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2014年2月

秘密があばかれるとき

詩人で明治大学教授の中村和恵さんの「秘密の話、オーストラリア先住民から学ぶ〈知る〉ことの意味」というレクチャーをミッドタウンのd-laboというところで聞いたのだが、これがたいへん面白かった。中村さんは長年にわたってアボリジニ(オーストラリア先住民)のもとへ通い、そのアートや伝統を探っている方である。ドリームタイムとよばれる彼らの神話的伝統の多くは秘密とされている。その「秘密」とはどういうことか。知るとはどういうことか、という観点からの話だった。


中でも面白かったのは、アボリジニ文化の研究者のT・G・H・ストレロー(1908-1978)の話。中央砂漠の伝道所に赴任していたドイツ人宣教師の息子として生まれたストレローは、周囲数百キロ以内に白人は父と自分だけという環境で育ち、彼らの儀礼や言語について膨大な研究を行い、その成果を「Songs of Central Australia」(中央オーストラリアの歌)という800ページちかい大著にまとめた。この本は1971年に出版されたのだが、現在は絶版。アボリジニ文化の研究にとってはきわめて重要な内容が書かれているのだが、それでも再版されない。というのは、中村さんによると内容がきわめて「ヤバイ」のだという。


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どうして「ヤバイ」のか? それはアボリジニにとって秘密とされている儀礼や歌について詳細に書かれているからだという。その公開は彼らの文化の根幹を危機にさらすことであり、先住民の権利意識が高まっている現在では訴訟問題に発展する可能性もある。「秘密」にしておく、ということが、かれらの伝統にとってはきわめて重要なのだ。「秘密」にしておくとは、どういうことか。それは、その固有の価値を相対化されたり、利用されたりしないようにするためなのだろうか。


しかし、実際には秘密はあばかれていく。十分な研究費もなかったストレローはあるとき自分がこれまでに撮影した成人儀礼の写真をドイツの雑誌に掲載した。ところが、その写真が勝手にオーストラリアの雑誌にも掲載されることになり、さらにGEO誌にも転載された。血で染めた羽毛で体を飾った圧倒されるような写真の数々なのだが、本来、成人儀礼は秘密にされているものであり、これが公開されたことで騒ぎになった。


また、ストレローはまたアボリジニから買ったたくさんのチュリンガ(聖物)のコレクションをもっていた。チュリンガとは一般に石や木でできた彼らの神話にかかわる聖なる品といわれているが、中村さんの話だと、それは形のあるものだけではなく、歌や儀礼も含まれており、モノというより、むしろ「よりしろ」のようなものではないかという。そのチュリンガの膨大なコレクションは、ストレローの死後、彼の妻に相続された。しかし、それがまた問題を引き起こした。アボリジニの伝統では女がチュリンガを見ることは禁じられている。だからチュリンガを妻が相続するなど、アボリジニにとっては言語道断なことだった。


そのコレクションは現在アリススプリングスにある研究センターに所蔵されているそうだが、そこに行っても見ることはできない。むかし、チュリンガを研究しているひとに聞いたのだが、オーストラリアの博物館はチュリンガを所蔵しているものの、アボリジニ以外の人が見ることは禁じられている、ということだった。コレクションを人に見せるという目的で白人文化の中から生まれた博物館の中に、見せられないものが存在しているというのが面白いと中村さんがいっていたが、そのとおりだなあ。


ストレローはまた儀礼を記録した膨大な量の映画フィルムを残しているという。それらのフィルムは映像と音がべつべつに記録されているため、それを合わせてなくては見られない。だが、その言語を理解して音と映像を合わせられる人がいない。それをできるだけの言語能力と彼らの文化への深い理解をもっているひとがいないのだという。このためフィルムはライブラリーに死蔵されたままだそうだ。


そんなふうにアボリジニの神話的伝統は秘密にされてきたこともあって白人の幻想をかきたて、ニューエイジ思想の中で神秘化されて語られたりもしてきた。いまさら、先住民の伝統の中に現代西洋文明の行きづまりを超えるような知恵がある、などというナイーブなことは思わないが、彼らの目をとおして見えている世界を体験してみたいという気はする。それは4万年の長きにわたって彼らの身体と精神と社会を支えてきた世界の見方であって、わずか200年ほどの西洋近代合理主義の中でつちかわれた世界観とは比べものにならないスケールをもっている。ブルース・チャトウィンに「ソングライン」というオーストラリアの旅をめぐって書かれたすばらしい本があるが、彼もまたそんな衝動につきうごかされて、アボリジニの歌の道を旅したのではないか。


話がとぶが、以前、生粋マサイのだんなさんをもつ永松真紀さんから聞いた話だが、だんなさんを友だちの別荘のある上高地だったかにつれていったところ、彼がひとりで森を散歩したいといったという。初めて来た異国の土地で、似たような別荘がならんでいる中をひとりで歩いたら絶対道に迷うからやめたほうがいいと、その友人はいったそうだが、だいじょうぶだといってだんなさんはひとりで森に散歩に出かけ、2時間くらいしてぶじ帰ってきたという。どうして迷わないの?ときいた友人に対して、彼は、だって木は一本一本ちがうから、といったそうな。でも、かれが都会にくるとビルの見分けがつかないのだそうだ。


そのマサイのだんなさんに案内されて彼の村のあるケニアのサバンナをすこし歩いたことがあるが、かれは地面や木にのこされた痕跡から、そこに、いつ、どんな動物が来て、どんなことがくりひろげられたのかをたちどころにいいあてる。それはその文化の中で育った者ならあたりまえのことなのだが、そうした見方が風景だけでなく、世界観にまでひろがっている。われわれには、なにもないと思われる場所が、そうした目で見ると、意味にみちた豊饒な空間として立ちあらわれる。


話はもどるが、アボリジニが4万年にわたって伝えてきた、とほうもない伝統の深みと意味がほとんど理解されないままに失われてしまうのはやはりもったいない。秘密にされることによって保たれてきた価値や意味が、いま秘密にされることによって失われてしまいかねないというのも皮肉な話だ。かといって秘密はあばかれてしまうと、その本質はおうおうにして伝わらない。それは金銭のようなべつの価値に変わってしまうか、消費されて終わってしまいかねない。そんなジレンマを抱えたまま、ストレローの本やフイルムは眠りつづけている。


ほかにも、「アレンテ族には〈歌〉をあらわす語彙がない」とか、「歌は個人の所有物であってシェアできず、その感覚はいわばいまでいう知的財産権に近い」とか、「70年代に白人が彼らにカンバスとアクリル絵の具をつかって絵を描くことを教えたところ、いっせいにみなが描き始めた、それがいまのアボリジナルアート」といった話もおもしかった。アボリジニは白人との接触が遅かったため、いま生きている人たちの中にもまだ伝統的な神話的図案が肉化されていて、それをスラスラと表現できた、ということらしい。それにくらべると、ブッシュマンの岩壁画は南部アフリカにたくさんのこっているけれど、彼らは19世紀末にはもう絵を描かなくなってしまったので、その意味をいま彼ら自身の口から知ることはほとんど不可能になってしまっている。


あと「ウランが出るところは、たいていアボリジニの聖地。だから、鉱山会社の人たちはアボリジニの神話を知りたがる」といった話もへーと思った。「秘密の話」なのに、こんなに書いてしまっていいのだろうか。中村和恵さんにはぜひアボリジニとそのアートについての本を早く書いてほしいです。


ちなみに、絶版になっているというストレローの「Songs of Central Australia」だが、なにげなく調べてみたところ、たまたまヒットしたオーストラリアの古書サイトでは日本円にしてなんと65万円(!!!)という値がついていた。うひゃー!
(;´Θ`)

Sca


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Dance Mediumの公演「帰ル」〜覚醒したまま見る夢

関東で大雪が降る前日、両国のシアターXで友人の舞踏家、長岡ゆりさんが主宰するDance Mediumの公演「帰ル」を見た。美しい作品だった。覚醒したまま自分の意識の奥底へと沈み込んで、そこにくりひろげられている夢を目の当たりにしているかのようだった。


長岡さんの舞踏については、以前、彼女のソロ公演について感想を書いたことがある。今回の作品は彼女が長くタッグを組んでいる正朔さんと共同で創作にあたったもので、2011年の舞踊批評家協会賞を受賞した作品のリニューアル版。重要なモチーフとなっているのは3.11である。とはいえ、3.11を舞踏で直接表現しているわけではない。

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構成もしっかりしていて、工夫や演出も凝っていて飽きさせない作品だった。それを支えているのは、身体表現という言葉の圧倒的な力だった。この作品に科白はない。この作品だけでなく舞踏には基本的に科白はない。けれども、それは言葉の不在を意味しない。それどころか、踊る者たちの身体にあふれだしてくる言葉の豊かさや繊細さに圧倒された。


われわれはふだん、口から発せられたり、文字に書かれたものだけを言葉だと思っている。だが、舞台を見ているうちに、それが錯覚にすぎないことに気づかされる。ふだんわれわれが使っている言葉とは、文化や文脈を共有する者同士の間で交換される情報のことである。それは本人を離れて記号として機能する。けれども、身体表現とは本人だけの言葉であると同時に、文化や文脈を超えてゆく普遍性をもつ。だが、われわれは書かれた言葉、話された言葉によって世界をとらえることが当たり前になっているがために、身体をとおして言葉を発したり、あるいは他者の身体の言葉を読んだりすることに、あまりに鈍くなっているのだと思う。


身体の言葉といっても、身体動作のひとつひとつが言葉に置きかえられるといった機械的対応ではない。たしかに、バレエのような西洋的な身体表現からは、それが書き言葉や話し言葉の身体への置き換えという印象を受けることがある。しかし、舞踏の方向性はそれとは逆だ。そこで表現されるのは書き言葉や話し言葉のような分節化された言語になる以前の、より繊細で、流動的・多義的な意味内容だ。

