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2013年12月

「インド英語のリスニング」という本が出ていた。。

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インド英語のリスニング(CD付) (CD BOOK)


ついにこういう本が出る時代になったのだな。いま世界の英語人口は約20億で、そのうち英米ネイティブは4億。あとの16億はみな自国語なまりのローカライズされた英語を使っている。なかでもインド英語をしゃべっているのは10億人である。インドがすごいのは、政府が「インド英語はひとつの完成された英語であり、インド人学習者のモデルとなりうる」と明言していることだ。圧倒的な人口という強みはあるものの、英米ネイティブへのコンプレックスからいまだ「ニホン英語でなにが悪い」といいきれない日本人からするとうらやましくもある。


この本はCD付で、インド英語による会話例が収められていて、これが傑作。日本からインドに派遣されたビジネスマンのアリさん(日本人なのにアリさん・児玉有という名前)がインドでの暮らしの中で遭遇するさまざまなエピソードという設定なのだが、いかにもありそうな展開になっている。例によって、ぼったくられそうになる話や、ダメモトで強引に要求を通そうとするインド人との熾烈なやりとりなど、異なる価値観や文化の中でアリさんがもまれ、鍛えられていくという、いわば成長物語になっているのだ。


前にも書いたことがあるのだが、日本人の場合、英語学習の背景にあるネイティブ原理主義から自由にならないかぎり、英語への苦手意識はなくならないと思う。ネイティブ原理主義とは、ネイティブの話す英語が最高であるという思い込みのことだ。実際はイギリスでも階級や地域によって発音や語彙も、これが同じ英語かとは思えないほどちがう。でも、なぜか英語がデキルひとというと、オーバーなジャスチャーでネイティブ顔負けの発音のビジネスマンや、物怖じしない、というか、たんにずうずうしいだけだろうという気もする帰国子女系タレントのイメージがいまだ強い。


ぼくが学生のときにもラジオの英会話講座では、どうすればネイティブの発音に似せられるのかみたいなのを、よくやっていた。講師は日本人なんだけど、なぜか名前が半分英語ーーポール牧みたいにーーだったりした。そして、RとLをまちがえると、We eat rice.(私たちはコメを食べる) といったつもりが We eat lice.(私たちはシラミを食べる)ととられて誤解されますよ、という話をもっともらしく聞かされたりした。


でも、そんなことあるわけがない。人間は相手のいうことを発音だけで理解するわけではない。どこのだれが、自分たちはシラミを食べるというのを信じるだろう。会話の流れで、riceといいたかったことくらい当然わかるはずだ。わからなかったとしたら相手がよほどバカなだけだ。


だが、あいかわらず日本の英語学習者の多くにとってはアメリカ人やイギリス人から発音をほめられることが最大の名誉であったりする。その一方で、英語をネイティブみたいに発音する日本人を見ると、どこか反発を感じるところがある。英語はできるにこしたことはない、でも外国かぶれみたいなのはいやだ、といったアンビバレントな感情。そこには英語を学ぶことが精神の植民地化につながるのでは、というコンプレックスとないまぜになった警戒感があるのかもしれない。それが日本人の英語が上達しない(というか、したくない)原因の一つだったのではないか(いまはすこし変わってきているようにも思う)。


たしかに、言語教育は植民地政策と密接に結びついていた。ブリティッシュ・カウンシルやアリアンス・フランセーズは、言語教育をつうじて宗主国文化の優位性を示すための機関だった。インドもまた、200年あまりの植民地支配の中で、政策の一環として英語教育を徹底させられた。でも、その英語をインド人は、インド英語という形で逆に植民地化したのだ。


これと対照的なのが、日本や韓国だ。韓国語なまりの英語は俗にKonglish(ちなみに、日本英語はEngrish)といわれている。日本人同様、韓国人の多くはそれにたいしてコンプレックスを感じているらしい。


Non_stop_fright
Non Stop Fright となっている。。。(engrish.comより)


「アジア・オセアニアの英語」という本にのっていたのだが、2002年に公開された「神秘的な英語の国」という韓国映画があった。ソウルの名門幼稚園のクリスマス会で生徒たちが英語でクリスマスソングを歌う。ところが、それを聞いていた母親のひとりが、息子の英語の発音がほかの子にくらべて劣っていることにがっかりする。そこで母親は息子の発音が上手になるように、息子の舌の一部を切除する手術を受けさせる、という話だそうだ。


