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2012年6月

澄みわたった絶望−−いわきで松田松雄展を見る

前々回のエントリーで書いた「父の遺品の絵」のつづき。前にも書いたが、父の遺品の中から最近発見した松田松雄という画家の「民ーむれ」と題された絵が、どうにも気になっていたところに、偶然6月にこの画家の没後11年展が開かれることを知り(6/9-6/24 現在は終了)、福島県のいわきまで行ってきた。


あらためて見直してみても、手もとにある「民ーむれ」は暗い絵だ。暗いのだけれど、どこか気持ちが落ち着くのは、この絵にごまかしや、わざとらしさがないからかもしれない。白く塗られた顔に表情はあるものの、それは一人一人の個性というより、「民」という人間の集合体が抱えた揺らぎや振幅のように見える。この画家はほかにどんな絵を描いていたのだろう。

 
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作品は2ヵ所のギャラリーに分けて展示されていた。最初に行ったギャラリーには、ストロークと題された晩年の抽象画のほか、絵本の挿絵を思わせる初期の幻想的な画風のものなど、異なる時代の作品が展示されていた。その作風は多様で一人の画家が描いたとは思えないほどだが、やはり吸いよせられたのは、父がもっていた「民ーむれ」」と似た系列の作品だった。

 
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黒い布を頭からかぶり、疲れきったようにベンチにたたずむ家族。地べたにすわりこみ、首をうなだれたり、横たわったりしている人たち。いずれもモノトーンの画面から緊張をはらんだ重い沈黙が伝わってくる。表情や仕草、背景や色といった要素を極限まで切りつめたがゆえに、かえって人間のおかれている荒涼とした悲劇性が生々しく浮かび上がってくる。描かれたのが1970年代後半であるにもかかわらず、ここに描かれている世界は、3.11を経験したいまのわれわれの心象風景におどろくほど重なる気がする。

 
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ギャラリーに松田氏の奥様がおられたので、少しお話しさせていただいた。奥様の話によると、作品の多くは生まれ故郷の岩手県陸前高田で過ごした幼少期から若い時代の経験がベースになっているのではないかということだった。「貧しい暮らしだったと思いますよ。将来は大工か漁師になるくらいしかない。冬は寒いから、頭から布を頭からすっぽりかぶる。絵でマントをかぶっている人たちは行商人なんです」


松田松雄は1937年(昭和12年)に陸前高田に生まれ、20代半ばころに、福島のいわき市に移り、そこで亡くなった。マントの人びとの姿は、どことなく修道士のようにも、あるいは砂漠に暮らすアラブの女性を思わせたが、あれは行商人だったのか。のちに雑誌の表紙にもなった初期の作品には「風景(行商人)」とある。

 
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初期の作品に白黒のものが多いのは、貧しくて絵の具が買えなかったからだという。逆に、そうやって切りつめられた暮らしの中で、人間という存在もまた、ぎりぎりまで切りつめられた「風景」として、画家の目には映っていたのかもしれない。奥様の話では、今回ほどの規模ではないにしても陸前高田にいたときに画家は津波を経験し、浜に打ち上げられた遺体を見たこともあったはずだという。

 
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生きることは厳しく、不条理に満ち、救いがたい絶望にとりまかれている。その原風景を理想化することも、憧れることもなく、ただ淡々と、よけいなものを省いて描きあげたのが、「風景」と題されたこれらの作品なのかもしれない。その後の作品では、これらの風景がなおいっそう抽象化され、解体されていくことになる。


ギャラリーを出るとき、「ご主人は外国へ行かれたことはありますか」と聞いた。奥様は「いいえ」といった。パスポートはとったのだけど、なにかこだわりがあったみたいで結局行かなかったそうだ。陸前高田からいわきへ引っ越したものの、画家は生涯を東北で送った。それを聞いて、なんとなく納得がいく気がした。

