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脅威と恐怖

少し前になるが、7月の下旬に築地本願寺で伊勢崎賢治さんや池内恵さんがパネリストとして参加した「宗教と平和」というシンポジウムがあった。この二人を呼んで、本来宗教は平和をめざすものですなんていう、あたりさわりのない結論になるわけないよなあと思いつつ聞きにいった。


外大教授の伊勢崎さんは、国連職員として東チモールやシエラレオネなどの紛争地域で武装解除や処理にあたってきた方だが、この日の話は、こういう時期だということもあって安保法案についてだった。すでに本人がいろんなところで語ったり書いたりしていることだが、伊勢崎さん自身は安保法案は阻止せよという立場。ただし、それはこの法案が「戦争法案」だからではなく、国連PKO活動において自衛隊がいまよりも拡大された業務を行う場合、その責任が国家の中で曖昧になってしまう可能性が高いことを、反対理由の一つにあげる。

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いま自衛隊は南スーダンにいる。伊勢崎さんによれば、今後そういうところに自衛隊を送り込んで後方支援にとどまらない活動を行う場合、当然、軍事組織としての失敗も起こりうる(たとえば過って民間人を殺してしまうといったなど)という。その場合、軍隊であれば、武力行使に対して責任をとる主体は国家であり、軍隊の活動を裁くための特別な法律である軍法もある。


しかし、いまの自衛隊は軍隊ではなく警察予備隊。その状態で紛争地域でなにかの失敗をした場合、軍法のない日本では、それを刑法(殺人罪とか)で個人の責任として裁くことになる。これは大きな矛盾。そういう矛盾の中に自衛隊員を送り込むことは、彼らを教育している身として容認できない。自分としては憲法を改正してから送るべき、というのが伊勢崎さんの主張。


憲法改正して自衛隊を軍隊にして海外に派遣すべきという伊勢崎さんの主張には、護憲派からの強い反発があるが、その是非はさておいて興味深かったのは、グローバライゼーションにともなうテロリズムの広がりや、それに対処する国連やアメリカや中国の戦略の変化といったこと。


たとえば、国連の役割は1994年のルワンダ内戦を境に大きく変わった。それまで国連が紛争に介入するケースは、紛争当事者たちが疲れはてて「もう助けてくれよ」といっているときだった。国連はそこに中立の立場で入って両者の頭を冷やさせ、停戦監視をして平和にもっていくのがパターンだった。


しかし、ルワンダではそうはいかなった。国連がいたにもかかわらず殺し合いがはじまり、それを止めれば紛争の当事者になりかねなかった。そのことを怖れて国連は介入を避けた。以来、国連の中心的な仕事は停戦監視ではなく「住民の保護」になっている、と伊勢崎さんはいう。それはルワンダ以降、グローバライゼーションによる構造的変化もあって紛争地の危険度が増していることもあるのだろう。そうした変化した環境の中で、たとえば、国家が住民を痛めつけているとき、国連は中立性をかなぐりすてて武器を行使して住民の保護をすることもありうるという。そのとき自衛隊が武力行使において失敗した場合、どうしたらいいかということが曖昧なままなのが大きな問題だというのだ。


また、アメリカについては、イラク戦争以後、アメリカは対テロ戦略にあたって武力主体のアプローチを転換し、紛争の当時国を安定させて、テロリストに対する政治の勝利をめざすという方向をめざしてきた。しかし、結局いまだにその方法が成功していない。イラクもそうだし、アフガニスタンとの戦いにおいてもアメリカは軍事的に敗北し、かえって事をこじれてしまっているのが現実。伊勢崎さんは、このアメリカがどうしてもうまくできずにいる役割を、これから担っていくのが中国だという。


アベ政権は中国を「脅威」と見なしているが、伊勢崎さん自身は中国が日本を侵略することはないときっぱりという。理由は、中国が国連の常任理事国であるから。国連とは侵略者をださないための統治システムであり、国際法においてもっとも威力を発揮するのが武力行使に関することだからだという。その根幹を支えているのが常任理事国であり、その原則を侵すことは立場上、できないという。


武力行使がゆるされるのは個別的自衛権や集団的自衛権を発動させる場合なので、中国が武力行使を行うとしたら個別的自衛権や集団的自衛権を発動させるきっかけを、こちらがつくってしまう場合である(たとえば、武装した漁民にたいして自衛隊が発砲するとか、日本共産党が中国に助けを求める等々)。つまり、中国が集団的あるいは個別的自衛権を発動せざるをえないような状況を、こちらがつくらないかぎり、中国が明らかに侵略とされる行為に乗り出すことはない、という。逆にいえば、中国が戦略的にこちらを挑発して、そうした状況をつくらせることはありうるわけだ。


「解放が必要なところには、もとから構造的な暴力がある」と伊勢崎さんはいう。たとえば、アルカイダは突然生まれるのではない。植民地支配がそうであったように、アルカイダが出てくる前から構造的な暴力がそこに存在し、そのうっせきした不満の受け皿がアルカイダになる。そうならないためには、もとからある構造的な暴力をなくす、つまり、国の内政を安定させることがだいじになる。


ここから先は個人的な感想だが、実際には構造的な暴力はなくなるどころか、日々再生産され、そこで生まれたアルカイダ的なものは恐怖され、その恐怖は為政者やメディアによって増幅され、あたかもそれが正義の国に突如として出現した悪の権化であるかのように喧伝される。そういう構造が、いまや世界中に広がっているし、日本も例外ではない。「人びとはつねに攻撃されるだろうと思うからこそ、つねに互いに攻撃し合っている・・・この恐怖こそが・・・不信感と憎悪、妬み、悪意、おどろくべき無慈悲さを生み出す」とバートランド・ラッセルは100年くらい前に発表したエッセイの中で書いている。


前に書いたが、人はわからないものを恐怖し、たたきつぶそうとする。逆にいえば、たたきつぶしたいものがあるならば、それをわからないものに仕立て上げて恐怖をあおればいい。だから人間は恐怖を巧みに利用することで、それを支配の原理にしてきた。恐怖ほど実効性の高い支配原理はないからだ。国家であれ、学校であれ、家庭であれ、会社であれ、教団であれ、程度の差はあれ、およそほとんどの集団を陰で支配しているのは恐怖だ。


だが、当然のことながら恐怖とは主観的なものであり、とどのつまりは幻である。しかも「恐怖」は「脅威」とはちがう。「脅威」は、もっと客観的なものだ。たとえば、中国は「脅威」かもしれないが、それを脅威ととらえることと、そこに恐怖を感じることは別のことだ。脅威であるという認識は大切だが、脅威のまわりに実体のない恐怖をあおりたてて、そこにある脅威を途方もない怪物に仕立て上げてしまうのは、おかどちがいだ。いまの安保法案をめぐる議論についての個人的な違和感は、脅威についての議論が、いつしか恐怖の増幅へとすりかわってしまっているせいだと思う。


話がまとまらないが、もうひとりのパネリストの池内さんの話もおもしろかったのだが、そちらのほうはまたこんど。。。「宗教と平和」というテーマなのに、やっぱりちっとも平和な話ではなくて、最後にまとめの挨拶をした浄土真宗の坊さんが嘆いていた。最後に参加者みんなで南無阿弥陀仏を唱えましょうといわれる。主催が築地本願寺だからしかたないが、ムスリマらしい人も数人いるなか、みんなで南無阿弥陀仏というのも、なんだかなあ。

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