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取り返しのつかない物語ーー「かぐや姫の物語」

ハンナ・アーレントを見る数日前に高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を見た。「ハンナ・アーレント」が満席で入れず、せっかく都会?まで出てきたし、映画見るぞモードに入っていたので、かわりに探して入ったのがこれだった。なんの予備知識もなくみたのだが、いい作品だった。


あたりまえだけど、おなじジブリでも宮崎駿と高畑勲ではずいぶん雰囲気がちがう。宮崎駿はかつてどこかのインタビューで、自分は取り返しのつかないもの、やり直しのきかないものは描かない、といったことを述べていた気がするのだが、「かぐや姫」はその意味では、取り返しのつかない、やり直しのきかないことがテーマの物語だった。子どもも楽しめるようにつくってはあるけれど、これは大人のための物語だと思った。あの雅子さまが、これを見たらどう思うだろう、などとちらっと考えた。

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映画は原作の竹取物語に比較的忠実だが、副題(姫の犯した罪と罰)にもあるように、かぐや姫が地上にやってきたのは罰のためであったという設定が物語の鍵になっている。その意味がわかるのは、物語も終わり近くなってからだ。地上は生きることにまつわるさまざまな葛藤や不安に満ちている。そこには喜びだけでなく、苦悩や悲嘆もあれば、欲望や虚飾や不条理も渦巻いている。地上に生きるとは、こうした清濁ないまぜになった煩悩の海に生きることを、それでもあえて肯定することだ。


けれども、姫はこの地上の生の一部である不条理のなかに生きることにたいし、最終的に否といってしまう。だが、それは地上の生の喜ばしい側面にたいしても否を唱えることだった。それらはともに表裏一体で切り離せないものだからだ。このことがきっかけで姫は月へ帰還しなくてはならなくなる。このあたりの表現が曖昧で違和感もあったのだけど、ともあれ、ここにいたって、姫に与えられた罰とは、無数の業にまみれた地上へと転生させられたことそのものだったことがわかる。


姫を連れ戻しに月からの一行が地球にやってくるシーンは、竹取物語ではクライマックス場面のはずだ。一行をひきいているのは絵柄からするとお釈迦さんだ。そのことから月はあらゆる執着や葛藤、迷いや苦しみから解放された清浄な悟りの境地であることがわかる。けれども、雲にのって光につつまれて地球にやってくる月のひとたちの、なんと無表情で、退屈そうなことか。彼らはだれかを愛することもなければ、苦しんだり、悲しんだりすることもない、穏やかだけれど、おそろしく単調で、退屈な世界の住人を思わせる。


それは音楽の使い方にも表れている。月からのご一行がやってくるとき背景に流れるのは荘厳な雅楽でもなければ、天上を思わせる幻想的な調べでもない。それどころか笑っちゃうほどチープで軽い音楽だ。久石譲はどんな注文をうけてこの曲をつくったのだろう。それにたいして、地上で姫が奏でる筝の調べはこよなく美しい。それはいうまでもない。地上には、月の世界には存在しない執着や葛藤や悲しみや愛情、さまざまな煩悩や不条理が絶えることなく渦巻いているからだ。


しかし、そのことに姫が気づいたときには、もう遅すぎた。姫は月に帰る前にすべての地上での記憶を消される。もう取り返しがつかない。元には戻れない。やり直しもきかない。たぶん宮崎駿ならそういう描き方はしない。でも、高畑勲はそんな残酷な現実を淡々と描く。


けれども、ここは月ではない。悟りの境地など存在しない。どこまでいっても煩悩と虚飾と不条理にまみれた地上がひろがり、たのしい記憶もいやな記憶もついてまわる。こんな世界はいやだ、といっても月から迎えが来ることもない。それが絶望なのか救いなのか、なんともいえない。ただ、それゆえにこそ地上の音楽は、月の音楽よりきっと美しい。


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