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陸前高田被災地訪問の記 4 (避難所の村八分)

また更新が遅くなってしまった。6月半ば、法事で日本海側の酒田へ行った帰り、奥羽山脈を横断して陸前高田を再訪した。夕方、ちょうど着いた頃、ものすごい土砂降りになる。濡れたフロントガラス越しに雨に煙る被災地の風景が、時の流れを超えた別の世界のように映る。その雨の中、被災者のKさんとともに、「旅行人」から託された本を、被災した仮校舎へと移動した中学校へ寄贈するために、激しい雨の中、山道を走る。


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仮校舎は、海に面した気仙町から10数キロ内陸の矢作町の山の中にある。廃校になった校舎と聞いていたから、それなりのものを想像していたのだが、東京近郊にある公立中学などにくらべれば、はるかに新しい。床や壁などもいい木が使われていて、くたびれた様子もない。校舎が古くなって廃校になったというわけではないようだった。


単身赴任中の校長先生は、津波でアパートと車を流された。ほかの先生方も全員、車を流れされた。それでも陸前高田では、津波発生時、先生の判断が的確であったため、生徒は全員無事避難することができた。当初の避難所にそのままとどまらず、状況から判断して、すみやかに高台の山の上へと逃げたからだ。


校長先生は、避難した山の中腹から海の方角を見たときの光景が忘れられないといった。水のあふれる通りを家が流されていく。その一軒の屋根の上に若い男の人が仁王立ちになって、じっと陸のほうを見つめていた。
 
 
同じようにもう一軒、人をのせたまま流されていく家があった。ご老人のようだった。その人は屋根の上にすわりこんで、陸ではなく、海の松原のほうをじっと眺めやっていた。


話をうかがいながら、若い人が陸を見つめ、老いた人が海を見つめている、その対照的な光景が目の前に浮かんできた。それぞれ、どんな思いだったのかーー。


校長先生が、もうひとつ忘れられないといったのは、冠水した駐車場で往生していた一台の車だった。中に人がいるのはブレーキランプがついているのでわかった。引き波で海のほうへとひっぱられていくのをブレーキをかけて必死に食い止めようとしていた。タイヤが浸かるほどの水深だったから、逃げ出せば助かるかもしれないのに、その気配はなく、ブレーキランプだけが空しく明滅していた。やがて、ランプは消えて車は徐々に海のほうへと流されていった。

 

●Kさんの話


被災者のKさんは、神社の避難所が閉鎖されたため、学校の教室に設けられた避難所へと移っていた。気仙町に戻ったときは、すでに日が暮れかけていた。避難所の夕食は5時ということで、もう間に合わない。そこでこの夜は、避難所へは帰らず、被災地に残っているKさんの伯母さんの家で過ごすことにする。


周囲の木造家屋の大半があとかたもなく流されたのに対して、鉄筋コンクリート製2階建ての伯母さんの家は壁や天井などの構造部が残り、外形をとどめている。部屋は泥で埋まり、ガラスはすべて割れ、ベランダの手すりや階段は崩壊し、二階の屋根の一部は崩落しているが、Kさんは泥をとりのぞき、散逸した家財道具を集めて、泊まることは無理でも、荷物を置いたり、しばらく過ごしたりできる場所にしようとしていた。


前回来たときには崩落した屋根と壁のせいで、二階の居間はがれきの山になっていたが、今回はがれきがとりのぞかれて、フローリングの床がむきだしになり、広々としたデッキのようになっていた。近辺の片付けにあたっていた重機の運転手にたのんで、がれきを取り除いてもらったのだという。そこに車に積んであったキャンプ用のチェアやらテーブルやらを並べると、ちょっと優雅な感じになった。


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しかし、周囲を見わたせば、月の仄明かりに照らされた廃墟が、夜の戦場さながらどこまでも広がっている。耳に届くのはカエルの鳴き声だけ。ときおりなまぐさい風が吹く。遠くの山間に目をやると、闇の中に二つ三つ明かりが見える。壊れた自宅に帰ってきて住み始めている人たちがいるという。そんなひっそりとした廃墟のただなかで、スーパーで買ってきた弁当やらビールやらを開けて、遅い晩餐をはじめる。


