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「インド英語のリスニング」という本が出ていた。。

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インド英語のリスニング(CD付) (CD BOOK)


ついにこういう本が出る時代になったのだな。いま世界の英語人口は約20億で、そのうち英米ネイティブは4億。あとの16億はみな自国語なまりのローカライズされた英語を使っている。なかでもインド英語をしゃべっているのは10億人である。インドがすごいのは、政府が「インド英語はひとつの完成された英語であり、インド人学習者のモデルとなりうる」と明言していることだ。圧倒的な人口という強みはあるものの、英米ネイティブへのコンプレックスからいまだ「ニホン英語でなにが悪い」といいきれない日本人からするとうらやましくもある。


この本はCD付で、インド英語による会話例が収められていて、これが傑作。日本からインドに派遣されたビジネスマンのアリさん(日本人なのにアリさん・児玉有という名前)がインドでの暮らしの中で遭遇するさまざまなエピソードという設定なのだが、いかにもありそうな展開になっている。例によって、ぼったくられそうになる話や、ダメモトで強引に要求を通そうとするインド人との熾烈なやりとりなど、異なる価値観や文化の中でアリさんがもまれ、鍛えられていくという、いわば成長物語になっているのだ。


前にも書いたことがあるのだが、日本人の場合、英語学習の背景にあるネイティブ原理主義から自由にならないかぎり、英語への苦手意識はなくならないと思う。ネイティブ原理主義とは、ネイティブの話す英語が最高であるという思い込みのことだ。実際はイギリスでも階級や地域によって発音や語彙も、これが同じ英語かとは思えないほどちがう。でも、なぜか英語がデキルひとというと、オーバーなジャスチャーでネイティブ顔負けの発音のビジネスマンや、物怖じしない、というか、たんにずうずうしいだけだろうという気もする帰国子女系タレントのイメージがいまだ強い。


ぼくが学生のときにもラジオの英会話講座では、どうすればネイティブの発音に似せられるのかみたいなのを、よくやっていた。講師は日本人なんだけど、なぜか名前が半分英語ーーポール牧みたいにーーだったりした。そして、RとLをまちがえると、We eat rice.(私たちはコメを食べる) といったつもりが We eat lice.(私たちはシラミを食べる)ととられて誤解されますよ、という話をもっともらしく聞かされたりした。


でも、そんなことあるわけがない。人間は相手のいうことを発音だけで理解するわけではない。どこのだれが、自分たちはシラミを食べるというのを信じるだろう。会話の流れで、riceといいたかったことくらい当然わかるはずだ。わからなかったとしたら相手がよほどバカなだけだ。


だが、あいかわらず日本の英語学習者の多くにとってはアメリカ人やイギリス人から発音をほめられることが最大の名誉であったりする。その一方で、英語をネイティブみたいに発音する日本人を見ると、どこか反発を感じるところがある。英語はできるにこしたことはない、でも外国かぶれみたいなのはいやだ、といったアンビバレントな感情。そこには英語を学ぶことが精神の植民地化につながるのでは、というコンプレックスとないまぜになった警戒感があるのかもしれない。それが日本人の英語が上達しない(というか、したくない)原因の一つだったのではないか(いまはすこし変わってきているようにも思う)。


たしかに、言語教育は植民地政策と密接に結びついていた。ブリティッシュ・カウンシルやアリアンス・フランセーズは、言語教育をつうじて宗主国文化の優位性を示すための機関だった。インドもまた、200年あまりの植民地支配の中で、政策の一環として英語教育を徹底させられた。でも、その英語をインド人は、インド英語という形で逆に植民地化したのだ。


これと対照的なのが、日本や韓国だ。韓国語なまりの英語は俗にKonglish(ちなみに、日本英語はEngrish)といわれている。日本人同様、韓国人の多くはそれにたいしてコンプレックスを感じているらしい。


Non_stop_fright
Non Stop Fright となっている。。。(engrish.comより)


「アジア・オセアニアの英語」という本にのっていたのだが、2002年に公開された「神秘的な英語の国」という韓国映画があった。ソウルの名門幼稚園のクリスマス会で生徒たちが英語でクリスマスソングを歌う。ところが、それを聞いていた母親のひとりが、息子の英語の発音がほかの子にくらべて劣っていることにがっかりする。そこで母親は息子の発音が上手になるように、息子の舌の一部を切除する手術を受けさせる、という話だそうだ。


