« 2013年7月 | トップページ | 2013年11月 »

2013年10月

エジプトの沈滞、革命のトラウマ?

アラブでは楽観的なことを「血が軽い」、悲観的なことを「血が重い」という。前者の代表がエジプト人、後者の代表がイラク人だそうだ(酒井啓子「アラブの束の間の夢を紡ぐ」)。だが、「血が軽い」とされているエジプト人ですら、いまや、かつてのような楽観性はすっかり息をひそめてしまったかのように見える。


ムバラク政権時代、ひとびとは「ムバラクがいなくなれば変わる」と夢見つづけた。そのムバラクがついにいなくなり、人びとは歓喜に酔いしれた。しかし、熱狂も束の間、前よりも重い現実がすぐにやってきた。絶望は「ムルシがいなくなれば変わる」という新たな夢を生み、それはあっけなく実現したが、その歓喜もまた一瞬だった。人びとはなにを変えればいいのか途方に暮れ、夢さえ見られずにいるかのように見える。それはエジプトだけでなく、アラブや日本も含めて世界中で進行している事態だ。


Pict0247


最近の報道で、2011年のエジプト革命と2013年のクーデターがエジプト人にあたえた心理的ダメージについての記事や分析をときどき目にする。つい最近も、アル・ジャジーラが「革命のトラウマ:エジプトのメンタル・ヘルス」(Revolutionary trauma: Egypt's mental health )という記事をのせていた。革命後の混乱の中、カイロの街中でくりかえされる殺戮やそれをめぐる報道が、エジプト人とくに子どもと若者におよぼした心理的トラウマがきわめて深刻だといったような内容である。ほかのメディアの記事も、おおむね同様のことを伝えている。

 
Child trauma an effect of unrest in Egypt

Why are Egyptians sad?

The Egyptian Revolution's Toll On Mental Health

Dying young: Egyptian activists face post-revolution trauma

 

最近の国連の国別の幸福度調査によると、エジプトは156ヵ国中、130位とのことである。幸福度というものがほんとうに測れるものなのかどうかはさておき、政治や経済の不安定性や見通しのなさ、悪化する治安が不安をつのらせ、先の見えない沈滞ムードを招いているのはまちがいないだろう。


だが、いわばエジプト人の不定愁訴ともいうべき沈滞ムードは革命でいきなり始まったものではない。それまで明るく、おおらかだったエジプトの人たちが、革命とその後の混乱によって、急にすっかり暗くなってしまったというわけでもない。むしろ、革命にいたるまでの幻滅とあきらめの長いくりかえしの中で、徐々に絶望し、心をすり減らし、ついにはその絶望から逃れるための夢さえも見られなくなってしまったということなのではないか。


2009年2月のエジプトの英字紙に、著名なエジプト人心理学者・精神科医アフメド・オカシャへのインタビュー記事(Ahmed Okasha: Exposing the social taboo)が掲載されている。オカシャは、ここで自身の研究テーマでもある現代エジプト人の性格について述べている。革命の2年前の記事だが、オカシャが語るエジプト人の精神の荒廃ぶりは、いま読むと、その後のエジプト社会の騒乱と地続きであるように思われる。かれが述べるエジプト人の性格的特徴を、かんたんにまとめると次のようになる。それは一般によくいわれる「明るく、陽気で、楽観的」といったエジプト人のイメージとは大きく異なる。
 

・ネガティブ、依存的、攻撃的、むら気
・自分の犯したあやまちであっても、他人を非難する
・体制をジョークで皮肉るが、デモはめったにしない、悲惨な状態を変えるための抗議活動はしない
・利己的で、こらえ性がなく、すぐ熱くなる
・自分と家族の安全だけを考え、他人や国家や福祉には無関心。帰属意識がない
・モットーは「私は、自分で国を変えようとは思わない」「私はみんながするのとおなじように行動する」である
・「まじめで一生懸命、正直に働くことが、人生の成功を意味するわけではない。うまくやるには二枚舌、不正、偽善が正しい方法」と子どもに教える。
・宗教はたんなる儀式。金持ちは毎年メッカ巡礼や小巡礼に行きたがるが、彼らの日々のいとなみは、どん欲、うそ、偽善、他人への虐待にまみれている。
・教育程度や貧富のちがいを問わず、物質的な現実と論理を無視し、非合理的で、軽はずみな決定を下しがち。
・国家プロジェクトのような重要な決定についても、研究や十分な調査、長期計画にもとづいた行動をしない。
・統治者におじぎをすることには慣れている。多くの問題は大統領の仲裁によってのみ解決される。
・導いてくれるだれかを必要としている・・・。


