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辻 佐保子さんのために、あるいは届かなかったキャンドル

ひとが亡くなるということは、この足下にある地面をどこまで歩いていっても、けっしてそのひとにたどりつくことはできない、ということだ。いくつ電車を乗り継いでも、何十日もかけて船に乗って海を渡っても、いくら砂漠や森を越えたとしても、それでもたどりつけない。そういうところへ、行ってしまったということだ。


今朝(12月27日)の朝刊で、作家の故・辻邦生さんの奥さまで美術史家の佐保子さんが自宅マンションで亡くなっていたことを知り、個人的に深い悔恨の念にさらされている。佐保子さんとは、辻邦生さんが亡くなった後も、ときどき手紙のやりとりをしたり、電話でお話しさせていただいていた。


12月の上旬にクリスマスカードを送ったら、すぐに佐保子さんからもカードと手紙が送られてきた。フラ・アンジェリコのらっぱを吹く天使の絵をあしらったカードで、添えられていた手紙には「たった一人のクリスマスですが、あれこれと飾り、頂いたカードをピアノの上に置きました」とあり、持病を抱えていてふうふう言っています、ともあった。


最後の方に「クリスマスにはイスラエルのまるいローソクつけます」と書かれていた。「イスラエルのまるいローソク」というのは、10年以上前、辻邦生さんと最後にお会いしたとき、イスラエルのおみやげとしてさしあげたものだった。リンゴのような丸いキャンドルで、まわりにモザイク状の色鮮やかな柄があしらわれていて、火をつけるとその模様が幻想的に浮かび上がる。


辻邦生さんは、これはきれいだね、つけてみようよといったのだけど、奥さまの佐保子さんが、だめよ、クリスマスまで待ちましょうと、それを制したという。でも、その年のクリスマスがやってくる前に、辻邦生さんは亡くなり、炎のともったイスラエル・ローソクを目にすることはなかった。佐保子さんはそのことをずいぶん悔やんでいて、それから毎年クリスマスの晩には、そのローソクを灯すようになった。


佐保子さんからカードが送られてきてまもなく12月の下旬、というか、つい一週間くらい前に、佐保子さんの書かれた『辻邦生のために』の、出たばかりの文庫版が送られてきた。単行本も以前送ってくださったので、いちど読んでいる。亡くなった伴侶についての思い出というと、どうしても感傷的な思い入れのつよいものになりがちだが、この本は、まるでちがう。淡々とした、硬質で、しなやかな勁さを感じさせるその文体は、作家・辻邦生の文学世界と生活世界の関係性をなにより雄弁に伝えてくれるともに、その背景を透明な悲しみが水のように満たしている。年末はこの本を、あらためてゆっくり読もうと思っていた。


お二人にイスラエル・ローソクをさしあげたのは、1999年だから、もう10年以上も前のことだ。毎年つけていたら、ローソクもずいぶん減ってしまっているはずだ。それにローソクが減っていくというのは、なんとなく不吉な気もしていた。そこで本のお礼をかねて、もう一つうちに残っていた未使用のイスラエル・ローソクを、まぬけくさいけれど2通目のクリスマスカードとともに23日に佐保子さん宛てに送った。クリスマス・イブに間に合うよう、12月24日の午前中に届くはずだった。メッセージカードには新しいローソクでよいクリスマスを迎えてください、といったようなことを書いた気がする。届いたら電話をさし上げようと思っていた。


24日の昼頃、ネットの宅配便集配確認のページでお届け状況を調べてみたら、「不在・持戻」になっていた。あれ、どこかへ出かけられているのかなと思ったが、クリスマスだし、ひょっとして親類かご友人が気をきかせてお誘いしたのかなと思い、そのときはそれほど気にとめなかった。その晩は、いまごろ佐保子さん、前にさしあげたローソクを灯して、邦生さんと会話されているのかな、とその様子を想像したりしていた。


翌日、ふたたび集配状況をチェックしてみると、ふたたび「不在・持戻」になっていた。いま思えば、このときどうして気づかなかったのだろうと思う。不安はなかったわけではないのだけれど、無意識のうちに起きてほしくないことを打ち消そうとしていたのかもしれない。佐保子さんの教え子にあたる共通の知り合いは25日から国外へ出かけたばかりだったので確認のしようもなかった。お住まいのマンションの管理人が親切な方だと聞いていたので、だいじょうぶだろうと根拠なく思っていた。こうして書いていても、自分の想像力のなさ、へんな遠慮ぐせが、ほんとに情けない。