「それにしても避難所の夕食が5時だなんて、まるで病院みたいですね」


「そうなんです。そして朝食は6時。しかも、その時間にいなかったら、食べられない。あと、門限は8時で、消灯は9時です。門限過ぎたら、中に入れてもらえない・・・」


「えー、軍隊みたいじゃないですか」


「そうなんですよ、息がつまるんです。神社のときはまだ外に休めるところがあったからよかったんです。でも、学校だとそうはいかない。お酒も飲めない。でも、9時に床に入ったって、すぐになんか寝られません」


どうして夕食が5時とか、就寝が9時とか、そんな時刻になってしまったのか。Kさんによると、とくに行政から指導があったわけではなく、被災者たちの力関係で、年長者がこうだと決めてしまうのだという。


「避難所には若い人たちだっていますよね。9時就寝で6時朝食では子どもか老人の生活じゃないですか」


「でも、若い人たちはなにもいわないんですよ。年長者のボスみたいな人が、こうするというと、それでもう決まってしまう。若い人も黙ってしまう。本当はいやなんだけど、でも、なにもいわない」


「どうしてですか」


「それが、ここの人間関係なんです。権力を持ったボスがこうしよう、というと、それでもう決まってしまう。話し合うという空気がないんです」


「もし、そこでなにかいったら、どうなるんですか」


「村八分にされるんです」


「・・・」


「じっさいに、そうなんですよ。避難所には〈いじめ〉だって、ありますからね。それは構造的なもので、そのボスがいなくなると、その腰巾着が、ボスのやっていたことを継承する。そういうのもあって、息がつまるんです」


まるで宮本常一の世界さながらだが、それは避難所のことだけではなく、共同体の意志決定もまた同じように行われてきたとKさんはいう。


「たとえば、以前から陸前高田ではダムをつくるという大きな土木計画が持ち上がっています。一応住民説明会を開くのですが、説明会といっても対話をする場ではなくて、一応『やった』という実績のためだけに開かれていて、最初から結論は決まっているんです。告知もひっそりとするから、ほとんど人が集まらない。そこでなるべく難しい言葉を使って説明し、質問時間はほとんどもうけず、『そういうことですから、ご協力お願いします』といってお開きにする。これで住民の理解が得られた、ということになってしまう。そうやって有力者の利権がらみで、いろんな事業が進められてきた。でも、そういうやり方に表立ってみな反対しない。反対すると村八分になるから・・・」


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海外生活の長いKさんとしては、こうした保守的なムラ社会の論理がきついのもむりはないだろう。ビールの酔いや、避難所生活のストレスもあってか、Kさんはしゃべりつづけた。


「前の避難所にいたとき、スリランカの人たちがボランティアでカレーの炊き出しに来てくれたことがありました。夕食の時間が5時なので、それに合わせてくるという予定でした。ところが、5時になっても現れない。すると、もうみんなで悪口ですよ。『まだ来ないのか。どういうつもりだ』と。結局来たのが6時半でした。一応ニコニコ出迎えるふりはしていましたが、陰では『こんな時間まで待たされて、こんなもん食わせられるとは、迷惑にもほどがある』とかひどい言い様でした。見かねて、私が『時間にセコセコしない、おおらかなお国柄ですからね。エジプトもそうですよ』というと、『あー。オレは絶対エジプトなんか行きたくねー』といわれました・・・」


深夜、月は厚い雲に隠れ、風がしだいにひんやりしてくる。ごくたまに、車が家の前の道路を通り過ぎるが、すぐまた静かになり、カエルの声が闇を満たす。


「このあたりの復興計画についても危惧しているんです。まだ、具体化はしていませんが」


「それって山を切り崩して、下の住民をみな高台に移住させるというやつですか」


「そうなんです。でも、山を崩して土地をつくるといったってその予算などありませんから、国に出してもらうしかない。そういう予算的な問題もありますが、そのほかにもいろいろ問題があります。それに大きな利権がらみの事業になることは目に見えています。じつは・・・」(といってKさんが話してくれたのは、公にするには、まださしさわりのある内容なので省略。)