この話は実際の事件がもとになっている。韓国もまたハングル化によってナショナリズムを称揚してきた一方、日本同様、英語教育や英会話スクールビジネスが盛んで、ネイティブ英語に対するコンプレックスを抱えて引き裂かれているのだろう。


もっとも、インドでも、イギリス式、もしくはアメリカ式の英語を学ぶ人もいる。そのための英語学校もあるという。ただし、それは英米ネイティブ英語へのコンプレックスからではなく、あくまでビジネス上の必要からだ。アメリカ企業のコールセンターで、アメリカ人顧客がアメリカ人と話していると思わせるために、アメリカ英語を身に付けるのだという。イギリス人が相手だとイギリス英語をしゃべる。状況に応じて、しゃべる英語を使い分ける。そんなことができるのは、200年にわたる英語とのつきあいがベースにあるうえ、インドでは英語ができないと収入のいい仕事にはつけないという切実な状況があるからだろう。大学だって授業は英語だ。


そこいくと、日本はこれからは英語ができなくてはダメだというわりに、ちっとも切実ではない。ユニクロや楽天が会社の公用語は英語だとかいっているけれど、実際には国内にいるかぎり、ほとんどの人にとっては英語なんて知らなくても不便はまったくかんじない。英語ができなくても、そこそこのところには就職できる。世界中の本が翻訳されていて日本語で読める。ネットの日本語サイトも充実している。大学の授業も日本語。学者は英語で論文を書かなくてもいい。それはある意味、とても幸福なことだ。いろんなことが自国語ですむというのは文化が成熟している証拠だ。英語を学ぶモチベーションなどあがるわけない。


ただ、日本語でたいていのことがすんでしまう世界の中にいるということは、日本語をとりまく文化や、日本特有のものの見方の中から出られないということでもある。それを窮屈だと感じられないほどいまの日本語の世界は広い。でも、じつは世界はもっともっと広いし、もっと多様なのだ。外国語を学ぶ面白さは、見た目は似ていても、こんなにも考え方や感じ方、見ているものがちがうのか、ということに気づかされることだ。


哲学者の井筒俊彦氏は、中学生のとき、英語には単数形と複数形があるということを知って、語学に開眼したという。数など問題でない場合でも、単数と複数をかならず区別しなければ口がきけない連中とは、なんと変わっていることか。彼らはきっと根本的にちがう仕方で世界を経験しているのではないか。それは中学生の井筒さんにとって、世界の見方ががらっと変わるほど衝撃的な発見だった。それが井筒さんがのちに30以上の外国語に取り組むきっかけとなった。


インドの10億人というパイの大きさにはかなわないが、日本人が英語を自家薬籠中のものにするひとつの手段は、やはり英語のローカライゼーション、つまりニホン英語というスタイルを前面に押し出していくことではないか。すでに日本の英語の特徴というのはあると思うのだが、それを欠点ととらえず、自分たちの文化として、まわりに理解してもらえるよう、積極的にアピールする。


たとえば、RとL、BとVの発音のちがいなどは、もともと日本語にないのだから無視。定冠詞も複数形も三人称単数現在のsも無視。主語も無視。それを聞いた外国人は、そうか、日本では単数や複数はたいした問題ではないのだな、主語も省略するのだな、そういう考え方をするのだな、とわかってもらえるだろう、たぶん。


英語につきものの欧米的な発想にもとらわれてはいけない。英語のディベートなどでは、話すときには論旨を明確にせよとか、自分の意見をはっきり述べよといわれる。それは欧米社会が、言葉による自己主張を核とした人間関係に支えられているからだ。だが、日本は言葉よりも、むしろ間合いや空気を読むことによってコミュニケーションが成り立っている。それをニホン英語の言い回しとして押し出す。


たとえば、日本語会話特有の曖昧表現、たとえば「つまり、まあ、なんというか、アレですなあ」とか、「まあ、いわゆる、そういうことなんですなあ」といった、ほとんど意味不明な謎のフレーズを英語表現として盛り込む(どう訳せばいいのだろう?)。自分たちは、こんなにも受動的で、消極的で、自己の意見を主張するのは苦手なのだということを、英語で、アグレッシブに、積極的にアピールして、相手を翻弄するのだ。相手に合わせるのではなく、こちらの土俵に相手を引き込む。それにはインド英語をお手本にして、ニホン英語というものが、英米英語の劣化版ではなく、日本の文化のうえにのっとったものなのだという認識を促すことである。つまり、まあ、なんというか、そんなようなことである。