佐保子さんはいろんな持病を抱えておられたが、お会いするととても元気で、80を過ぎているとは思えないほど頭の回転が速く、早口で、いろんな話題が次から次へと飛び出し、こちらがいつも圧倒されるほどだった。新しい本や雑誌もよく目を通していた。以前「考える人」に書いたエッセイもめざとく見つけて、すぐに感想を送ってくれるほどだった。だから、ついいつも元気でいるような気がしていた。


お会いしたり、電話で話したりすると、いつも開口一番「ねえ、真知さん、ちゃんと食べていけてる? だいじょうぶ?」と声をかけられ、「はあ、まあなんとか・・・」というと、「そう、それならいいわ、それがいちばん大切よ」といってくださるのだった。また、手紙の末尾には、いつも「あまり危ないところには行かないでくださいね」と気遣う言葉が書かれていた。


辻邦生さんが亡くなられてからは、佐保子さんは二人分の膨大な蔵書目録の作成や、邦生さんの蔵書の整理に追われていた。そのかたわら新潮社から刊行された辻邦生全集の月報を書いたり、それをまとめた『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論社)や、さきほどの『辻邦生のために』などを出されていた(蛇足ながら『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』の中には、ちらっと自分のことかなと思える話が載っていて、佐保子さんに聞いたら、そうよ、あなたのことよ、といわれてうれしかった)。


心残りはたくさんあるが、蔵書の片付けのお手伝いを結局できなかったことも、とても悔やまれる。以前から、書斎のタンスに階下のトランクルームの蔵書を移したいので、洋服の整理が終わったらお手伝いしてねといわれていた。今年いただいたクリスマスカードにもそのことが書かれていた。いちど下見におじゃましたときには、きれいに整頓された辻邦生さんの書斎を案内してくださった。


そこはかつて辻邦生さんが元気だった頃、なんどか訪れたことのある場所だった。このタンスの中を空にして、下の本をここに移したいの。あ、これは池澤夏樹さんが送ってくださったディケンズの全集よ。そっちは昔の請求書とか入っているの、もうなにがなんだかわかんないのよ、でも、ずいぶんこれでも整理したのよ、こんな洋服みんないらないの、なにが入っているのか私もわからないのよ、あら、こんなもの入っていたわ・・・過去と現在と未来が入りまじって、あまり効率的とはいえない今後の計画を話し合った。


でも、洋服の整理なんて待っていたらいつまでもできっこないことは、すこし想像すればわかったはずだ。こちらから押しかけて洋服の整理でもなんでもしてしまえばよかった。遠慮していいことなんて、なにもないのだ。


ぼくは辻邦生さんの奥様としての佐保子さんしか知らなかったのだけれど、じつは西洋美術史、とくにロマネスクやビザンチン美術研究の世界では佐保子さんの影響力はとても大きい。アカデミズムのことはよく知らないが、日本の中世美術関係の研究者の多くが佐保子さん門下のはずである。辻さんの『背教者ユリアヌス』に出てくるコンスタンティヌス帝からユリアヌス帝の時代のローマの時代背景や建築物についての詳細な記述にしても、佐保子さんの仕事の影響ぬきには考えられないし、また『夏の砦』に出てくる主人公の子どものころにまつわる挿話の多くは佐保子さんの少女時代の話に想を得ている。


若かりし頃の佐保子さんのことは、辻邦生さんの最後の著作となった青春の回想という形をとった『のちの思いに』(日本経済新聞社)という、かぎりなく事実に即した作品の中で「リスちゃん」という東大の美術史学科初の、コケティッシュでかわいらしい女子学生として登場する。これは夢のような幸福感に満ちたアルカディアの青春の記であり、いま思うと、よくこれが日経新聞に連載されていたなと思う。


また、パリ時代の佐保子さんのことは、やはり今年亡くなった北杜夫さんがマンボウ航海記の中で、パリの二人のマンションを訪ねたときのことを書いたくだりで「Tの女房はホルモンが足りず、白人の女に比べればまったくの小娘で、防寒のためにエスキモーみたいな珍妙な帽子をかぶっている。そんなちっこい彼女がチョコチョコ店頭の雑踏の中を走り回っているさまは、日本人が見ても異様である」と描いている。。。


