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2014年5月

「希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話」のこと

世の中には前向きな言葉があふれている。「願えばかなう」「やればできる」「自分に自信をもて」「失敗を恐れるな」「自然体でいい」みたいなスローガンが本でもネットでも飛び交っている。それだけ現実の世の中が暗くて、重苦しく、自然体でいたらつけこまれ、失敗したらじつは終わりという世界であることの裏返しなのだろう。それはわかるが、だからこそ、そうしたポジティブな言葉の氾濫に白々とした空しさをおぼえてしまう。


そんなとき、といっても数年前だが、近所の本屋で頭木弘樹さんの『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社)という本を目にした。黒を基調とした暗い装丁にひかれて手にとったら、「将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。将来に向かってつまづくこと、これならできます。一番うまくできるのは倒れたままでいることです」という一節が飛び込んできた。カフカって、そういうひとだったのか? めっぽう暗いんだけど、暗さもここまでいくと笑うしかない。小説だけではわからないカフカの人物像が日記や対話や手紙の言葉からあざやかに浮かんできて、その場で立ったまま最後まで読み、しかも買ってしまった。

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カフカは後ろ向きだ。なにごとにもネガティブで、すぐに傷つく。そして、いつもあらゆることを心配している。健康についても能力についても、自分にかんするいっさいについて心配ばかりしている。そうしているうちに本当に健康を損ない、40歳で死んでしまうのだ。かわいそうなカフカ。でも、そんなに暗くて、後ろ向きなのに、カフカはそれを社会や他人のせいにはしない。世界はすばらしいかもしれないけれど、ぼくにとってだけはそうではない、ダメなのはぼくだけだ、というのがカフカだ。面倒くさいやつかもしれないが、いやなやつではない。それどころか、そんなカフカに魅せられ、彼を慕う人たちは少なからずいた。カフカはやさしいひとだったから。


前向きに生きられるなら、そのほうがおそらく人生は楽しいだろう。ときにはトラブルだって起きるだろうけど、失敗から学ぶことは多いし、生きる力だってつく。反対に後悔と取り越し苦労ばかりしていては、人生はつらくなるばかりだ。


たしかに、それはそうなんだけど、世の中には、最初からなにもいわれなくても、あたりまえに前向きに生きられる人と、自分で意識しないと前向きになれない人がいて、後者のタイプの人には、どうやったって前者のような前向きさは獲得できない。初めから前向きな人は「願えばかなう」とか「やればできる」系の言葉なんて、まったく必要としない。というか、たぶん意味がわからない。なぜなら、かなわなくたって、できなくたって、自信なんかなくたって、そういうひとは、そういうことと関係なく「やる」からだ。


逆に、自分で意識的に身につけようとした前向きさは、どこかぎこちなく、ぽっきりと折れるような弱さをはらんでいる。そういう人は、自分のやっていることをいちいち意味づけたり、自分で自分を励ましたりしないと動けない。その時点で、もうすでにナンチャッテの前向きだし、それをつづけていればストレスになる。そのストレスをも前向きにとらえなくてはと思うと、さらにストレスが増す。そんなスパイラルに陥ったら、生きる力なんて失われてしまう。


たとえ努力と苦役の末に前向きになったとしても、根っから前向きの人にはかなわない。そんなことするくらいなら、むしろネガティブでなにが悪い、と開き直った方がよほど前向きなのではないか。そう思うことが多かっただけに、カフカの底なしのネガティブぶりには、なにか気持ちよさすら感じる。希望があるふりをするより、絶望をつきつめたほうが、かえって気持ちがゆるみ、生きる力が湧いてくるという逆説。それが絶望名人カフカの教え?だ。


前置きが長くなってしまった。。。その「絶望名人カフカ」の編訳者の頭木弘樹さんが、このたび『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社)という本を出した。絶望しつづけて40で無名で死んでしまったカフカに、若くして名声をえて、なにをやってもうくまいき、生きていることをだれよりも楽しみ、70過ぎて10代の少女に熱烈な恋をして82まで生きたゲーテをぶつけたのだから、おもしろくないわけない。


