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ひとはどこまで記憶できるのか

今回は新刊のお知らせ。予告とかも書くつもりだったのだけど、このところそれどころではなくなってしまっていたので、もう出ていますという紹介。以前から関心のあった「記憶」というテーマで書いたものです。

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『ひとはどこまで記憶できるのか』(技術評論社)

 

サイエンス系のシリーズの一冊なので、脳における記憶形成のメカニズムや、記憶の能力を左右するものは何かといったことなどについてもふれているが、それも踏まえたうえで記憶というものが人間にとって、どんな意味を持つのかという点にもできるだけ踏み込んだ。

記憶はある人をその人たらしめている重要な要素である。しかし、その記憶は本当に、その人の経験そのものなのか。もし記憶が失われたら、その人はその人でなくなってしまうのか。逆に、すべての記憶が忘れ去られることなく残っていたら、その人の内的世界はどうなるのか。そのような、ある意味、哲学的な問題についても考える手がかりを与えられる内容にしたつもりである。 

タイトルは自分でつけたのではないので、正直やや「うーん」というところもある。こうすれば記憶力がよくなる、という実用的な内容というより(そういう話も書いてはあるが)、じつのところ方向としてはその反対だからである。とみに自分が最近物忘れが激しくなってきたからというわけではないが、むしろ『忘れてなにが悪い!』というタイトルのほうがあたっているかもしれない。

サヴァン症候群をはじめとした記憶の病理をめぐる特殊な症例や、「記憶喪失」をめぐる映画の変遷といった話なども取り上げたので、脳や神経のことにくわしくなくても、おもしろく読めるのではないかと思う。


以下は「はじめに」より抜粋。

 人間の記憶ほど当てにならないものはないといわれる。鍵をどこに置いたか思い出せない。覚えたはずの単語が出てこない。言った言わないで人間関係のトラブルになる。年をとれば人の名前が出てこなくなったり、漢字が書けなくなったりもする。

 だからこそ、人間は古代から記憶にこだわってきた。古代ギリシアにはムネモシュネという記憶をつかさどる女神がいた。この女神は詩の女神ムーサとともに学問の守護神だった。古代から中世にかけては記憶力こそが知者に欠かせぬ条件とされていた。

 事情はいまもあまり変わっていない。学校で習うことの大半は、新しい知識の記憶であり、「記憶力がいい=頭がいい」という図式はいまなお生きている。書店に行けば、記憶力アップや、効率的な記憶の仕方を指南する本があふれている。

 コンピューターが登場した頃、人間の知的能力は遅かれ早かれコンピューターに追い抜かれるだろうといわれていた。しかし、脳科学研究が進むにつれて、人間の脳が現行のコンピューターより、はるかに複雑な情報処理システムであることが明らかになってきた。

 にもかかわらず、情報処理の速さや能力に関しては、脳はコンピューターの足元にも及ばない。百科事典レベルの情報を一瞬にして記憶し、いつでも正確に呼び出せるコンピューターに比べて、脳はさっき聞いたばかりの人の名前すら忘れてしまうし、かんちがいも多い。単純な記憶能力に関しては人間の脳はコンピューターよりはるかに低スペックだ。脳の複雑な構造を思えば、これは奇妙に思われる。

 だが、これこそ脳が長年の進化の過程で獲得した能力なのである。われわれの脳は「覚えられない」のではなく、「忘れることができる」のだ。「正確に記憶できない」のではなく、「まちがえることができる」のである。言葉のあやのように聞こえるかもしれないが、そうではない。われわれの記憶は、忘れたり、まちがえたりすることによってつくられているのである。

(中略)

 現代は記憶力偏重の社会だ。個人が扱う情報の量は、10年前に比べても飛躍的に増大している。一方で人間の脳の仕組みは数十万年前からほとんど変わっていない。

 現代人の頭の中は不要なものでいっぱいになっているのではないか。とくに中年以降は、新しいことを覚えるより、いらない経験や知識を捨てる方が、はるかに人生はうまくいくのではないかという気もする。シュバイツァー博士も述べている。「肉体が健康で、記憶力が衰えたのが、いちばん幸せである」と。

