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想像力をめぐる挿話ーー辻邦生さんの命日に

作家の辻邦生さんの命日。その前の日に墓参りへ。夏の光に透ける木々の葉が美しい。事実におしつぶされそうなとき、その外に出る力を与えてくれるのは言葉と想像力だ、と辻さんはずっといってきた。それだけ聞くと、ありきたりな言い方だが、そのひとつの例として辻さんが取り上げている話がとても印象に残っている。

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それはロマン・ガリというフランスの作家の『天の根』という小説に出てくる挿話だ。戦争中のドイツの収容所の話だ。そこではフランスの兵士たちが生きる気力を失って、自暴自棄になっている。ところが、あるとき、ひとりのフランス兵が提案する。ぼくたちのなかに、一人のかわいい女の子をつくろう、その子がぼくたちといっしょにいるということにしよう。それはいい、とみんなも同意して、収容所に女神のようにかわいい空想の女の子ができあがる。


兵士たちは、女の子の前では男らしくふるまおう努力する。彼女が着替えるときには、部屋の隅に毛布を捧げて、男たちの目から彼女を隠す。お昼休みには彼女のために花をつむ。だれかが下品な話をすると、淑女の前でそんな話はするなとだれかがたしなめ、それより彼女のために、おもしろい話をしようという。そういうふうにしているうちに、みんなの気持ちがだんだん浮き立ってきて、生き生きしてくる。


すると、収容所を監視していたドイツ兵たちが、フランス兵たちの様子がどうもおかしいと思う。きっと、なにか隠しているにちがいない。そう思って収容所の部屋の中ををすみずみまで調べる。もちろん、なにも見つからない。でも、どうも、空想の女の子がいるらしいということがわかる。そこで収容所長がやってきて、その女の子を引きわたせという。でも、フランス兵たちは、絶対に引き渡すものか、命にかけても彼女を守るという。ドイツ兵もなすすべがないーー。


話は変わるが、エジプトの砂漠の岩穴に暮らす修道士たちを訪ねたとき、この話を思い出した。なにもない砂漠のなかで、彼らが清廉な暮らしをつづけていられるのは、彼らが神さまがそこにいる、と感じているからなのだろう。神さまを喜ばせなくては、神さまにふさわしい人にならなくてはという思いが、空虚な砂漠に生きることを可能にしているのではないか。不信仰の徒にはそんなふうに思えてしまった。

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神さまがいるかいないかはわからない。でも、冒涜的な言い方だけれど、神さまを空想し、その神さまにふさわしい人にはなろうとすることで、人は自分を虚無や不条理の中で支えてきたのではないか。それが辻さんのいう想像力や言葉の力、ということなのではないか。一方で、その神さまの欲望を勝手にでっちあげ、他者を裁いてきたのも人間だ。想像力は人を閉ざされた現実の外側へ連れ出してくれる。でも、想像力がどこからか妄想となってしまうと、その妄想にからめとられて身動きが取れなくなってしまう。そんなことを思った辻さんの命日だった。


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コメント

「冒涜的な言い方」以降の部分について、特に共感を持って読ませていただきました。
フランス兵の話は美しく耳に響くけれど、神の名の下の「正しい」戦争にはやるせない気持ちにさせられる。
両者はまったく違うものだと言いたくなるのは、ぼくもまた真知さんが言うところの不信仰の徒だからなのか。
拠り所とする何かを持ちたいという思いと、その何かが誰かを傷つけるのではないかという不安との板挟みの中で、ただ案外にそれは健全なことなんじゃないかと最近は図々しく思ったりもしています。
素敵なお話ありがとうございました。

投稿: スズキ | 2014年7月31日 (木) 07時53分

>スズキさま

コメント、ありがとうございます。
「拠り所とする何かを持ちたいという思いと、その何かが誰かを傷つけるのではないかという不安との板挟みの中で、ただ案外にそれは健全なことなんじゃないか」というのは、そのとおりだと思います。
自分の信じるものが、他者への強制や他者の否定のためにつかわれるとしたら、それはきっと妄想なのだと思います。ただ、おうおうにして、ひとは自分ではそのことに気づかないし、気づけないから、対話が必要なんだと思います。

投稿: 田中真知 | 2014年7月31日 (木) 23時27分

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