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2011年5月

またハピドラム

雨の降り込める日々がつづいていた。しっとりと濡れた若葉を見ても、夏の兆しより、そこに付着した放射性物質のことや線量の変化のことを、つい考えてしまう。


雨とか風とか日ざしといった、自然のあたりまえのいとなみを、これまでとちがうニュアンスで感じてしまうような日々が、いつまでつづくのだろう。


雲が風に流されて、数日ぶりに青空があらわれた。なんとなくハピドラムを弾いて(たたいて)みたら、すこし気分がよくなったので、またYouTubeにアップしてみた。ハピドラムがなにかということは、以前のエントリーに書いた。もたついていますが、大目に見てください。
 

 

更新がまた鈍っているので、ギヤを入れ直します。


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陸前高田被災地訪問の記 3 (4月13日のこと)

間が空いてしまったが、陸前高田訪問の記のつづき。まとまりのない話ですが。


神社の避難所の朝は早く、暗いうちからビニールシートでつくった簡易テントの中で火をたく音がする。中では3人の初老の男性がやかんにお湯を沸かしている。おはようございますといって、火にあたらせてもらう。だれもなにもいわない。

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「けさも地震ありましたね」というと、ひとりが「ああ、しゅっちゅうだよ、地震のないとこから来たの?」といわれる。地震のないとこ・・・東京なので、余震はわりとありますが、ここほどではないと思います。こっちじゃしょっちゅうだよ。そういえば、と一人がほかの二人を見ていう。夜中にも揺れたな、あのとき女の人が叫んでいたよ。ああ、おれも聞いたよ、思い出すんだろうな・・・。


避難所にいる人たちのほとんどは家は流されてしまっている。その点では同じだけれど、家族が行方不明か無事かで感覚はかなりちがう。Kさんとその友人のNさんは家は失ったが、親族のほとんどはぶじだった。だから、われわれの相手もしてくれるし、津波が去った後は、生活をどう立て直していくかという方向でものを考えられる。


けれども、家族が行方不明だと、そこで時間が止まっている。Nさんの話では、ひたすら安置所めぐりの日々がつづくという。安置所ですぐに見つかればいいが、陸前高田の場合、家もなにもかもが流されてしまったから遺体もなかなか見つからない。そうなると来る日も来る日も、複数の安置所をめぐり歩いて、およそふつうの生活をしている人なら見るはずもない何百という遺体を毎日、見ることになる。


遺体といっても状態はさまざま。服を着ていないもの、首のないもの、脚のないもの等々も多い。歯形から身元を特定したくても、市内の歯医者が流れてしまったために歯形もない。DNA検査は、自治体にもよるらしいが、ここではある程度めぼしがつかないとやってもらえないという。指の欠損とか、手術痕などがあれば、そこから身元がわかることもあるが、はっきりした特徴のない場合は、それも困難。行方不明後は6ヵ月たたないと死亡と認められないので、保険金を受け取るために身元のわからない遺体を「家族です」といって持っていく人もいたという。


Nさんの友人は、行方不明になったお母さんを探して安置所めぐりをしていたとき、同級生だった友だちの遺体を見つけた。彼女は学校ではマドンナ的な憧れの存在だったが、その彼女が衣服もつけず、上と下に布をあてられただけの姿で安置されていた。避難所にも、そうした安置所めぐりをつづけている人たちは少なからずいた。けれども、みなそんなことはしゃべらないし、つとめて明るくふるまっていた。


避難所へやってきた当初、食事はどうしていたのかとKさんに聞くと、最初は「カニづくし」だったという。カニづくし? 聞けば、裏山にある「かわむら」という水産加工の工場が津波でやられてしまったため、そこにあるカニ缶などが毎日、供されていたのだそうだ。旅館のカニづくしなんかより、よほど豪勢だったという。カニづくしのほかに、半壊した家々から水に浸かったコメを集めて洗い、それを搗いて精米して炊いた(こちらではコメは玄米で買って各自、精米するのがふつう)。市の方からパンなどが支給されるようになったのは四日目くらいからだった。