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ネルソン・マンデラと沼沢均さんのこと

12月5日、ネルソン・マンデラが亡くなったと聞いてすぐに思い出したのは、沼沢均さんのことだった。沼沢さんは共同通信社の元ナイロビ支局長で、ぼくの尊敬する友人だった。「だった」というのは、彼はもうこの世にいないからだ。いまから19年前の1994年、ザイールのゴマへむかう彼の乗ったチャーター機が墜落した。12月6日だった。今年も、あしたは沼沢さんの命日だなと思っていたとき、マンデラさんの訃報を聞いた。


沼沢さんが亡くなることになった年、つまり1994年の4月中旬、彼は南アフリカにいた。この国で初めての全人種選挙を選挙を取材するためだった。当時アフリカ民族会議(ANC)議長だったネルソン・マンデラが大統領に選ばれることになる、あの歴史的な総選挙だ。結果はある程度予想されていたとはいえ、アパルトヘイト体制が名実ともに解体するという状況をひかえて、南アフリカはたいへんな緊張に包まれていた。


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ANCが盤石だったわけではない。ズールー人によって構成される黒人右派のインカタ自由党が選挙のボイコットを主張していた。さらに、白人極右勢力はANCに勝たせたくないがために、インカタに資金を提供するという醜いねじれ構造が起きていた。選挙の二日前には、ヨハネスブルグのANC本部のすぐそばで大きな爆弾テロがあり、100人近くが死んだりけがをしたりした。選挙前日にもヨハネスブルク郊外で無差別爆弾テロが起きた。でも、テロに屈することなく選挙は行われ、ANCは勝利した。


沼沢さんはマンデラ議長がダーバンの中学校で投票する場面を取材している。遺著『神よ、アフリカに祝福を』の中で、彼はこう書いている。


「議長が現れた。投票の前、ANCの創設者で初代ANC議長だった故ドューベ博士の墓に花を捧げた。墓前に花束を置き、三度礼を捧げてから振り向き、博士の孫たちを見つけ、一人ひとりを強く抱きしめた。『幸せだね。本当に幸せだね』独り言のように語りかけるマンデラ議長の目に涙が光っている。まぶたが露を含んだように濡れている・・・どこからともなく歌声が聞こえてきた。〈神よ、アフリカに祝福を〉だ。一番乗りしたマンデラ議長に続いて投票しようと集まってきた周辺の黒人居住区の有権者が、拳をふりあげて静かに歌っている。・・・」


それから数日後、ヨハネスブルグのホテルでANCの勝利宣言のあと「ステージで歌が始まると、マンデラ議長は踊り始めた」と彼は書く。それを見届けてから、沼沢さんはソウェト(ヨハネスブルクの黒人居住区)へ走る。


「・・・タイヤが燃やされ、車のクラクションが耳をつんざく。酒が回され、若者がマリファナを吸っている。ANCのポスターを頭上に掲げ、ひとが踊っている。『うれしいよ。こんなうれしいことは一生に一度もなかったよ』老人がぼくを抱きしめる。『ねえキスして。お祝いなんだから』女の子が飛びついてくる。歌声が夜の闇に響く。火明かりを頼りに踊り始めた。ぼくも輪に入って、笑い物になる。『マンデラが踊ったのをテレビで見たよ。分かるな、あの気持ち。分かるよな』黒人たちのための夜は続いた・・・」


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マンデラ議長の大統領就任式の日、沼沢さんはプレトリアの官邸の中庭で式の様子を見ていた。


「貴賓席に先程から各国代表の姿がある。英国のエジンバラ公は当然のように中央の一番前の椅子に腰かけようとして注意され、戸惑いのまま前から四番目の、それも一番右端の席を与えられた。南アはもはや英国の植民地ではないのだから。ゴア副大統領も前から四番目。キューバのカストロ議長が登場。片手を振り上げる。南ア解放を支援したお返しに拍手の渦。もちろん、一番前の席に。なるほど公平だ・・・」