ん〜、なんとも手厳しいが、エジプトにしばらく暮らした身としてはうなずける点もある。でも、中には、たとえば「デモや抗議活動はしない」というのは、革命前はデモは非合法だったので、したら捕まるから、したくてもできなかったのではないか、という気もするのだが。。。とはいえ、エジプト人自身がそういっているのだから、そうなのだろうか。


オカシャによると、エジプト人のもっともきわだった性格的特徴は「恐怖」だという。支配する側も、支配される側も恐怖に圧倒されている。どうしてそんなふうになってしまったのか。オカシャは原因として、失業、インフレ、人口過剰などをあげ、「エジプト人の多くは障害、絶望、無関心、不注意、欲求不満といった数々の破壊的感情に耐えて生きている。それらは攻撃性、暴力、不安、抑うつ、絶望、悲観をもたらし、これらすべてがモラルの崩壊へとつながる」と述べている。ジョークの感覚という唯一の武器さえも庶民は捨ててしまい、社会には暴力と薬物が蔓延していることを、かれは革命の2年前に嘆いていた。

 
Pict0098


もうひとつ面白かったのは、オランダの若い国際関係論研究者のヴィヴィエンヌ・マシエス・ブーン(美人!)が書いた「トラウマとエジプト革命:エジプトの社会的トラウマ」(Trauma and the Egyptian Revolution : On Egypt's Social Traumas)というエッセイ。オカシャが示す現代エジプト人のネガティブな性格的特徴が、どのような社会的トラウマによってつくられていったか、というふうにも読める内容でもある。


彼女は、エジプトは近代の歴史の中で3つの社会的トラウマを受けてきたと指摘する。第1のトラウマは、サダトにはじまる新自由主義経済にもとづく経済政策の導入だった。これによって外資系企業に対する税金控除、社会福祉の縮小化、民営化の推進などが既定路線となり、公共サービスや公的支給は劣化し、汚職と縁故主義が常態化した。物価は上昇し、庶民は食費や教育費、医療費などの捻出にも事欠くようになり、持つ者と持たざる者との差は広がっていく。


この路線を引き継いだムバラクは、IMFや世界銀行、それにアメリカの圧力などにより、よりいっそうの開放路線を推進していく。ムバラク政権下で首相を務めたアフメド・ナズィーフは「毎週のように国有企業を親類や友人に売却し、それを自慢した」。格差はさらに拡大し、富の不平等分配のシステムがますます強化された。この構造的暴力が無数のエジプト人の生計を押しつぶした。その一方でエジプトの経済成長率は、2010年には中東ではカタールに次ぐ5パーセント台を達成し、国際開発金融機関によって「中東の模範」と呼ばれて賞賛されたほどなのだ。それが革命のわずか4ヵ月前だった。


第2のトラウマは、いうまでもなくエジプト革命そのものである。革命によってそれまで国民に対して抑圧的に働いていたさまざまな規律がなくなり、人びとは意見や不満を怖れずに表明するようになった。しかし新しい秩序がないために、治安は悪化し、インフラなどの公共サービスも悪化し、経済も停滞したままとなり、これがエジプト軍部によるクーデターと、いまもつづくその後の混乱という第3のトラウマを引き起こすことになった、という。


幻滅のあとの束の間の希望。そしてさらなる絶望。それが上昇や安定につながるスパイラルなのだと信じられるのならいい。しかし、エジプトの現状を見ていると、そう思うことがむずかしいと感じてしまうのも事実だ。エジプトだけではない。冒頭に引いた中東政治研究者の酒井啓子さんは、「この十年間アラブ人たちは、あまりの血の重さに絶望しつづけてきたのではないか」と書く。幻滅と絶望のくりかえしの中で、かすかな希望すらも日々色あせてゆき、自分たちへの自信を失い、恐怖ばかりが肥大し、他者を傷つけることでしかおのれのトラウマをごまかせなくなってしまうのだとしたら、それはかなしい。


| | コメント (0)
|

井筒俊彦は力道山と木村政彦の試合を見たか?