Kさんと車で町を見て回る。漁師小屋のそばにアップライトピアノが横たわっている。弦の張られていたはずの筐体に魚の死骸が一匹。鍵盤に触れてみたが、泥が詰まっているためかまったく動かない。どこから流されてきたのだろう。蓋が外れているとはいえ、本体は壊れていない。日本のピアノ、頑丈だ。あとでAERAの東日本大震災特集というのを見たら、おそらくこれと同じものらしきピアノが水に浸かった状態の写真(3月21日撮影)が掲載されていた。

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Kさんの家は河口、つまり海から1.5キロくらい遡った神社のある山の麓にあった。そこは木造だったので、すっかり流されてしまったが、そこから少し川に近い場所にあったおばさんの家は、鉄筋コンクリート造りだったため、外形はほぼ残った。中は泥で埋まり、屋上の手すりなどは津波のためにぐにゃぐにゃに曲がっていて、そこに流されてきたカキの養殖の網がひっかかっていた。数年前に亡くなった父君が暮らしていた木造二階建ての家は、神社のある山の南側にあったが、元あった場所から一キロほど海寄りのところに移動していた。一階部分はつぶれていたが、屋根と二階部分は思いのほか、そのまま残っていたという。
 

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「家具調度品、テーブル、茶箪笥とか食器棚とかも外側はつぶれていたのですが、驚いたことに中の食器が一枚も割れていなかったんです。おそらく水に浸かって、引き波に乗ってゆらゆらと流されていったんでしょうね」とKさん。そこで彼は、取り壊される前に使えるものはとっておこうと思い、父君の家に残っていた食器や家具などを、津波の数日後から一輪車で運び出す作業をはじめた。それも作業は真夜中にやっているという。


「避難所だと消灯が早いから、早く目が覚めるんです。夜中の二時とかに。だから、ひまつぶしに行ってみて始めたんです」


「夜中の二時って真っ暗じゃないんですか? それに津波から数日後だったら、現場はぐちゃぐちゃだったんじゃないですか。懐中電灯とかで道わかるんですか」


「いや、意外とかんたんなもんですよ。人工的な光がまったくないから、星明かりで山の稜線が見えるし、ガレキや障害物もわかります。月が少しでも出ていれば、十分明るいんです。懐中電灯はまわりを見えなくしてしまうので、かえってじゃまなんです。それに真っ暗闇でシナイ山を登るのにも慣れていますからね」


エジプトで長年ガイドをしていたKさんらしい。とはいえ、巨大津波で廃墟になり、無数の遺体だってそのままになっていたはずの場所を、夜中にたったひとりで歩くことに抵抗とかなかったのですかと聞くと、


「ときどき車が通るんですよ、ヘッドライトつけて。そこにいきなり私が現れたらびっくりさせてしまうと思ったので、車の光が見えるとガレキの陰に隠れていましたよ(笑)」


いや、そういうことではなくて、ご自分は怖くなかったのですかと聞きたかったのだが、Kさんは昔からこんな調子だ。エジプトのルクソールで1997年に多くの日本人観光客が惨殺されたテロや、先日のエジプト革命の現場にもKさんはいたが、やはりこんなかんじだった。ともあれ、そうやって夜中の廃墟で、彼は壊れた父君の家からいろんなものを運び出し、一キロほど離れたおばの家へと運ぶ作業を続けていた。アルバムや食器などはわかる。でも、一輪車で、どうやってひとりでタンスやソファ(それも水に浸かっていたのだ)まで運べたのかは謎である。


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photo: Kawae Yukinori

水門から少し内陸に入った林のそばで無数のカモメがあたりを舞い、激しく鳴き交わしていた。そばの道路のたもとで、ひとりのおばさんが廃墟と化した、かつての自宅らしき敷地の中に立っている。あいさつをすると、おばさんは独り言のように話しはじめた。