だが、この『神よ、アフリカに祝福を』に収められた沼沢さんの南ア取材記(「南アよ、アフリカを目覚めさせよ」)の中で圧巻なのは、選挙の前、スティーヴ・ビコの生家をはじめ、そのゆかりの場所を訪ねるくだりだ。スティーヴ・ビコは解放闘争の最中、1977年に30歳で拷問で惨殺された活動家だ。ピーター・ガブリエルは彼のために追悼歌「ビコ」を書いている。ぼくもビコのことを知ったのは、この歌がきっかけだった。沼沢さんは、ビコの運動を継承するアザポ(アザニア人民機構)の若いメンバーAとともに車で目的地を目指す。アザポは黒人政党で唯一選挙に参加しなかった。


道中、Aは「マンデラは日和見だ」「白人とは手を組まない」と口にし、道端の白人警官を見ると「ひき殺してしまえ」と声を荒げる。ハンドルを握っていた沼沢さんは、かっとなって叫ぶ。「かれをひき殺して、それで政治の潮流が変わるとでも思っているのか。プロの政治運動家を自任するなら、つまらない憎しみで人を殺すんじゃない」。Aは、これまで白人警察官が黒人に何をしてきたかをとうとうと説き、「おれたちを抑圧したのはだれだと思う」とやり返す。


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口論をしながらビコの暮らしていた黒人居住区につき、二人はビコの老いた母親に会い、そこからまた移動して警察がビコを収容し、拷問を加えていた雑居ビルの一室をたずねたりする。そのさなかにも、Aは武器をとって白人と戦うといい、そばにいる白人を遠慮なく指さして、「あいつらは黒人の土地も文化も財産も威厳も奪って、のうのうと生きている。選挙が終わったって、それが返ってくるのか。マンデラは全人種融和だという。白人を許すという。だが、それでいいのか。今の状態じゃ黒人は白人の経済奴隷だよ・・・」とまくしたて、酔うと「白人の豚め、白人の豚め」と吐き捨てる。


沼沢さんは、ポートエリザベス郊外の黒人居住区はずれにあるAの家を訪ねる。マッチ箱のような家並みがつらなるすぐ向こうには巨大な火力発電所があった。しかし、そこから伸びる送電線は一本たりとも黒人居住区には伸びていなかった。日が暮れると発電所のとなりに広がる黒人居住区のそこここでロウソクの火がともった。そこで沼沢さんはAとAの仲間や親類たちと酒を飲む。酔ったAが「解放」とか「闘争」という勇ましい言葉を吐くのを、仲間たちはにこにこしながら聞いている。彼は書いているーー。


「Aのように怒りを抑えきれず、ロウソクの火の下で、酒に飲まれる男達がどれだけ南アに埋もれているだろう。Aの悲劇は怒りを消化できず、実践に転化できないでいることだった。だが、ぼくはAを責めたくない。あの巨大な火力発電所とマッチ箱の家並みの差に等しい残忍さで、社会はAたちを受け入れないからだ。
 マンデラ新大統領は、黒人生活の生活向上を最優先公約に挙げている。柱は失業問題の解消、住宅の供給、教育の提供、医療水準の向上だ。『黒人の怒りを鎮めること』。ぼくには大統領の公約がそう読める。・・・」


沼沢さんのこの南ア取材の約2ヶ月後、ぼくも南アを訪れた。選挙の興奮が覚めやらないのではないかと思っていたのだが、町は驚くほどクールだった。白人しかいなかった地区に黒人が入り込んだことで治安が悪化した、という話をひんぱんに耳にした。黒人政権になってうまくいくはずなんかない、アフリカのほかの国を見ていたら、よくわかる、黒人だって、そのことはわかっているはずだ、という白人もいた。町なかを歩いていたら、いきなり見知らぬ黒人に声をかけられ、「仕事を探しているんだ。庭師か何かに雇ってもらえないだろうか」と頼まれたりもした。人々は祭りの後の現実の中に置かれていることに気づいていた。


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ヨハネスブルグのバーで、となりに座った若い女の子は、選挙にはなにも期待していないといった。金がなくて12歳までしか学校へ行けなかった。仕事がないので、一年前にヨハネスブルクに出てきたといった。「マンデラなんて、だいっキライ。『マイピープル』なんていっているけど、その中にあたしは入っていないの。お金持っている人は変わるけど、あたしの人生はなにも変わらない・・・」といって、ビールをせびられた。


