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2011年11月

迷惑電話は格闘技か (コミュニケーション力をめぐる その2)

前回、街中で声をかけられやすいという話を書いたが、家にいても振り込め詐欺やら家庭教師の斡旋などの電話などがかかってくると、つい相手をしてしまい、ややこしくなることもあった。


その手の電話は、この数年ほとんどなかったが、つい最近、久々に、怪しげな勧誘電話がかかってきた。すぐ切ってもよかったのだが、久しぶりだったので、どんな怪しい話をするのかなという好奇心も手伝って相手の侵入を許してしまった。


 
「もしもし、私、ゴニョゴニョゴニョゴニョ(よく聞き取れない)なんですが、ご主人様でいらっしゃいますか」


 
「はい・・・」

 
 

「ご主人様、いまお住まいになっている賃貸住宅や、あるいは持ち家の今後ということをどのようにお考えでしょうか」

 

 
「はっ?」


 
「私ども、このあたりをまわらせていただいているのですが、前にお目にかかっていませんでしたか」


 
「会ってないと思いますが・・・」


 
「あ、そうですか。というと昼間お仕事で出かけておられるのですか。何時頃ならお帰りですか」


 
「いや、それより、あなただれですか?」


 
「最近は宅地法なども変わりまして、住宅やマンションについても法律的にいろいろ変わってきて、難しくなっていますよね」

 

 
「あのー、何の御用ですか? あなた、いったいだれなんですか?」

 
 

「ですから、そのことをこれからご説明しようとしているのです。いまマンションや宅地についての法律が変わって、なにかと賃貸や、持ち家の方もたいへんだと思います・・・」


 
「だから、あなた、だれですか、と聞いているんです。どういう業種で、なにが目的なのか。どうして質問に答えてくれないのですか。マンションのセールスなどでしたらけっこうですから・・・」


 
「セールスですって? 私がいつセールスなんかしましたか。もし、マンションをお探しというのであれば、そりゃ、私の方としてもご紹介さし上げることは、できないことはありません。いい物件を知らないわけではありません。それどころか、たいへんいい特別な物件をご紹介さし上げることだって、できるかもしれません。どんなマンションをお探しですか?」

 
 

「いや、探していません。それより、だいたい人にいきなり電話かけてきて、名乗りもしないし、なんの用件なのかもいわない、というのは何なんですか」


 
「私ははじめにきちんと、会社名と名前を申し上げました。ご主人様のほうがちゃんと聞いていなかったんじゃありませんか」


 
「そうだったら、それは聞きそびれましたかもしれませんが、でも、どういう用件か、さっぱりわからないのですが・・・」

 
 

「あのー、ですから一応、今後の住まいの方向性から考えていきましょうということなんです。いまいろいろ住宅事情が変わってきているじゃありませんか。住宅に関する法律が変わって、家を借りるにしても、持つにしても、それがなかなかむずかしくなって、それをきちんと判断していくために知っておかなくてはならないことかあると思うんですね・・・」

 
 

なにを聞いても、こんな調子である。マンションのセールスの類のようなのだが、話のとらえどころがなく、どういう方向へと話を持っていきたいのかも曖昧である。おそらく向こうは、こちらの名前や住所は把握していなさそうだった。どうやら焦点をはぐらかして、なるべく話を引き延ばしつつ、こちらの個人情報をつかみ、あわよくば直接会って説得しようと目論んでいるらしかった。脅しをかけてくるわけではないが、「直接、お会いしてお伝えしないと長くなってしまうので」などといって、話を引き延ばす。その手にはのるものか。


 
すでに30分近くたっていた。面倒くさくなってきたので、そろそろ切りたい。こちらがうんざりして、いいかげんにしてくださいなどというと、すかさず、そこに食いついてくる。どうして、そのような言い方をされるのですか、と来る。なるほど、こちらが感情を昂ぶらせたときにできる隙を攻めてくるという手法らしい。その手には乗るか、とあくまでこちらも冷静をよそおって、敬語で対応する。


 
「興味ないです」といっても、「どうして興味ないのですか」と返し、さらに「どういう事情がおありか教えていただけませんか」とたたみかけてくる。そんなことを、話す必要はありませんというと、「お互いに伝えたいことを伝えておかないと、いけないと思いますので」という。

 
 