今年2013年は井筒俊彦の没後20年にあたるとのことで、慶應義塾大学出版会から全集が刊行されはじめた。刊行記念に慶應の言語文化研究所では井筒さんの業績をめぐるシンポジウムなども行われた。


井筒俊彦といえば、生前から半ば伝説と化していた知の巨人だった。 言語学、西洋哲学、中世ユダヤ哲学、禅や老荘思想、イスラム哲学など東西の宗教・思想・哲学についてこれほど幅広く、しかも深い洞察を展開し、それが世界的に評価されている日本人学者はほかにいない。トルコでは井筒さんのコーラン解釈をイスラーム神学部の教科書として採用しているところもあるほどだ。


Img_3941


井筒さんの非凡な天才性をしめすエピソードは多いが、なによりもまず語学の天才だった。井筒さんに「外国語はなにができますか?」と聞かれて、「英語とドイツ語なら・・」と答えると、「英独仏は外国語ではありません」といわれたという伝説も聞いたことがある。実際、ヨーロッパのほとんどの言語の他、古代ギリシア、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、ヘブライ語、中国語、ロシア語、タミール語など30を超える言語を自在に使えたと聞く。岩波文庫の「コーラン」の翻訳も井筒さんである。



それはさておいても、井筒俊彦の著作には、他をよせつけない超然とした魅力があった。80年代初めころから知の大衆化がすすみ、それまでの権威的で、重く、いかめしいアカデミズムに代わって、若手の学者たちによる軽やかで如才ない言説が流行しはじめていた。その中にあって、旧世代の学者であったはずの井筒俊彦が、革命に揺れるイランから帰国後、立て続けに発表した著作群には、他を寄せつけない、重厚で、圧倒的な迫力があった。とくにスーフィズムの存在論を論じた『イスラーム哲学の原像』と代表作『意識の本質』は衝撃的だった。『意識の本質』はわからないなりに、なんども読んだが、やっぱりよくわからなかった。でも、わからないのだけど、おもしろいのだ。



井筒さんの著作は難解だ。だが、書かれ方はけっして難解ではない。書かれ方は難解だけれど、じつはたいしたことをいっていない本というのもよくあるが、そういうのとはまったく逆だ。いかに内容を薄めず、イスラーム哲学や東洋思想のもっとも深い部分を伝えられるか、ということに徹しているという意味では、これほど親切で、ていねいに、平易に、わかりやすく書かれた本はない。



そのわかりやすさは、テキストを厳密に分析したからというだけでなく、井筒さん自身がその内容を客観的な知識ではなく、生きるための哲学として身体的にとらえようとしていることから生まれているのだと思う。だからこそ、そこには生半可な理解を拒む迫力や歯ごたえがあるし、それを理解するには、読む側に相当の知的体力や想像力、観察力が必要とされる。イスラームとはどんなものか、禅や密教のような東洋的思惟とはどんなものか、かいつまんで、かんたんに知りたいという人には、井筒さんの本はまったく向いていない。だから、ここで井筒さんの思想や哲学をかんたんに紹介することはしない、というか、できない。
 

Img_3944


 

古典的な哲学を、現代を生きるための血の通ったものとして、みずからの体の中に甦らせたいと思うひとにとっては、井筒さんの本は汲みつくせない知の水源となるはずだ。わからないなりにもなんども読むうちに、概念ではなく、一種のイメージができあがってきて、そのイメージをよすがに、イスラームなり東洋思想なりについて、たんなる知識ではない身体的な理解が深まっていくという感じだろうか。そういう本というのは、とても珍しい。



慶應のシンポジウムも聞きにいった。古代哲学研究者の納富信留さんが30代半ばの井筒さんが発表した『神秘哲学』(1949)をとりあげて論じた。これはプラトンやプロティノスなどのギリシア哲学に見られる神秘主義の展開を追った本だ。幼い頃から漢学をたたき込まれ、座禅を組まされるような東洋的無の雰囲気が濃厚な家庭に育った井筒さんにとって、西洋のルーツとされる古代ギリシア哲学を研究することは、みずからの東洋を相対化し、解放の可能性をさがすものであった。ところが、東洋と対比する対象であったギリシア哲学が、じつはその本質において東洋的なものにつながっていたことに気づく。つまり、かつては自明とされていた東洋と西洋という枠組みそのものを見直すことへと、井筒さんの研究がシフトしていくことになる。それが井筒さんのその後の研究の方向性を決めていくことになる。


