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2013年7月

中国武術研究家の松田隆智さんの訃報

中国武術研究家の松田隆智さんが亡くなった。中学生のとき、サンポウブックスから松田さんが出した初めての著書「太極拳入門」「少林拳入門」を読んで、こんな武術があるのかと衝撃を受け、ファンレター、というかほとんど入門志望レターを書いたことがある。当時はブルース・リーの映画が大流行していて、たいてい学校でヌンチャクを振り回しているやつがいたが、そうしたカンフー映画とはちがった伝統的な武芸の系統があることに驚いた。陳家太極拳の使い手が主人公で、松田さんが監修をつとめていた雁屋哲原作のマンガ「男組」は当時の自分のバイブルだった。


中国拳法の打撃法である「発勁」という技法を初めて紹介したのも松田さんだった。松田さんは発勁についてかなり神秘めかした書き方をしていた。それがのちに彼への批判にもつながることになったのだけれど、あの頃は松田さんの著作以外に、日本語で中国の伝統武術の流れや技術を解説した資料がなかった。実際は戦後、台湾から蒋介石の文化使節ということで日本にやってきた王樹金などの武術家もいたのだけれど、その技術は一部の人たちにしか伝えられず、しかも広く公開されなかった。文献とみずからの修行経験をもとに中国武術の歴史や技法をていねいに解説してくれたのは松田さんだけだった。


そんな松田さんと20代の初め頃、この前亡くなった吉福伸逸さんが主宰していたC+F研究所で偶然顔を合わせた。1980年代の初め頃だ。松田さんは武術の世界にいたけれど、密教などへの関心もつよく中沢新一さんのチベットでの密教修行にあこがれていて、「オレは本当はああいうことをしたかったんだ」とぼつりともらした。「ぼくむかし、松田さんにファンレター書いたんですよ」とほろ酔いだった松田さんにいうと、「そうなの? オレあのころ、身を隠していたからね」といった。松田さんはこのころ、ときどきC+Fに出入りしていた。吉福さんにはとくに敬意をはらっていて、たしか対談もしていた。松田さんは「武術は殺人術、精神論はあとづけ」といっていたけれど、実際はけっこう生臭い武術や格闘技の世界よりも、中国武術をとおして身体論や精神論を深めたいという欲求が強かったのかもしれない。


その後、松田さんからなんどか電話をいただいた。中国武術の新しい雑誌を出すことになったので編集長をしてほしい、という話だった。ただ強くなればいいみたいな雑誌にはしたくないんだよ、中国の武術は文化なんだ、その精神性や文化のことをわかっているひとに編集をしてほしいんだ、といわれた。ありがたい話だったけれど、結果的には断ってしまった。自分の関心がすでに中国武術以外のものに向いていたし、内心それならなぜあれほど真剣に書いた手紙にひとことでも返事をくれなかったのか、という気持ちもちょっぴりあった。親しい人たち向けにやっている練習にも誘われたけれど、遠かったのでいちども行かなかった。以来、松田さんと会うことはなかった。


数年前、近所の太極拳教室に通うようになった。太極拳とよばれるものを自分でやるのは25年ぶりくらいだった。昔は習うことはおろか、目にすることすら不可能だった陳式太極拳を若いひとたちが自由に演じたり、発勁という言葉をオバちゃんたちがふつうに使ったりするのを見るにつけ時代は変わったなあと感じる。でも、あれほど集めた松田さんの本や中国武術関係の本も、引っ越しをくりかえすうちに見あたらなくなってしまった。なぜか一冊だけ残っているのは「丈夫な体をつくる東洋の秘法」という松田さんの書いた健康法の本だ。


でも、押し入れの奥をさがしたら、松田さんが1977年、解放されてまもなかったラダックを旅したときの紀行文が収められた古い雑誌を見つけた。吉福さんもかかわっていた The Meditation という雑誌だ。カバーデザインは横尾忠則、巻頭は篠山紀信と細江英江らが撮影した舞踏家の大野一雄や田中泯の写真、執筆者は小中陽太郎、諏訪優、片岡義男、山尾三省、J・G・バラード、松岡正剛、星川淳などいまとなっては考えられない布陣だ。


