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あの日、サイパンの鍾乳洞で

ふだんの生活の中で、われわれは近所の人がどういう人生をおくってきた方なのか、ほとんど知らずにいる。近所の人がなにか事件を起こしたとき、「そんなふうには見えませんでした」とか、「ふつうの方でしたよ」とかコメントしたりするが、じつのところは関心をもって見たことなどいちどもなかった、ということだ。


その意味からすれば、近所のYさんのことは、すこしは知っていたつもりだった。数年前にご主人を亡くされたYさんは熱心なクリスチャンで、ひまさえあれば近所の教会に通っていた。うちの父親が晩年動けなくなったときには、一人暮らしだった父のために食事をつくってくれたり、聖書を読み聞かせたりもしていたらしい。


父は信仰心のかけらもない人だったが、なにしろ動けなかったから、Yさんが持ち込むさまざまな教会グッズを拒むこともできなかった。ぼくが何年ぶりかで父のもとを訪ねたときには、ゴミ屋敷のようになった室内にあって、手製の十字架とか、子どもが色を塗ったらしいイースターの卵とか、色とりどりのモールとかが父のまわりにお供えのように飾られており、その場違いにファンシーな雰囲気の中で、父はあきらめたような表情でうずくまっていた。


Yさんは父を死ぬ前に改宗させたかったらしく、牧師さんを連れてきたこともあったという。あとでYさんのいうところによると、聖書を読んで聞かせた結果、父はとうとう神さまを信じるようになったというのだが、本当のところはわからない。あの父が「神さまを信じます」なんて口にしたとは、どうころんでも想像つかなかった。結局、父の葬式は仏式で行った。


その後われわれが引っ越してくると、Yさんはときどき教会の行事に誘ってくれた。一、二度断りきれずに顔を出したこともあるが、こちらにその気がないとわかると、それ以上誘われることはなくなり、この何年かは回覧板を回すときとか、ゴミ出しのときとかに、あいさつをかわす程度のつきあいしかなかった。


そんなYさんが先日、突然うちにやってきた。そして「私、初めて自分のことを書いたんです」といって一枚の紙をぼくにくれた。


「近所の方たちにも配っているんです。みなさん、びっくりされるんですけど・・・」


そりゃ、いきなりやってきて、私の話を読んでください、といわれたら、だれだって、びっくりするだろう。Yさんはいつも早口で、ハイテンションで、ちょっとエキセントリックなところがある。このときも少し興奮気味に見えた。


しかし、Yさんが帰った後、ワープロに打たれたその「自分のこと」を書いた短い文章を読んで、ぼくは本当にびっくりしてしまった。


そこに綴られていたのはYさんの幼いころの話だった。1944年当時、Yさん一家はサイパンに暮らしていた。Yさんの父はサイパン高等女学校の先生をしていて、家族は母と、4歳だったYさん、8歳の兄、1歳の妹の5人だった。


この年の6月、米軍がサイパン島に上陸し、大規模な掃討作戦をはじめた。Yさん一家は米軍の攻撃を逃れるため、島の真ん中のジャングルを1ヵ月以上も逃げ回り、偶然大きな鍾乳洞へとたどりついた。そこには数百人の人たちが同じように避難していた。


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鍾乳洞には水がなかった。サイパンは川がなく、この年は雨もほとんどふらなかった。Yさんの父は、このままではみな死んでしまうので水を探しに行くといって鍾乳洞を出ていった。けれども、2日たっても父は戻ってこなかった。母は父が死んでしまったと思い、それなら、せめて海の水でもお腹いっぱい飲んでから死のうということで、子どもたちを連れて鍾乳洞を出ることにした。


だが、このとき4歳だったYさんは栄養失調で衰弱して動けなかった。やむなく母はYさんを置いていくことにして、1歳の妹を背負い、8歳の兄とともに海をめざして鍾乳洞を出た。ここにいても、外に出てもどっちにしても死ぬことには変わりがなかった。


ひとり残されたYさんは、鍾乳洞の中でじっとしていた。父もいない。母も兄と妹をつれて行ってしまった。食べるものも水もない。救いだったのはそれがどういうことなのかを考えるには4歳のYさんは幼すぎたし、衰弱しすぎていたことだった。


ところが、母たちが鍾乳洞を出て2日後、水を探しに行っていた父が戻ってきたのだった。父はぐったりしたYさんを見た。しかし、妻やほかの子どもたちの姿はない。なにが起きたのかわからず、父は置き去りにされた娘(Yさん)を背負うと、ふらふらと洞窟の外へと出たという。ここから先は、Yさん自身の文章を引用する。


父が鍾乳洞に戻ってきたとき、私だけが残されていたのを見て、何が起きたかわからず、私をおんぶして外に連れ出し、さまよい歩きました。すると、おんぶされている私の後ろから、私の頭を通り越して、父の首に銃弾が飛んできました。二人とも倒れましたが、おんぶひもでくくられているので、身動きがとれません。私は父の首から流れる血を見たと思います。恐ろしさは覚えていません。「お父さん、お父さん」と呼ぶと、虫の息にもかかわらず、やっとの声で「ハーイ」と返事してくれたことが何十年たったいまでも耳に焼き付いています。