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「・・・それともう一つ、陸前高田のこのあたりというのは、歴史的にきわめて重要な場所なんです。流されてしまいましたが、山の麓には400年前の庄屋の屋敷が残っていたし、このあたりにならんでいた蔵だって文化財として重要なものばかりでした。ここには金山もあって、それが伊達藩の重要な財源になっていたし、もっと昔には奈良の大仏をおおっていた金も、この気仙の金だったといわれています。でも、そういうことを地元の人たちはまったく知らないし、行政もまるで関心を払っていない。利権にしか関心がなく、上の人がこうする、といったら、それにだれも反対したり、意見を述べたりできないしくみになっているんです。もし、ここを更地にして、高台に町をつくるなどということになれば、そのときなにがこの町の文化資源・観光資源になるのか。そういうことを抜きにして、復興なんておかしいと思いませんか」


「そうですねえ・・・」


「私は、復興にあたっては、なにか旗印になるものが必要だと思うんです。高台に利権でつくった町なんかじゃなくて、文化や歴史に関するものが。地元民はほとんど関心がなくても、外国のメディアの中には、そういう点に関心を示している人もいるんです。ウォール・ストリート・ジャーナルの記者が、気仙の金山の歴史における重要性を取材しに来て記事にしたこともあるんです。コロンブスがめざした黄金の国ジパングとは、この気仙の金山だったという人すらいるんです。それはまあファンタジーですが、こうした三陸の沿岸地域の国際観光化は、復興を支えるひとつの柱になりうると思う。近くの平泉が世界文化遺産になりそうですが、平泉とここには文化的交流もあった。そうした観点を取り入れた復興計画でないと、復興したはいいものの、一部の利権をもった人たちが潤うだけで、仕事はない、町としての個性もない、ということになりかねない・・・」


「そういうことをKさんが行政にアピールすればいいじゃないですか」


「いや、私みたいな地元の人間がいってもダメなんです。有名な誰それがいっていたとか、外国のメディアでこういわれているとか、そういう外圧がないと動かない。だから、そうした外部からのプレッシャでまわりから囲い込んでいければと考えているんですけどね・・・」
 
 

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被災した地元のしょう油工場の周辺の泥土から出土したしょう油。瓶をよく洗って開栓したら、中身に異常はなし。いちどだけ冷や奴につかったが、そのあとなんとなくつかっていない。

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コメント

話によれば、利益誘導団体のしばりでがっちがちのようですが、実は小泉改革以降、自民党政権の下野を経て、そうした地方の従来型の団体の力は弱まっているように思えます。第一高齢化が進み、葬式ですら、昔のように地域ぐるみで互助的な役割が果たせなくなっており、葬儀社に任せるのが一般的になっています。地方においても、人々の孤立化は避けられないようにぼくの目には映りました。4月以降、岩手県ではNPOの申請ラッシュが続いています。これは従来型の団体が、今回の復旧復興に大きな役割を果たせないから、新しい人間関係の上に新しい公的な受け皿を作って、公的資金を使わせてもらうといったものです。そして地方部のNPOを支える存在として、「いわて復興連携センター」という団体が立ち上がりました。これはNPOと行政、民間の財団が一堂に会した組織です。もしKさんにやる気がみなぎってきたならば、仲間を募って、陸前高田の歴史を守る会でも立ち上げる。そこに復興資金を投入する。そんな活動も可能だと思います。手助けできるNPO関連の友人を紹介できます。ゆっくりとでいいですから、自立への希望を育んでください。

投稿: 岡崎大五 | 2011年7月 6日 (水) 09時11分

>岡崎大五さま

参考になる意見ありがとうございます。地域の高齢化による互助機能の弱体化はあるようですね。「新しい人間関係の上に新しい公的な受け皿を作って、公的資金を使わせてもらう」というのはいいことだと思います。Kさんにも伝えておきます。

投稿: 田中真知 | 2011年7月 7日 (木) 18時54分

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