松田さんの文章の中には武術の話はひとことも出てこない。ジープをチャーターしてゴンパ(チベット仏教寺院)めぐりをしたときの興奮や、旅の途上で出会った少年僧とのエピソードや、アルチ寺で瞑想をしたときのことなどが、淡々とつづられている。時代を感じさせる、なんてことのない旅行記なんだけれど、彼のチベットの密教世界への素朴なあこがれが伝わってきて、「オレは本当はああいうことをしたかったんだ」といったことばを思い出した。でも、きっと松田さんはその後、武術をとおしてそういうことをしてきたんだと思う。

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先日の吉福さんのメモリアルのときに、じつは松田さんも来ているかもしれないと思ってまわりを見回した。そのとき数年ぶりに松田さんのことを思い出したのに、それから数日後の訃報を聞いてなんともせつない。

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タリバーン幹部からマララへの手紙

昨年10月にタリバーンに頭を撃たれたパキスタンの16歳の女性マララ・ユスフザイ。やっと怪我から回復した彼女が、さる7月12日にニューヨークの国連本部で行ったスピーチは感動的なものとしてメディアで大きく取りあげられ、「マララさんにノーベル平和賞を」という動きまで起きているという。それはテロリズムや暴力によって子どもたちが教育の機会を奪われることがないように先進諸国に支援を求めるとともに、暴力ではなくペンによって戦うことを訴える内容だった。


そのマララに宛てて、数日前、パキスタンのタリバーン運動(TTP)の幹部アドナン・ラシードが書いたという反論の書簡が公開された。アドナンは、このような事件が「起きてほしくはなかった」とする一方、「タリバーンは教育そのものに反対しているわけではなく、あなたのプロパガンダが問題とされたがゆえに、あなたを襲撃したのだ」と書いている。


その反論や弁明にはいいわけがましい印象を受けるのもたしかだが、この書簡には西側諸国が主導してきたグローバライゼーションに対する、彼らの切実な危機感がよく表れているように思った。日本語の報道の多くは「こんな書簡が公開された」というだけで、内容には深くふれていない。


アドナンは書いている。「英国が侵攻してくる前、インド亜大陸の教育程度は高く、ほとんどの市民は読み書きができた。人びとは英国人士官にアラビア語やヒンドゥー語、ウルドゥー語、ペルシア語を教えていた。モスクは学校としても機能し、ムスリムの皇帝は莫大な資金を教育のために費やした。ムスリム・インドは農業、絹織物産業から造船業などで栄え、貧困も、危機も、宗教や文化の衝突もなかった。教育のシステムが高貴な思想とカリキュラムに基づいていたからだ・・・。


アドナンは、英国の政治家トマス・マコーリーがそうしたイスラム的な教育システムをくつがえして、肌の色と流れる血はインド人でも、趣向や思想、道徳観や知性は英国人、つまり英国かぶれのインド人という階級を打ち立てるために全力を尽くしたことにふれ、「それこそがあなたが命がけで守ろうとしている、いわゆる〈教育システム〉だ」と述べる。


「あなたが世界に向けて語りかけている場所、それは新世界秩序をめざそうとしているものだ。だが、旧世界秩序のなにがまちがっているのか? (新世界秩序を唱える人びとは)グローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教を打ち立てようとしている。私が知りたいのは、そうしたグローバルな計画の中に予言的な導きというものが入り込む余地があるのかということだ。国連が非人間的・野蛮というレッテルを貼ったイスラム法の入る余地はあるのかということだ。・・・


「あなたはポリオの予防接種のチームに対する襲撃について語っている。だが、それなら1973年にユダヤ人である米国のキッシンジャー国務長官が第三世界の人口を80パーセントまで減らそうとしたことをどう説明するのか? 国連機関の主導のもとで避妊手術と優生学的なプログラムがさまざまな国で、いろんな形で進められたのはなぜなのか? ウズベキスタンでは100万人のムスリム女性が本人の同意なく強制的に不妊手術を受けさせられた。・・・バートランド・ラッセルは述べている。『食事と注射と強制命令を組み合わせれば、きわめて低年齢の段階で、当局にとって望ましい性格や考え方をもつ人間を生み出せる。権力を厳しく批判することなど心理的にできなくなるだろう』と。だからこそ、われわれはポリオ・ワクチンの予防接種に反対するのだ。・・・


