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2014年7月

星の王子さま、あるいはリアリティのダンス

サン=テグジュペリが地中海に消えた日。今年は没後70周年にあたる。本国フランスでも「星の王子さま」関連の本があれこれ出ているようだ。


「星の王子さま」は自分にとって、いまだにとらえどころがない作品だ。サン=テグジュペリの本はどれも好きだけれど、「星の王子さま」がいちばんとらえどころがない。初めてこの本を読んだのは小学生三、四年生くらいだったが、そのときからいまにいたるまで、読むたびに印象が変わる。


子どものときは、王子さまの視点からこの物語を読んでいたのが、大人になるといつのまにか大人の飛行士の視点から読むようになり、そのうち無意識に「呑みすけ」や「点燈夫」の視点から読んでいたりもした。自分の年齢や、そのとき見ている世界などによって、この物語はまったくちがったものとしてあらわれる。

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この物語についてはおびただしい文章が書かれているし、いまでは多くの邦訳も存在する。その解釈もさまざまで、へーと思うものもあれば、深読みしすぎなんじゃないかと思うものもある。いずれにしても、多くの人にとってこの作品は、世に存在するさまざまな童話とは一線を画した特別な物語とされている。


でも、そのことによってこの物語が、けっして侵してはならない聖域に押し込められてしまっているようで窮屈に感じることもある。「星の王子さま」を読んで感動できなかったら人にあらず、みたいな空気も違和感がある。


そんな中、新鮮だったのは経済学者で東大東洋文化研究所教授の安冨歩さんが『ハラスメントは連鎖する』という本の中で展開していた論だった。この本は、世の人間関係の中に、しつけや教育という名のもとに蔓延しているハラスメントの構造を分析したものだが、この中で安冨さんは「星の王子さま」を「自殺に追い込まれるハラスメント被害者の物語」として取り上げている。「王子さまとバラの関係は、女性によるハラスメントの様相をみごとなまでに描き出している。また砂漠のキツネによるセカンド・ハラスメントの恐ろしさも息を呑むほどである」というのだ。

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ここから先は「星の王子さま」を読んだことがあるという前提で書く(読んでいない人は、この先は読まないほうがいいと思うが、それでも読むなら読んだあと忘れてください)。


バラにとってみれば王子はまことに御しやすい存在だった。バラは、ささいなことで王子を責めたて、良心の呵責をおこさせて、王子を精神的に支配し、世話を焼かせることに成功する。王子はついに耐えられなくなって、自分の家である星から旅立つのだが、このときバラは急にしおらしくなって,「あたくしバカでした」とか「お幸せになってね」という。安冨氏によれば、これが「最後で最強の攻撃」だったという。


王子は旅をしながらも、ずっとバラを見捨てたことへの罪悪感を抱えている。逃げ出すべきではなかった、自分は幼なすぎてバラのことが理解できなかった、そうやって王子は自分を責めつづける。旅に出たものの、心はバラのしかけた呪いから逃れられない。そこに拍車をかけるのがキツネである。キツネは王子に「飼いならす」(apprivoiser)という言葉を教える。その意味を王子に問われたキツネは「絆をつくる」(créer des liens)ということだと答える。


キツネに会ったとき、王子は「一輪の花が・・・ぼくを飼いならした」という。ところが、キツネは王子と別れるとき、この言い方を逆転させていると安冨さんは指摘している。キツネは王子に「きみは自分の飼いならしたものに永遠に責任がある。きみはきみのバラに責任がある」と告げるのである。飼いならされたのは王子のはずなのに、キツネは王子はがバラを飼いならした、だから責任はきみにある、といいかえているのだ。これには気づかなかった。しかも、王子はキツネの言葉を忘れないようにくりかえす。「ぼくはぼくのバラに責任がある」と。


これでバラのかけた呪(しゅ)は王子を完全に支配する。星を出ることを決心した王子の自由意志は、罪悪感にすっかりとって代わられ、そのあげく、王子はみずから死を選ぶ。それが故郷の惑星への帰還だったとしても結果は同じだと安冨さんはいう。DV被害者がいったんは加害者のもとを飛び出しながらも、結局罪悪感にさいなまれて、みずから加害者のもとへ戻ってしまうというケースは多い。この結末はそういうことだというのだ。

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「星の王子さま」をDV被害者の自滅になぞらえてしまう、というこの解釈は身もふたもないが、サン=テグジュペリと妻のコンスエロの複雑な関係を思うと、こういう解釈もありかなとは思うし、親子関係や恋愛でもありがちなパターンだ。コンスエロはわりと最近になって出た回想録の中で、自分があの物語の「バラ」のモデルであったとみずから述べている。サン=テグジュペリ自身もニューヨークで「星の王子さま」を書いていたときはコンスエロのもとと恋人宅を行ったり来たりしていて、精神的に引き裂かれていたことはまちがいない。


それが実際のサン=テグジュペリを死に追いやったとまでは安冨さんは書いていないけれど、「星の王子さま」を執筆していた晩年(といっても40代初めだが)のサン=テグジュペリは生きることを望んでいなかった、と周囲のひとたちは証言している。サン=テグジュペリは占領下にあったフランスを救うために、アメリカに働きかけ、そのあげくにはフランスの政治を連合国にゆだねようという極端な提案をして、フランス国民からも失笑を買っていた。


名声もあり、40歳を過ぎてなお出撃しようとする頑固な理想主義者のサン=テグジュペリを、まわりも扱いあぐねていたし、彼自身もそれを感じていた。だからこそ、よけいに死に急ぐような行為に出てしまったのかもしれない。ただ、そうした私生活は作品の背景事情ではあれ、作品そのものとは、別に考えるべきだろう。