 
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昭和初期、地方の芸術家や文学者には、おしなべて東京や外国への憧れがあった。しかし、実際に故郷を出た者は、故郷を捨てたことへの後ろめたさにとらわれてしまう傾向があったように思う。「夕焼け小焼け」や「ふるさと」のような日本の童謡にしても、都会に出た作家が故郷をなつかしんで書いた詩だし、東北出身という意味でいえば、寺山修司にしても、最近だったら辺見庸にしても、故郷を捨てたことへの罪悪感を抱えつづけてきたように見える。捨てたはずのものが、自分にとってのねじれたアイデンティティになる、という宿命から人は逃れがたい。


けれども、松田松雄という画家にはそれが感じられない。故郷を描いていても、故郷に対する後ろめたさはない。わざとらしさやねじれたコンプレックスも感じられない。故郷を美化や理想化することもなければ、その悲惨を強調するわけでもない。この画家の描く世界が暗く、救いがたい、絶望に満ちたものに見えても、どこか心安らぐのは、そうした後ろめたさのようなものから解放され、実存を虚心で見すえるまなざしがあるせいかもしれない。

 
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ギャラリーをあとにして、もうひとつの展示会場に向かう。古民家を改築した土壁のギャラリーには、晩年の小さな作品を中心に展示されていた。こちらには画家の娘の松田文さんがおられ、やはり少し話をさせていただいたが、話題はもっぱら原発事故のことだった。


いわきは福島第1原発から40キロほどの場所にある。彼女と話をしていると、関東といわきとでは、原発に対するリアリティがこれほどちがうのか、とおどろいた。もちろん人にもよるが、原発についての情報がたんなる情報として風化しそうな感もある関東とは対照的に、ここではいぜんとして事故も、放射性物資による汚染への恐怖も生々しい。事故後、避難者や事故処理作業員が大量に流入してきたこともあって、いわき市の人口は2万から3万人も増え、町の雰囲気も変わったという。


いま、昭和初期とはまたちがった意味で、ここにとどまりつづけるか、それとも出ていくかという選択の中に、ひとは置かれている。もちろん出ていくゆとりのある人や、子供のいるひとなどは出ていくにこしたことはない。けれども、そうしたら、きっと、故郷を離れた文学者や芸術家たちの多くがそうであったように、どこかに後ろめたさを感じつつ、その気持ちと折り合いをつけながら、生きていくことになるのかもしれない。


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いわきから戻ってしばらくして、文さんから、松田松雄の図録と一冊の本が送られてきた。本は「被災詩人」の和合亮一さんが福島に暮らす25人の人たちに行った『ふるさとをあきらめない フクシマ、25人の証言』(新潮社)というインタビュー集で、文さんもインタビューを受けるひとりとして登場している。


市内の仮設住宅をサポートする仕事にたずさわっている彼女は、インタビューの中で「個人的には私は福島、郡山はもう人が住むべき場所ではないと思ってる」と述べている。その一方、事故直後東京に避難していたときには「被災者の〈被〉という立場でただなにもせずにいる状況はどうなのか・・・自分の中で擦り切れてくる部分があって。人として失っていく何かが、尊厳っていうか・・・」とも語っている。


こうしたジレンマの中で、結果的に、彼女はふるさとに生きつづけることを選択した。それを勇気などという言葉で表現するのはあまりに安直だけれども、それは、彼女の父上が「なにかこだわりがあって」外に出ようとしなかったことに通じるような、「被」にならないための、あるいは罪悪感を抱えて生きないための、主体的な選択であるようにも思えた。


話がそれてしまったが、松田松雄の絵はほんとうによかった。いま、このような時代だからこそ、この絵が深く琴線に触れる人は多いのではないだろうか。フェルメールやシャガールも悪いとはいわないが、いま見るべき絵は、そっちじゃないだろといいたい。未発表の作品もまだたくさんあるとのことなので、ぜひ東京でも展覧会をやってほしいのだけど、どうすればいいのだろう。