「正直に答えてほしい。もしあなたがアメリカの無人機によって銃撃されたのだとしたら、はたして世界はあなたの医学的容態に関心を示しただろうか? 国の娘だと呼ばれただろうか? キヤニ陸軍参謀長があなたを見舞いに来たり、メディアがあなたを追いかけたり、国連に招かれたりしただろうか? 300人以上の罪のない女性や子どもたちが無人機(ドローン)の攻撃によって殺されてきた。でも、だれも関心を示さない。なぜなら、攻撃者たちは高い教育を受けた、非暴力的で、平和を愛するアメリカ人だからだ。・・・


書簡は、罪のないムスリムの血をこれ以上流すことがないように、と呼びかけるとともに、マララに対して、故郷に帰ってイスラムとパシュトゥン人の文化を学び、マドラサ(イスラム神学校)に通ってクルアーンを学び、イスラムとムスリム共同体のためにペンを用い、新世界秩序という名のもとの邪悪な計略のために、人間性を隷属させようとする一部のエリートの陰謀をあばくようにというアドバイスでむすばれている。


この書簡に述べられたことに筋が通っているかどうかはべつとして、マララをめぐる過度な報道に西側のプロパガンダ臭が最初からついてまわっていたのはたしかだ。マララが11歳のときからつけているという反タリバーン的な内容の日記が2009年にBBCラジオで流されたことがきっかけで、彼女は反タリバーンのオピニオンリーダーに祭り上げられた。そこには彼女の通っていた学校を運営する、詩人でもある彼女の父親の影響も当然強いだろう。だが、彼女の意見はパキスタン国内でかならずしも支持されているわけではなく、国連スピーチのあとは西側メディアの賞賛とは裏腹に、パキスタンのオンラインサイトは、マララのスピーチに対する反発のコメントであふれかえったという。

http://online.wsj.com/article/SB10001424127887323309404578612173917367976.html?mod=wsj_share_tweet

http://www.thenews.com.pk/Todays-News-9-190730-Malala-and-mattersof-the-mind

気の毒な少女が平和や教育の大切さを訴えれば、だれだってそれを表立っては批判しにくい。実際、マララという少女は勇気ある、高潔で、賢く、まっすぐな女性なのだと思う。しかし、だからこそ問題なのだ。問題はマララのスピーチの中にあるのではなく、そうしたまっすぐな子どもをプロパガンダの宣伝材料にする、というやり口にある。そうした少女が国連のスピーチで世界の賞賛を受け、ノーベル平和賞候補にまで祭り上げられる陰で、米軍の無人機による攻撃で昨年だけで300人以上、これまでには2000人以上が殺され、しかもそのほとんどが民間人であるという事実(米軍はそれを事実と認めていないが)はほとんど顧みられていないとは、どういうことなのか? 


もっとも、子どもを戦争に利用するというのであれば、タリバーンだって同じである。子どもを誘拐して「自爆テロをすれば天国に行ける」と教え込んで送り出すというやり方は「罪のないムスリムの血を流すこと」にはならないのか。こうした自爆テロにかり出される少年兵たちについての報道もまた西側による誇張されたプロパガンダなのだろうか。どちらの発表も、どこまでが事実なのかどうか報道を見ているかぎりでは、よくわからない。現在では、あらゆる報道に、それを支えるイデオロギーやプロパガンダといったバイアスがかかっている。


たしかにいえるのは、このグローバル化の進んだ世界では、西洋的な教育と学校が自由や平等や平和をもたらすという考え方が、かならずしも正しいとはいえないことだ。現在いわれている自由も平等も平和もイデオロギーでしかない。エジプトでも一時期いわれていたが、女性が髪をおおっているヴェールをひきはがすことが、はたして「自由」といえるのか、ということだ。圧倒的な強者たちの中に弱者が「この世界は平等なのだから」と追いやられ、自由競争にさらされたら、ひとたまりもない。


話は変わるけれど、ケニアでは学校教育が義務化されたことによって、牧畜民であるマサイが青少年期に学校へ通わなくてはならなくなった。しかし、伝統的なマサイの年齢階梯では、ちょうどこの就学期が「戦士」としての修行と遍歴の期間にあたる。この戦士としての時代は10年以上つづき、その間にマサイは世界と自分の民族についての、さまざまな知識を学び、体験を積み、ライオン狩りといった試練を経て、誇りと知恵と力を身につけた一人前の存在となる。