さすがに北さんもこれはちょっとまずかったかなと思ったのか、異論があればなんとかしますと辻さんや佐保子さんに4回にわたって詫び状を送っている。佐保子さんは「何をかいても全然怒らないから御安心を。このごろ平気になりました。他に面白いことが一杯あるから。首しめられても気がつかないかもしれません。もっともよかったらおみやげに油虫を一杯持って帰ってもいいです。(蝶々を喰わせるために)。ここには特大のがいるから」(『若き日の友情』辻邦生・北杜夫)と書き送っている。こういう関係っていいなあと思った。


そう、今年は北杜夫さんも亡くなった。10年以上前、辻邦生さんが亡くなられた年に行われたお別れの会で、北さんを見た。スピーチのために壇上に上がった北さんは「私は、よく人にお元気そうですねとかいわれます。でも、そういわれるのが嫌いなんです。ちっとも元気じゃありません。友だちはみんないなくなる。年とっていいことなんて、なにもありません。辻がいなくなって、ぼくはとても悲しい」と話していた。


一年くらい前に佐保子さんにお会いしたとき、やっと(主人がいないことに)慣れてきた、でも、まだ写真は手がつけられない、とおっしゃっていた。辻さんが亡くなって12年がたつ。考えてみれば、その間ずっと、その遺品や仕事の整理に追われてきたようなものであり、日々いやおうなく、その思い出を回想させられ、彼が亡くなったという事実をつきつけられてきたようなものだったのかもしれない。それは作家の妻としての宿命なのかもしれないけれど、ある面では、とてもつらいことだったはずだ。辻さんが亡くなってしばらくして全集に寄せる月報を書くために、全作を読み返していた佐保子さんは「辻邦生のすべてを追体験したいと願って暮らしてきたためか、実際の年齢の倍以上も急に歳をとってしまったような気がする」と書いている。


あの世があるかどうかはわからないけれど、もしあの世があるなら、そこで親しかったひとたちが再会できればいいと思う。そして、生きているときに傷つくことをおそれていえなかったことや、あやまりたいことや、つらかったこと、かなしかったことを、素直に相手に、言葉でないかたちで伝えることができればと思う。


この世界はこんなにも広いのに、そういうことが伝えられる場所や時間はほとんどない。こんなにもたくさんの人が生きて、こんなにもたくさんの言葉が行き交っているのに、いえないことや伝えられないことのほうが、ずっと多い。形にならなかったそういう言葉をたくさん抱えたまま、ひとは、ひとりで死んでいく。もしあの世があるならば、そんな無念を埋め合わせることのできる場所であったらいいと思う。佐保子さんも、ひとりでつらく、さびしかったことを、あの世で辻さんに伝えられればいいのにと思う。


佐保子さんにはたくさんの教え子がいたし、ぼくはけっして深い知り合いではない。辻邦生さんともそうだったが、佐保子さんとも仕事や研究とは関係のない、純粋に個人的な関係だった。だから、そういう近しい人たちをさしおいて、自分がなにかをすることにたいして遠慮や気後れがあったことは否めない。でも、そんなふうに考えてはいけなかったのだ、といま思う。たとえ、知り合いの末席にいるとしても、自分にしか聞けない話や、自分にしか理解できない話だって、きっとあったのだ。ほんの少しかもしれないけれど、自分にしか見えないものや、聞こえないものを、ひろいあげられていたかもしれない。


今年ほど、人生はいつとつぜん幕を閉じるかわからないことを思い知らされた年はなく、だからこそ、会いたい人にはすぐに会い、いいたいことはきちんといい、したいことはあとまわしにしないで、すぐにやらなくてはと思ってた矢先なのにと思うと、こう書いていても気持ちがつぶれそうになる。10人中9人、いや100人中99人には迷惑がられるか無視されるかもしれないが、それでもひとりの大切なひとを救えるのだとしたら、やはり遠慮すべきではないのだと思う。


なにを書いているのか自分でもわからなくなってきた。2003年の秋に佐保子さんと辻邦生さんのお墓参りに行ったことが思い出される。佐保子さんはなんどか来ているはずなのに、広い霊園の中で道に迷ってしまった。あちこち右往左往した末、やっとお墓にたどりついた。お墓をきれいにして、黄色い薔薇やリンドウの花を供え、春に芽が出るようにクロッカスの球根を植えた。お線香をつけてお祈りしてから、しばらく墓前で、昔パリで暮らしていたデカルト街の家に辻さんの銘のプレートが刻まれたこと、ソルボンヌの総長も来てくれたことなど話してくれた。