カラハリ砂漠のブッシュマンについて多くの本を書いているヴァン・デル・ポストは、ブッシュマンたちは言葉や物語や絵では表現できないことを踊りで表現してきたと述べているが、いってみれば、そういう表現だ。だからこそ、それは3.11という、言葉にならないできごとの表現にみごとなまでにふさわしかった。冒頭でもふれたことだが、いまだ言葉にならない断片的な思いや映像や感情のうごめく無意識の底へと、覚醒した意識のまま沈降していくような経験だった。


「舞踏は日本で産まれた優れた身体表現であるのに、実際は海外の方が興味を持たれ、活動も盛ん」と長岡さんは書いている。実際、彼女のワークショップの参加者は外国人が多く、今回の観客も外国人の姿が目だった。それはよくも悪くもロゴス、あるいは論理性のある言葉こそがリアルであるとする文化風土にたいして、ロゴスにおいて語りえないものを身体において表現しようとする舞踏に新鮮な可能性を見るからかもしれない。


「わかりにくいのではないか」「暗いのではないか」とか思い込んで、舞踏になかなか足を運ばない人もいるかとおもうが、舞踏はおもしろいです。ダンスみたいに「かっこいい」とか「かわいい」といったシンプルな言葉ではなかなか表現できないけれど、どんな人間の中にも存在している言葉にならない感情や思いや映像などを、こういうかたちで表現できるのかというのを体験するのは、きっと新鮮な驚きだと思う。



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作曲者偽装の物語

作曲偽装の件、というより作曲者偽装の件というべきか。今回の佐村河内氏のゴーストライター事件は科学論文の剽窃や、データの改ざんとか、あるいはオレオレ詐欺といったこととは本質的にちがう。作曲者がちがっていても曲がかわるわけでもないし、パクリがあったわけでもない。それでもCDが回収されネット配信も禁止されてしまうのは行き過ぎの気もするのだが、それは結局、音楽そのものよりも、曲をめぐる物語のほうがマスコミや人びとの関心事だったということなのだろう。


音楽にしてもなんにしても、いまひとの興味をひくのは、対象それ自体より、むしろそれをとりまく物語やイメージのほうだ。だから感動商法が横行する。曲そのものの感動より、曲をめぐる物語から感動をひきだすほうがたやすい。中でも、いちばんわかりやすいのがヒューマンドキュメントだ。ハンデを乗り越えて大きな仕事をなしとげた的な物語は好まれる。そのことと作品の出来とは本来関係ないのだが、おうおうにしてその感動が作品に投影される。だから物語のうそがあばかれると作品の存在まで否定されてしまう。

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五木寛之に「海を見ていたジョニー」という短編がある。ベトナム戦争から帰還したジャズピアニスト、ジョニーの話だ。戦場で人を殺してしまったジョニーは、自分にはもういい演奏などできるはずがないといってピアノにふれようとしない。そんなことはない、ぜひ演奏を再開してほしいという親友の前で、ジョニーはピアノを弾く。それは鬼気迫る演奏で、友人はいままでで最高の演奏だったとジョニーに伝える。ところが、ジョニーは、もしきみがこれを本当にいい演奏だというのなら、オレにはもう音楽なんて信じられないといい、かれは結局、自殺してしまう。


学生のころ、この作品を気に入って、ベースを弾いていた友人に「これいいよ」と貸したことがある。しばらくして本を返しに来た友人に「どうだった?」と聞くと、「ひどい話だな。ジャズのことがぜんぜんわかっちゃいない。いい人間でなくちゃいい演奏ができないなんていったらチャーリー・パーカーやバド・パウエルはどうなるんだよ」といった。


いい音楽はいい人間から生まれる。音楽にかぎらず、スポーツやほかのジャンルでもそうだと思うが、すぐれた人間だからこそすぐれた作品や仕事が生み出される、すくなくともそうあるべきだ、そうあってほしいという願望が日本人の中には根強い。

いい作品と、それをつくった人間がむすびつけられることで物語が生まれる。それはベートーベンに代表されるような、苦難と試練を乗り越えた克己と努力の果てにこそ傑作が生み出される、といった物語だ。だから、成功した芸術家や作家が文化人や識者と見なされたり、偶像化されたりしていく。今回の件は、そうした物語への大衆の潜在的渇望を作曲者が積極的に利用し、マスコミや消費者もそれにのっかって起こった。その意味では、みなが共犯者なのかもしれない。

ジョニーの演奏が親友の心を動かしたのは、ジョニーが人を殺した自分について深く悩んでいたからだ。ひとを殺したことへの深い後悔や葛藤、その真摯な人間的な苦悩がかれの演奏にすごみを与えることになった。そのことに気づく前にジョニーは命を絶ってしまった。だから、この話は悲しく美しい。でも、それもまた物語だ。

作曲者偽装の当事者たちもまた、苦悶や葛藤の中で作品を世に出した。それもまた小心と不安にさいなまれたじつに人間的な葛藤であったはずだ。でも、そういう物語は歓迎されなかった。

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