この戦士期間が、彼らにとってどれほど特別なものであるか、マサイの旦那さんをもつ日本人女性の永松真紀さんから聞いたことがある。「グローバル」な教育を受けることで、英語の読み書きができるようになったりはするかもしれないけれど、戦士という伝統だけがあたえられるマサイとして生きることの尊厳のようなものは、この先、どんどん失われていくだろう。チャンスをものにして、グローバルな社会の中で成功する人たちもいるかもしれないが、伝統から引き離されて、自分の生き方に尊厳を感じられずにつぶれていく人たちだってきっといるだろう。


むろんそのことと、アフガニスタンの女性が教育機会を奪われていることとは同列には語れないけれど、その背景にあるグローバリズムに対する期待と危機感には共通するものがあるように思う。世の中とは変化するものだ。それも時代の必然だといってしまえば、それまでだけれど、現在の日本にあって、グローバルという名の一律な価値観や尺度にさらされながら、こんなんでよかったんだろうかと感じることの多い今日この頃だけに複雑だなあ。

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「あの日、僕は旅に出た」、蔵前仁一さんの30年

蔵前仁一さんの新刊「あの日、僕は旅に出た」(幻冬舎)が出た。この本は、「ゴーゴー・インド」「ゴーゴー・アジア」「ホテルアジアの眠れない夜」など数多くの著書、「旅行人」誌などで、いわゆるバックパッカースタイルの旅好きの水先案内ともいえる役割を果たしてきた彼のさまざまな旅、出版社の立ち上げ、そして旅行人誌の休刊にいたるまでの30年の歴史をふりかえった自伝的作品だ。1990年代初めに蔵前さんとナイロビで出会い、その後「旅行人」に長く書かせてもらった身としては、数ある蔵前さんの本の中でも、とりわけ感慨深い作品だった。

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本の初めのほうでは蔵前さんが仕事をやめてインドに旅立つまで、そして帰国していわゆる「インド病」になり、中国やアジアの旅を経て、ふたたびインドを訪れ、1986年の処女作「ゴーゴー・インド」が出るまでの経緯が記されている。「ゴーゴー・インド」は、それまでのインドを語るときに使われていた重苦しいスピリチュアル系の文体から、インドを解放してくれたエポックメイキングな本だった。それまでインド本といえば、大半が精神世界よりの自分探し的なものが多く、著者の投影した思い入れの中を歩かされているかのようなものが多かったからだ。


だが、「ゴーゴー・インド」はちがった。この本は、そうした精神世界系の物語からインドを解放してくれた。自分の思い入れを通して物事を受けとるのではなく、見たり聞いたりしてストレートに感じた驚きや疑問を、これまたじつにストレートな文章で表現する。それはあたりまえのことのようでありながら、ことインドに関してそうしたストレートなまなざしで向き合い、文章にした本はそれまでなかった。しかし、それこそがインドを旅したことのある人ならだれもが感じるリアリティーだった。自分の内面をぐるぐるさまよっているかのようなインド本にくらべて、「ゴーゴー・インド」には猥雑にして絢爛たるインドのリアリティーが鮮やかなまでに生き生きと写しとられていた。


インドばかりではない。蔵前仁一の文体は、旅そのものを、それまで旅につきまとってきたあらゆる物語や神話から解放してくれたのだ。むかし、安宿には何年も旅を続けているようなオヤジが若い旅行者に説教している場面が見られたものだ。だが、そういうオヤジが語りたがる「旅とはかくあるべきだ」「そんな旅は本当の旅ではない」的な説教に対して彼は距離を置く。一方、日本では、旅をしているというと「そんなのは人生を棒に振るようなものだ」「現実から逃避せずに、もっと人生をまじめに生きなさい」と決めつけたがる人もいる。そういう見方に対しても、彼はちがうんじゃないかという。


いずれにしても旅をなにかの枠に押し込めるような見方に彼はつねに首をふってきた。彼の書くものから伝わってくるのは、そうしたこわばった見方や先入観から、自分たちの考え方を自由にしてくれるからこそ旅は面白い、ということだった。そして、そういう彼の旅へのスタンスが幅広い世代の大きな共感を呼んだのだ。