「建てて4年しかたってなかったのよ。150坪あったんだけどね」見ると、家の基礎だけはしっかり残っていて、床にはところどころ穴が開いている。その床の下をのぞきながら、おばさんがいう。「なにか残ってないかと思ってね。でも、奥の方まで見えなくて。今日はなにも見つかってないわ、あっちに鮭がいたけどね。床下、壊してもらえばなにかあるかなと思って市に聞いたんだけど、いつになるか見通しがつかないっていわれて・・・」


指さされた方を見ると、穴の開いた床下に6 、70センチもありそうな鮭が横たわっていた。生きていたものではなくて新巻鮭がどっかから流れてきたのかもしれない。そのそばにはサンマもいた。


「この部屋が24畳、そこがキッチン、あっちが子供の遊び場、そっちがドア式の玄関で、その奥がお仏壇。でも全部流されてしまったわよ。でもお母さんは亡くなっていたからね。亡くなる前はずっと歩けなくなっていたの。もし生きていたとしても歩けなかったから、助けようとして私たちもだめだったかも。車いすに乗せて、それから車にのせていたら間に合わなかったわね。車もトラックと乗用車がそこに3台あったんたけどね・・・」


「地震のときはどこにいたんですか?」


「水門の向こうの小屋で仕事をしていたわ」といって、おばさんは200メートルほど離れた大きな水門をさした。「地震がいつまでも止まらないし、そのうち地割れが起きた。それがちょうど海との境目のあたり。水門が閉まると逃げられないから、いそいでうちに戻った。でも、揺れが止まらない。これはと思って、お母さんの仏壇の写真だけ持って車に乗って逃げたの。保育所に子供迎えに行って、それから避難所になっていた小学校のほうへ上がっていったんだけど道が崩れてもうそのときは通れなくて、引き返して、また別の道を行ったら、そっちももう通れなくなっていて、間にはさまれて動けなくなった・・・」

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「津波の高さはどのくらいだったんです?」


「あの漁協のビル」といっておばさんは水門の向こうの5階建てくらいの白いビルを差した。「あれのてっぺんを越えてきたという話ですよ。いや私は見てないわ。逃げるのが先決だったから。防災無線も地震といっしょに停電してしまったから。『逃げろー』という声のあと、パッと放送が止まった・・・きれいさっぱり流れてしまってね、知らない人はこんなもんかと思うかもしれないけど、ここから海なんて見えなかったんですよ。・・・あっちのコンクリートの割れているところに、きれいなマツの木があった。うちのものだったの。それが目印だったのよ。枝振りがよくて、子供ならぶらんこにもできそうで。いま売ったら何十万にもなるから兄が売ろうといったんだけど、甥が反対してね。売らなかったの。こんなんなら売っておけばよかった(笑)。・・・このモクレンは本当はあそこにあったの。ひとりじゃ全然動かせなくて・・・」


(つづく、たぶん明日)

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【再掲】 究極の癒し系? フロレンス・フォスター・ジェンキンスの肖像

今回は思うところあって以前ここにのせて、リンク切れになっていた過去のエントリーにあった記事を再掲。こういう時期ということもあるし、この話をとりあげてみるのも悪くないと思った。写真は撮りなおしました。本来、このブログはこういう音楽話をテーマにしていたはずなのだけど。。。


ーーー

今回は最近、聴いたなかでも、もっとも圧倒されたCDを紹介する。これである。

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ジャケットの雰囲気から見当がつくように、かなり古い時代(1930-40年代頃)に録音されたものである。内容は、モーツァルトやシュトラウスらによるオペラのアリア集。ジャケットで天使の羽をつけて立っている中年女性が、歌手のフロレンス・フォスター・ジェンキンス。RCAビクターの100周年記念ということで復刻されたものだ。
 