それでも、南アに長く暮らしている人たちは、人びとの顔が以前より和んでいる、と口をそろえた。一段落したら反動が来るかもしれません、いまのバランスがとれているのはマンデラの人柄のおかげです。問題はマンデラが死んだあとです、というひともいた。


初夏に南アからナイロビに戻って、そのとき沼沢さんと会った。南アの印象など話しながら、日本食レストランでいっしょにカツ丼を食べた。来年の春に任期が切れて日本に帰国するので、その前にエジプトに寄りたいんだけど、その頃はまだいるかい、といった。ぜひ来てください、ピラミッドの頂上に案内しますよ、とぼくはいった。それはおもしろそうだね、と彼は笑った。それが沼沢さんと会った最後だった。


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彼は『神よ、アフリカに祝福を』の南アフリカ取材記のむすびにこう書いている。


「・・・ぼくは南アに多くの期待を抱いている。アフリカで最も過酷な解放闘争を生き抜き、現実を受け入れながらこの選挙を成功させた成熟したANCの政治力は、これまでアフリカが求めても得られなかった蓄積である。黒人を含め国民の成熟度は高く、何よりも経済力がアフリカではずば抜けている。マンデラ大統領がいるかぎり大丈夫だ。かつてアフリカの独立の父たちが陥った、腐った独裁や汚職体質、狭窄した視野から来る急激なイデオロギー化、そして最も深刻な問題としてアフリカにある黒人同士の差別ーー内なるアパルトヘイトーーという停滞の悪循環を大統領は決して選択しないだろう。アフリカを救って欲しい。南アからまず、アフリカを目覚めさせて欲しい」


ネルソン・マンデラは亡くなった。そしていま南アフリカもまたほかのアフリカ諸国と同様、経済成長とひきかえに、高い失業率や深刻な貧困問題を抱えている。アパルトヘイトはなくなったけれど、黒人間の所得格差や差別はいっそう顕著だ。治安も悪く、役人の汚職や賄賂も横行している。


それでも、この国にマンデラがいたことは、この国がこれから困難なつらい道を歩むことになったとしても、けっして消えることのない希望の光となるだろう。いま、きみが生きていたら、たずねてみたい。南アはアフリカを目覚めさせることはできたのだろうか、と。



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東京ミネラルショー2013へ行った

サンシャインで開催中の東京ミネラルショーへ行った。毎年やっている鉱物や化石の展示・即売フェアなのだが感動的に面白い。珍しいものや、ふしぎなもの、美しいものがいっぱい。手にとって質感や匂いや重さが確かめられるのもいい。会場はデパートのフロアのように広く、すごく混んでいた。世の中にはこんなにたくさん鉱物好きがいるのか? ブースの人たちもアフガンとかインドとかパキスタンとかロシアとか中国とか北欧とか世界中から来ていて、聞けばあれこれ親切に教えてくれる。そういえばコンゴでもインド人の鉱物商人と会って、日本にも仕事で行ったことがあると話していた。鉱物業界というのはインターナショナルなのだなあ。12月9日まで。


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図鑑で見るものいいが、石はやはり手にとると、がぜんたのしくなる。図鑑だとそれぞれの種類の石がひとつしか載っていないし、博物館でもそうだ。けれども、ここでは同じ種類の石がいっぱいあって、それぞれ色も形も同じ石とは思えないほどちがうのがわかるのもたのしい。値段が書いてあるのもなまなましくていい。

 
 

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羊の角みたいに見えるが、ロシアのアンモナイトの化石。巻きがほどけたアンモナイトもいるのだ。サンクトペテルブルクのあたりではこういうアンモナイトがたくさん見つかっているそうだ。サンクトペテルブルクは海だったのか。。。

 
 

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三葉虫の類の化石。あまりにリアルなので復元模型かと思ったら、そうではないという。ひげ?の部分などはリストアも施しているというが、からだの部分はちゃんと化石なのだそうだ。


 
 
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ビスマス鉱石の人工結晶。写真では見たことがあったが、この幾何学的形状とメタリックな色の鮮やかさにはびっくり。プラスチックみたい。。

 
 

