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エジプト革命なる!

2月11日、とうとうエジプトのムバラク大統領が辞任した。アルジャジーラ・ウォッチで寝不足が極みに達していたので、このタイミングで辞任してくれて個人的にも助かった。それから一週間、日本の報道がにわかに元気になってきた。デモの最中よりも、結果がわかってからのほうが報道が盛んになるというのは、どういうことか。報道っていうのは、結果をうんぬんするよりプロセスを知らせることのほうが、だいじなのではないか。


それはさておき、やはり長年暮らしたエジプトでの出来事だけに感慨深い。政治的なことについては、いろんな人がいろんなことを書いているので個人的な印象だけ書いておきたい。前のエントリーでも書いたけれど、今回の革命でいちばん感じたのは、旧世代と若い世代との入れ替わりがはっきりしたなという印象だった。被害者意識に根ざした反米とか反イスラエルといった旧来の枠組みにからめとられない意識をもった若い人たちが、教育のあるエジプトの若者の中に着実に育っている。


9.11の頃はまだそうではなかった。あの頃も、教育のある若者はたくさんいたが、自分たちを受け入れてくれない不満を共有したり、ぶつけたりする手段がまだなかった。そんな彼らの一つの受け皿になっていたのが、ある意味、イスラーム主義であり、またイスラーム武装勢力だった。そこでは、悪いのはイスラエルやそれを支援するアメリカであった。むろん、そこに身を投じた若者は一部ではあったけれど、当時はそうした被害者意識が若者もふくめてエジプト人全体にある程度分かちもたれていたように思う。


けれども、それから10年以上たって状況はずいぶん変わった。ネットの普及のおかげで、自分たちの意見を共有できたり、政府のプロパガンダを距離を置いて考えられる環境が整ったのは、それ以前の若者たちとは大きなちがいだろう。暴力革命ではなにも変わらないことをわかっている世代が育ったということか。その意味で、これはイスラム革命でも反米革命でもなく、思想の世代交代なのではないか、という感がつよい。


今回タハリールのデモを指導した若者の1人であるグーグルのワエル・ゴニム氏をはじめ、運動の中心となった20代後半から30代くらいの教育のある若者たちは、ぼくがカイロに暮らしていた1990年代に中学生や高校生だった。彼らの多くは中産階級である。中産階級といっても貧富の差が大きいエジプトでは、日本とはかなりイメージがちがい、むしろそれなりの特権階級である。そのあたりについては長くなるので、あらためて書くことにする。


もう一つ感じたのは、アラブ政治の研究者の池内恵さんもいっていたことだが、尊厳の回復が大きな動機になっているということ。貧困が引き金といわれているが、貧困そのものももちろんだが、貧困によって自分たちの尊厳がこれ以上踏みにじられることに耐えられない。その思いが、社会階層を超えて共有されたというのは大きいと思う。程度はあるものの、たとえ貧しくても、自分が社会に大切にされている、尊重されていると感じられる環境があれば、人は生きていくことに希望を見いだせる。でも、それがほとんど見いだせない状況が極限まで来ていた。


エジプト人はプライドが高い。それは伝統的な気質のせいもあるだろうが、とくに中産階級の親の子供への接し方を見ていて感じたのは、とにかく些細なことで子どもを叱らないことだった。そのせいか鼻持ちならないタイプの者もけっこういるが、エジプト人におしなべて見られる根拠のない自信、底抜けの楽観主義は、こうした生育環境によってつちかわれたのだろうと思うことが多かった。それは、すぐに自分を責めてしまいがちな日本人の身からすると、脳天気にも見えると同時にうらやましくもあった。


けんかをするにしても、彼らは絶対に自分の非を認めない代わりに、相手のプライドを傷つけるようなふるまいを避けるのもうまい。けんかをしていると、かならず、すぐにまわりに人だかりができる。すると、けんかしている当人たちは、まわりに自分の正当性をアピールしだす。するとだれかが仲裁役になり、当人たちを「まあまあ」となだめにかかる。そのとき仲裁役が気の利いた冗談をいったりすると、一気に空気が和み、けんかしているはずなのに、なぜか笑いあったりするのだ。彼らのユーモアは互いのプライドを傷つけないための知恵である。そこまで大切にしている彼らのプライドが限界まで傷つけられてしまったのは、今回の事態につながる根深い要因だったと思う。


日本人はというと、こちらはおしなべて自己肯定力が低いから、プライドを盾に突っぱるよりも、プライドを捨ててしまうほうを選ぶことが多いのではないか。人を人として扱わないような組織的仕打ちは日本にもあふれているが、日本人の場合は、プライドを捨てて、それを感じないようにするか、その矛先を自分に向けてしまいがちだ。だから、うつになる。


