちに栄養は与えず、いまの状況を固定化するほうに金をつぎ込もうとしている。だが、ひょっとして、それは浅はかな見方で、じつは、そこにはじっくり考えぬかれた深い意図でもあるのだろうか。ワカラナイ、ワカラナイ。頭から煙が出そうである。


暗くなるので話題を変えよう。前回の話の続きである。前回、音楽には文化的背景を含めた〈気持ちいい展開〉という暗黙のルールが存在し、同じようなメロディー展開をする楽曲はこの世に数多に存在する、という陶山さんの話を紹介した。その後、ニコニコ動画という動画サイトで、「音極道」という人が、J-Popのヒット曲に共通する音楽的構造について、みずからの演奏入りで解説しているのを知った。これが、たいへんおもしろかった。


前編後編合わせて見ると25分くらいかかるが、演奏付きで、説明もていねいで、とてもわかりやすい。業界の人には自明のことなのかもしれないが、そうでないひとにとっては目から鱗が落ちる分析だと思うので、見て損はない。ちなみにニコニコ動画というのは登録制(無料)である。ただ、登録が面倒な人とか25分も時間がないという人のために、かんたんに内容を要約する。


音極道さんによると、J-Popの一部のヒット曲には、この30年以上にわたって使われつづけているコード進行のパターンがあるという。このコード進行はとくにサビの部分で使われており、これが日本人に特別に好まれてきたという。どういうものかというと、こんなコード進行である。

Ⅳ△7 Ⅴ7 Ⅲm7 Ⅵm

たとえばハ長調だと

F△7 G7 Em7 Am (クリックで再生)

となる。


楽器をやったことのない人にはぴんとこないかもしれないが、聞いてもらえばたいへん耳慣れた展開であることがわかる。彼はこの進行を「王道進行」と名づけて、このパターンを使ったいろんなヒット曲をとりあげ、最終的に、現在J-Popが陥っている危機的状況にまで話を展開している。

音極道さんがあげている王道進行のサビをもつヒット曲は、古いものから

オリビアを聞きながら/杏里(1978)
いとしのエリー/サザンオールスターズ(1979)
悲しい色やね/上田正樹(1982)
シーズン・イン・ザ・ワン/TUBE(1986)
世界でいちばん暑い夏/プリンセスプリンセス(1989)

など。わりと新しいものだと

LOVEマシーン/モーニング娘。(1999)
EVERYTHING/MISIA(2000)
FRAGILE/ Every Little Thing (2001)
さくら/ケツメイシ(2005)


などがある。動画にはもっとたくさんの曲があがっている。動画ではキーを同じにしたものが連続して演奏されており、聞いてみるとどれも驚くほど似ている。もっとも、ぼくがこの中でタイトルを聞いて曲が思い出せたのは「いとしのエリー」だけだった。いとしのエリーだと「わらって もっと べいべ〜え〜 むじゃきに おんまいまいん」というところが王道進行である。先の音声ファイルを再生しながら、いっしょに歌ってみると、よくわかるはずである。


彼は後編の動画で海外の曲における王道進行の使われ方にふれ、それが日本のポップスにどんな影響を与えていったか、そしてその濫用がもたらした弊害などにも論を進めている。ぼくはユーロビートというのがどんなものなのかすら知らなかったので勉強になった。

 
 

ひとりギャンブラー日記:

損益 −10000円
ただし、政府定額給付金(1万2000円)にて補填し、
差し引き残高 +2000円
次回は、ちまちました賭け方はやめて、ギャンブラーらしく少し太っ腹にいってみたいと思う。
一週間以内の更新に、どーんと……10万円である。


| | コメント (4)
|

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »