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2011年4月

ひとはどこまで記憶できるのか

今回は新刊のお知らせ。予告とかも書くつもりだったのだけど、このところそれどころではなくなってしまっていたので、もう出ていますという紹介。以前から関心のあった「記憶」というテーマで書いたものです。

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『ひとはどこまで記憶できるのか』(技術評論社)

 

サイエンス系のシリーズの一冊なので、脳における記憶形成のメカニズムや、記憶の能力を左右するものは何かといったことなどについてもふれているが、それも踏まえたうえで記憶というものが人間にとって、どんな意味を持つのかという点にもできるだけ踏み込んだ。

記憶はある人をその人たらしめている重要な要素である。しかし、その記憶は本当に、その人の経験そのものなのか。もし記憶が失われたら、その人はその人でなくなってしまうのか。逆に、すべての記憶が忘れ去られることなく残っていたら、その人の内的世界はどうなるのか。そのような、ある意味、哲学的な問題についても考える手がかりを与えられる内容にしたつもりである。 

タイトルは自分でつけたのではないので、正直やや「うーん」というところもある。こうすれば記憶力がよくなる、という実用的な内容というより(そういう話も書いてはあるが)、じつのところ方向としてはその反対だからである。とみに自分が最近物忘れが激しくなってきたからというわけではないが、むしろ『忘れてなにが悪い!』というタイトルのほうがあたっているかもしれない。

サヴァン症候群をはじめとした記憶の病理をめぐる特殊な症例や、「記憶喪失」をめぐる映画の変遷といった話なども取り上げたので、脳や神経のことにくわしくなくても、おもしろく読めるのではないかと思う。


以下は「はじめに」より抜粋。

 人間の記憶ほど当てにならないものはないといわれる。鍵をどこに置いたか思い出せない。覚えたはずの単語が出てこない。言った言わないで人間関係のトラブルになる。年をとれば人の名前が出てこなくなったり、漢字が書けなくなったりもする。

 だからこそ、人間は古代から記憶にこだわってきた。古代ギリシアにはムネモシュネという記憶をつかさどる女神がいた。この女神は詩の女神ムーサとともに学問の守護神だった。古代から中世にかけては記憶力こそが知者に欠かせぬ条件とされていた。

 事情はいまもあまり変わっていない。学校で習うことの大半は、新しい知識の記憶であり、「記憶力がいい=頭がいい」という図式はいまなお生きている。書店に行けば、記憶力アップや、効率的な記憶の仕方を指南する本があふれている。

 コンピューターが登場した頃、人間の知的能力は遅かれ早かれコンピューターに追い抜かれるだろうといわれていた。しかし、脳科学研究が進むにつれて、人間の脳が現行のコンピューターより、はるかに複雑な情報処理システムであることが明らかになってきた。

 にもかかわらず、情報処理の速さや能力に関しては、脳はコンピューターの足元にも及ばない。百科事典レベルの情報を一瞬にして記憶し、いつでも正確に呼び出せるコンピューターに比べて、脳はさっき聞いたばかりの人の名前すら忘れてしまうし、かんちがいも多い。単純な記憶能力に関しては人間の脳はコンピューターよりはるかに低スペックだ。脳の複雑な構造を思えば、これは奇妙に思われる。

 だが、これこそ脳が長年の進化の過程で獲得した能力なのである。われわれの脳は「覚えられない」のではなく、「忘れることができる」のだ。「正確に記憶できない」のではなく、「まちがえることができる」のである。言葉のあやのように聞こえるかもしれないが、そうではない。われわれの記憶は、忘れたり、まちがえたりすることによってつくられているのである。

(中略)

 現代は記憶力偏重の社会だ。個人が扱う情報の量は、10年前に比べても飛躍的に増大している。一方で人間の脳の仕組みは数十万年前からほとんど変わっていない。

 現代人の頭の中は不要なものでいっぱいになっているのではないか。とくに中年以降は、新しいことを覚えるより、いらない経験や知識を捨てる方が、はるかに人生はうまくいくのではないかという気もする。シュバイツァー博士も述べている。「肉体が健康で、記憶力が衰えたのが、いちばん幸せである」と。

(後略)


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陸前高田被災地訪問の記 2(被災者Kさんの3月11日)

前回のエントリーで書いた陸前高田で被災したKさんは、津波からの避難のさなか、その様子をデジカメで撮影していた。Kさんにお借りした写真をまじえつつ、うかがった話をもとに、当日の彼の体験をたどってみる(写真・動画はすべてKさん撮影)。


地震がやってきたとき、Kさんは川のそばのおじさんの家にいた。地震の衝撃はかなり大きく、しかも長くつづいた。本来なら、すぐに流れるはずの防災無線も、地震とほぼ同時に停電したために機能しなかった。これほど大きな地震ならかならず津波が来る。そう思ったKさんは、おじさんを車椅子に乗せて避難所へと運ぶ。


そのあと、Kさんはふたたび町へ戻り、別のおじさんの様子を見に行く。はたして、おじさんは高台の施設にいるとわかったので、こんどは自宅へ。Kさんの自宅は広田湾の河口から1・5キロほど遡った場所にあり、川の堤防からも200メートル近く離れていた。津波の高さは6メートルとラジオで聞いたが、このあたりに住む人たちは、Kさんもふくめて、それでも、まさかここまでは来ないだろうと思っていた。


Kさんの自宅の裏手には神社のある山があった。津波のときにはここに逃げると決めていた場所だった。今回もそこに避難するつもりではあったものの、6メートルの津波であっても、さすがにここまでは来ないだろうと、たかをくくっていたところはあった。そこで財布や水のボトルなど最低限のものだけを持ち、パソコンは一瞬目をやったものの結局置いていくことにした。


水が押し寄せてきたときに備えて、自分の車を山裾へ移動したあと、神社のある山の南側のなだらかな坂道を登った。津波が来るにはまだ多少時間があると思い、いったん来た道を戻って様子を見ていると、海が堤防を越えて溢れてきているのが目に入った。これはまずい。さらに、毛布を背負ったおばさんが津波に追い立てられるように、のろのろと歩いている。おばさんにかけよって急かして、神社の参道の階段を急いで登る。津波はじわじわと背後に迫っていた。すでに山上に避難していた人たちから「来たぞ、来たぞ」と声が上がっていた。


階段を途中まで登ったときには水が山裾に押し寄せ、ここなら大丈夫と思って駐車した自分の車を呑み込んでいた。津波はぐんぐん水位を上げ、とても6メートルどころではない。社のある頂上にたどりついて下を見ると、瓦屋根の家並みはすっかり水没し、逆巻く海のようになっている。引く波にのって木造の家々が流されていく。家の屋根に乗ったまま沖へ流されていく人もいた。その人に向かって、上からみなで「がんばれよー」と声をかけた。


 
津波はなんどか行ったり来たりして、そのたびに家々を破壊し、ガレキを押し流していく。1時間たらずのうちに、町はすっかり水没し、湖のようになってしまった。


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夕方になると徐々に水が引いていったが、あたりはすっかり洗い流され、そこにあったはずの建物が見あたらない。自宅の前後にあった2つの蔵も長屋もきれいになくなっていて、いままでに見たことのない風景が広がっていた。参道の階段の下の方は泥水に沈み、手すりがぐにゃりと曲がっていた。


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山の右手の中学校の方角から、連続して爆発音が聞こえていた。そのうち火の手が上がった。駐車していた車のガソリンに引火して、停めてあった車が次々と炎上し始めていたのだった。


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夜明かしに備えて、夕方、避難していた数人の若者といっしょに水を汲みに山の裏手の泉まで下る。津波は山の斜面を駆け上り、そこにあった家を破壊し、畑もどろどろになっていた。半壊した家の屋根の上で、男の人が「助けに行こう」といっているのが聞こえた。なにごとかと近づくと、家の中に足の不自由なお母さんとお嫁さんがいるという。屋根の上から中に入る。他の人たちといっしょに、中からうつぶせになった二人の女性を引っ張り出したが、すでに息はなかった。
 

夜になっても中学校のほうから聞こえる爆発音はなおもつづいていた。おびただしい車を燃やした炎は体育館へと燃えうつっていた。炎上する体育館に踊る火がぬかるみに沈んだ夜の廃墟をぎらぎらと彼方まで照らし出していた。見上げると、おそろしいほどきれいな星空だった。やがて雪がぱらぱらと降ってきた。

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暖をとるために、間伐材を集めたり、古い賽銭箱をたたきわって、それを境内で一晩中燃やした。神社に避難していたのは80名ほど。お年寄りもいれば、赤ん坊をつれたお母さんもいた。みんなで火を囲んで、長く、凍える一夜を過ごす。体調の悪い人たちは社の中で体を休めた。眼下では燃え上がる体育館の炎が、どろどろになった町を不気味に照らし出していた。

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長い夜が過ぎて、東の空が明るくなりはじめた。一晩中燃え続けた体育館の火もおさまり、これまで見たこともなかった風景が徐々に目の前に広がってきた。

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朝8時頃、避難していた人たちみんなでいっせいに山の裏手を通って山伝いに移動して、それぞれに避難所へとたどりついた。


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(つづく)

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陸前高田被災地訪問の記 1(なにを持っていったか、なにが必要とされるのか)

3/11の地震後、陸前高田に住む古い知りあいKさんの消息がわからなくなった。長年エジプトで通訳ガイドをしているKさんは地震の一週間ほど前にエジプトから帰国したばかりだった。エジプト革命の一部始終を見たあと、帰国してすぐ今回の惨事に巻き込まれたのだった。


Kさんが津波の難を逃れてある避難所にいることがわかったのは地震から5日後だった。しかし、無事はわかったものの、その後連絡はとれず、いまどういう状態なのか、親族はぶじなのか、どのような状況で被災したのかなどはわからなかった。津波後に撮影された航空写真でKさんの住所を見ると、そのあたり一帯はなにもなかった。


4月に入ると、道路事情やガソリン事情が徐々に改善し始めた。そこで4/12から14にかけて、同じくKさんと共通の友人でエジプト考古学者のかわえくんとともに陸前高田を訪れることにした。Kさんと関係の深いエジプト関係者・考古学研究者の方々に協力を得て資金を集め、Kさんの状況確認、それにささやかながら車に乗るだけの支援物資を用意して、陸前高田の避難所へ運ぶことにした。


問題は何を持っていくかだった。インターネットを見ると、被災地で何が必要とされているかは日々刻々と変わっていた。また、場所によっても求められている品目はさまざまだった。先に取材や支援で入っていたカメラマンや、同じくすでに支援活動を始めていたイギリス人らの知人と連絡をとったところ、3月いっぱいで緊急支援状態は脱していて、米などの食料や冬物衣類などはすでに十分あるという話だった。また必要とされるものが数日単位で変わることもわかった。携帯が通じやすくなって、必要なものがこれだとわかると、その数日後には大量の物資が届くという状況になっていた。


とりあえず、4/9にインターネット情報や知人の話などを参考に、まず以下の品々を用意した。


長靴男用 6
長靴女用 4
帽子男用 6
軍手 山盛り
ビニール袋 45リットル 1箱(1000枚入り)
ビニール袋 90リットル 1箱(500枚入り)
サランラップ 2本
水2リットルボトル 数本
花見セット(900mlの日本酒・焼酎数箱・つまみ数種類)
菓子の詰め合わせ 大2袋
男性下着・靴下 10組
女性下着・靴下 10組
ホウ酸 2箱
精製水 6本
コットン 1袋(陸前高田は撤去作業が進み地面が露出して砂埃がひどいそうで目を洗うため)
リップクリーム 数本
ハンドクリーム 数本
入れ歯洗い   1箱
紙コップ    大2パック
濡れティッシュ 2箱+詰め替え6コ
ボディーシャンプー 2ボトル
マスク  2箱
葉書 100枚(被災地域でも配達が徐々に始まっていると聞き、家族に消息を知らせるのに使えるのではないかとのことで購入)


また、児童書出版社の偕成社より、絵本や児童書の詰め合わせパック、一箱分を寄贈していただいた。

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さらに翌4/10、Kさん本人と直接電話で話ができた。その際、彼のいる避難所が中高年が中心で現在80名(男女半々)ほどであること、被災者に直接アンケートをとったところ女性用のケア用品などアメニティ系の品々がほしいという声が多かったことなどがわかった。それに基づいて以下の品々を追加購入した。


ボディタオル 10
ヘアブラシ 10
フェイス用カミソリ 2×10
メガネ拭き 5
ヘアバンド各種 10
髪用リングゴム 10
つめきり 10
毛抜き 10
スタンド付き化粧用小型ミラー 13
マグネット将棋 2
洗顔フォーム 5
ローション 5
リップクリーム 9
乳液 1

日本酒1.8リットル紙パック 1
焼酎1.8リットル紙パック 4


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こうした品をダンボール箱10箱ほどにパッキングし、車の荷台に詰め込んで、4/12朝8時、陸前高田へむけて出発。東北自動車道は混雑もなく、ガソリン事情も問題なし。ヤフオクで買ったガソリン携行缶の出る幕もなし。一関ICで高速を下り国道で気仙沼方面へ。一関のコンビニでは牛乳、ヨーグルト、お酒類がなかった。地震でひびの入った建物や、足場の組まれたビルがあるものの、目に映る風景そのものにとくに変化はない。


ところが、気仙沼へつづく3つのトンネル(松川トンネル、安波ト ンネル、鹿折トンネル)を抜けたとたん、一気に非日常的な世界に投げ込まれる。高架道路の右手に大火災で焼けただれた気仙沼の町がえんえんと広がっている。

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気仙沼から山をぬけて北上して陸前高田へ。午後4時頃、待ち合わせ場所の長部小学校(ここも大きな避難所になっている)でKさんと再会。校庭では自衛隊の緊急派遣チームが物資の仕分けを行っていた。Kさんと、その友人であり同じく被災者である女性Nさんとともに、まずは被災したKさんの実家のあるエリアへ。


Kさんご自身の家はすっかり流されていたが、入院中のおばさんの持ち家であった実家はコンクリート製のため、かろうじて倒壊せずに残っていた。先年亡くなったというKさんの父君の家(木造)は、二階部分が1キロ先の海側で見つかり、その瓦屋根が遠くに見えていた。「前はここからは川も海も見えなかったのに、すっかり見晴らしがよくなってしまいました、はは」とKさん。


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気仙沼は壊れた建物ががれきとなってうずたかく積み重なっていたが、陸前高田の被災地はまるで整地したあとのように殺風景である。Kさんによると、気仙沼は入り江の入り口にある大島のせいで、津波の勢いがそがれたのではないかという。それに比べて陸前高田の地形には遮蔽物もないためフラットな平地を津波が一気に押し寄せてきて、いっさいがっさい押し流してしまったのだという。一見すると気仙沼の方が壮絶な印象を受けるが、津波の押し寄せたときの猛威は、おそらく陸前高田のほうが凄まじかったのかもしれない。町のなかの道路のがれきはきれいに取り除かれており、通行に支障はない。


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その後、町なかを見て歩いた後、車で20分ほどの隣の大船渡市へ。ここも津波による被害の激しかった地域だが、少し標高の高い場所に来ると、なにごともなかったかのように電気もついているし、小売店やスーパーマーケットも営業している。中でも最大なのがこの地域で最大の「スーパーマイア」という巨大スーパー。ここは震災後に物資を集中的に取りそろえるための拠点となっているとのことで、中に入るとなんでもあるのに驚いた。お酒も米も牛乳も野菜も魚も肉も雑誌も、日用品も雑貨もなんでもある。われわれが持参してきたようなものがほとんどあるのではないかと思われるほどで、少々拍子抜け。ただし、ここまで買い物に来られる被災者は限られているし、物資があるからといって、それが被災者の元へとどいているわけではない。


 
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その後、彼らが避難している陸前高田の某避難所へ行き、敷地の一角にテントを張ることを許可していただいた。自分たち用の水と食料はすべて持参していったが、この避難所の食糧事情はよく、水も毎朝、自衛隊が運んできてくれるという。被災者の滞在している大広間に通じる玄関には援助物資の入ったダンボール箱が積み重ねられていた。ただし、避難所によってはいまだに一日二食のところもあるという。さまざまなNGOや組織が関わっているので、避難所によって食料の供給方法がちがうらしい。

 
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翌朝(4/13)は明け方に震度4の地震で目覚める。避難所は8時過ぎに消灯で、しかも高齢者が多いので被災者の朝は早い。暗いうちから中庭のブルーシートで作った天幕の中で、薪を割って火を起こす音がする。うぐいすの鳴き声がまだ明け初めぬ杉林の中に響く。


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朝食後、持ち込んだ物資を避難所内の広間に持ち込み、そこで開封して、座卓に並べる。KさんとNさんから被災者の方々に声をかけてもらって、ほしいものを一人ずつ順番に1つ選んでとっていってもらうという方法をとる。一巡した後、もう一巡、さらにもう一巡と何度かくり返す。このやり方が最善とは思えないが、この避難所は規模が小さく、ほとんどが知り合い同士なので、とくにトラブルもなく配布が進んだ。Kさんには個人的にプリペイド携帯やラジオをお渡しした。

 
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あらかじめリクエストを聞いていたため、数量にかぎりがあったとはいえ、かなりピンポイントで必要なものを持参することができたのはよかった。とくに女性用長靴や爪切り、女性用カミソリ、スタンド付き鏡といった小物類は、援助物資にはなかなか入っていないので歓迎された。また、入れ歯洗浄剤(パーシャルデント)も高齢者が多いこともあって人気だった。砂埃が激しく、がれきの撤去作業で目を痛めている人が多いので、ホウ酸と精製水のセットも歓迎された。避難所では携帯電話を持つ人も増えているが、高齢者が多いと中には筆まめな人もいるので、葉書も歓迎された。避難所の入り口には簡易ポストも置かれていた。90リットル、45リットルの大型ポリ袋も、これから引っ越しのときに必要となるのでほしいという人が多かった。


一方で、裁縫セットや耳かきがあったらよかったという要望もあった。また、男性陣の中には、避難所からがれき撤去の仕事に出かける人も多いため、粉塵用のマスクやゴーグルなどもあったほうがよかったかもしれない。お酒は個人的にKさんに一部お渡ししたが、避難所として受け取るのはちょっと・・・と遠慮された(陸前高田全体の支援物資の受け付けを行っている本部では受け取ってもらった)。


また今回気づいたことだが、被災者の多くは私物を置いておく場所というのがない。家は失われてしまったし、避難所にはロッカーがあるわけではない。なので、支給された物資などの私物は部屋の隅やたたんだ布団の横に置いておくしかない。そうした私物を入れるための箱や袋、紙入れなどをほしいという人もいた。被災者の中には、いまでは家族や親類の協力で携帯電話をもったり、軽自動車などを購入している人も少なくない。この避難所の駐車場にも、被災者の方の自動車が夜になると10台ほど停められていた。車のある人は、そこに私物を置くことができるが、そうでない人は持ち物の管理がむずかしいという問題もある。


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結果的に持参した品のほとんどは、この避難所の被災者の方に受け取っていただけた。その後、偕成社から寄付していただいた児童書を長部小学校の物資の担当者の方へ直接お渡しする。ここには主に子供のいる家族が避難していて、教室ごとに主に同じ地区の住む5~7家族が滞在している。教室間同士で人が行き来することはインフルエンザの怖れがあるので禁止されていた。許可を得て、ある教室に入って、そこのお母さんに話を聞く。「風呂に入れなくてもなんともないのですが、歯磨きができないのが三日目くらいからつらかった」といわれた。「せっかく学校に合格したのに、両親が亡くなってしまった子もいたり、今回の津波で人生が狂ってしまった人たちがたくさんいます。その子は学校はやめるといっていたのですが、学校が援助するから来なさいと行ってくれて、行くことに決めたそうです・・・」

 
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この小学校の体育館が援助物資の倉庫になっていて、そこも見学させてもらう。曜日と時間を決めて、被災者の人に公開して、必要なものを持っていってもらうようにしているという。食料から衣類、薬品、書籍など、大量の援助物資が、きちんと分類されて並べられていた。係の方は、「食料はかなりありますが、それでもこれからなにが起きるかわかりませんから、なるべくたくさんストックは持っておきたいと思います」といわれた。

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衣類は初めはただ床に並べられていただけだったが、NGOやボランティアがサイズ別、男女別に分類したり、ハンガーを持ってきて掛けたりしたことによって、持っていってもらえる率が上がったという。「震災直後はなにもなかったですから、古着でもなんでもよかったのですが、いまでは新しくないと持っていってもらえません。冬物はもうダンボール箱に入れて二階にストックしています。ランドセルも十分足りています。初めのうちは、お母さん方が衣類や薬などを取りに来るというのがメインだったのですが、最近は子どもたちが開館の日の朝から並んでいて、本やおもちゃを持っていくようになっています。ちょっと本来の役割ではなくなってきているような気もするんですが・・・」

 
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その後、支援物資を一括して扱っている給食センターへ。そこで「支援物資としてお酒は受け取っていただけますか」と聞くと、「来るもの拒まずです、ありがとうございます」といわれ、ダンボール一箱分のお酒を渡す。係の人が「消防団にいいかな・・・」と呟いた。お酒については、ずいぶん迷ったのだが、被災から一ヵ月たって基本的な物資にくわえて、生活の潤い系のものへの需要が高まっていると聞いていたので持ってきた。ただ、避難所それぞれのポリシーもあるだろうし、おおっぴらにはなかなか難しい点もあるようだ。ただ、男性陣の中には、ほしいと思っている人がかなりいることはまちがいない。


すでに書いたように、被災地での需要の種類は数日単位で変化している。ここに記した内容も刻々に変化している。ただ、一方でなにを支援物資とするかという点にかんして、むずかしさを感じたのも事実である。これはおそらく戦場の難民キャンプなどでもいえることだと思うが、個別のリクエストを満たすという形にした場合、それがはたして本当に必要なものなのかという問題につきあたる。


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Kさんに携帯を渡せたことで、彼らとの連絡が密にできるようになり、われわれの帰京後、避難所からの追加リクエストも届けられた。その中には、コロコロ(粘着テープの付いているお掃除用のあれです)女性の人数分とか、固形石けん人数分、携帯ラジオをかなりの数といったものも挙げられていた。中心となっているのは女性のリクエストで、今回持っていたアメニティ系の品々をさらに細分化したという印象だった。


物資が十分でないのはたしかだ。しかし、はたしてコロコロが人数分、避難所で緊急に必要だろうか。またすでに液晶テレビまで支給されている避難所で、一人一台ずつの携帯ラジオが必要なのだろうか。自衛隊の用意したお風呂に、最近では3日おきに(少し前までは週一回)連れていってもらえて、そこには石けんやカミソリ、下着なども用意されているという。


基本的な衣食が満たされたあとは、個人的な嗜好品や生活の潤い系の品々が来るのはわかる。だからこそアメニティ系の品々やお酒を持っていったわけなのだが、えんえんと個別の細かい要望を聞き続けていくとなったら際限がない。以前、アフリカで働く援助関係者から、まさに似たような話を聞いたことがある。もちろんスケールはちがいすぎるが、ささやかとはいえ、ひとから集めたお金をどのように使うかについては気をつかう。


ツイッター上では被災地に化粧品をという運動も起きている。実際にこれから日ざしが強くなる中、肌のケアは男女ともにだいじだし、日常を回復するためにも身だしなみを整えるのはたいせつなことだ。しかし、化粧というのが、どの範囲までなのかというのはわからない。被災者の中にはすべてを失ったひともいる一方、中にはすでに携帯や中古車を手に入れて、となり町のスーパーへ買い物に行ける人もいる。一人ひとりの抱えている状況や問題があまりにちがいすぎて、いちがいにはいえないだけに、限られた資金をどう役立てられるのかには悩む。小学校の体育館で支援物資の管理をしていた市の担当者の方が、子どもたちがおもちゃを取りに来るのを「ちょっと本来の役割ではなくなってきているような」といっていたのも、そんな葛藤があるのかもしれない。


今後、陸前高田の被災地では暖かくなるとともに衛生状態が悪化し、感染症などの心配も出てくるだろう。被災者の男性の中には、被災地でのガレキの撤去の仕事を始めている人たちもいる。思うに、衣食の問題が一段落したいま、被災者の衛生環境や健康の維持のほうが、コロコロなどより切実な課題ではないか。そのための防塵マスクやゴーグルは用意されているのか。そのあたりは調べないとわからない。

 
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個々の要望を聞くことは基本だが、その要望が長い目で見て、どこへつながっているのか、あるいはつながっていないのかを見ていくことが、それ以上にたいせつなのだと思う、自戒も込めて。


(つづく、なるべく早く)


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ハピドラムでサクラ

気がつけば、桜が満開だ。あまり桜を味わえる気分でもないのだけれど、やはり風に枝葉を揺らす桜の花はいい。なので、ちょっと桜の曲を即興的に弾いて(たたいて)みた。YouTubeに動画をアップするというのも初めてやってみた。



抱えているまるっこいものは、ハピドラム(Hapi Drum)という鉄でできた楽器。2008年にアメリカで発明されたもので、たまたま当時ホームページで見つけて、サンプルの音を聞いて、これはいい音だと感激した。ちょっと高かったけど、買おうと思っていたバーバリーのコートをやめてユニクロにすることにして注文。当時は注文生産だったらしく、届くのに3ヵ月くらいかかった。


新しい楽器なので奏法もとくに確立されていない。でも、それがよかった。ピアノや、あるいは民族楽器のような伝統のある楽器だと、先達にはかなわない。だけど、これなら伝統もメソッドもない。自分で好きなようにたたけるし、だれでもパイオニアになれる。


ひまなとき適当にポコポコたたいていて、案の定しばらくしたら飽きてしまって、部屋の隅で埃をかぶっていたのだけれど、行きづまったときとか、がっくりしたときなどにたたくと気がまぎれる。


ところが、行きづまったり、がっくりすることがだんだん多くなり、そうなるとたたく回数が増えてくる。そのうち1個では気がまぎれなくなった。これではいけない。そこで買おうと思っていたロンサカパXOのラムを「いいちこ」に変更することにして、もう1つスケールのちがうやつを購入。でも、エジプトの政変の頃から、またがっくりすることが多くなった。そこで行こうと思っていた帝国ホテルのディナーをガストに変えることにして、さらにもう一つ、スケールのちがうのを買った。落ち込む数だけハピドラムが増える。


ここでは紹介していないが、音程を変える方法や、音色を変える方法も考案した。自分では「すごい、これは画期的だ!」とおもったのだけど、この楽器をもっている知り合いがいないので自慢にもならない。


これだけだと音色が単調なので、これを叩きながらピアノを弾くというのもやってみたのだが、いまひとつうまくいかない。これを叩きながらディジュリドゥを吹くというのもちょっとトライしたのだが、これは息が続かずくらくらしてくる。最近、また心労が多いので、さらにもう一個増えてしまいそうでこわい。


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見ていたのに見えていなかったもの

黒澤明の晩年の作品である『夢』(1990)は、短いエピソードを集めたオムニバス形式の作品だが、その中に「赤富士」というエピソードが出てくる。ツイッターでも紹介したが、これである。

 


写真家の小松義夫さんに教えられてYouTubeで見たのだが、「6つの原子炉がつぎつぎに爆発を起こし」とか「危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はないと抜かした奴は許せない」といった科白など、いまの状況をまさにいいあてているようでショックだった。


