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2011年3月

犠牲と無責任ーー福島第1原発のこと

日本でも話題になったハーバード大学のサンデル教授の政治哲学講義、NHKで放映したものを一部しか見ていないが、たしか最初の回は「犠牲」をどう考えるかがテーマだった。多くの人を助けるためであれば一人を犠牲にしてもかまわないか。それとも、一人を助けるために多くの人を犠牲にするのもありか。


そこには決まった答えはない。だいじなことは、頭ごなしに「こうすべきだ」と決めつけるのではなく、そのときそのときの状況に応じて、自分の行動に責任と誇りがもてるような決断を下すことが大切だということだと思う。日本の場合、犠牲的精神は賞賛されがちだ。しかし、できれば犠牲なんかないほうがいいに決まっている。


一週間くらい前の天声人語に、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」のことが載っていた。あの物語は、人びとを守るために、みずからを犠牲にする若者の話だったけれど、今回の原発事故ではそうした結末にはなってほしくないと書かれていた。本当にそのとおりだと思う。


あのハイパーレスキュー隊による被曝しながらの徹夜の放水作業が始まったときには、彼らを英雄視したり、その犠牲的精神を賞賛する声がやまなかった。だが、たとえ彼らの行為がみずからの意志にもとづいていたとしても、あの段階でのあの作戦がかなり異常なことであったことに気づいていた人は少なくなかったはずだ。とくにテレビで解説している「学者」の多くは、心の中でその有効性をどこまで信じていたのか。


単純な話、素人の自分でも、あれだけの爆発があったら、使用済み核燃料プールが損傷していて水が漏れているのではないかと思う。そこに、あの水圧で大量の水を入れたら、放射性物質を含んだ水の漏出に拍車がかかったり、プールの外にあふれ出したりしないのかと疑問だった。実際に、ロイター伝など海外の報道を見たら、プールが壊れていて水が漏っていると断言している研究者もいた。でも、日本のテレビでは、だれもそんなことは話していなかったように思う。


放水の結果、プールに水が満たされて温度が下がったことで、一時的に、これで難局は乗り越えた、もう大丈夫だみたいな空気がメディアにも流れていた。でも専門家ならば、じつはいちばんクリティカルな状態にあるのは、むしろ燃料が損傷した可能性の高い炉心のほうであることはわかっていたはずだ。


おおげさ、あるいは不謹慎といわれるかもしれないが、それは第二次大戦末期の特攻作戦を思い出させた。特攻隊の若者たちは、自分の行為に意味があると信じて、あるいは無理矢理にでも意味があると自分に信じ込ませて飛び立っていったのだと思う。国民はそんな彼らを英雄視していたが、軍の幹部は特攻によって本当に状況が変わると信じていたとは思えない。


今回、どういう経緯で放水作業が行われることになったのかは、くわしくは知らない。けれども、数百ミリシーベルトという強い放射線を浴びながらの作業をするにあたって、政府や東電や原子力安全保安院が本当に十分に作戦の意味や、作戦遂行のための情報や助言を与えたのかどうかは大いに疑問だ。報道では海水を取り込むためのスペースがなくて急遽、取水の場所を変更したというが、そんなことは東電など現場の人間だったらわかっていたはずだ。彼らに犠牲的行為をさせて、大量の被曝という重い代償を担わせてまで意味のある行為だったのか。


さらに24日には3号機タービン建屋地下で作業員3人が被曝したが、これだって被曝の可能性が高いとわかっていながら東電からの注意喚起がなかったという。なんなんだ、それはと思う。ニュースでは「情報共有の悪さ」という言葉が使われていたが、要するに部下の安全を第一に考えて、自分の身を賭しても部下を守ろうというリーダーがいないということだ。犠牲なんてないにこしたことはない。でも、どうしても必要だというのであれば、まわりが、その痛みを全身で受けとめ、生涯にわたって引き受けていくという覚悟をもつべきだ。でも、そんな覚悟が東電にあったとは思えない。電力会社の幹部5人を救うために、1人の作業員が犠牲になるのを選べるか。サンデル教授なら、どんな問いかけをするだろう。


 

話は変わるが、26日夜のUstreamで原子炉圧力容器の元設計者である田中三彦さんと、元東芝の技師の後藤政志さんのレクチャーが生中継された。それは今回の事故がどれほどクリティカルなものであるか、そしてその人災的な性質を明らかにしたものだった。


田中三彦さんによれば、今回の事故は「冷却剤喪失事故」である可能性がきわめて高いという。彼の説明からはっきりしたのは、東電が、地震直後に自己の重大性・緊急性を認識していた、あるいは認識するに足るだけの情報を手に入れながらも、ずっと楽観的な話ばかりをしつづけ、テレビに出てくる学者も楽観的な解説をつづけてきたことだった。それは隠蔽というより、むしろ無責任といったほうがあたっているかもしれない。


田中三彦さんが話したポイントをまとめておく。


●水素爆発を起こした1号機では地震の直後に、圧力容器とつながっている配管が壊れた可能性が高い。それを裏付けているのは、首相官邸のウェブサイトで昨日公開されたデータ。それによると、地震の翌日の夜中、通常70気圧ある圧力容器内の圧力が急激に8気圧にまで下がり、ほぼ同じ頃、格納容器の圧力が通常の1気圧から8気圧に上がっている。また圧力容器の水位も急激に低下している。つまり、圧力容器内の水蒸気やそこで発生した水素が配管のこわれた箇所から、一気に格納容器内に噴出したと考えられる。それが格納容器のトップヘッドのフランジから漏れて、建屋の上で水素爆発を起こしたと考えられる。


●こういうタイプの事故は「冷却剤喪失事故」といい、世界で初めてのケース。ふつうはこうならないようにECCS(非常用炉心冷却装置)が働いて燃料系を保護するが、電源が通じていなかったため作動しなかった。


●ECCSが作動しないというのは、きわめて深刻な緊急事態。その後水素爆発が起きることは一直線のストーリーであり、専門家なら容易に予想できることなのに、なぜか東電はたいしたことにならないと考えていたらしい。しかし、水素爆発が起きた場合、格納容器はそれに耐えられる設計にはなっていない。


●タービン建屋で被曝が起きた3号機について、国は原子炉に損傷があったことを認めた。ということは、3号でも冷却剤喪失事故が起きている可能性がある。


●冷却剤喪失事故が起きていたら水を入れてもどんどん漏れてしまう。それをどのように冷却するかが問題。放射線があるので、人が壊れた配管を直すことはできない。それを長期にわたって、どのように冷却するかという根本的な問題がある。


●冷却剤喪失事故は、原発でもっとも危険な事故。それは明らかに事故直後にわかっていたのに、作業員の被曝事故が起きるまで公表しなかった。どうして避難などの判断を下さなければならない責任ある立場の人が、いままで楽観的な話ばかりしつづけたかのか。


●圧力容器の配管が損傷しているのに水を入れ続けているのは、冷やすために漏れていても無限に循環させなくてはならないから。一方で、使用済み燃料プールも損傷の可能性がある(後藤さん)。


●東電は1号機がいちばん危ないと述べている。その危ないシナリオは一つ。圧力容器内の溶けた燃料と鉄の支持構造物が溶けて底が抜けること。この前、圧力容器の底の温度は400度を超えていた。これは容器の外側から計っている。設計温度では302度なので100度近く高い。しかし、それはたいした問題ではない。温度によって強度は少し落ちるが、現在は圧力容器の圧力が配管損傷のため、ほぼゼロになっていて圧力による破壊はない。溶けた燃料が、底に溜まっているかどうかはわからない。


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思い出救護班

地震から10日以上たった。テレビで報道される被災地の惨状にはあいかわらず声も出ないが、それでも現地から送られてくる映像を見ていると徐々にではあるが復興へのベクトルが感じられる。がれきの山で、どこが道かどうかもわからなかったところに、いつのまにか車両の通れる道ができている。


地震からたしか3、4日後だったと思うが、地震直後の破断されてがれきの散乱した道と、そのあと同じ場所が人が通れるほどに修繕された写真がビフォア・アンド・アフターのように2枚並べられているのをインターネットで見た。これも数日前だったが、津波で自分の工場をすっかり破壊された人が、報道関係者のインタビューに答えて、(現場には)「いつ行けるかわからない」といっていたのに、その後、取材班の車に同乗したところ、バラバラの材木が道の脇に寄せられていて、わりとすんなりと現場までたどりつけていた。


この数日は大型のクレーン車ががれきの山の中で、こわれた家の部材やつぶれた車などを除ける作業をしているところが放映されている。自分は阪神淡路大震災のときには日本にいなかったこともあり、どのくらいのペースでこうした町が元に戻るのか見当もつかなかったが、テレビで見ているかぎりにおいては、破壊された町が片付けられていくスピードの速さに思いのほか驚いている。


けれども、この復興にむけての土木作業の速さに、当然のことだが、人びとの心が同じペースでついていけるわけではないだろう。地震のたしか翌々日くらいだったか、民放のレポーターが、場所は失念したが、東北の津波の被災地を歩いていて、がれきの中から水びたしになったアルバムを見つけるところが放映された。「ああ、アルバムですね」とコメントしていたが、あのあとレポーターはあのアルバムをどうしたのだろう。


津波や余震の危険がある程度去った後、テレビを見ていると、避難していた被災者が、津波でめちゃくちゃになった自宅に戻ってきて、写真など思い出の品を探しているところが、ときどき映る。現場には派遣されてきた救護隊の姿もあるが、彼らの仕事はまずは人命救助であり、その次は遺体の発見のはずである。見ていると、救護隊もファイルや色あせた写真帳などを見つけて、それを取材班に示しているシーンが映るが、そうしたものをいちいち集めておくようには指示されてはいないだろう。


でも、がれきの一つひとつは、被害にあった人たちの思い出からできている。ただの廃材のように見えても、それは孫の身長を刻んだ柱だったかもしれないし、その下には家族のアルバムや額に入れた写真などが埋もれているかもしれない。クレーンやパワーショベルががれきの山をすっかり片付けてしまう前に、それらを少しでも救い出す方法はないのだろうか。


テレビで見ているかぎりだからわからないが、そうした思い出の救出は家族の個人的な営為に任されているように見える。怪我をしていたり、動けなかったりと、なんらかの事情で現場へ行けない人たちには、なすすべがない。できることなら、思い出救護班みたいなものを組織して、なるべく多くのアルバムや思い出の品々を救い出してあげられればいいのに、と思う。この津波はおびただしい人命とともに、無数の思い出をも流し去ってしまったのだから。

 
 

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被災していないけれど疲れた人たちのために

信じられないような映像が連日テレビや動画で流れてくる。濁流と化した道路を車や船、家屋がまるで箱庭のおもちゃのように流れていく。そうしたとんでもない映像に日々さらされているうちに、自分の精神のバランスがだんだん崩れていきそうで危機感をおぼえている。


うちでは本や棚に載せていたものが多少落ちたくらいで被害といえるほどのものはない。それなのに衝撃的な映像や、ネットの情報を見つづけているうちに、熔けた鉛のような暗く重たいものが胸の奥にどんよりと溜まり、呼吸が浅くなり、いつも息苦しいような状態がつづいている。食欲もなく、ときおり吐き気さえして、仕事も手につかず、机の前にすわると無意識にまたネットを見て、ぼおーっとしてしまう。


たぶんいま、被災者でもないのに似たような精神状態にある人は、けっこういるのではないか。たしかに未曾有の出来事であり、しかもこの先どうなるかもわからない。被災地の人たちの苦境は想像するだけで戦慄する。いまだに消息のわからない知人もいる。なにかしなくては。でも自分になにができるだろう。そんな焦燥と無力感にさいなまれ、平穏無事でいる自分に対して罪悪感さえおぼえる。それは大なり小なり、被災していない人たちの多くが感じていることだと思う。

でも、くり返し流される衝撃的な映像や悲惨なニュースにさらされていると、その思考パターンがどんどん強化されて、いつのまにか無力感と罪悪感の無限スパイラルに入り込んでしまいそうになる。自分が原因で起きたことではないのに、責任を感じてしまう。「自分は無事でよかった」と思うことに無意識にブレーキをかけ、意識するしないにかかわらず、食べることや、楽しむこと、笑うこと、ふざけることなどにまで後ろめたさを感じてしまう。そうした思考パターンが、ますます罪悪感を強めて、いっそう胸苦しくなっていく。


でも、そういう考えは、きっとどこかがまちがっている。まちがっているというより歪んでいる。そのことはおそらく本人もわかっている。だけど、こういうときは、こんがらがった思考の毛糸玉をほぐそうとしたってだめだ。


それより、まずテレビのスイッチを切って、ネットのニュースも見るのをやめる。見なくてはいけない、知っておかなくてはいけないなんてことは、じつはない。いちばん、だいじなのは自分の中に生きようとする力が灯っているかどうかだ。テレビやネットを見て、生きようという力が失せていくとしたら、それは他人がどんなに重要だからといったって、本人にとっては不要である。自分が生きるのに必要な情報は本当はたいして多くない。そう、ひらきなおったって、ちっともかまわない。


生きるとは、たとえばおなかが空いたと感じることだ。どんなに悲しくても、ずっと食べていなければ、おなかは空く。なんどか経験があるが、空腹は恩寵のようなものだと思う。「ああ、おなかが空いた」という感覚が、自分を「生きる」という、まっとうなレールに引き戻してくれるからだ。だから、おいしいものを食べに行くのはいいことだ。そのときは、思いきり、おなかを空かせて行くことだ。


生きるとは笑うことだ。マルクス兄弟かキートンがおすすめだが、そんなに古くなくてもいいから笑えるものを見る。たとえば、こんなのとか。。。


大人気エジプトのパンダチーズ
 

真似してはいけない


トゥボルグ・ビールCM


淑女の夢


ダンス


中国のウォシュレットCM


やや個人的好み、かわいい系

 

それでも無力感にさいなまれたり、自分にはなにもできることがないと感じるかもしれない。でも、たいていの人はそんなものだ。チャリティーや募金をする人もいるかもしれないが、できないからといって自分を責めなくたっていい。ぼくだってしていない。いばることではないけれど、卑屈になることもない。直接的に手を下せる能力のある人は、そんなに多くない。でも、自分が生きていれば、あるいは生きる力をもっていれば、それがなにか、よくわからないけれど、回り回って、相手を救うことだってある。


以前ある人に聞いたのだが、死んでやろうと思って道路に飛び込もうとしたとき、目の前をひとりの中年のオバちゃんが「あ〜あ、やんなっちゃう」とかいいながらすーっと通り過ぎたそうだ。生活感がにじみ出ていて、見るからに「人生やんなっちゃう」という雰囲気だったそうだ。ところが、彼女が通り過ぎた後、彼はなんとなく死ぬ気が失せてしまったのだという。どうしてかは本人にもわからないという。ともあれ、そのオバちゃんは自分の知らない間に、ひとりの人間の命を救っていたのだ。そういうことだって世の中にはある。というか、そういうほうが圧倒的に多いのだと思う。


教訓話はあまり好きではないが、アナトール・フランスの『聖母の軽業師』という短い話はわりと好きだ。こんな話だーー。


乞食のような暮らしをしている貧しい旅の軽業師が、ある町の教会で聖母像を目にする。その前では修道士たちが、聖母に捧げる書物を書いていたり、聖母の絵を描いたり、立派な礼拝堂を設計したりして、聖母をたたえている。聖母像の前で聖書をそらんじる者もいる。

軽業師は、自分もなにか聖母のためにしてあげられることはないかと思うが、無学で、聖書の一節も知らない彼は、ほかの修道士たちにばかにされながら、いつもうしろのほうから聖母像を見つめている。それでも小間使いのような役目をしながら、修道士の末席にくわえてもらうことになる。

ある日のこと、ひとりの老修道士が、だれもいないとき礼拝堂にうれしそうに入っていく軽業師のすがたを目にした。なにをしているのかと思って、とびらのすきまからのぞくと、聖母像の前で彼が逆立ちをしたり、玉をもちいた軽業を演じていたのだった。

この先は、個人的にはいらないと思うのだが、一応話はまだつづく。その様子を見た老修道士は、「なんという冒涜」と軽業師を怒鳴りつける。ところが、そのとき、聖母が祭壇の階段を下りてきて、軽業師の額の汗を袖でぬぐったという。そういう話だ。


 

聖母は下りてこなくたっていい。現実の世の中では聖母が下りてくることなんかないからだ。でも、それでもいっこうにかまわないのだ。そういうことだ。


 

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京大カンニング事件と暴走する正義

ネットカンニング事件をめぐる一連の報道を見ていて違和感を禁じえない。いや違和感というより気持ち悪い。なんで、こんなニュースが夜9時のNHKニュースのトップになり、さらに10時の報道ステーションでもトップになり、11時あたりからのニュースなんだかスポーツなんだかわからない、いろんな報道番組のトップに取り上げられて、しかも連日、全国紙の一面に大きく取りあげられるのか。


たかが19歳の受験生のカンニングではないか。たかが、というと「されどカンニングだ」といわれるかもしれないが、やはりたかがカンニングだ。これが仮に、古典的なカンニングペーパーを使ってのしわざだったならば、こんな大々的にとりあげられることはありえなかっただろう。


では、なぜ報道されたのか。携帯とインターネットが使われたからか。携帯やインターネットだと、事態はそんなに重大なのか。たまたま尖閣ビデオ問題があったり、中東の政変にネットがかかわっていたからなのか。この手口をまねされてしまうと、受験システムが崩壊してしまうからなのか。


そんなことで本当に受験システムが崩壊してしまうのかどうかはわからない。個人的には、いまのようなくだらない受験システムは崩壊したってちっともかまわないと思うのだが、それはさておいて、どうしてここまで19歳の予備校生を、大学といい、すべてのメディアが寄ってたかって吊し上げなくてはならないのか。