いまこれを書いていて思いだしたのだが、あのときもぼくはイスラエル・ローソクを持参していた。生前にさしあげたのとはべつのもので、佐保子さんにさしあげようと思って持っていったのだ。お墓の前からいったん引き上げかけたとき、ふと、墓前でこのローソクをつけてみることを思いついた。佐保子さんも、それはいいわね、主人は結局見られなかったから、とさびしそうにいった。


ローソクに火をともし、お墓の前で二人でしゃがんで、小さな炎をしばらく見つめた。秋の日が傾きはじめていて、すこし肌寒かった。炎は風に小刻みに揺れていたけれど、消えることはなかった。


帰りに最寄りの駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだ。佐保子さんは、晩年の主人は涙もろくなって、自分が親不孝だったとか落第をくりかえして時間を無駄にしたと後悔していた、といった。佐保子さんが、そんなことないでしょ、あなたはとても親孝行だったじゃないのといっても、そんなことはないといって悔やんでいたという。


「そうだったんですか・・・」


「あのくらいの年齢の男のひとは、みなそういう挫折感をもっているのね。ずっと昔のことなのに、自分がちゃんとしたコースを歩めなかったと思い込んで一生悔やんでいるのね。わたしが『そんなことないわ』といった晩、主人はわたしを殴る夢を見たといっていたわ」


「・・・」


「主人はね、ほんとうは私に編み物でもしていてほしかったの。わたし、大学に落ちていたらお見合いして結婚するはずだった。それでもしかたないって思っていたわ。女の人生ってそういうものだったから。だから、主人を見ていて、男のひとの挫折感ていうのが、とても意外だった・・・」


「男と女はちがうんですねえ」


「そうよ、でも私、がんばったのよ、主人は映画や芝居がとても好きで、私にもいっしょに見てほしいと思っているのがわかったから、なるべくつきあうようにしていた。だから、わたしに本当にしなくてはならない仕事があるときは、主人が寝たあとで細切れの時間で仕事していたの・・・」


一年くらい前にお会いしたときは、佐保子さんはずっとお父様の話をしていた。全集を出し、蔵書目録を完成し、辻さんについての二冊の本を出したことで、あるいはすこし気持ちの整理がついていたのかもしれない。「歩いて3分くらいのところに深夜営業のスーパーがあるの。運動のために一日一回そこまで買い物がてら歩くようにしているのだけど、よたよた歩きだからボケ老人が徘徊していると思われているかも」といって笑っていらした。


ネットもメールも「こわいから」といってされていなかった佐保子さんが送ってくださる葉書には、いつも「エスカルゴ印のろのろめーる」と書かれていた。もう、のろのろメールが来ないのかと思うと、とてもさびしい。23日にお送りしたイスラエル・ローソクはさきほどネットで見たら「配達完了」になっていた。もはや受け取ってもらえる人のいないローソクがどうなるのかわからないけれど、もし、だれか気づいてくれたならば、佐保子さんの御霊前に灯してあげていただければと思う。


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〈追記〉

その後、ご親類の方から、ローソクを受け取り飾らせていただいたと連絡がありました。

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コメント

心よりお悔やみ申し上げます。
真知さん、生きている者はどちらにしても後悔の連続です。
辻さんがおひとりで気丈に暮らしていらしたのは、おひとりで死んでいく覚悟もおありだったと思われます。
こんな追悼の文章を書いてもらって、亡くなった辻さんも絶対喜んでいらっしゃると思いますよ。
気を落としすぎませんように。

投稿: 三谷眞紀 | 2011年12月27日 (火) 22時10分

>三谷眞紀さま

あたたかい言葉をありがとうございます。
そうですね。病院に入らずにご自宅で最期を迎えられたのは、ご本人の望んでいらしたことだったのだと思います。
私は大丈夫なのでご安心ください。

投稿: 田中真知 | 2011年12月28日 (水) 07時03分

初めまして。すみません、文章を読ませていただきました。1990年に辻佐保子さんの『天使の舞おりるところ』を読みました。大切に今も持っております。今朝の新聞の訃報を見て本棚の奥から出して、しばらく眺めていました。表紙のイコンに描かれた天使の姿がほっそりと美しく、左手を差し出し、右手で袂を抑えています。ほらこちらですよと振り返った刹那でしょうか、足元の裾が広がり襞が翻っています。自分のブログにも拙文を書きました。
『天使の舞おりるところ』を読んで、コモ湖周辺にも参りました。どの教会かわからず、山には上らずじまいでしたが。