そんなやりとりをつづけているうちに、はたと思いついた。これってまるで格闘技ではないか。互いに相手の出方をうかがいつつ、隙があると、そこにさっと入り込んでくる。それを受けて返すと、次に別の手をくり出してくる。しかし、勝負が長引くと不利なのはこちらかもしれない。

 
 

向こうは持久戦に持ち込み、こちらが根負けするのを待っているのか。あるいは、こちらがうんざりして声を荒げたりしたとき、すかさず揚げ足をとるつもりか。いずれにしても思ったより手ごわい・・・とかいって、早い話、単純に切ってしまえばいいのだが、それもなんだか、こちらの負けを認めるようでしゃくである。とはいえ、いつまでもこんなことをつづけていたくないので、適当なところで相手の言葉に耳を貸さず、丁重に断って電話を切った。ガチャ!


 
(ほっ。。。)


 
ところが、そのあと間髪を入れずコール音が鳴った。いつまでも鳴り止まない。しかたなく受話器を取る。


 
「お電話が切れてしまったようですが・・・」

 

 
「切ったんです」

 

 
「どうして切ったのですか。失礼じゃないですか」

 

 
「失礼はどっちですか」


 
「ご主人、なにか誤解されています。私は・・・」

 
 

ガチャ。。


 
プルルルルル・・・

 
 

面倒なのでファクスに切り替えたが、それでもリダイヤルがくりかえされる。これが戦略なのか。女性や高齢者の一人暮らしだったら、これはけっこう怖いかもしれない。ファクスでもコール音が鳴ってうるさいので、電話線を引っこ抜いた。

 
 

そのあと静かになった電話機を見ながら、なんとなくしゃくだった。相手はプロだとはいえ、電話をこちらから切ってしまうという終わり方は、なにか負けたような気がして釈然としない。どうでもいいことなのだが、なにかほかの対処の仕方がなかったかと気になる。


 
電話線はこの日は一日、抜いておくつもりだったが、その後、またかかってくる可能性がある。そこでネットで迷惑電話や、勧誘電話への対策を見ると、どのページにも「とにかく相手にしないで、すぐに切ること」と書いてある。

 
 

それはわかる。わかるのだけど、そうやって、よけいなもの、御しがたいものを切り捨てて、ゲイティッド・コミュニティみたいに、自分の周りに囲いを張り巡らせて安全な閉じた空間をつくりあげていこうとする最近の社会の傾向にもなにか抵抗がある。

 

たしかにそれは快適だろう。でも、そうやってゲイティッドされた領域を一方でつくりながら、前にも書いたけど「これからはコミュニケーション力がだいじです」とか「共感力を身につけましょう」みたいなことを就活学生やビジネスマンに要求しているのはインチキ臭くないか。コミュニケーション力というのは、こういう不意打ちのような異形の他者の進入に対してこそ発揮されるべきなのではないか。


 
だいたい、あらかじめ約束された会合や名刺交換などでコミュニケーション力なんて必要なのか。それは規則の定められている格闘技の試合のようなものだ。それはそれでいいのだけれど、ほんとうに必要なのは不意打ちや闇討ちに対処できる力ではないのか。でも、どうやって渡り合えばいいのか。


 
 
そんなことを思いつつ、ネットサーフィンしていたとき衝撃的(笑劇的?)なものを見つけた。それはまさにいま感じているモヤモヤにひとつの、みごとな回答を与えてくれるものだった。。。ここからがじつは本論なのだけど、長くなってしまったので、続きにします。明日か、明後日くらい。

 
 

明日といえば、前にも書きましたが、西荻でエジプトについて講演会をします。エジプトが政治的にたいへんなことになっていますが、エジプトを通して物の見方を考える、というようなテーマで話ができればと思っています。よろしければ、どうぞ。


 
11月26日(土) 11:30~14:00
 西荻カルチャーカフェ 「発想を転換するためのエジプト講座」
(by 田中真知)


地図はこちら


※チャージ1,000円+ワンドリンクオーダー


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わたしに声をかけないで (コミュニケーション力 その1)+講演会のお知らせ

また間が空いてしまった。。。と、なんど書いたことかわからないが、いつものように、少々のうしろめたさと情けなさのまじった、灰色にしてややつめたく、透明なるところの気分であります。