話がそれたが、あともう一つ印象的だったのは、デモに参加した人たちが、みずからすすんで広場の掃除をしていたことだ。これはほかにも書いていた人がいたが、本当に驚きだった。ぼくが知っていたエジプトでは、だれも自分たちの町をすすんで掃除する人などいなかった。走っている車の窓からコーラの瓶を投げ捨てるのが当たり前で、汚した後の後片付けなどは無縁だった。


カイロに暮らしていた頃、現地の新聞の投稿欄に、こんな投書が載ったことがある。「私は日本人の知り合いに、どうしてカイロの街は汚いんだ、どうしてこんなにゴミだらけなんだ、といわれた。そういわれて見てみると、たしかにそのとおりだった。いわれて初めて気がついた。もっと、私たちの街をきれいにしようではないか・・・」だいたいそんな内容だった。


これを読むかぎり、投書したエジプト人は指摘されるまで、街の汚さなど目に入っていなかったらしい。その投書が新聞に載るということは、多くのエジプト人も似たようなものだったということだろう。それが今回は、だれからともなく掃除を始めた。これはおおげさにいえば意識改革といっていいほどすごいことに思えた。


亡くなったジャーナリストの沼沢均さんが生前、1993年、独立の喜びに沸くエリトリアを取材したときのことだ。選挙をおこない、国家建設への喜びにわくエリトリアを取材しつつも、彼はこれまでの経験から、いまは盛り上がっていてもふたたび新生国家への不満が増して、汚職や反乱が再発するのではないか、という不安をぬぐえなかった。ところが、そんなときたまたま中年の女性が歩道にかがみこんで、はがれた石畳をならべかえている場面を目にして、「エリトリアは大丈夫ではないか」と感じた、と彼はその著書の中で書いている。


自分たちの暮らす街を、自分たちでなんとかしよう。それまで感じられなかったそうした建設的な意志を、女性の石を並べかえるという行為に見て、沼沢さんはそう思ったのだろう。タハリール広場の掃除をする人たちの映像を見ながら、そのことを思い出した。


でも、そのあとに沼沢さんはこう書いている。「祭りの後に、食えない、働けない、ゆとりがないという状況がしばらく続くのだろう。しかし、それは乗り越えなければならない問題であることを、一番よく知っているのは当のエリトリア人自身であるのだ。エリトリアは自身の意志で立ち上がった。しばらくの間、歩き出すのを、見守ってみたい」(『神よ、アフリカに祝福を』)。


この「エリトリア人」はそのまま「エジプト人」と読みかえられる。彼らも、いますでに試練を迎えている。でも、それは乗り越えなければならない問題なのだ。外野のぼくがなにかいうのもせんえつだけれど、沼沢さんの言葉をかりて、ぼくもまた、しばらくの間、エジプトが歩き出すのを、見守ってみたい。

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コメント

「程度はあるものの、たとえ貧しくても、自分が社会に大切にされている、尊重されていると感じられる環境があれば、人は生きていくことに希望を見いだせる」
というご指摘は、エジプトに限らずそのまま日本でもどの国の状況にもあてはまりそうですね。しかし、「それがほとんど見いだせない状況が極限まで来ていた」のがエジプトに「革命」をもたらしたのだすると、その「極限」にいたるまでに、どれほど多くの尊厳が踏みにじられなければならないのかを思うと、ことばを失います。
変化のきっかけがひとりの青年の虐待死にはじまり、若者たちのリードによって前進した結果に胸のすく思いというか、希望を感じました。
「革命」はプロセスだから、ようやく長い道のりの端緒についたのだと思うのですが、選択的変化が実った事実にはやはりこころを動かされました。
ゴミ掃除の一件は後日談的おもしろさがあって笑えた──ゴミ問題では、日常的にぶちのめされるような経験をしてるので、ああ、ここでもカクメイ起きてくれよぉ〜! と切実な希望を抱いちゃったりして。

投稿: banana | 2011年2月18日 (金) 07時40分

>bananaさま

>「程度はあるものの、たとえ貧しくても、自分が社会に大切にされている、尊重されていると感じられる環境があれば、人は生きていくことに希望を見いだせる」
というご指摘は、エジプトに限らずそのまま日本でもどの国の状況にもあてはまりそうですね。

世界的にそういう時代に入り込みつつあるのでしょうね。最近奥さんがはまっているエマニュエル・トッドを借りて読んでいるのですが、これからそんな「デモクラシー以後」の時代が来ることが明晰に分析されていて暗澹たる思いになります。

投稿: 田中真知 | 2011年2月18日 (金) 21時48分

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