この本の中で蔵前さんは書いている。「長い旅をしているというと、よくいわれたのが次の質問だ。それがいったいなんの役に立つのだ? ネパールがインドの北にあることを知っているのがなにかの役に立つとか、アフリカでクーデターが起きていることを知ることが世渡りのためになるわけではない。しかし、世界を知ることができる。世界をリアルに感じとることができる。それだけで十分なのだ。なにかの役に立つから旅行をしているわけではない。何度そういっても、なかなかわかってはもらえなかった。そいう意味では旅行者は孤立していたし、インターネットのない時代では簡単に情報を交換することもできなかった・・・」それがのちの「旅行人」の前身となるミニコミ誌「遊星通信」をつくるきっかけとなったと、彼は書いている。


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この本の後半は「遊星通信」を「旅行人」という名前に変更し、出版社を立ち上げ、「旅行人」を隔月刊で出しつつ、数々の単行本やガイドブックを出し、さまざまな転機を経て、最終的に旅行人誌の休刊を決断するまでの話だ。これは、これまで語られたことのなかった出版社の経営者としての蔵前さんの話である。それは新鮮な驚きに満ちた若き日の旅の話にくらべると地味で苦いエピソードも多い。もっとも、そこは軽快な文体のおかげですんなり読めるのだが、個人的には、この後半こそが、この本のいちばんの読ませどころのような気がした。


旅には、テイクオフとランディングという2つの面がある。テイクオフは文字どおり、日常をぬけだして旅立つことだ。それはたとえ苦労の多いものであっても、輝きに満ちた特別な時間である。人が旅に出たいと思うのは、あるいは、旅について書かれたものを読みたいと思うのは、この非日常的な輝きにふれたいからだ。けれども、どんな旅にも帰還、つまり日常的な現実への着地がある。じつは、長旅をしてしまった旅行者にとって、このランディングこそがなによりむずかしい。自分も含めて、このランディングでつまずいてしまう人は少なくない。ランディングできないまま、着地点を求めていつまでも上空をぐるぐるまわりつづけているような人もいる。だが、そんな旅人のランディングについて書かれた本というのはほとんどない。


この本の後半は、いわば蔵前さんが旅行人という雑誌をとおしたひとつの現実へのランディングの物語だ。グラフィックデザインをしていたとはいえ、会社経営についてはずぶの素人だった彼が出版社を立ち上げ、手探り状態でコンピューターによるDTP化を進めていく。同時に人件費や諸費用や流通経費をふくめた制作費を割り出し、営業活動を行い、資金繰りを考え、銀行に借金を申し込みといったことを行うことが、どれほどたいへんだったか、この本を読むとよくわかる。そんな地道な作業を行いつつ、月刊誌を刊行し、人の本の編集を行い、ガイドブックをつくり、さらにほかの出版社から出す本も書きつづけてきたのだ。この本に書かれているようなたいへんさは、本人からたまに聞いてはいたが、こうしてまとめて読むと壮絶である。


しかし、いろんな試練や苦難もあり、苦労して会社を維持することに疑問を覚えた彼は、思い切って会社を縮小する。旅行人誌もカラーをふんだんに使った大型の特集を組むという形に生まれ変わる。こうしてつくられた季刊旅行人は、そのデザインワークのすばらしさといい、内容の濃密さといい、特集のコアさといい、他に類のないものだった。それは世間の需要や要望などは関知せず、蔵前さん自身が「僕が興味のある場所やテーマを中心に特集を組み続けてきた。どんなマイナーな場所でもいっさいおかまいなし」に「それ一冊で資料にもなり、保存版になるような見ごたえある特集。他の雑誌で取り上げられない国や地域を、読みごたえのある分量で特集する」という方針をとったがゆえに実現したことだ。だが、その季刊旅行人もそれから7年後に休刊。23年間、165号にのぼる歴史が幕を閉じる。


この本には教訓めいたことはいっさい書いていない。新たな旅の文体をつくりあげ、それを発表する媒体を確立し、さらに出版社をたちあげて・・・といった、ある意味では旅のひとつのスタイルをつくりあげた著者の記録でありながら、ここには「こうやって努力してきたからいまの私がある」的な話などもちろんない。「強い意志や努力や行動力によって夢を実現しました」的な話もまったくない。「私にとって旅とはこういうものなのだ」的な話もない。