(後略)


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コメント

ひとはどこまで記憶できるのか―すごい記憶の法則ー
やっぱり、真知サンがつけたタイトルでは無かったですね。
実は、私の主人は言葉の表現がとても貧困で、何につけても『すごい』を繰り返すのみです。何時ものごとく指摘をしたら、私がこの本をAmazonで予約しているのを見て、にやっと笑い『田中真知だってすごいって言ってるよ。』などと、言うのです。私はきっぱりと『これは出版者の人がつけたんです。』と言いましたが、良かったです。主人に報告しておきます。

記憶ですが、前回のドラマ『冬のサクラ』で主演の今井美樹が脳の病気にかかり、手術をしたら記憶がなくなる。という話がありました。記憶を無くしたくない、覚えておきたいものがあると、彼女は死を選ぶのですが、記憶が無くなると自分ではないでしょうか?想像してみましたが、自分宛に手紙を残し、自分が好きだった物などを教えてあげれば、新たな記憶でも心地よいような気もするんですが。どうでしょうか?以前、真知さんの文の中で『とにかく何でもいいからメモしなさい。体験したんだから書かなくてもいいんじゃない。書いた事だけが現実になるんだからね。』という言葉が印象に残っています。確かに旅で記憶に残っているのは、写真に取った物や書き残した事です。本がロンドンに届くのを楽しみにしています。

投稿: 大谷祐子 | 2011年4月26日 (火) 19時00分

>大谷祐子さま

ありがとうございます。記憶が無くなると自分ではない……むずかしいですね。特定の記憶への執着によって自分が不自由になることもあるし、記憶をなくすことで回復される自分もあるだろうし。そういう話にもふれています。
「書いた事だけが現実になる」というのは辻邦生さんの言葉です。現実とは自分が選びとるものであり、与えられるものではないということなのだと私は解釈しています。

投稿: 田中真知 | 2011年4月27日 (水) 10時32分

きゃあ!今から本屋へgoです!←ファンの鑑です!

また読了後に感想書きますね。

投稿: 三谷眞紀 | 2011年4月27日 (水) 13時37分

>三谷眞紀さま

ありがとうございます涙。
まぶしいほどの鑑です。

投稿: 田中真知 | 2011年4月28日 (木) 11時39分

裏タイトルが『忘れて何が悪い!』
ということなので、一冊買った〜!
(ほんとうのファンとは言えない!?)

投稿: キャロ | 2011年4月28日 (木) 13時21分

>キャロさま

ありがとうございます! ファンに本当も本当でないもありません。
裏タイトルをもっと主張すればよかった。。。

投稿: 田中真知 | 2011年4月28日 (木) 17時25分

個人的には記憶を2種類にわけています(3種類でも4種類でもいいけど)。
ひとつは日常茶飯の記憶──冷蔵庫あけたとたんに、なんのために扉をあけたのか忘れてしまっているようなたぐいの発作的記憶喪失につうじるもの。
それと、もうひとつは思い出とも言い換えられる記憶。
こちらの記憶はどんどん演出することにしています。その果てにひとつの完結した「物語」がうまれるような脚色です。
これはたしか真知さんに頂戴した『のちの思いに』(辻邦生)を読んで学んだ方法です。
自由に思い出せばいいのだと、この歳になって感じています。

投稿: banana | 2011年5月 1日 (日) 20時53分

>bananaさま

bananaさんにさしあげたのは『若き日の友情―辻邦生・北杜夫往復書簡』のほうだったような記憶が。。。あ、そーか、自由に思い出せばいいのですよね。

投稿: 田中真知 | 2011年5月 2日 (月) 02時05分

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