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これが見られて感動! ツタンカーメンの装飾品にも使われているシリカガラス(リビアングラス)。数千万年前、隕石が地面に衝突したときに地面の岩石が溶けて生成した天然のガラス。エジプト南端のゲルフ・キビールなど、サハラ砂漠で発見されている。半透明な薄い黄緑色で、光にかざすと、なんともいえなく美しい。


 

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琥珀とおなじく木の樹脂が化石化したコーパル。たしかミャンマー産。琥珀が数億年前の木に由来しているのに対して、コーパルは数十万年前にできた最近?の化石。こすると木のさわやかな芳香がただよう。宝飾品の琥珀はコーティングしてあるのでにおわないんだそうだ。これをこまかくしたものが乳香の原料になる。カイロのハンハリーリにただよっているあの香りである。


 

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アフガニスタンで出土した4世紀頃のローマンガラス。当時のガラスはいまのガラスと成分がちがっていたので、それが化学変化を起こして虹色に輝く。かつては壺だったり、杯だったりしたのだろうが、その破片の美しいこと。アフガン人が売っていたのだが、すこし話していたらすぐに30%ディスカウントといいだした。。。こういうやりとりがなつかしい。

 


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いまは製造されていないウランガラス。初めて見た。微量のウランを含んだガラスで、第二次大戦中くらいまでは食器などにふつうに使われていたが。いまは製造中止。右側は純度が高く、左はだふんほかの成分を含んだウランガラス。これに紫外線ライトを上から当てると。。。

 

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こんなふうに光る! ウランなので微量のアルファ線を放出しているが、体内に入れなければ大丈夫とブースのひげの白人がいっていた。それはそうだが。。。

 
 


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恐竜の糞の化石。糞だって数億年たてば売れるのだ。。。


 

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これがその断面。

 
 

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方解石に含まれていた赤鉄鋼が細かい結晶となって表面に浮き出たもの。鉄鋼の成分によって、その色が金だったり、緑だったり、青だったりする。金粉をまぶしてつくったみたいに見えるが自然にこうなるのだそうだ。石英の内部にも赤鉄鋼の粉が結晶している。湖北省の一部に特徴的なものとか。ブースにいた中国人のお姉さんのお父さまは上海の大学の地質学の教授だという。研究が実益を兼ねているのか。

 


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コンクリート片に埋もれたネジかと思ったら、海ユリの化石なんだそうだ。うーん、やはりネジにしか見えない。。。海ユリといっても植物ではなくて、ウニやヒトデのような棘皮動物の一種で、これも数億年前のもの。海ユリは生きた化石として、いまも地球上に生息しているそうだ。

 
 


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このようなものも売っていれば。。。


 


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このようなものまで売っています。。。

 

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小瀧達郎写真展「PARIS 光の廻廊」ギャラリートークのお知らせ&パリの思い出

お茶の水のギャラリーバウハウスで小瀧達郎さんの写真展「PARIS 光の回廊」が開かれている。古いライカのレンズで4年にわたって撮影された、小瀧さんならではの、静謐で、幻想的なトーンでまとめられた、一見すると、とてもしずかな作品群だ。ひともほとんど写っていない。にもかかわらず、そこからは「たしかにそこに誰かがいた」という存在の痕跡が伝わってくる。
 

そんなことも含めて、12月14日(土)の夜7時から、ギャラリーで小瀧さんとギャラリートークをする。ご都合のつく方はぜひ足をお運びください。小瀧さんとパリとのかかわり、撮影時のエピソード、ライカのレンズのこと、銀塩にこだわる理由などについて、話をうかがいます。レンズや銀塩の話は、ちらっとうかがったのだが、とてもおもしろかった。写真技術の進歩の中で、なにが進化し、なにが切り捨てられたのか。切り捨てたことによって、どのような表現の可能性が失われたのか、といったことなど。
 

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©Tatsuo Kotaki



小瀧達郎写真展
「PARIS 光の廻廊2010-2013」 2014年1月18日(土)まで

ギャラリートーク
小瀧達郎×田中真知(作家・翻訳家)
パリと古いライカ・レンズ、暗室作業、モノクローム・プリントの魅力などについて、聞き手に田中真知氏をお迎えし、ギャラリー・トークを行います。

日時 / 2013年12月14日(土) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)
場所 / お茶の水のギャラリーバウハウス
参加費 / 2,000円

info@gallery-bauhaus.comへメール、もしくはお電話(03-5294-2566 )にて要予約。
mailの際はお名前・ご住所・お電話番号を明記のうえ、送信して下さい。