クラシック・レコードの老舗RCAが100周年記念で復刻するほどなのだから、録音の悪さも気にならないほどの名唱にちがいない。いみじくもタイトルには、The Glory of the Human Voice (人間の声の栄光)とある。実際、このレコードはこれまでアメリカで発売されるたびに話題となり、またたくまに売り切れてしまったという伝説的な人気を博してきた作品なのだ。

 
しかし、これはただの名盤?ではない。本来なら、このような録音が後世に残されること、いや、録音されること自体が常識では考えられないことなのだ。なぜか? その前に、フロレンス・フォスター・ジェンキンスとはどういう人物だったのか、についてふれなくはならない。
 
 
フロレンス・フォスター・ジェンキンスは1868年、ペンシルヴァニアの裕福な銀行家の娘として生まれた。金持ちの娘として幼い頃からピアノを習い、ゆくゆくはオペラ歌手になりたいという夢を抱いていたが、厳格で保守的な父はそれを許さなかった……と、ここまではよくある話である。
 
 
さて、その後、フロレンスは、のちに石油会社社長となった男性と駆け落ちする。ところが結婚生活は不幸で、結局二人は離婚。それからまもなく、父親が他界。フロレンスは、前夫からの相当額の慰謝料と、父親から受け継いだ莫大な遺産を手にして、有数の大金持ちになる。ときにフロレンスは41歳。このとき彼女は、小さい頃からの夢であった歌手として生きることを決意する……と、まあ、ここまでもありそうな話である。

 
ところが、である。フロレンスには端から見た場合、歌手として大きな問題、それも致命的といってよい問題があった。どういう問題だったのかというと、実際に彼女の歌を聴いてもらうのが早いだろう(かならず聴くこと!)。曲は、モーツァルトの歌劇「魔笛」の中の「夜の女王のアリア」。ソプラノ・アリアの難曲中の難曲である−−。
 


すでにこれを聞けばおわかりだろう。

 
そう、彼女は〈音痴〉だったのである。それも生半可ではない筋金入りの音痴であった。

 
しかし、さらにすごいのは、フロレンス自身が、そのことを微塵も気にしていなかったことである。それどころか、彼女は、自分の歌唱に絶大な自信をもっていた。この「夜の女王のアリア」にしても、当時、有名だったソプラノ歌手、フリーダ・ヘンペルの歌とひきくらべて、自分のほうがずっとすばらしいと思うと語ったという。

 
フロレンスは意気揚々と、ニューヨークやワシントンでリサイタル活動を開始した。もちろん資金は自腹である。しかし、肝心の歌の破綻ぶりは素人相手でも隠しようもなかった。こんなんで、はたして観客は集まったのか?
 
 
ところが、これがなんと大盛況だった。こう聞くと、おおかた地位や財産を利用して、いやがる知り合いを無理やりリサイタルに連れ込んでいたのではないか−−ジャイアンみたいに−−とか、観客は怖いもの見たさで、からかい半分でやってきたのではないかと勘ぐりたくもなる。
 

実際、はじめはそうだったのかもしれない。しかし、フロレンスは大まじめだったし、自分の歌手としての才能を心底から信じきっていた。そして、音程や調性などものともしない自由で圧倒的な歌いっぷりに、観客はあっけにとられ、ついで魅入られ、しまいにはその毒のような魔力の虜になってしまうのだった。
 

フロレンスのリサイタルが好評を博したのには、彼女自身の人間的魅力もあった。フロレンスには周りの人びとを幸福な気分にさせずにはおかない天性の明るさがあった。博愛精神にもあふれ、若い芸術家の育成や、貧困者の救済などの慈善事業にも情熱を注いだ。フロレンスはまもなくニューヨークを中心とした社交界で華々しい脚光と尊敬を集めるようになった。
 

いちど彼女の歌を耳にした者は、その魔力から逃れられなかった。彼女のリサイタルのチケットを手に入れるのは「ワールドシリーズのチケットを手に入れるより困難」だった。リサイタルの当日は、会場に入れなかった者たちがホールの外に押しかけ、それを警官隊が追い返さなくてはならないほどだった。