さて、むかし学生だったころ、街中でよく声をかけられた。といっても女の子にというわけではなく、「あなたの幸せを祈らせてください」とか「人生の目的はなんだと思いますか」とか、いわゆるそういうタイプの人たちだった。


いまはどうかわからないが、当時はそういう勧誘がとても多かった。それでも、人によって声をかけられにくいタイプとかけられやすいタイプがいた。自分は明らかに後者だった。


たとえば、人混みの中を歩いていても、そういう人たちは他の人には目もくれず、にこやかな微笑みをうかべて、まっすぐこちらにむかってくる。こちらが足を速めると、むこうも足を速める。曲がろうとすると、さりげなく前にまわって進路をふさぐ。


観念して立ち止まると、「ちょっとお時間いいですか」とか、にこやかにいわれ、そのあとは祈ってもらったり、へんな事務所に連れていかれたり、「本当のこと」が書いてあるという冊子をもらったり、お金を貸してほしいといわれたり、住所を書かされたり、ということがけっこうあった。


そのことであとでとくにトラブルになったことはないが、自分はよほど不幸そうに見えるのか、あるいは御しやすそうに見えるのかなと思うと、少々情けなかった。関心がないのなら、はじめから無視するか、相手にしなければいいのだが、そういう毅然とした態度もなかなかとれない。おそらく、そういうこちらの気の弱さを、あちらも敏感に察知するのだろう。


それならば声をかけづらい雰囲気をつくろうと濃いサングラスをかけて、少々つっぱった態度で歩いてみたりしたこともある。だが、そんなときにかぎって、こんどは不良に「おい、なめんなよ」とからまれたりする。そのころ武術を習おうと思ったのは、そんな人との距離のとりかたに困っていたせいもあるかもしれない。


さすがに最近は、街中で声をかけられるようなことはなくなったが、つい先日、夜遅く帰るとき、駅前のコンビニのそばで初老のおじさんに声をかけられた。iPodのイヤホンを外して、なんですかとたずねると、商店街はどっちのほうですか、というので、あの信号を渡って右へ曲がればすぐですよと教えてあげた。


御礼をいうおじさんに会釈して、そのまま行こうとすると、あのう・・・もう一つうかがってよろしいでしょうか、といわれる。なんでしょうか、と聞くと、よろしければ、いまどんな音楽を聞いているのか教えていただけませんか、という。


「はっ?」


酔っているようには見えなかった。見れば、片手には新聞紙や雑誌のつまった大きなショッピングバッグをぶらさげ、パンパンにふくれたショルダーバッグを、黒いよれよれのジャンパーの上にたすきがけにしている。一見ホームレスを思わせるうらぶれた風体ではあるが、物腰は穏やかで、言葉遣いもていねいだ。


「どうして、そんなことを聞くんですか?」


「いや、どういう音楽を聞かれているのかなと思って・・・」


う~ん、答えになっていない。でも、まあ、たしかに電車などでヘッドホンをしている人を見ると、なに聞いているのかなと思うことはある。だからといって、いきなりなに聞いているか教えてくださいとはいえない。エジプトで知らない人に、突然「なに聞いてんの?」と聞かれたことがあるが、それは人間同士の距離感がちがうからだろう。


世間ではコミュニケーション力がだいじとか、共感力がだいじとかいわれているけれど、実際のところ、それは望む相手との場合にかぎられる。街中で出会う見知らぬ他人というのは物や風景と同じで、心を通わせる対象とは見なされていない。いきなり声をかけられたりしたら、それはまずは脅威と見なされる。電車でヘッドホンをつけて他者の侵入を拒みながら、「コミュニケーション力を身につけよう」というようなハウツー本を読んだりしていても矛盾はしていないのだ。でも、そういうのが、ときどき息苦しくなる。だから、おじさんの気持ちはわからなくもない。


そのとき聞いていたのはジャズみたいな、現代音楽みたいな、ジャンル分けのしにくい音楽だった。説明がしづらいので、おじさんには「ジャズです」と答えた。


「ジャズですか・・・ありがとうございました」とおじさんは頭を下げた。会釈をして行こうとすると、おじさんが、申し訳ありません、もう一つだけ伺っていいですか、という。