ろうそくのお話、大事に読ませていただきました。

ご冥福をお祈りします。

投稿: tekuteku2011 | 2011年12月28日 (水) 13時11分

>tekuteku2011さま

読んでいただき、ありがとうございます。
「天使の舞いおりるところ」残念ながら私は読んでいません。
ただ、あの本が出るちょっと前に、ご主人の辻邦生さんが、「家内のこんど出る本は、とてもすてきなタイトルなんだよ」と、うれしそうに話してくれたのを覚えています。

ブログも拝見させていただきました。サン・ピエトロ・アル・モンテは、佐保子さんの教え子にあたる金沢百枝さんの「イタリア古寺巡礼 ミラノ→ヴェネツィア」の中にも取り上げられている山上の教会ですね。

投稿: 田中真知 | 2011年12月28日 (水) 20時30分

はじめまして。中学生の時から辻邦生さんの小説が好きでした。以前、このブログの「軽井沢で辻邦生展を見る」の文章(http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-7152.html)と、「辻邦生さんへの最後の手紙」のpdfファイルも読ませていただきました。

この追悼の文章で、邦生さんを亡くした後の佐保子さんがどのようにすごしていらしたかを知り、田中真知さんがどんなに佐保子さんを偲んでいらっしゃるかを感じて、涙が流れました。そして、今お二人はこの世の時間を越えて共にいらっしゃるだろうと感じています。

美しく心にしみる追悼の文章を読ませていただいたことに一言お礼を申し上げたくて、書きました。

投稿: RM | 2011年12月31日 (土) 20時42分

>RMさま

2011年の最後に心のこもったコメント、とてもうれしく拝見しました。ほかの文章も読んでくださり恐縮です。ありがとうございました。

投稿: 田中真知 | 2012年1月 1日 (日) 20時07分

1月も10日が過ぎようとしています。過日、お返事もいただいてありがとうございました。さっそく御著書「美しいをさがす旅にでよう」と、金沢百枝さんの御著書、辻佐保子さんの御著書も拝読しました。《天使が舞い降りるところ》~~チヴァーテの景色を見ることができました。長年の夢がかないました。こころから 感謝申し上げます。

体にお気をつけて、これからもご執筆を!御本を楽しみに待っております。

投稿: tekuteku2011 | 2012年1月10日 (火) 18時30分

>tekuteku2011さま

拙著まで読んでいただき、ありがとうございます。あの本は佐保子さんにほめていただきました。
tekuteku2011様もおからだに気をつけて。これからもよろしくお願いします。

投稿: 田中真知 | 2012年1月11日 (水) 10時42分

3月25日の「お別れの会」の案内が自宅に届き、はじめて辻佐保子先生の訃報を知りました。二十数年前、大学院入試の際に、ある理由から面接口頭試験をサボってしまい、受験のため上京して宿泊していた某カトリック教会の会館の一室でふてくされていたところ、辻先生自ら会館にお電話をかけてこられ、「何してるの?まだ面接があるでしょ。待ってるから早く大学に出て来なさい!」と一喝されたことを、はっきりと覚えています。
 せっかく辻先生のご温情をいただけたのに、私自身の不肖な性格ゆえか、結局大学にはなじめず、研究生活を途中で放棄してしまい一般の会社に就職してしまいましたが、それでもしばらくは年賀状や拙い自著への丁寧なお礼のお手紙などを辻先生から頂いておりました。
 大学関係の方々とはすっかり疎遠となりましたが、辻先生にはひとことではあらわせないほどの感謝の気持ちと、在学中に山のように大きなご迷惑をさんざんおかけしてきてしまったことに対する後悔の念で今もいっぱいです。
 3月の「お別れの会」には残念ながら出席できませんが、いまここに慎んで先生のご冥福をお祈りいたします。

投稿: Uccelo | 2012年2月 2日 (木) 22時21分

>Ucceloさま

大切な思い出を書いてくださり、ありがとうございます。

そうでしたか。私は佐保子先生のご研究についてはほとんど知らないのですが、それでも細やかな面倒見の良さやちゃきちゃきとした明るさで教え子の方たちに頼りにされていたと聞いています。

いちばん上のコメントで三谷眞紀さんが書いてくださったように、人は生きているかぎり後悔の連続です。どうか気を落とされませんように。
ウッチェロは佐保子先生が画集に解説を書かれていたイタリア・ルネサンスの画家ですね。Ucceloさまもその時代の美術をご研究されていたのでしょうか。