しかし、それ以上にショックだったことがある。それは、ぼくが過去にこの映画を観ていた(それもおそらく2回)にもかかわらず、このエピソードをまったく覚えていなかったことである。


他のシーンはいくつか覚えている。狐の嫁入りのシーンや、段々畑でのひな祭りのようなシーン、トンネルから日本軍の兵士たちの亡霊が現れる場面などは、比較的はっきり思い出せる。でも、この赤富士のエピソードは、情けないことだが、まったく記憶に残っていなかった。


それは、どうやら自分だけではないようだった。ツイッターでも「こんなシーンがあったのを全然覚えていなかった」と書いている人がいた。そうなのだ。見ていたはずなのに覚えていないのだ。それは、どうしてなのだろう。


たしかにひな祭りのシーンのような清冽な映像美は、この赤富士のエピソードにはない。舞台の書き割りのような稚拙なセット。田舎芝居のような、大げさで、説明的な科白回し。率直にいって、黒澤の以前の作品の水準からすれば、この部分は凡庸だ。もともと評論家の間でも『夢』の評価はけっして高くないし、とくにこの部分はダメの烙印を押されそうだ。


なぜダメと感じるのか。それはいま言ったような、ひねりのない演出のせいもあるが、それ以上に、このエピソードにあまりにも現実感が感じられなかったせいだろう。原発が爆発? 放射性物質が飛散して、みんな死んでしまう? ゴジラみたいなエンタテインメントならわかるが、それをシリアスな話として描くなんてありえない。そのリアリティのなさのせいで、心のどこにも引っかからず、記憶にも残らなかったのかもしれない。


でも、いま思えば、まさに、その「記憶に残っていない」「すっかり忘れていた」という心のあり方こそが、原発問題の解決をはばみ、今回の事故につながっていたのではないか。


『夢』は実際に黒澤が見た夢をもとにしてつくられた作品だという。どうして彼がある意味、芸がないといわれても仕方のない、このような演出をしたのか、いまとなってはわからない。しかし、彼はこのエピソードを、加えずにはいられなかった。それも、これほど愚直でストレートな表現で。そういう形でしかこのテーマは表現できないと彼は考えた、ということだ。


3月26日の毎日新聞に、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)を書いた加藤陽子さんが「原発を許容していた私」という一文を寄せている。「原発を地球温暖化の切り札とする考え」や、それが「パッケージ型インフラの海外展開戦略の柱」であることや「オール電化は火事とは無縁の安全なものとして語られていた」事実を、加藤さんは「許容していた」と書く。


でも本当に「許容」なのか。むしろ、自分も含めて大多数の人にとっては「許容」どころか初めから「見えていなかった」のではないかという気がする。『夢』における赤富士のエピソードがまるで記憶に残っていなかったように、まな板の上にのせる前に、問答無用で削除してしまうようなプログラムが、われわれの頭の中にできあがっている。問題はそこにある(あるいは、あった)のではないか。


チェルノブイリのとき、ぼくはギリシアのアテネにいて連日センセーショナルな見出しの踊る新聞をキオスクで買って読んでいた。でも、その新聞を読みつつ「たいへんなことになったなあ」とかいいながら、大量に売れ残っていた牛乳を平気で飲み、市場で急に安く売られるようになったイチゴを「ラッキー」とか思いながら買って食べていた。バカである。所詮、人ごとだったのだ、といまになって思う。


前に自分の本の中で書いたことだが、インドネシアのバリ島とロンボク島との間に、動物だけがその存在を感知できるウォーレス線というものがある。この線を境として東西の動物の分布が変わるのだけれど、人間の感覚ではこの線があることすらわからない。原発というのも、ひょっとしたら多くの人にとっては、ウォーレス線のような存在であったのかもしれない。でも、いまそれがようやく目に入った。これまで見えなかったものが見えてきた。


だとすれば、少なくとも、これまでのように目に入れることもなく脳内の自動削除プログラムで、その存在をデリートしてしまうことは、もうしてはいけない。見えてきたものを、しっかりと脳裏に焼きつけたうえで、「許容する」か「許容しない」かの判断をすべきときが来たのだと思う。

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