でも、それこそが蔵前仁一の魅力なのだ。「自分がおもしろそうだなと思ったことにただ一歩を踏み出す。うまくいくときもあればいかないときもある。それだけのことだ」と彼は書く。そうなのだ。旅立っても旅立たなくてもいい。たまたま自分は旅立った。そうしたら楽しかった。だからもっと旅をしたい、そのおもしろさを人に伝えたいと思った、でも、それには自分がおもしろいと思えないと意味がない、そういうことを、彼は徹底してきただけだ。そして「できることはみんなやっちゃったよな。アジア・アフリカを長く旅したときにイメージしたことはだいたい実現した」。だから、彼は旅行人の休刊を決めた。


おそらくこの先、旅行人のような旅の雑誌がつくられることは二度とないだろう。これほどぜいたくで、読者にも時代にもこびることなく、旅の楽しさをとことんつきつめた、楽しくて、深くて、おそろしく手間のかかる雑誌など、だれもつくろうとするひとなどいないだろう。それがわかるだけに旅行人が休刊になったことは、やはりさびしい。さびしいのだけれど、それはまた蔵前さんにとって新しいテイクオフにつながることなのだと思う。彼も書いている。「なにかをやめたからといって、することがなくなるということはない。また新しい何かが始まるだろう」と。それは旅をするぼくたちにとっても同じことだ。旅行人誌がなくなったって、旅は終わらないのだ。それじゃあ、また旅に出ようか。

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エジプトの政変について思う

エジプトのモルシ大統領がクーデターで解任された。30年政権の座にいたムバラクにくらべて、たった1年で為政者の座を追われてしまった。このグローバル化された世界では、20世紀後半のような何十年にもわたる独裁政権というのは政体や法律にかかわらず成立しにくくなっていくだろう。

 
これだけ運動が盛り上がっていながら、内戦に突入せずほぼ無血クーデターでひと区切りついたのは結果的にはよかったのかもしれない。それは2年前ほどではないにしろ、いぜんとして民衆の支持の高い軍のおかげだ。でも、選挙によって合法的に選ばれた大統領が、民衆の不満を背景としているとはいえ、軍の強権によって排除されてしまったのは後味悪い。

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今後エジプトがどうなるのか、いろんな予測がなされているが、たいていは慎重というか悲観的だ。いずれにせよ鍵を握るのは軍なのだろうな。最近ようやくいわれるようになってきたが、エジプト軍はふつうの国の軍隊とはちょっとちがう。それは独立以来、軍事力だけではなく、官民にかかわらず国内のあらゆる産業を牛耳ってきた、いわば巨大な企業体だ。BBCは「巨大なビジネス帝国を牛耳るエジプト軍」という記事を書いている。そこでは最近カイロ郊外にできた巨大なスポーツセンターをはじめ、製造業から食品、土建、不動産、観光業など、さまざまな産業が軍によって経営されていること、さらに財務省に軍が金の貸し付けまでしていることなどが報じられている。

 
記事によると、軍が占める産業支配の割合は、エジプトのGNPの8〜40パーセント。8〜40パーセントとはずいぶんな幅だが、要するに秘密主義なのではっきりとした数値がわからないが、それほど大きな存在なのである。エジプトの地方知事のほとんどは引退した将校だし、農業、都市開発、観光業といった土地開発にかかわる三大機関の長も旧将校に占められている。人脈、金、ビジネスなどすべてにわたって、とてつもなく大きな利権を握っているのが軍なのである。しかも、そこにアメリカ政府から毎年1000億円以上の援助金が流れ込む。

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もし本当の革命とか改革というのがあるとしたら、こうした軍による巨大な利権システムの解体を図ることにほかならないような気がするのだが、2年前の革命も、今回の政変も結果的にそこに切り込むものではなかった。2年前の革命では民衆の支持を失ったムバラクを軍が見限った(ムバラクは軍出身であったにもかかわらず)。同胞団は軍はもともと仲が悪かったし、モルシ政権になってからは軍は大統領権限をあからさまに制限しようとしてきた。こうした軍の圧力に対して、モルシは同胞団メンバーを片っ端から地方知事などの公的な地位につかせて対抗しようとしたが、しょせん軍の敵ではなかった。