この話は実際の事件がもとになっている。韓国もまたハングル化によってナショナリズムを称揚してきた一方、日本同様、英語教育や英会話スクールビジネスが盛んで、ネイティブ英語に対するコンプレックスを抱えて引き裂かれているのだろう。


もっとも、インドでも、イギリス式、もしくはアメリカ式の英語を学ぶ人もいる。そのための英語学校もあるという。ただし、それは英米ネイティブ英語へのコンプレックスからではなく、あくまでビジネス上の必要からだ。アメリカ企業のコールセンターで、アメリカ人顧客がアメリカ人と話していると思わせるために、アメリカ英語を身に付けるのだという。イギリス人が相手だとイギリス英語をしゃべる。状況に応じて、しゃべる英語を使い分ける。そんなことができるのは、200年にわたる英語とのつきあいがベースにあるうえ、インドでは英語ができないと収入のいい仕事にはつけないという切実な状況があるからだろう。大学だって授業は英語だ。


そこいくと、日本はこれからは英語ができなくてはダメだというわりに、ちっとも切実ではない。ユニクロや楽天が会社の公用語は英語だとかいっているけれど、実際には国内にいるかぎり、ほとんどの人にとっては英語なんて知らなくても不便はまったくかんじない。英語ができなくても、そこそこのところには就職できる。世界中の本が翻訳されていて日本語で読める。ネットの日本語サイトも充実している。大学の授業も日本語。学者は英語で論文を書かなくてもいい。それはある意味、とても幸福なことだ。いろんなことが自国語ですむというのは文化が成熟している証拠だ。英語を学ぶモチベーションなどあがるわけない。


ただ、日本語でたいていのことがすんでしまう世界の中にいるということは、日本語をとりまく文化や、日本特有のものの見方の中から出られないということでもある。それを窮屈だと感じられないほどいまの日本語の世界は広い。でも、じつは世界はもっともっと広いし、もっと多様なのだ。外国語を学ぶ面白さは、見た目は似ていても、こんなにも考え方や感じ方、見ているものがちがうのか、ということに気づかされることだ。


哲学者の井筒俊彦氏は、中学生のとき、英語には単数形と複数形があるということを知って、語学に開眼したという。数など問題でない場合でも、単数と複数をかならず区別しなければ口がきけない連中とは、なんと変わっていることか。彼らはきっと根本的にちがう仕方で世界を経験しているのではないか。それは中学生の井筒さんにとって、世界の見方ががらっと変わるほど衝撃的な発見だった。それが井筒さんがのちに30以上の外国語に取り組むきっかけとなった。


インドの10億人というパイの大きさにはかなわないが、日本人が英語を自家薬籠中のものにするひとつの手段は、やはり英語のローカライゼーション、つまりニホン英語というスタイルを前面に押し出していくことではないか。すでに日本の英語の特徴というのはあると思うのだが、それを欠点ととらえず、自分たちの文化として、まわりに理解してもらえるよう、積極的にアピールする。


たとえば、RとL、BとVの発音のちがいなどは、もともと日本語にないのだから無視。定冠詞も複数形も三人称単数現在のsも無視。主語も無視。それを聞いた外国人は、そうか、日本では単数や複数はたいした問題ではないのだな、主語も省略するのだな、そういう考え方をするのだな、とわかってもらえるだろう、たぶん。


英語につきものの欧米的な発想にもとらわれてはいけない。英語のディベートなどでは、話すときには論旨を明確にせよとか、自分の意見をはっきり述べよといわれる。それは欧米社会が、言葉による自己主張を核とした人間関係に支えられているからだ。だが、日本は言葉よりも、むしろ間合いや空気を読むことによってコミュニケーションが成り立っている。それをニホン英語の言い回しとして押し出す。


