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2015年7月

辻邦生さんの墓参り、ミシマ、ヒッチハイク

午後、命日に一日遅れで作家の辻邦生さんの墓参りへ。にわか雨のあとの茹で上がりそうな湿気のなかを、蝉の鳴き声がすきまなく満たしている。コンゴの本ができた報告のつもりだったが、肝心の本を忘れた。

昔、ザイール河下りの写真を辻さんに送ったら、あとでもらった手紙に「あの写真は長いことわが家に飾ってありました。まるで青春のシンボルのように美しかったから」と書かれていた。青春はとうに過ぎ、いまや自分は初めて辻さんに会った頃の、辻さんの年に近づいている。

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墓参りを終えて木陰の道を歩いていたら、小柄な若い男の子が近づいてきた。黒髪のヨーロッパ系の外国人で、手にしたノートを無言で示す。墓の場所を示す区画と番地と番号などが書かれている。

「この番地の墓へ行きたいの?」と聞くと「イエス、ミシマ」という。

「えっ、三島由紀夫の墓?」

「イエス、ユキオ・ミシマ」

 ここに三島由紀夫の墓があるとは知らなかった。

「わかった。いっしょに探そう」

 青年は見るからに繊細そうで、自分からはほとんど口をきかなかった。

「ミシマの作品ではなにが好きなの?」

「ゴールデン・テンプル・・・」

「ゴールデン・テンプル? ああ『金閣寺』ね」

 霊園は広くて、なかなか見つからない。

「きみは日本に住んでいるの?」

「ノー、サマーホリデーで来た」

「へえ、それでわざわざミシマの墓に。よほど好きなんだね」

「・・・」

「あ、そういえばミシマは筆名で、たしか本名はヒラオカだったはずだ」

「イエス、キミタケ・ヒラオカ・・・」

「よく知ってるね(笑)」

 まもなくヒラオカ家の墓所が見つかり、墓碑に「平岡公威、筆名・三島由紀夫」の名前があった。

「ここだよ、まちがいない」

「サンキュー・ベリーマッチ」

墓所にじっと立ちつくす青年を残して、その場を去る。どこから来たのだろう。ヨーロッパ系だろうが、英語のネイティブではなさそうだった。聞いておけばよかった。

帰りは夕方の渋滞にかかってしまい、甲州街道がのろのろで、環八に入ってもちっとも流れない。荻窪にさしかかったあたりで信号待ちをしていたとき、助手席の窓の外側で若い男性が紙を示している。今日はよく紙を見せられるなあと思ってみたら、「ヒッチハイク」と書いてある。いまどきヒッチハイク?

いぶかりながらも窓を開けると「北へ行きたいのです。どこまででもいいです」という。悪い人には見えなかったので、○○市までしか行かないけど、それでよければといって乗せることにする。

「助かります。今日は大宮の友だちの家までいくのが目標なんです。朝、川崎から出発して6台乗り継いでここまで来ました。日が暮れるとヒッチハイクはできないので、ありがたいです」

「いまどきヒッチハイクしても、停まってくれないんじゃないの?」

「そうでもないです。親切な方、多いですよ。・・・私、いまは働いているのですが、学生のときはヒッチハイクで日本一周しましたから。夏休みがとれたので当時のヒッチハイク友だちのところを訪ねようと思ったんです。でも、どうせ行くならヒッチハイクで行こうと思って・・・」

「へー」

道々、青年のヒッチハイク話を聞きながら行く。青年は話がうまかった。震災後の東北をヒッチハイクしたときは、津波で命からがら助かったひとのクルマに乗せてもらって、その人から聞いたという話をしてくれたりした。それを聞きながら、ヒッチハイカーは話題豊富じゃないとだめだろうなと思った。ヒッチしたクルマで黙ったままだったり、寝てしまったりというわけにはいかないだろうし、おのずと話のテクニックも覚えていくのかもしれない。タダで乗せてもらうには、それなりの気遣いも必要なのだ。青年を○○市の外れの大きな交差点まで連れていって、そこで下ろす。

話し上手な青年はぶじ大宮に着けただろうか。そして、ミシマファンのシャイな外国人青年はミシマの墓所でなにを想ったのだろう。おそらく二度と会うことはないであろう二人の見知らぬ若者は、かつて辻さんが見てくれていた若いころの自分の姿に重なるのかもしれない。そんなことを想った墓参りの午後だった。


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なぜアフリカの紛争が長期化するのか? ピエール・ペアン氏の話

6月末に立教大学で「なぜアフリカの紛争が長期化するのか? 大国の役割から考える」という国際シンポジウムがあった。その中でフランスの調査ジャーナリスト(そういう職種があるのか。。)のピエール・ペアン(Pierre Péan)氏の基調講演がたいへん刺激的だった。