まず、装丁がすごい。


こういう本なのだが・・・

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一見、上の白い部分がカバーで、下の黒いところが帯のように見える。

 

ところが・・・

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カバーをはずすと、帯に見えていたところは、じつはカバーを折り返した部分であって、そこを広げると・・・
 

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こうなっている! ゲーテ的な明るく楽しげな人びとの姿が白を背景に展開されている。


 
だが裏返すと・・・

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うなだれ、うちのめされ、頭を抱えるひとたちが。。。よく見ると木も枯れているし、地割れもできている。絶望と苦悩に満ちたカフカの世界だ。。。ポスターみたいに壁に貼って気分に応じてゲーテ・サイドにしたりカフカ・サイドにしたりしたら楽しそうだ。


 
タイトルどおり、この本にはカフカとゲーテという2人の文学者の言葉が取り上げられている。なにかと絶望し、なにごとにも後ろ向きだったカフカ。一方、いつも希望を語り、生きることを謳歌したゲーテ。2人の性格や生き方はあまりにも対照的だが、カフカは自分とあまりにもちがうタイプの作家であるゲーテの作品を終生愛読し、ヴァイマール時代のゲーテの家を訪れてさえいるという。

 


正反対に見えるカフカとゲーテだが、この本を読むと、ちがっているように見えながら、じつはひょっとして同じことをいっていたのではないか、と思わされる点もおおい。生きる姿勢や、ものの考え方のくせはちがっていても、現実に対する認識、めざしていた方向性は案外ちかかったのではないか。ゲーテの希望とカフカの絶望は対立する概念ではなく、じつのところ表裏一体なのかもしれない。希望を支えているのが絶望であり、絶望を支えているのが希望なのではないか。そんなことを思った。


ぼくもそうだが、カフカのことも、ゲーテのこともあまりよく知らないひとでも、この本はきっとおもしろく読める。というのも、たんにカフカとゲーテの言葉がのっているだけではなくて、そのあとに頭木さんによる、2人の言葉にまつわるエピソードの紹介や解説がされていて、それがとおりいっぺんの説明ではなくて、じつに気の利いたエッセイになっているからだ。


とくにカフカをめぐるエピソードはとてもいい。こんな話が紹介されている。あるとき、カフカは公園で人形をなくして泣いている少女に出会った。カフカはその少女に「お人形は、ちょっと旅行に出ただけだよ」と声をかけ、つぎの日からカフカは少女にあてて、人形が旅先から送ってくる手紙を書いて毎日少女に渡したという。手紙は三週間つづき、その間に、人形は旅先でさまざまな冒険をして、いろんな人と出会い、成長し、最後は遠い国で幸せな結婚をした、というお話になったという。なんて、やさしいカフカ!

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また自分に自信のなかったカフカは、最初の作品集の原稿を編集者に渡したとき、こういったという。「出版していただくよりも、原稿を送り返していただく方が、あなたにずっと感謝することになります」。そして、出版された本を知り合いの女性に贈ったとき、カフカが本に書いた献呈の言葉というのは、こういうものだった。「いちばんいいのは、いつもパタンと閉じておくことです」。なんて、小心者のカフカ!


それにたいしてゲーテはいつも自信に満ちている。ギリシア神話にミダスという王様が出てくるが、この王様が手で触れるものはすべて黄金になった。ゲーテは、このミダス王に自分をなぞらえて、「わたしの場合も似たようなものだが、もっと楽しい。わたしの手が触れれば、たちまち詩となる」と述べた。なんという傲慢なまでの自信! これにたいして、カフカの場合は、なんであろうと手が触れたものは、たちまち自分を傷つけるのだ。


これはこの本にはのっていなかったかもしれないが、あるときゲーテは「人生に当たりくじはわずかで、ほとんどは空くじです。空くじをひいたらどうします?」と聞かれて、「わたしが空くじをひくようなヘマをするとお考えですか」と答えた。カフカだったら・・・いわずもがなだろう。