たとえば、日本語会話特有の曖昧表現、たとえば「つまり、まあ、なんというか、アレですなあ」とか、「まあ、いわゆる、そういうことなんですなあ」といった、ほとんど意味不明な謎のフレーズを英語表現として盛り込む(どう訳せばいいのだろう?)。自分たちは、こんなにも受動的で、消極的で、自己の意見を主張するのは苦手なのだということを、英語で、アグレッシブに、積極的にアピールして、相手を翻弄するのだ。相手に合わせるのではなく、こちらの土俵に相手を引き込む。それにはインド英語をお手本にして、ニホン英語というものが、英米英語の劣化版ではなく、日本の文化のうえにのっとったものなのだという認識を促すことである。つまり、まあ、なんというか、そんなようなことである。



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コメント

 英語の発音が日本式でもいいが、何を言っているのか分からないニホン式英語で対応するというのは、西洋人と交渉事をするときの手段としては無効でしょうね。相手から、「お前の英語らしき言語は意味不明だ!」と言われれば、交渉にならない。相手が日本人に何かをお願いするという状況なら、我慢して理解しようとするでしょうが、国際交渉ではそうはいきません。あいまいな表現でいいというのは、アニメやマンガのように、日本人が上に立って、相手が学ぶという位置関係にのみ有効でしょうね。
 重要なことは、ニホン式英語がどうかではなく、討議する知識や屁理屈を身につけることで「なるべ目立たないように生きる。帰国子女みたいに自己主張が強いヤツは嫌いだ」というのでは、外国人と討論ができない。
 高校生の国際討論会というのは知っていますか。英語を母語にしていない国の高校生が集まって討論会をするのですが、日本はいつも最下位です。英語の勉強はしているのですが、「堂々と論じる」ということが高校生も大学生も、会社員もできないのです。学校でも会社でも、人前で意見を言うと、あとでいじめられるからです。英語がどうの、発音がどうのという以前の問題が大きいのです。

投稿: 前川健一 | 2013年12月21日 (土) 01時16分

前川さん、すばやい。
そうですね、おっしゃるとおりです。立ち位置をはっきりさせない曖昧な日本的コミュニケーションを揶揄して書いたのですが、たしかにこれでは国際交渉はできませんね。
堂々と論じることができない、というのは英語以前の問題というのも、そのとおりですね。宮本常一の本で村の話し合いの様子を書いたものがありましたが、あれなど読むと、日本の場合、話し合いや討議は結論を出すことが目的ではなく、むしろなるべく結論を出さないことが目的であったかのようにさえ思います。いじめられたり、恨みや嫉妬をかわないようにする、というのが本来の目的であったのではないかと。
ここではネイティブに対するコンプレックスと反発から自由になるには、ニホン式英語もいいのではということを書きたかったのです。それと交渉能力や討論能力の向上とはぺつの話です。たしか鈴木孝夫さんだったと思うのですが、日本人は論より証拠で動くが、世界は圧倒的に証拠より論で動くといっていた気がします。日本人にとって言葉は自分の人格と重なっている。だから言葉を攻撃されると自分を攻撃されたように受け取る。でも、欧米人にとっては論は論であって、自分ではない、だからいじめにつよい。そのあたりが堂々と論じられるかられないかに関係しているのではないでしょうか。

投稿: 田中真知 | 2013年12月21日 (土) 02時05分

 別の観点から見ると、どうなるか。外国人がどんどん日本語を学び、使うようになると、理解不能な文法や発音の日本語が姿を現すようになる。これを梅棹忠夫は「おぞましき日本語」といいました。日本語が国外に広がることは、そのおぞましき日本語に耐えることだが、あなたは耐えられますかと問うた。英語の場合は、「日本式発音でどこが悪い」と主張しても、おぞましき日本語に日本人は耐えられるのか。
 英語でも日本語の場合でも、あまりしゃべれない人と長時間話すのはつらい、疲れる。そういうとき、「私と英語でしゃべっている人は、さぞかしくたびれるだろうなあ」と思うのです。立場を変えて考えてみると、この問題の考察はより深くなると思います。あるいは、ピジン・イングリッシュなどについても。

投稿: 前川健一 | 2013年12月21日 (土) 03時13分

おぞましき日本語ですか。たしかに聞くほうとしては疲れちゃいますね。武術で柔道や剣道にいろんな流派があるように、主体的に習う流儀の言語を選べるといいなとも思うのですが、実際には大半は柔道だったら講道館ルールや国際ルールにのっとったものを選択せざるをえない。そうしないと戦えないから。その意味ではまともに戦えない流儀の武術みたいなものになってしまうのかな。