 
 

納富さんの話はおもしろかったのだが、三田まで行く電車の行き帰りで、たまたま増田俊也さんの『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読んでいたせいで、話を聞いているうちに、井筒俊彦は学問の世界における柔道の木村政彦のような存在なのではないかという考えがなんとなく浮かんできた(ここから先は世迷言です)。

 

51mskxpvzyl_ss400__3


井筒俊彦全集のパンフレットに文芸評論家の安藤礼二氏が「井筒俊彦は20世紀の日本が生み落とすことができた最大かつ最高の思想家である。思索の対象としたジャンルと地域の多様性においても、その理解の深みにおいても他の追随を許さない」と書いていた。だが、この評価はそのまま木村政彦にもあてはまる。こんなふうにーー。


 
「木村政彦は20世紀の日本が生み落とすことができた最大かつ最高の柔道家である。研究の対象とした格闘技ジャンルと技の多様性においても、その理解の深みにおいても他の追随を許さない」


井筒俊彦は既存のアカデミズムや学問のジャンルといった枠を超え、さらに若いときから外国へ出て、膨大な学問分野を渉猟し、それをアカデミズムという枠を超えて、現代を生きるための、いいかえれば現代を戦うための実践的な哲学としてまとめあげようとしてきた。日本のアカデミズムとは距離を置き、イラン王立アカデミーの教授となり、ユングやエリアーデとともに「エラノス会議」という知の異種格闘技戦に、鈴木大拙に次ぐふたりめの日本人正式レクチャラーとして15年にわたって参加し、東洋哲学について講演を行ってきた。その桁外れの学識の広さと深さは、日本はもちろん、むしろ世界でこそ知れ渡っているし、あまりにもすごすぎて、他の追随をゆるさない。


一方、木村政彦は、全日本柔道選士権3連覇を達成し、全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗の不世出の天才だった。柔道のほかに、空手やボクシングなど、さまざまな格闘技を積極的に研究し、講道館のスポーツ柔道の枠を超えて、実践的な武道としての柔道を追求しつづけた。講道館からはにらまれ、プロ柔道、さらにプロレスに足を染めて海外にわたり、ブラジルで柔術家のエリオ・グレイシーを倒し、ほぼ半世紀後のグレイシー柔術発展の種をまき、今日の総合格闘技のスタイルの先駆となった。力道山との試合で謎のKO負けを喫するが、いまなお技術的にも、その技の幅の広さにおいても「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、いまなお史上最強の柔道家とされている。


こう書くと、井筒俊彦のどこが木村政彦なのかとつっこまれそうだし、たしかにまったくちがった人生、とくに木村の後半生は悲劇的なものがあったし、対比したからなんだというものではないのだけれど、ひとつ一致する点があるとすれば、木村政彦もまた今年、没後20年だということだ。つまり、井筒俊彦(1914-1993)と木村政彦(1917-1993)は、ほとんど同世代なのである。


もちろん、都会の裕福な家に生まれ、幼い頃から禅や書に親しんで育ち、好きな学問に集中することのできた井筒俊彦と、熊本の貧しい田舎で川で父の砂利拾いの仕事を手伝いながら育ち、食うためにはなんでもやらなくてはならなかった木村政彦の人生はあまりにもちがう。若き日の井筒俊彦が街頭テレビで力道山と木村の一戦を夢中になって見ていたとも想像しにくい。けれども、境遇はことなれど、同じ時代の空気を吸って生き、それぞれに孤高の道を歩んでいったことはまちがいない。


ともに「道」という東洋的伝統の中から出発し、やがて、そこに息苦しさをおぼえ、異なる分野を渉猟することで、おのれのなかの東洋をいっそう身体的に深め、より強靱なものへと鍛え上げていき、ついにはだれも到達しえない境地へと達したという点では共通するものもあるのではないか(もっとも、木村は思想性というものには無縁だったようだが)。世迷言は承知で、井筒俊彦は知らないけれど格闘技のことは知っているというひとに、「井筒俊彦は学問の世界における木村政彦のような存在だ」といって紹介することは、半分くらいは当たっているという気がしなくもない。



| | コメント (0)
|

« 2013年7月 | トップページ | 2013年11月 »