  
ニューヨークのリッツ・カールトンで年に一度開かれていたリサイタルは、とりわけ話題になった。フロレンスは自分でデザインした巨大な金色の翼を背中にひらひらさせて舞台に上がった。そして一回のステージで最低3回は衣装を替えた。スペイン風の衣装をまとって、薔薇の花を口にくわえて登場し、歌いながら、手にした花籠から客席に花を投げることもあった。あるときには花をすべて投げてしまったあとアンコールが来たので、いったん投げた花を客席から回収し、あらためてもう一度花を投げた。

 
彼女のステージに観客の笑いはつきものだったし、批評家による呆れたような酷評もしょっちゅうだった。しかし、フロレンスは歯牙にもかけなかった。絶大な自信家だった彼女にとって、笑いは自分の歌を楽しんでくれている証拠だった。酷評は芸術を理解できない者どもの戯言か、彼女の人気に嫉妬した者たちによる嫌がらせでしかなかった。
 

実際、観客はフロレンスの調子っぱずれの歌に麻薬のような魅力を感じていた。観客は彼女がいつ音程をはずすか、どこまで音程を狂わせたまま疾走しつづけるかを期待をこめて見守った。そして、フロレンスがそのとおりに調子を逸脱してゆくと、観客は圧倒的なカタルシスを感じたのだ。
 

しかし、それは破綻した歌へのあざけりではなかった。フロレンスは音程とか調性といった窮屈な束縛から、人間の声を自由に解き放ったのだ。彼女の歌には、なにものにもとらわれない圧倒的な自由と幸福感があった。ファンは、その自由に抱かれたくて、躍起となって彼女のリサイタルのチケットに群がったのだ。かの、世紀の名テノール歌手、エンリコ・カルーソーもフロレンスの支持者であったという(さすがに共演はしていない……と思う)。
 
 
フロレンスのキャリアのクライマックスは、1944年、76歳のとき、ニューヨークのカーネギーホールを借り切って行われたリサイタルだ。天下のカーネギーホールを個人で借り切るというのもすごいが、貸すほうも貸すほうである。

 
チケットは何週間も前に売り切れ、公演は大成功だった。その前年、彼女はタクシーにひかれるという事故に遭っていたが、事故の衝撃でこれまで発声できなかった高いF(ファ)の音を出せるようになった(と彼女は主張している。ちなみに彼女はタクシー会社を訴える代わりに、自分をひいた運転手に高級葉巻のセットを贈った)ので、レパートリーの幅も広がっていたはずである。
 

この歴史的カーネギーホール公演の1カ月後、フロレンスは心臓麻痺でこの世を去った。新聞に載った彼女の追悼記事には、こう書かれた。

 
「フロレンス・フォスター・ジェンキンスほど仕事にたぐい稀な幸福を見出したアーティストはめったにいない。その幸福感はまるで魔法のように聴く者たちの心へと伝染していった」

 
そうなのだ。CDに残された彼女の歌を聴いていると、不思議に暖かい幸福感がからだにじんわりと満ち広がってゆくのを感じるのだ。それはたしかに金持ち音痴オバさんの道楽かもしれないけれど、その壮絶に破綻した堂々たる歌いっぷりを聞いていると、人生の幸福とは、才能とか能力にあるのではなく、なにかをどこまで好きになれるかということにかかっているのだと、つくづく思う。

 
落ち込んだり、悩み苦しんでいる友だちがいたら、なにもいわずにフロレンス・フォスター・ジェンキンスのCDをプレゼントしてあげよう。よしんば、このCDを贈ったことで、あなたが友だちや恋人を失うことになったとしても、そのときは、あなた自身がこのCDに耳を傾ければいい。フロレンスおばさんが、きっと癒してくれるはずだ。


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