 
あと、もうひとつ、イスラームの最高権威であるアズハルがモルシやムスリム同胞団を批判して、軍や反体制派の側についてしまったのも、へえ〜と思った。アズハル大学はカイロにあるイスラーム・スンニー派の最高学府で、アラブ世界のイスラームの最高権威。ムスリム同胞団もアズハル出身者が多いはずだ。イスラーム化を推進する同胞団を、アズハルのトップ(ムフティ)が批判し、結果的に世俗主義である軍の側に立つ。これは軍や世俗主義側としては、ムスリム同胞団よりはるかに宗教的に権威のあるアズハルからのお墨付きをもらったという意味で心強いことだっただろう。

 
しかし、イスラーム化をめざす政権団体をさっさとみかぎって、強いほうに寝返るアズハルってのはなんなんだろう。それって日和見すぎないかと思っていたら、「いや、もともとアズハルというのは、そのときの政権におもねることで存続してきた組織なのだよ」と米国在住のアラブ人のシブリーさんがfbで書いていた。

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アズハルはファーティマ朝時代(10世紀〜12世紀)にカイロに創立された世界最古の大学だが、ファーティマ朝はもともとシーア派から分かれたイスマーイール派の王朝だった。ところが、ファーティマ朝が滅んで、スンニー派の王朝になるとこんどはアズハルは存続のためにスンニー派の教育機関になった。つまり、イスマーイール派のときはイスマーイール派として、スンニーになるとスンニーとして、ムバラクの時代はムバラクと手を組み、モルシの時代はモルシと手を組み、モルシが弱くなるとこんどは世俗主義と手を組み、というふうに政治体制のいかんにかかわらず、存続のために、そのときいちばん力のある勢力と手を組んできたのがアズハルだとシブリーさんはいうのだ。

 
まあ、それはアズハルだけではない。宗教的マイノリティであるコプト教の総主教も2年前の反政府運動の盛んな時期に、あれほどコプトに対する差別政策がまかりとおっていたにもかかわらず、ムバラクを支持する声明を発表していた。それは同胞団政権よりも、まだましという計算にもとづいた苦渋の選択だったのだろう。存続していくためには仕方がない。

 
あるエジプト人の知り合いに「エジプトで生き延びていくための処世術のこつは、そこでいちばん力を持っていそうな人をすばやく見抜いて、そのそばに寄り添うことだ、その人が力を失いそうだったら、すぐにつぎの人に寄り添うことだ」といわれたことがある。もっとも、その知り合いの場合、それができなかったがゆえに、なかなか出世できなかったのだが。

 
話はとぶけれど、そうやって見ていくと、今回の政変は、イスラーム主義と世俗主義との戦いとか、イスラーム化に対して自由や民主化を求める運動というくくりでは見られない。軍という巨大なビジネス帝国、それもグローバル化によっていっそうふくれあがった既得権益の牙城の下で、なんとかそこに食いつこうとしている人たちのサバイバルゲームというイメージだ。その結果、ムスリム同胞団が負けて、旧ムバラク政権勢力とアズハルとコプトがそこに食らいついたという感じかな。

 
それはどことなく日本のようでもある。エジプトより「民主化」されていて「自由」でもあるはずの日本で、あいかわらず原発はなくならないし、そればかりか再稼働がさっさと決められていく。それのどこが民主主義なのか。民主主義も自由も、いってみれば「正義の名の下に」といったお題目と同じような空疎なものにすぎない。得体の知れない既得権益という牙城を守りながら、とりあえず景気さえ良くなるといっておけば、どんな体制だろうが、どんな社会だろうが、それで納得するだろうという目論見が透けて見える。

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エジプトが同じとはいわないが、今回の政変のきっかけは経済政策の失敗による物価高や失業者の増加、治安の悪化などだ。イスラーム主義だろうがなかろうが、世俗主義だろうがなかろうが、民主主義だろうがなかろうが、経済が回れば国民は納得する。ただし、同胞団のようにアメリカに嫌われている政権では、アメリカからの支援や海外からの投資も激減したし、テロへの恐怖から観光産業もふるわなくなったし、増税と値上げをするしかなくなった。それがこの国の4割ともいわれる貧困層を直撃した。

 
政変は、そうした袋小路からもういちどアメリカの支援や海外からの投資がひきつけられる軍中心の体制へと戻したということだろう。それは軍という既得権益を温存し、その利権構造に入り込めた一部の人にとっては甘い世界かもしれない。でも、そこからこぼれ落ちる圧倒的多数はますます追い詰められていくのではないか。いずれにしても先が見えないなあ。

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