講演の主要なテーマは1994年にルワンダで起きた100万ちかい人びとが犠牲となった大虐殺、そしてその後コンゴで起きたさらに大きな規模の大量殺戮の背景と真相をめぐるものだった。これらの紛争にはおびただしい組織や勢力や人物がからんでいて、きちんと理解しようとすると、とんでもなくややこしくなってしまうので、ここでは省略するが、なんといっても面白かったのは、なかなか意識の上では結びつきにくい中東・イスラエル情勢と、ルワンダやコンゴ、ウガンダなどアフリカ大湖地方の紛争が密接に関係し合っていることを指摘していた点だ。

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ペアン氏によれば、第2次大戦後、エジプトのナセル大統領がアラブ民族主義による覇権をめざしたとき、アフリカの指導者の多くは、ナセルを敵と見なしていた。そこでイスラエルはナセルに対抗するために、ほとんどのアフリカの国々と関係を結ぶようになる。ザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツをいちばんサポートしていたのもイスラエルだし、南アとも同盟を結ぶ。


そのイスラエルが、もっとも警戒していたのがスーダンだった。とくに89年にバシール政権が生まれると、スーダンはビン・ラディンをはじめ過激派たちを保護して、イスラーム主義の牙城になっていく。これに危機感を抱いたイスラエルとアメリカは9.11以降、政策を一致させて、スーダンの不安定化を図っていく。ウガンダと手を組んで、スーダン南部の反政府勢力を支援するなどして、ハルツームを包囲するように、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、スーダン南部とアンチ・イスラーム戦線をつくっていく。さらにスーダン西部のダルフールにも火種をもたらし、ハルツームの弱体化を図っていく。同時に、イスラエルは天然資源の豊かなコンゴ、武器輸出国の南アとも強い同盟関係を維持しつづける。


かつては、こうしたイスラエル・アメリカの尖兵を務めていたのがザイールのモブツ大統領だったが(モブツはCIAによってつくられた)、モブツ亡きあとは、ウガンダのムセベニ大統領と、ルワンダのカガメ大統領がその役割を担っている。それがルワンダの大量殺戮やコンゴ紛争などにまでつながっている。ただし、実際にはバシールの暗殺計画が頓挫したり、アンチ・イスラーム戦線が分裂したり、ダルフール紛争が泥沼になったり、南スーダンが独立したりして思い通りにはならず、それが結果的にジェノサイドを招いてしまった。


いずれにしても、ベルリンの壁の崩壊以降、アフリカは表向きのことだけではわからなくなっている。今日のアフリカの長きにわたる紛争はイスラエルの治安を鍵として理解しなくてはならない。イスラエルのスーダンのバシール政権に対する「秘密の戦争」というものを理解しないとアフリカの紛争はわからないとペアンはいう。(かなり端折ったが、だいたいそんなかんじのことをいっていた)。


もうひとつ、ペアン氏はアフリカの紛争では人権NGOが果たしている役割が無視できないとも指摘した。89年頃からルワンダ愛国戦線(ツチ主導の現カガメ政権の母体)では人権擁護団体を使って潜在的な被害者は自分たちであるという伏線をつくったり、あるいは94年にはルワンダにあるスウェーデンのNGOがスーダンを砲撃するための武器の輸送を行っていたり、ダルフール紛争にはユダヤ人擁護団体がかかわっていたりというふうに欧米の人権活動団体のNGOやNPOの活動が紛争の片棒を担いでいるケースが散見されるという。


また、ペアン氏によると、フランスでこのようなシンポジウムを開くことはほとんど不可能だという。話をしていても聴衆が騒ぎだして、つづけられなくなったり、ベルリンのシンポジウムに参加する予定だったのだが、圧力がかかって結局、参加できなかったこともあるともいった。中田考さんもいっていたが、カリフ制をめぐるオープンな議論がアラブ諸国やヨーロッパではまず不可能だというのと事情は似ている。日本でそれが可能なのは喜ぶべきことなのか、それともみなたいして関心がないということのあらわれなのか、たぶん両方があるのだろう。

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あらかじめ示し合わせたわけでもないのに、会場にコンゴ河下りパートナーのシンゴ君と、ザイール河下り仲間の尾崎さんも来ていた。こういう場で顔を合わせるとは。。。シンポジウムを企画された元UNHCRでルワンダやコンゴに駐在し、いま立教で教えておられる米川正子さんに「ペアンさんの話、とてもおもしろかったです」といったら、「本人にいってあげて」といわれて、ペアン氏に面白かったとあいさつした。77歳とのことだが、とてもそうは見えない。年とっておやじになったロックスターのような風貌で、講演の最中、演台に片足を上げて、波止場の男みたいな格好で話をするのも印象的だった。アフリカや湾岸やコソボなどの紛争についてフランス語で30冊以上の著書を出しているそうだが、邦訳どころか英訳もないそうで、だれか訳してくれないかな。

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