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Dance Mediumの公演「帰ル」〜覚醒したまま見る夢

関東で大雪が降る前日、両国のシアターXで友人の舞踏家、長岡ゆりさんが主宰するDance Mediumの公演「帰ル」を見た。美しい作品だった。覚醒したまま自分の意識の奥底へと沈み込んで、そこにくりひろげられている夢を目の当たりにしているかのようだった。


長岡さんの舞踏については、以前、彼女のソロ公演について感想を書いたことがある。今回の作品は彼女が長くタッグを組んでいる正朔さんと共同で創作にあたったもので、2011年の舞踊批評家協会賞を受賞した作品のリニューアル版。重要なモチーフとなっているのは3.11である。とはいえ、3.11を舞踏で直接表現しているわけではない。

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構成もしっかりしていて、工夫や演出も凝っていて飽きさせない作品だった。それを支えているのは、身体表現という言葉の圧倒的な力だった。この作品に科白はない。この作品だけでなく舞踏には基本的に科白はない。けれども、それは言葉の不在を意味しない。それどころか、踊る者たちの身体にあふれだしてくる言葉の豊かさや繊細さに圧倒された。


われわれはふだん、口から発せられたり、文字に書かれたものだけを言葉だと思っている。だが、舞台を見ているうちに、それが錯覚にすぎないことに気づかされる。ふだんわれわれが使っている言葉とは、文化や文脈を共有する者同士の間で交換される情報のことである。それは本人を離れて記号として機能する。けれども、身体表現とは本人だけの言葉であると同時に、文化や文脈を超えてゆく普遍性をもつ。だが、われわれは書かれた言葉、話された言葉によって世界をとらえることが当たり前になっているがために、身体をとおして言葉を発したり、あるいは他者の身体の言葉を読んだりすることに、あまりに鈍くなっているのだと思う。


身体の言葉といっても、身体動作のひとつひとつが言葉に置きかえられるといった機械的対応ではない。たしかに、バレエのような西洋的な身体表現からは、それが書き言葉や話し言葉の身体への置き換えという印象を受けることがある。しかし、舞踏の方向性はそれとは逆だ。そこで表現されるのは書き言葉や話し言葉のような分節化された言語になる以前の、より繊細で、流動的・多義的な意味内容だ。

カラハリ砂漠のブッシュマンについて多くの本を書いているヴァン・デル・ポストは、ブッシュマンたちは言葉や物語や絵では表現できないことを踊りで表現してきたと述べているが、いってみれば、そういう表現だ。だからこそ、それは3.11という、言葉にならないできごとの表現にみごとなまでにふさわしかった。冒頭でもふれたことだが、いまだ言葉にならない断片的な思いや映像や感情のうごめく無意識の底へと、覚醒した意識のまま沈降していくような経験だった。


「舞踏は日本で産まれた優れた身体表現であるのに、実際は海外の方が興味を持たれ、活動も盛ん」と長岡さんは書いている。実際、彼女のワークショップの参加者は外国人が多く、今回の観客も外国人の姿が目だった。それはよくも悪くもロゴス、あるいは論理性のある言葉こそがリアルであるとする文化風土にたいして、ロゴスにおいて語りえないものを身体において表現しようとする舞踏に新鮮な可能性を見るからかもしれない。


「わかりにくいのではないか」「暗いのではないか」とか思い込んで、舞踏になかなか足を運ばない人もいるかとおもうが、舞踏はおもしろいです。ダンスみたいに「かっこいい」とか「かわいい」といったシンプルな言葉ではなかなか表現できないけれど、どんな人間の中にも存在している言葉にならない感情や思いや映像などを、こういうかたちで表現できるのかというのを体験するのは、きっと新鮮な驚きだと思う。



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