サン=テグジュペリの多くの作品を翻訳している仏文学者の山崎庸一郎さんに以前、話をうかがったとき、本国フランスではサン=テグジュペリは思想家としてはたいして評価されていないとおっしゃっていた。彼の作品がフランスでいまだに人気なのは、その思想性ではなく、詩的文体の美しさのせいだという。彼の書く文章は、フランス語としてすばらしいのだという。


たしかに、思想性だけを抜き出せば、自己犠牲精神と責任感を称揚する頑固なモラリズムはあまりに保守的であり、今日の社会では時代錯誤にひびく。けれども、それが「人間の土地」のように豊かな美しいエピソードの中で語られると、だれにも真似のできない、みずみずしく、せつなく、それでいながら力強い詩と化す。「星の王子さま」もそうだし、「夜間飛行」や「ある人質への手紙」もそうだ。サン=テグジュペリの作品は、そうやって風のうなりや砂漠の広がりや星のまたたきとともに味わうものなのだ。意味を抽出したり、ばらばらにしたりしたら、その生命の大半は失われてしまう。

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個人的には、「星の王子さま」は飛行士の物語だという気がしている。飛行士が不時着した砂漠で、みずからの中に抱えた子ども、つまり孤独なまま置き去りにされた幼いころの自分自身に出会う話だ。飛行士は、その苦悩を見守り、耳を傾け、王子の目をとおして、いま自分が生きている「大人」の世界を見つめ、恋愛に苦労するみずからを見つめ、最後にその幼い自分の死を見とどける。


王子は死んだとしても、飛行士は、その死を最後までしっかり見とどけることで王子を内面に統合し、ひとりの大人として、これからも生きていく。王子の死がテーマなのではなく、大切な存在ときちんと別れて、大人として帰還する飛行士こそが主人公なのだとおもう(この物語は飛行士が王子と別れて6年後に書かれたということになっている)。王子は飛行士に出会い、彼に話を聞いてもらうことで、もはや孤独ではなくなった。それは飛行士も同じだ。だから、もう別れても大丈夫だ。ぼくにとって「星の王子さま」は、いまはそういう物語だ。また将来、変わってしまうかもしれないけれど。


そのことは、つい先日アレハンドロ・ホドロフスキーの新作である「リアリティのダンス」を見たときにも感じた。ホドロフスキーと「星の王子さま」なんて、とんでもない組み合わせのような気がするが、80歳を過ぎてからつくった異才の自伝的作品に、「星の王子さま」が重なって感じられたのは、そこに悲しみと孤独に暮れる幼い自分を見守る、やさしく寛大な視線が感じられたからかもしれない。「リアリティのダンス」もまた「別れ」の物語だった。ホドロフスキーが「星の王子さま」を映画化したら、どんなふうになるだろうなどと考えてしまった。見たいような、見たくないような。。。

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想像力をめぐる挿話ーー辻邦生さんの命日に

作家の辻邦生さんの命日。その前の日に墓参りへ。夏の光に透ける木々の葉が美しい。事実におしつぶされそうなとき、その外に出る力を与えてくれるのは言葉と想像力だ、と辻さんはずっといってきた。それだけ聞くと、ありきたりな言い方だが、そのひとつの例として辻さんが取り上げている話がとても印象に残っている。

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それはロマン・ガリというフランスの作家の『天の根』という小説に出てくる挿話だ。戦争中のドイツの収容所の話だ。そこではフランスの兵士たちが生きる気力を失って、自暴自棄になっている。ところが、あるとき、ひとりのフランス兵が提案する。ぼくたちのなかに、一人のかわいい女の子をつくろう、その子がぼくたちといっしょにいるということにしよう。それはいい、とみんなも同意して、収容所に女神のようにかわいい空想の女の子ができあがる。


兵士たちは、女の子の前では男らしくふるまおう努力する。彼女が着替えるときには、部屋の隅に毛布を捧げて、男たちの目から彼女を隠す。お昼休みには彼女のために花をつむ。だれかが下品な話をすると、淑女の前でそんな話はするなとだれかがたしなめ、それより彼女のために、おもしろい話をしようという。そういうふうにしているうちに、みんなの気持ちがだんだん浮き立ってきて、生き生きしてくる。


すると、収容所を監視していたドイツ兵たちが、フランス兵たちの様子がどうもおかしいと思う。きっと、なにか隠しているにちがいない。そう思って収容所の部屋の中ををすみずみまで調べる。もちろん、なにも見つからない。でも、どうも、空想の女の子がいるらしいということがわかる。そこで収容所長がやってきて、その女の子を引きわたせという。でも、フランス兵たちは、絶対に引き渡すものか、命にかけても彼女を守るという。ドイツ兵もなすすべがないーー。


話は変わるが、エジプトの砂漠の岩穴に暮らす修道士たちを訪ねたとき、この話を思い出した。なにもない砂漠のなかで、彼らが清廉な暮らしをつづけていられるのは、彼らが神さまがそこにいる、と感じているからなのだろう。神さまを喜ばせなくては、神さまにふさわしい人にならなくてはという思いが、空虚な砂漠に生きることを可能にしているのではないか。不信仰の徒にはそんなふうに思えてしまった。

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神さまがいるかいないかはわからない。でも、冒涜的な言い方だけれど、神さまを空想し、その神さまにふさわしい人にはなろうとすることで、人は自分を虚無や不条理の中で支えてきたのではないか。それが辻さんのいう想像力や言葉の力、ということなのではないか。一方で、その神さまの欲望を勝手にでっちあげ、他者を裁いてきたのも人間だ。想像力は人を閉ざされた現実の外側へ連れ出してくれる。でも、想像力がどこからか妄想となってしまうと、その妄想にからめとられて身動きが取れなくなってしまう。そんなことを思った辻さんの命日だった。


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