彼のしたことは、けっしていいことではない。でも、彼の行為は、これほどの全国的な吊し上げに匹敵するほどの大罪なのか。未成年なので実名は出ないとはいえ、社会的抹殺同然ではないか。今回のことで彼は反省したかもしれない。でも、それ以上に社会というものに恐怖をおぼえたのではないか。社会はその枠からはみ出たものを制裁する。人を殺めたわけでも、大金をだまし取ったわけでもないのに、ここまでの制裁が加えられるところなのだ、という教訓を彼は学んだのではないだろうか。


たしかに法律というのは共同体の利益を守るためのものだ。しかし、ああ、いやだなと思ったのは、今回の罪状が偽計業務妨害の疑いであるという点だ。これは要するに、大学の経営に対する営業妨害ということだ。つまり、大学の商売のじゃまをした、ということである。倫理観や道徳観が問題にされているわけではなく、商売上の問題ということだ。


大学の経営がいまたいへんなのはわかる。でも、ここまで事を大きくして、しかも犯人を訴えるとまでいうのは教育機関のすることなのだろうか。それでも、あえて事を大きくしたのは大学の利益を守るために彼をスケープゴートに仕立てたかったからだとしか思えない。つまり、見せしめだ。さらにマスコミにとっては、携帯とネットという、いままさに旬のツールをカンニングに用いるという新手の事件である。しかも舞台となったのは京大や同志社だ。どこにあるかもわからないリビアやバーレーンなどより、はるかに大衆の好奇心をかきたてるネタにちがいなかった。こうして彼は大学とマスコミの格好のスケープゴートにされた。


テレビでは、一般の受験生たちがインタビューに対して「まじめに勉強した人たちが損を見るので、よくないと思います」と口を合わせたように答えている。そんなのはインタビューしなくたってわかる。そういう発言を引き出したくてインタビューしているのだから。たしかに、ほかの受験生たちからすれば、それは正直な気持ちかもしれない。でも、ちょっと話はそれるけれど、それならば大学、あるいは社会というものは、こつこつまじめにやったものが、きちんと報われるような仕組みになっているといえるのか。


受験を産業にして、学生から金を吸い上げるシステムをつくり、その上に大学がのっかって就職の予備校として機能しているような仕組みのどこに、まじめに人間を育てようという意志が感じられるというのだろう。もちろん教育者の中には意志を持っている人はたくさんいる。けれども、もし教育機関が、本気で人を育てようという意志があるならば、受験生である学生をスケープゴートに仕立て上げるような真似はしないはずだ。


いま社会が求めているのは、いわれたことしかできないマニュアル人間ではなくて、自分で困難を乗り越える応用力のある人材だとか、あきらめない不屈さのある人材だとか、ひとと協調しあえる人材だとかいうようなことを聞く。その意味でいえば、この予備校生は、学力が及ばない分を、携帯とネットというツールを応用して困難を乗り越える方法を編み出したのではないか。しかも、あきらめることなく、人と協力し合い、しかも、挨拶もろくすぽできない若者も多い中、回答してくれた人にはお礼も忘れないという礼儀正しさだってあったではないか。ひねくれた見方をすれば、受験システムを疑うことなく肯定し、そのレールに乗ってきたほかの受験生より、はるかに発想が柔軟とさえいえるではないか。


予備校生のやったことを賞賛しているわけではない。ただ、大学や社会が建前として求めていることと、実際にやっていることが矛盾しているのに、それを棚に上げて、すべてを彼ひとりの行為のせいにしていることが気持ち悪いのである。いい大学に入れなかったら人生は失敗だといった強迫観念をさんざんすりこみ、社会に出れば年寄りどもが自分の安泰を守るために若者に場を与えようとしない。そんな無意味なストレスをさんざん押しつけておきながら「近頃の若者は覇気がない」とか「夢がない」とか、まあ、ぼくみたいな世代のやつらが勝手なことをいうのだ。ぼくも反省だ。


この国ではしばしば善や正義が暴走する。今回のように、だれが見ても、ほめられない行為にたいしては正義が待ってましたとばかりに牙をむく。悪を行うときには、そこには少しばかりのためらいがあるが、正義を行う場合には歯止めがかからない。何年か前、イラクで日本人が人質になったときに声高に唱えられた自己責任論もそうである。悪いことをした人間にたいしては、なにをしてもかまわない、というその空気が暴走を招く。歴史を見ても、正義の名のもとに、どれほどの殺戮が行われてきたことだろう。正義をかさに、自分たちのしていることは棚上げにして、ひとりの青年にすべての罪をきせてたたきつぶす。恥ずかしいことだ。

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