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で、ここではまったく関係なく、小瀧さんの写真を見ていて思い出したささやか、とさえいえない自分のパリ体験。もうずいぶん昔になるけれど、パキスタン航空でロストバゲージの憂き目にあい、2月のパリに身ひとつで放り出されたことがある。北駅ちかくの安ホテルに入り、そこで荷物が届くのを数日待った。古くて、オンボロなホテルで、暖房もなく、震えがくるほど寒いのに毛布もない。毛布をくださいとフロントにいっても、そんなものはないといわれる。しかたなく部屋の薄汚れたカーテンをはずして、ミイラのようにからだに巻いて、ベッドに横たわった。


そのとき気づいたのだが、マットレスは人の形にくぼんでいて、そこにすっぽりからだがおさまった。スプリングが伸びて腰のところが落ち込んでいるベッドはよくあるが、ひとの鋳型のようにみごとにくぼんだマットレスはなかなかない。いったい、どれだけ古いのか。そのくぼみにからだをおさめて、寒さに耐えていると、前にもこうして、数えきれない人たちが、このくぼみにからだをおさめて、ひょっとしたらカーテンを巻いて眠ったのかもしれないと思った。それはどんなひとたちだったのか。おおむね金のない旅行者や外国人、あるいは出稼ぎ労働者だったのか。部屋には、消毒薬とスパイスの入り交じったような、なんともいえないにおいがしていたが、それもまたここにだれかがいた、という存在の痕跡だった。


リルケの「マルテの手記」にも、マルテがパリで借りた安い部屋に、前の間借り人たちの暮らしていた痕跡を見つける場面がある。マルテがパリにやってきたのは20世紀の初めころだが、当時は、ベル・エポックの華やかさとは対照的に、パリには、そんな甘い夢から拒絶され、貧困と孤独にうちのめされていった、おびただしい外国人があふれていた。マルテもまたぼろぼろの部屋で、自分もまた、そんな寄るべなく流されていく落伍者の外国人なのだと感じて、不安と孤独にさいなまれるのだ。


でも、通りすがりの旅行者としては、ひとの存在の痕跡をとおして、あれこれ想像をするのは愉しい。人気のないなにげない界隈にも、そこに折り重ねられた時代の痕跡を覚えることは少なくない。風景だってそうだ。ノートルダムにのぼれば、そこから眺めるパリの風景をいったい、どれだけの人が見ただろうかと思う。19世紀だろうが、18世紀だろうが、ここからの眺望があたえる印象は、エッフェル塔はなかったにしても、基本的にそんなに変わっていないのではないか。これがパリという町の原型的な映像として、何世紀にもわたって人びとの心ににきざまれてきたのだろう。


くぼんだマットレスをいまだに使っている安ホテルがどれほどあるかはわからないが、この町にはひとがそこに存在した、生活をいとなんでいたのだと感じさせる余韻や気配が、いたるところから感じられる。一方、東京はといえば、そうした痕跡や気配を、つぎつぎと上書きして、消していってしまっている気がする。伝統的なものはあっても、生活から切り離されて骨董みたいに扱われている。街があまりに早く変わりすぎて、新しいものができると、以前そこになにがあったのかすら思い出せない。でも、そんな東京をいまの若いフランス人は魅力的だといっているんだから、きっと東京の魅力への気づき方というのがあるのだろう。たしかに、パリの魅力を発見したのは外国の文学者や芸術家だったりするし、東京の魅力も異邦人のほうが見出しやすいのかもしれない。


話がまとまらないが、小瀧さんの写真はほんとうに美しいので、ぜひギャラリーに足を運んでください。ライカの古いレンズと、手焼き?でしか出せない、このプリントのやわらかい光や質感は、モニターや印刷ではどうやっても出せないことが見ればわかります。ギャラリートークもお楽しみに。


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©Tatsuo Kotaki


小瀧達郎写真展
「PARIS 光の廻廊2010-2013」

ギャラリートーク
小瀧達郎×田中真知(作家・翻訳家)

日  時 / 2013年12月14日(土) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)
参加費 / 2,000円

info@gallery-bauhaus.comへメール、もしくはお電話(03-5294-2566)にて要予約。
mailの際はお名前・ご住所・お電話番号を明記のうえ、送信して下さい。


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