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セバスチャン・サルガドの「アフリカ」

このところ写真展の話がつづく。東京都写真美術館でやっているセバスチャン・サルガドの「アフリカ」を見た。サルガドが写真の世界ではとても有名な人だとは知っていたし、作品もなんどか目にしていたことはあったが、まとめて見たのは初めてだ。すでに国際的な評価の定まっている人だし、実際の写真もみごととしかいいようかないものなので、それ以上なにをかいわんやなのだが、やはり美しかった。美しいなどというべきではない難民キャンプや飢餓の写真もあるのだけど、それでも、美しいという言葉をつかいたくなる誘惑をおさえられない写真だった。

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静かな画面からこちらを見つめる難民の子どもや孤児の写真の表情がじつにいい。いいなどというのは不謹慎なのはわかっている。もし、目の前にこの子がいたら、とてもそんな気にはなれないだろうけど、こうして写しとられて、時間と空間から切り離された一枚の肖像写真として対峙してみると、この写真が撮影されたときにこの子が置かれていた境遇から距離を置いて、その表情からたちあがってくる存在感の深みに魅入られる。悲しみや、心細さだけではなく、悲しい中にもある尊厳や力強さといった相反するものが伝わってくる。そう、尊厳かもしれない。


サルガドが撮影した70年代から90年代にかけてのアフリカは、干ばつや内戦といった、この大陸ならではの悲劇を見つめたものが多い。それらはテーマとしてはすっかり手垢のついた「弱者としてのアフリカ」の典型的イメージではあるのだけれど、サルガドの写真から、そうした写真につきまといがちなあざとさは感じられないのが不思議だった。それがなぜなのか、孤児の少年の肖像をみていて、はたと思いあたったのは、そこに尊厳を感じるせいかもしれなかった。


サルガドの写真が美しいのは、その絵のような構図の妙にもあるように思う。エチオピアの難民キャンプで毛布をまとって立つ難民たちの写真があったが、その人物の配置がまるであつらえたように遠景、中景、近景と配されていて、しかも、その体の向きや姿勢が、まるですぐれた西洋の画家が描いたかのように象徴的なものとして直観されるのだ。先日、ゴーギャンを見に行ったのだが、晩年の大作に描かれた人物像がそれぞれ、過去・現在・未来とか、理想や現実、生と死、若と老いといったテーマを現しているように、サルガドの写真もまた、その人物の配置や姿勢に凝縮された象徴的な世界観を思わず感じてしまう。それが意図的かどうかはべつとして、見つめていると、おのずとそうした思考がみちびかれ、想像が広がっていく。


たぶん、よくいわれていることなのだろうが、ジャーナリスティックな報道写真でありながらも、これほどの芸術性をかねそなえた写真という意味で、サルガドは希有なのだろう。たとえばゴヤが時事的なことをテーマに描いた絵画をジャーナリスティックと呼んでいいのかどうかわからないが、サルガドの写真にはそれと同じように、写真に込められた生々しい具体的な事件や情報を知らなくても、普遍的なものを訴えかける力がある。それはやりすぎると、コマーシャルや広告の世界に近づきすぎてしまうが、そのぎりぎりのところで、サルガドの写真はとどまっている。


2000年代になってから撮影されたのは、スーダン南部のディンカ族や、ナミビアのヒンバ族やナミブ砂漠など、それまでのような、どちらかといえば時事的で、きなくさいテーマとは一見異なる対象を扱っているように見えるが、不思議とそこから受ける印象は、それ以前に撮影された写真とそれほど変わらない。それは、やはり彼の写真の底流に尊厳や気品といったものが感じられるせいかもしれない。


出口近くに、2006年に撮られたというスーダンのディンカの写真(チラシにもなっている)がかけられている。前にも書いた気がするが、ぼくがアフリカへひかれたきっかけの一つは、野町和嘉が撮ったディンカの写真だった。それは80年代の初め頃、つまりいまから25年くらい前に撮られたものだが、サルガドの写真でも、それとほとんど変わりのない風景がうつしとられていることに驚きをおぼえた。椅子にすわったディンカの若者の写真も、凛とした気品がつたわってきて、じつにいい。


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むろん、四半世紀の間にスーダンは大きく変わった。南部スーダンの首都ジュバは、南北の包括平和協定の締結後、流入してきた国際機関や中国企業などがもたらした外貨のせいで、いまやジュバのホテルの値段は最低でも150ドルから200ドルという、いびつな状態になっている。ディンカが暮らしているのは、ジュバから数百キロも離れたところだが、それでも近年のさまざまな経済的・政治的変転とは無縁ではないはずだ。こうしてウシを追いながらも、近くの町では携帯電話をもっている若者がいるかもしれない。それでも、ここにはなにか変わらない価値のようなものが、いまだに存在すると信じさせてくれる写真だった。

写真展の図録に西原理恵子さんが寄せた文章が載っていた。立ち読みしただけなので正確には覚えていないが、サルガドの写真は男の子にとっては毒だ、自分もアフリカへ行けばこんな写真がとれるんじゃないかという錯覚に陥ってしまい、人生を踏みあやまった人もいるだろう、というようなことが書いてあって、ああ、そうだよなあと思う。でも、サルガドのようになんか撮れないし、撮れなくたっていいのだ。ぼくがスーダン南部で撮った写真は、なぜか撮られる人たちが、ふだん着ないような一張羅を着て、おめかしして、みんな整列しているというものが多いのだが、そういうのも、あとで見ると、なかなか楽しいぞと思うのである。


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コメント

セバスチャン・サルガドさんのアフリカの写真に感銘を受けた者の一人です。その写真集が販売されていれば、ご紹介いただけないものでしょうか?宜しくお願いします。私は奈良市在住の者です。

投稿: 池永 博行 | 2010年1月17日 (日) 10時50分

>池永博行さま
サルガドの写真集はたくさん出ています。
日本版はないようですが、amazon.comの「洋書」の検索でSebastiao Salgadoと入れると、たくさんヒットします。
SAHELとかAFRICAが有名ですが、ペーパーバックの廉価版もあります。サイズは小さいですけど。

投稿: 田中真知 | 2010年1月17日 (日) 19時40分

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