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あの日、サイパンの鍾乳洞で

ふだんの生活の中で、われわれは近所の人がどういう人生をおくってきた方なのか、ほとんど知らずにいる。近所の人がなにか事件を起こしたとき、「そんなふうには見えませんでした」とか、「ふつうの方でしたよ」とかコメントしたりするが、じつのところは関心をもって見たことなどいちどもなかった、ということだ。


その意味からすれば、近所のYさんのことは、すこしは知っていたつもりだった。数年前にご主人を亡くされたYさんは熱心なクリスチャンで、ひまさえあれば近所の教会に通っていた。うちの父親が晩年動けなくなったときには、一人暮らしだった父のために食事をつくってくれたり、聖書を読み聞かせたりもしていたらしい。


父は信仰心のかけらもない人だったが、なにしろ動けなかったから、Yさんが持ち込むさまざまな教会グッズを拒むこともできなかった。ぼくが何年ぶりかで父のもとを訪ねたときには、ゴミ屋敷のようになった室内にあって、手製の十字架とか、子どもが色を塗ったらしいイースターの卵とか、色とりどりのモールとかが父のまわりにお供えのように飾られており、その場違いにファンシーな雰囲気の中で、父はあきらめたような表情でうずくまっていた。


Yさんは父を死ぬ前に改宗させたかったらしく、牧師さんを連れてきたこともあったという。あとでYさんのいうところによると、聖書を読んで聞かせた結果、父はとうとう神さまを信じるようになったというのだが、本当のところはわからない。あの父が「神さまを信じます」なんて口にしたとは、どうころんでも想像つかなかった。結局、父の葬式は仏式で行った。


その後われわれが引っ越してくると、Yさんはときどき教会の行事に誘ってくれた。一、二度断りきれずに顔を出したこともあるが、こちらにその気がないとわかると、それ以上誘われることはなくなり、この何年かは回覧板を回すときとか、ゴミ出しのときとかに、あいさつをかわす程度のつきあいしかなかった。


そんなYさんが先日、突然うちにやってきた。そして「私、初めて自分のことを書いたんです」といって一枚の紙をぼくにくれた。


「近所の方たちにも配っているんです。みなさん、びっくりされるんですけど・・・」


そりゃ、いきなりやってきて、私の話を読んでください、といわれたら、だれだって、びっくりするだろう。Yさんはいつも早口で、ハイテンションで、ちょっとエキセントリックなところがある。このときも少し興奮気味に見えた。


しかし、Yさんが帰った後、ワープロに打たれたその「自分のこと」を書いた短い文章を読んで、ぼくは本当にびっくりしてしまった。


そこに綴られていたのはYさんの幼いころの話だった。1944年当時、Yさん一家はサイパンに暮らしていた。Yさんの父はサイパン高等女学校の先生をしていて、家族は母と、4歳だったYさん、8歳の兄、1歳の妹の5人だった。


この年の6月、米軍がサイパン島に上陸し、大規模な掃討作戦をはじめた。Yさん一家は米軍の攻撃を逃れるため、島の真ん中のジャングルを1ヵ月以上も逃げ回り、偶然大きな鍾乳洞へとたどりついた。そこには数百人の人たちが同じように避難していた。


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鍾乳洞には水がなかった。サイパンは川がなく、この年は雨もほとんどふらなかった。Yさんの父は、このままではみな死んでしまうので水を探しに行くといって鍾乳洞を出ていった。けれども、2日たっても父は戻ってこなかった。母は父が死んでしまったと思い、それなら、せめて海の水でもお腹いっぱい飲んでから死のうということで、子どもたちを連れて鍾乳洞を出ることにした。


だが、このとき4歳だったYさんは栄養失調で衰弱して動けなかった。やむなく母はYさんを置いていくことにして、1歳の妹を背負い、8歳の兄とともに海をめざして鍾乳洞を出た。ここにいても、外に出てもどっちにしても死ぬことには変わりがなかった。