投稿: 田中真知 | 2012年2月 3日 (金) 09時46分

拝復 ご返信ありがとうございます。ひと様のブログを利用して極私的なエピソードを書き込んでしまいましたこと、お詫び申し上げます。亡くなられた先生のお名前で検索してみたら、トップに田中真知さんのサイトが現れておりましたので、つい辻先生との思い出を回想しここに吐露してしまいました。お世話になっていた在学中は研究に対する自他への厳しさと同時に、いつもユーモアあふれる話題で場の空気を一瞬で変えてしまわれる辻先生の機知に感嘆するばかりでした。辻三部作といわれる岩波書店の論文集のうち、「古典世界からキリスト教世界へ」は直接には存じませんが、その後の「ビザンティン美術の表象世界」と「中世写本の装飾と挿絵」は、院生向けゼミでその構想や進行内容をいつも紹介されていましたので、ほぼリアルタイムで「創作の経緯」と「作品生成」の現場を目撃する幸運に恵まれていました。愚生の専攻は辻先生のご専門とは直接結びつかないのですが、15~16世紀近代北欧の祈念祭壇画に関するものでした。当時はほとんど参考資料が海外にも存在していなかった特殊な画家を対象にしていましたが、激務の合間をぬって、親身にアドバイスをいただいた記憶がよみがえって参ります。

投稿: Uccelo | 2012年2月 3日 (金) 12時38分

Ucceloさんと同じく検索でたどり着きました。

「不在・持戻」通知は普通一時的な通知です。それが永遠の通知になることが、突然にやってくる。「かくも永き不在」ではなく、終わることのない不在。
 邦生先生の不在に佐保子先生が「慣れられた」ように、私たちも佐保子先生の不在に慣れてしまうことなのでしょうね。
 晩年の先生のお姿を垣間見ることが出来、田中真知さんには深く感謝いたします。

 先生のご冥福を深くお祈り申し上げます。

投稿: 教え子の一人 | 2012年2月 5日 (日) 06時12分

>Ucceloさま

「ユーモアあふれる話題で場の空気を一瞬で変えてしまわれる」というのは本当にそうでしたね。辻邦生先生も、家内の明るさに救われるとよくおっしゃっておられました。佐保子先生の謦咳に接し、その創作の経緯をそばで見られたとはすばらしいですね。辻邦生先生の短編の中にも、「妻」がローマの石棺を観察している場面や、タイプライターを打つ様子などが描かれていますが、それが論文の形になっていくプロセスを辻邦生先生もごらんになっていたのでしょうね。

祈念祭壇画というと、グリューネバルトくらいしか思い浮かびませんが、もしさしつかえなければ御著書のタイトルをお教えいただければうれしく思います。


 


>教え子の一人さま

拙文を読んでくださり、ありがとうございます。このようなプライベートなことを書いてしまってよいものだろうかと書いた後、気になっていたのですが、教え子の方にそうおっしゃっていただけると、書いてよかったのかなと、ほっといたします。

たまにしか会わない方が亡くなると、こちらの生活はふだんどおりなのに、ふとしたきっかけに相手の不在をひりひりと感じます。サン・テグジュペリは郵便飛行機パイロット時代、めったにしか顔を合わせない僚友の死を「刺すような苦しみではないが、どうやらほろ苦い」と書いていました。そんなほろ苦さが、通奏低音のように自分の感情の一部になってしまうのが慣れるということなのでしょうか。

投稿: 田中真知 | 2012年2月 5日 (日) 10時18分

拝復
先年亡くなられた歴史家の阿部謹也先生が大学非常勤としてかつて講義に見えられた折、辻佐保子先生の話題に触れられて「佐保姫さまには、大学は違っていましたがお世話になりましてね」とほほ笑まれていた様子を思い出しました。人文系の学界ではいわば「アイドル」的存在、と語っておられたことも印象的でした。1950年代当時は大学における女性の存在がそれほど希少であったという感覚は、今からは想像もつかないことですが、「先例に学びつつ、そこから自分自身のオリジナルを求めてゆかなければ生き残れないのよ、どこでも。とくに男社会の大学ではね」と何かの折につぶやかれた辻先生の言葉、それはご自身へ向けた自律自戒の言葉でもあったのでしょう。
 拙著の件は恥ずかしいので伏せさせていただきます。美術関係ではなく文学系の若書きですので。ありがとうございます。

投稿: Uccelo | 2012年2月 5日 (日) 12時38分

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