投稿: 田中真知 | 2013年12月21日 (土) 09時00分

 『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』という本が面白いですよ。しゃべれなくても、それぞれの言語のどこがどう違うか、という豆知識を持っているだけでも、母語ばかりにとらわれない心を養う役にはたつんじゃないかと思います。
 ビジネスや論文はともかく、個人的な場面で本当に伝えたいことがあるときは、相手の目を見て日本語で話せ!!というのもありなんですが、それこそ性根がすわっていないとできませんね。

投稿: すずさわ かおり | 2013年12月22日 (日) 09時11分

すずさわかおりさま

翻訳本なんですね、これは面白そう。教えてくださり、ありがとうございます。言語によって見える世界がちがう、というのは旅をしていると感じますね。
手前みそですが、「美しい」という感じ方もまた文化や時代によって変化するということについて以前「美しいをさがす旅にでよう」という本を書きました。機会があったらこちらもどうぞ。(´Θ`)ノ

投稿: 田中真知 | 2013年12月22日 (日) 10時02分

>「つまり、まあ、なんというか、アレですなあ」とか、「まあ、いわゆる、そういうことなんですなあ」といった、ほとんど意味不明な謎のフレーズ

このニュアンスを英語で相手に伝えるには、こちらも英語の勘所をかなり明確に捕まえていなければいけない、という矛盾したことになってきますね(笑)。ここを押し通せる日本人英語話者は、色々な意味で相当な凄腕なのでは?

しかも、日本人同士でも、こういう会話が交わされるのは、ビジネスの現役を引退したお年寄りかそれに類する人たち、というイメージ・・・と言ったら言い過ぎですか?

結局、コミュニケーションには各人各様のはかり知れぬ多様性があり、それは言葉で行う会話に限らず。
その会話にしても、ピジン型でとりあえず意味主体で伝わればよし、なのか、相手にエネルギッシュにまくし立てる流暢さが必要なのか、あるいは英国式とか米国式とかの相手に聞きやすい論理的な物言いが必要なのか・・・とか考えてると、果てしなくヴァリエーションは出てきます。

このインド英語の本は、意義ある一冊ですよね。
この国は「英語圏」なので、そのあり方を世に知らしめた、という意味で大事な一歩だなと思いました。これは彼らなりの「ネイティブのスタイル」であって、ピジンとはまた違う世界だと思ういますが。

最近は日本の若い人に英語を教える仕事をしています。何をどこまでどのようにわかってもらいたいか、という部分で、いろいろと悩みまどうことが多いです。日本式は発音に限れば、聞き取りやすいという点でインドや中国の訛りよりは遙かに上質と認識されているんだよ。ただまあ、こういうのとこういうのをなおすとスッキリはするわねえ・・・なんて言いながら、試行錯誤の毎日です。

もうひとつ、私のジレンマは、外国語を語る人は外国語が達者な人ばかりで、全く苦手で日本語ベースを頭から排除できない人のことは念頭にも浮かばないことです。私も含め、外国語と母国語の差異をすっと受け入れて運用できる人は、日本のおおかたの語学にコンプレックスにある人たちとは、基本的な適性が違う人達なんですよね。そこを、語学の教師すら気づいていない現状が、とりあえず日本の、あるいは世界の語学教育業界の困ったところかなあ・・・と最近は思っています。

散漫でごめんなさい。

投稿: アリーマ | 2013年12月31日 (火) 03時57分

>アリーマさん
コメントに気づきませんでした。すみません。
「つまり、まあ、なんというか、アレですなあ」は冗談交じりに書いたのですが、たしかにこれで押し通し、相手を説得できるとしたら凄腕ですね笑。
日本人に英語を教えていらっしゃるのですね。おっしゃるとおり、日本人にの英語は文法的に正確だし、わかりやすくていねいなので、その日本的なよさをつぶさず、ネイティブコンプレックスを抱えないようにできるといいですね。

投稿: 田中真知 | 2014年1月17日 (金) 12時13分

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