父を撃った米軍の兵士が泣いている私のところに来て、どういうものを食べさせてくれたかははっきりは覚えていませんが、いちごジャムをつけたクラッカーと缶詰を食べさせてくれたことは覚えています。そして、私をジープに乗せていき、捕虜収容所に着いたら、父の教え子の女学生が私を見つけてくださり、私はそこで母や兄、妹に再会しました(引用者注;母と兄と妹は森の中で米兵に捕まっていた。栄養失調だった妹はそれからまもなく亡くなった)。


父が戻らず、鍾乳洞に置き去りにされたままであれば、私は餓死していたでしょう。また、母と兄が海に行って死んでいたら、私は戦争孤児になっていたでしょう。そうしたら私はどのような人生を送っていたでしょうか・・・。


Yさんはこのことをおそらく片時も忘れることなく、これまで生きてきたのだろう。ひょっとしたら、Yさんが大人になって洗礼を受けたのも、こうした幼い日の経験が関係しているのかもしれない。ちょっとでも弾がそれていたら、自分だって死んでいたかもしれない。父が帰ってくるのが一日遅かったら鍾乳洞で飢え死にしていたかもしれない。反対に父はが死ぬこともなかったかもしれない。けれども、結果的に父は死に、自分は生きた。そうした運命の偶然を必然として受け入れるためには、Yさんにとって神さまが必要だったのかもしれない。いずれにしても、ご主人も亡くなり、70歳をこえてひとりになってようやく、Yさんはその記憶をおだやかにふり返ることができるようになったのだ。


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数日後、ゴミ出しの朝に偶然Yさんと出会った。読みましたよ、びっくりしました、たいへんだったんですね、とあいさつすると、「ありがとうございます。感謝します。びっくりしたでしょ。もし弾が私の背中に当たっていたら、私も父もいっしょに死んでいたでしょうね」といつもながらのハイテンションな口調でいった。


「でも、私、父を撃ったアメリカ人の兵士のことを恨む気持ちなんてまるで起こらなかったんですよ、不思議なんだけど」とYさんがいった。


「でも、お父様が亡くなって悲しかったんじゃないですか?」


「悲しかったですよ。いまでもはっきり覚えてますよ。お渡しした紙にも書きましたけど、撃たれたあと父に呼びかけると、父はハーイって返事してくれたんです。でも、そのまま動かなくなってしまいました・・・それでも、父を撃った兵士に対して許せないとか、憎んだりとかという気持ちは、まったく起きなかったんです」


「大きくなってからもですか?」


「ええ、いちどもないです」


「どうしてですか?」


「さあ、どうしてなんでしょうね。私にもわかりません・・・でも、恨んでいたら、もっとつらかったと思います・・・神さまが、そうはからってくださったんでしょうね。感謝します。ハレルヤ〜」


 

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コメント

松田松雄さんの絵はあんまりインパクトがありすぎて、思わずプリントして机に飾りました。かつて読んだ内村剛介とか石原吉郎のシベリア抑留の体験記を思い出しました。そして、サイパンの話。すごい。そういえば、もう亡くなったけど、知り合いの先生が沖縄出身で、隻腕でした。鉄血勤皇隊に属していて、爆弾で片腕がなくなったんだそうです。戦争を記憶している人は自分が子どものころはたくさんいたけど、いまはかなり高齢者ばかりになってしまいました。子どものころは町などに傷痍軍人がいて物乞いをしていました。あの風景はいつからなくなったんだろう。

投稿: ferrier | 2012年6月13日 (水) 16時51分

私の好きなTracy Chapmanの歌に、Say hallelujahというのがあります。弔いの歌です。人の死はある種の解放であり、悲しみや恨みを抜きに語られてこそ、死者自身にとってよいことだと感じます。

投稿: かおり | 2012年6月13日 (水) 20時22分

>ferrierさま
コメントありがとうございます。昨日いわきで松田松雄さんの没後11年展を見てきました。そのときのことは近いうちに書きますね。子どもの頃、町なかにいた傷痍軍人。そうですね。池袋でもよく見ました。1970年代後半くらいまではいた気がします。

>かおりさん
Say hallelujah、聞きました。乾いた悲しみというか、そこはかとない気だるさがいいですね。そのゆるんだかんじが死にともなう解放感なのかな。

投稿: 田中真知 | 2012年6月14日 (木) 01時43分

こんにちは。お久しぶりです。Yさんのお話、何度か繰り返し読ませていただきました。
よい言葉が浮かばないのですが、ひとが一人一人、今生きていることのそれぞれの不思議さを思いました。だから、だからこそのわが身の今日一日、そして明日だと…

また時々、このブログに来させてください。

投稿: tekuteku2011 | 2012年6月17日 (日) 18時13分

>tekuteku2011さま
ありがとうございます。生きているということは、それだけで不思議です。
ブログなんですから、お好きなときにどうぞ(^^)

投稿: 田中真知 | 2012年6月18日 (月) 01時37分

『ハーイ』と応えたお父様の胸中を思うと苦しくなります。
 戦争が多くの運命を変えるのは確かでしょうけど、今を生きる私には病気で随分自分の人生が変わってしまった気がします。
 ところで「夏休みの家」はいつ完結するのですか。

投稿: shiho | 2012年6月19日 (火) 22時48分

>shihoさま
ご病気なんですか。いまはもう大丈夫なのでしょうか。
「夏休みの家」。。。そうでしたね、ヘルニア日記も途中だし、近々(夏中くらいまでに)完結させます。

投稿: 田中真知 | 2012年6月20日 (水) 00時17分

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