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おそらく、ゲーテはなにを引いても空くじだと思わないのだ。それにたいして、カフカはなにを引いても、すべて空くじなのだ。どうして、これほどのちがいが出てしまうのか。思い出したのは、学生時代に聞いた辻邦生さんのゲーテをめぐる講演だった(のちに「ゲーテにおけるよろこびと日々」というエッセイとしてまとめられている)。
 

ゲーテは役人としての公務も、文学的創作も、科学研究にも等しく情熱をかたむけ、食べることも、おしゃれも、恋愛も、失恋も、生のすべてを楽しみ謳歌するような人生を送った。辻邦生さんは、そうしたゲーテの生に対する姿勢を、18世紀という時代を特徴づけている幸福の観念とむすびつけて考察している。


「18世紀には、何か価値ある仕事をして、それで初めて生きることが意味づけられる、というようなことはありませんでした。つまり19世紀以降に見られたように、外在化する無意味な日常生活のなかから、価値的な内在化された領域を切りぬき、そこに生きることではじめて意味充足を味わい、幸福を感じるという生き方はまだ生まれていなかったのです・・・」と辻さんは書いている。


その言い方をかりるならば、カフカの生きた20世紀初頭は、18世紀的な幸福の観念が完全に崩壊し、「外在化する無意味な日常生活のなかから、価値的な内在化された領域を切りぬ」くことでしか生の充足を得られなくなっていた時代だった。それがこの時代の多くの芸術家に分裂と不安をもたらしていた。中でもカフカはその不安を極度に敏感に感じていたひとりだったのではないか。ゲーテを尊敬しつつも、ゲーテ的な希望を語ることは時代錯誤であり、欺瞞でもあったと感じていたのかもしれない。

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カフカの描いた絵

 


話がそれるが、ゲーテとカフカをむすぶものとして、もうひとつ思い出したのはルドルフ・シュタイナーだ。カフカより20歳くらい年上だったシュタイナーは、当時、神秘思想家・人智学者としてヨーロッパ各地で精力的に講演を行い、多くの著作を発表していた。若い頃にゲーテの自然科学論文の校訂を行い、ゲーテ学者としても知られていた。そのシュタイナーの講演をカフカはプラハで聞き、シュタイナーその人にも個人的に面会して、質問もしている。カフカのシュタイナーにたいする印象は複雑で、どうとらえればいいのかわからないが、やはり自分には理解しがたいというかんじだったようだ。


シュタイナーがゲーテから学んだのは、自然とは唯物的・機械的な部品の集まりではなく、人間の知覚も含めてすべてがむすびついた有機的なものである、といった見方だった(ように思う)。そして18世紀的な世界観がすっかり崩壊した19世紀末以降、シュタイナーにとって芸術や科学や学問の目的は、すっかりつぎはぎになった世界のほころびを直して、ゲーテが見ていたような継ぎ目のない本来のありかたを再生させることだった(ように思う)。


そのシュタイナーにカフカが会いにいったのもまた、カフカの日記の記述からすると、生活や仕事や文学などの分裂を、どうにかしたいという気持ちだったのかな、という気もする。その分裂によって不幸になっている自分を、なんとかできないだろうか、といった質問をカフカはシュタイナーにぶつけている。でも、それにたいしてシュタイナーがなんと答えたかは書いていない。望んでいたような答えではなかったのかもしれない。


とりとめのない話になってしまったが、そんなわけでゲーテとカフカの対比というのは、いろんなテーマを含んでいて、あれこれ考えさせられることが多い。なんといっても、2人とも昔の作家なんだけど、ポジティブとネガティブという、いまなおひとを翻弄してやまない生きる姿勢について、いろいろためになることを教えられる。

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気分によって、右ページのゲーテ・パート(白地)だけ、あるいは左ページのカフカ・パート(黒地)だけを読んでもきっとおもしろい。カフカやゲーテの作品をこれから読もうという人にとっては、これほど楽しくて、深いガイドブックは、ほかにないだろう。本の紹介というか、感想というか、いずれにしても長くなりすぎてしまった。。。


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