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ドゥミのこと

秋の海へ。途中で花を忘れたのに気づく。海の最寄りの駅の近くには花屋がなく、代わりにコンビニで酒を少し多めに買う。灰色の低い雲の下に、暗い海が広がっている。水鳥が一列になって水面すれすれに飛んでいく。昨年もこんな天気だった。


酒を海に流しながら、ずっと昔、まだ学校に上がる前に家で飼っていたドゥミのことを思い出した。ドゥミはぼくが二歳くらいのときに、うちにもらわれてきた雑種犬だ。毛並みが茶色く、鼻のまわりが黒かった。不精者だった父が、どうして犬を飼おうなどという気になったのか、いまとなっては知るすべもない。


古いアルバムをひっぱりだしてみたら、三輪車にまたがった自分がまだ子犬だったドゥミと遊んでいる写真があった。その数年後に撮られたらしい写真では、ドゥミはすっかり大きくなっていた。こんなふうに、小さかった自分のそばにはいつもドゥミがいたのだろう。

Photo


といっても、ドゥミについて憶えていることは、あまりない。おとなしい犬だった記憶はあるが、いっしょに遊んだり、餌をあげたり、散歩に行ったりしていたはずなのに、そういう光景がほとんど思い出せない。心に刻まれる思い出をつくるには、自分はまだ小さすぎたのかもしれない。そのくせ、ドゥミをつないでいた鎖の留め金が外れにくかったことはなんとなく憶えている。


そのころ暮らしていたのは平屋の貸家だった。縁側に面した庭には栗の木があって、秋にはとげとげの実が地面に散らばった。家屋のわりには広い庭だった気がするが、幼かったから広く感じていただけかもしれない。


ある朝のこと、母が雨戸をあけたら、縁側に知らない男の人が寝ていた。酔っ払いらしく、夜中に庭に入り込んできて、そのまま寝てしまったらしかった。ドゥミはまったく吠えなかった。ドゥミの鳴く声を思い出せない。


ドゥミという名前は少し発音しにくかった。変わった名だとは思ったけれど、とくに気にしなかった。名前の由来を知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。

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たしか小学3、4年生のころだったと思う。そのころは、もうドゥミはいなかったのだが、なにかのきっかけで母との会話の中でドゥミのことが話題になった。ドゥミというのは父がつけた名前だと母がいった。ほかの犬にくらべて頭があまりよくなくて半人(犬?)前だからフランス語で「半分」を意味するドゥミと名づけたのだという。


じつは、このこともふくめて、ドゥミについてのぼくの記憶は、このとき母から聞いた話がもとになっている。話をしたときにはまだドゥミのことはよく覚えていたのだと思う。でも、いまは、どこまでが自分自身の記憶で、どこからが母から聞いたことなのか、自分でもわからない。


いちど、ドゥミがいなくなったことがあった。幼稚園から帰ると、犬小屋にドゥミがいなかった。母も父もどこへ行ったかわからないといった。いつのまにかいなくなってしまった、そのうち帰ってくるだろうという。エサをやるときの金皿が犬小屋のそばにころがっていた。


でも、ドゥミは帰ってこなかった。一週間たっても、二週間たっても帰ってこなかった。ドゥミはもう帰ってこないんだと思った。さびしかったけれど、いつまでもさびしがっていると父の機嫌が悪くなるので、つとめてなんでもないようにふるまっていた。でも毎日、朝起きるとドゥミが帰っているんじゃないかと思って、まっさきに窓を開けて庭の犬小屋を見た。


ドゥミがいなくなって、ひと月ほどたったころだった。ある日、ひょっこりドゥミが戻ってきた。母の話だと、ぼくはドゥミの首を抱いて、いつまでも離れなかったそうだ。ドゥミはすっかりやせこけて、毛もすっかり汚れて、ボロ布のような状態だったそうだ。


母との会話の中で、あのときドゥミはどこへ行っていたのかな、よく帰ってきたくれたよねとぼくはいった。ところが、そのとき母はドゥミがいなくなった本当の理由を教えてくれた。じつは、あのとき、しばらくしたら引っ越すことが決まっていた。そこでは犬が飼えないので、父がドゥミを遠くまで連れていって捨ててきたのだという。


電車で連れていったのか、タクシーとかべつの手段で連れていったのかはわからないが、父はずいぶん遠いところの川べりでドゥミを放してきたのだという。そして、ぼくにはドゥミがいなくなってしまったと告げたのだ。


でも、ドゥミは戻ってきた。捨てられた先から、一ヵ月かけて、ぼろぼろにやせこけて戻ってきた。ものもろくに食べずに、いろんなところを彷徨って、やっとうちを探しあてたのだろう。そのことを初めて知って泣かずにはいられなかった。そんなけなげで聡明な犬をドゥミ(半分)などと名づけていたとはーー。


でも、そのあとドゥミはもういちどいなくなってしまった。たぶん、戻ってきてからそんなにたってはいなかったと思う。ドゥミはまた戻ってくるだろうと思っていたけれど、その前に引っ越す日がやってきてしまった。


ぼくはドゥミがまた戻ってきたとき、ぼくたちがいないとかわいそうだ、といっていたそうだ。でも、そんなことをいっても、どうしようもないこともわかっていた。


母は、もうひとつ本当のことを教えてくれた。それはつらい話だった。ドゥミが二度目にいなくなったのは、父がドゥミを保健所にひきとってもらったからだというのだ。そのときまで、ぼくはドゥミがどこかで生きているにちがいないと疑わなかった。でも、そうではなかった。ドゥミはもうこの世にいないのだ。


たぶん、ぼくはそのあとずいぶん泣いたのだと思う。父への怒りはなかった。ドゥミが哀れでしかたないのと、自分がなにも知らずにいたこと、なにもできなかったことが情けなくてしかたなかった。たとえ知っていたとしても、幼稚園児だった自分にはなにもできなかっただろう。真実を教えてくれた母には感謝した。


父の命日にドゥミのことを思い出したのは初めてだった。だから、酒を海に流したとき、半分はドゥミを捨てた父のために祈り、そして半分はドゥミのために祈った。

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