ひとり残されたYさんは、鍾乳洞の中でじっとしていた。父もいない。母も兄と妹をつれて行ってしまった。食べるものも水もない。救いだったのはそれがどういうことなのかを考えるには4歳のYさんは幼すぎたし、衰弱しすぎていたことだった。


ところが、母たちが鍾乳洞を出て2日後、水を探しに行っていた父が戻ってきたのだった。父はぐったりしたYさんを見た。しかし、妻やほかの子どもたちの姿はない。なにが起きたのかわからず、父は置き去りにされた娘(Yさん)を背負うと、ふらふらと洞窟の外へと出たという。ここから先は、Yさん自身の文章を引用する。


父が鍾乳洞に戻ってきたとき、私だけが残されていたのを見て、何が起きたかわからず、私をおんぶして外に連れ出し、さまよい歩きました。すると、おんぶされている私の後ろから、私の頭を通り越して、父の首に銃弾が飛んできました。二人とも倒れましたが、おんぶひもでくくられているので、身動きがとれません。私は父の首から流れる血を見たと思います。恐ろしさは覚えていません。「お父さん、お父さん」と呼ぶと、虫の息にもかかわらず、やっとの声で「ハーイ」と返事してくれたことが何十年たったいまでも耳に焼き付いています。


父を撃った米軍の兵士が泣いている私のところに来て、どういうものを食べさせてくれたかははっきりは覚えていませんが、いちごジャムをつけたクラッカーと缶詰を食べさせてくれたことは覚えています。そして、私をジープに乗せていき、捕虜収容所に着いたら、父の教え子の女学生が私を見つけてくださり、私はそこで母や兄、妹に再会しました(引用者注;母と兄と妹は森の中で米兵に捕まっていた。栄養失調だった妹はそれからまもなく亡くなった)。


父が戻らず、鍾乳洞に置き去りにされたままであれば、私は餓死していたでしょう。また、母と兄が海に行って死んでいたら、私は戦争孤児になっていたでしょう。そうしたら私はどのような人生を送っていたでしょうか・・・。


Yさんはこのことをおそらく片時も忘れることなく、これまで生きてきたのだろう。ひょっとしたら、Yさんが大人になって洗礼を受けたのも、こうした幼い日の経験が関係しているのかもしれない。ちょっとでも弾がそれていたら、自分だって死んでいたかもしれない。父が帰ってくるのが一日遅かったら鍾乳洞で飢え死にしていたかもしれない。反対に父はが死ぬこともなかったかもしれない。けれども、結果的に父は死に、自分は生きた。そうした運命の偶然を必然として受け入れるためには、Yさんにとって神さまが必要だったのかもしれない。いずれにしても、ご主人も亡くなり、70歳をこえてひとりになってようやく、Yさんはその記憶をおだやかにふり返ることができるようになったのだ。


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数日後、ゴミ出しの朝に偶然Yさんと出会った。読みましたよ、びっくりしました、たいへんだったんですね、とあいさつすると、「ありがとうございます。感謝します。びっくりしたでしょ。もし弾が私の背中に当たっていたら、私も父もいっしょに死んでいたでしょうね」といつもながらのハイテンションな口調でいった。


「でも、私、父を撃ったアメリカ人の兵士のことを恨む気持ちなんてまるで起こらなかったんですよ、不思議なんだけど」とYさんがいった。


「でも、お父様が亡くなって悲しかったんじゃないですか?」


「悲しかったですよ。いまでもはっきり覚えてますよ。お渡しした紙にも書きましたけど、撃たれたあと父に呼びかけると、父はハーイって返事してくれたんです。でも、そのまま動かなくなってしまいました・・・それでも、父を撃った兵士に対して許せないとか、憎んだりとかという気持ちは、まったく起きなかったんです」


「大きくなってからもですか?」


「ええ、いちどもないです」


「どうしてですか?」


「さあ、どうしてなんでしょうね。私にもわかりません・・・でも、恨んでいたら、もっとつらかったと思います・・・神さまが、そうはからってくださったんでしょうね。感謝します。ハレルヤ〜」


 

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