「なんでしょうか?」


「ジャズで、トランペットで、静かで、穏やかな感じのものというと、どういうのがありますか?」


「はっ?」


「こう静かで、ゆったりとした感じのジャズというと、どういうのがおすすめでしょう? トランペットで」と彼はくりかえす。


コンビニの前で突然声をかけられた人に聞かれる質問としては、かなりシュールだ。家路を急ぐ人たちが、われわれの横を次々にすりぬけていく。突然そんなこといわれてもわかりません、といっても失礼には当たらないだろうが、仮に声をかけてきたのが、かわいい女の子だったりしたら真剣に考えたりするのだろうなと思うと、げんきんだなとも思う。


キリスト教の寓話でもそんな話があった。ひどい皮膚病に冒された老人が、通りを行く人たちに、私を抱いてくださいという。もちろんだれも相手にしないが、一人が気の毒に思って彼を抱きかかえると、その人の体から光が放たれ、老人は忽然とイエス・キリストの姿になった、というような話だ。


そんなことを思ったわけではないが、なんとなくしばし考えた末、「マイルス・デイビスかな」と答える。あまりマイナーなのだとぴんとこないかもしれないし、「カインド・オブ・ブルー」みたいな、静かで、ゆったりした作品がないわけではない。


「えっ、なんですって?」


「マイルス・デイビスです」


「えっ、ま・い・る・す?」


「マイルス・デイビス、です」


「それは、人ですか?」


「はい、人の名前です」


「そのマイルス・デイビスさんは、シンガーソングライターなんですか?」


「シンガーソングライター・・・う〜ん、歌はうたわないのですが、自分で曲を作って、トランペットで吹きます・・・ええ、しずかな、ゆったりした曲もあります・・・もうずいぶん前に亡くなりましたが」


コンビニの前の舗道で、いったい自分はなにをいっているんだと思いながら、「マイルス・デイビスさん」について話をする。


「わかりました、ありがとうございました、マイルス・デイビスさんですね。ぜひ、聞かせていただきます。その人はCDも出しているのですか」


「出してますよ」


「ありがとうございました、お時間をとらせて申し訳ありませんでした。どうか、音楽をまたお聞きになってください」


「はい」


おじさんは踵を返すと、そのままコンビニに入っていった。ひょっとして、コンビニでマイルス・デイビスはありませんか、と聞くつもりかもしれない。思わず、コンビニにはないと思いますよ、と声をかけようと思ったが、もっとややこしくなりそうだったので、それはやめた。


帰り道を歩いている途中で、やっぱりマイルス・デイビスはちょっとちがったかな、と思った。水曜ロードショーかなんかのテーマを吹いていたニニ・ロッソとでもいったほうがよかったかな。


夜、あのコンビニの前を通るたびに、あのおじさんはマイルス・デイビスを聞いただろうかと思う。でも、もし聞いたのが「ビッチェズ・ブルー」だったりしたら、「ちっ、だまされた」と思うかもしれないな。でも、それはまあ、しかたのないことだ。。。

(このテーマ、もう一回つづく、明日か明後日くらいに更新予定。ほんと)


ーーー

ところで、話変わって講演会のお知らせです。ブログを更新したついでに告知しようと思っていたら、結局ぎりぎりになってしまった。。。エジプトにかぎらず、拙著『美しいをさがす旅にでよう』でも述べたような、物の見方についての話をしたり、意見交換などをしつつ、面白く、たのしい時間をつくれればと思っています。場所等、くわしくは下記サイトで。


2011-11-26  西荻カルチャーカフェ 「発想を転換するためのエジプト講座」

11月26日(土) 11:30~14:00

エジプトでは赤ちゃんをほめてはならない。足を踏まれると、踏んだ相手が「気にするな」という。日本の常識からすると、なかなか信じられない習慣のなかに、じつは5000年の文化と知恵が隠されている。
ピラミッドとツタンカーメンだけがエジプトではない。われわれの常識や物の見方を変えるための、ちょっとディープなエジプトの歩き方 

講師:田中真知(作家・翻訳家)

8年にわたりエジプトに暮らし、中東・アフリカを幅広く取材。著書に『アフリカ旅物語』(凱風社)、『ある夜、ピラミッドで』(旅行人)、『美しいをさがす旅にでよう』(白水社)、訳書にグラハム・ハンコック『神の刻印』(凱風社)、ジョナサン・コット『転生--古代エジプトから甦った女考古学者』(新潮社)などがある。

※チャージ1,000円+ワンドリンクオーダー


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