« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月

『それでも僕は帰る ~シリア 若者たちが求め続けたふるさと~』を見た

ひとはなぜ写真を撮るのだろう。旅に出たとき、友だちと会ったとき、興味を引く風景に出会ったとき、多くの人が当たり前のように携帯やカメラのシャッターを押す。どうしてなのか。


むかしアフリカの田舎で「写真を撮ってどうするんだ?」と聞かれた。しばし答えにつまり、苦しまぎれに、家族や友人に見せるのさ、ここのことを教えてあげるんだ、といった。相手はいぶかしそうに、売ってお金にするんだろうといった。


ジャーナリストはよく、だれかがこの現実を伝えなくてはならない、だから写真を撮る、という。うそではないだろう。彼らにとって写真はお金を得る手段ではあるけれど、その根底に伝えなくては、という思いがあるのはほんとうだろう。


けれども、先日『それでも僕は帰る ~シリア 若者たちが求め続けたふるさと~』(2014)というドキュメンタリー映画を観て、ひょっとしたら、伝えたいという思いよりも、もっと根本的なことがあるのではないかと思った。シリア紛争そのものについてではなく、別の観点から感じたことを書く。

Omote300x418

このドキュメンタリーは、アラブの春がシリアに波及した2011年の春、アサド政権に対して立ち上がった若者たちが2年以上にわたって自分たちを撮りつづけたドキュメンタリーだ。アラブの春の熱狂が去ったあと、シリアがどんな道をたどったかを見ていれば想像がつくように、映画の内容は重く、つらい。


若者たちーーその中心はシリアのユース・サッカー代表チームで活躍していたゴールキーパーのバセットという当時19歳の青年ーーは最初は自分たちの勝利を信じて疑わなかった。チュニジアやエジプトがそうだったように、シリアの若者たちも独裁政権を、非暴力的なデモによって倒せるにちがいないと信じていた。そんな仲間たちの様子を、友人のカメラマンがビデオで記録する。それは本来であれば、民主化を求める若者たちが独裁政権を倒して自由が勝利するまでを記録した幸福な青春のドキュメンタリーになるはずだった。

Homsstill2copy880x4951700x393


しかし、ことはシナリオ通りには運ばなかった。政府軍は民主化を求める市民に対して容赦のない武力攻撃を加える。多数の犠牲者が出て、彼らの住むホムスの町は廃墟のようになっていく。にもかかわらず市民が虐殺されたこの街に、国連が送り込んだ調査チームはわずか6人。しかも、彼らは30分しか滞在しない。その間だけは政府軍の砲撃もやんでいる。視察チームが去った後、ふたたび攻撃が再開される。


冷酷な現実をつきつけられた彼らは平和主義に見切りをつける。反アサドの支援者から送られた銃を手にして、政府軍との武力闘争へと方向を転換する。しかし、政府軍の激しい攻撃によって、バセットの仲間たちは一人また一人と殺されていく。その様子をバセットの盟友のカメラマンのオサマが淡々と撮影し続けていく。

Homsstill8880x495700x393


隠れ家のソファで疲れて横たわる仲間を撮影しながら、オサマが「おまえが死んだら、この写真を追悼集の表紙に使ってやろう。そして『ろくでなしの戦士だった』と書いてやるよ」とジョークをいって笑うシーンがあった。幸福なドキュメンタリーになるはずだった記録は、いまやいつ死ぬかもわからない自分たちの遺影の撮影になっていく。


もちろん、それは伝えるための記録でもある。けれども、ひょっとしたら撮影データそのものが破壊されてしまうことだってある。実際、表に出ているよりも、はるかに多くの写真や記録がだれにも見られることなく破壊されたり、失われたりしたことだろう。


でも、たとえそうであっても、彼らは写真を撮りつづけるのだと思う。なぜなら、死の危険にさらされてなおカメラを回し続けるのは、他人に伝えるためというより、むしろ、自分たちのためなのではないかという気がしたからだ。


個人的感想にすぎないが、いつ死ぬかわからないような、すれすれの生の中にあってカメラを回すのは、自分たちが生きていることを確認するためなのではないか。不本意な偶然の生を強いられた者たちが、カメラを回すことによって、その生を、自分だけの、かけがえのない経験として、尊厳のある生へと変える。うまくいえないが、どんな状況になろうとカメラを回しつづけるオサマと、撮影されるバセットたちを見て、そんなことを感じた。この映画はとてもつらく、重い映画なのだけれど、見終わったあと、一条の救いの光のようなものを感じたのは、そのせいだと思う。


| | コメント (0)
|

国際化とはよそ行きになること? ーー東京メトロの江藤淳

夜、地下鉄に乗ったら目の前に塾の広告があり、そこに中学の国語の入試問題がのっていた。その問題文のエッセイを、なにげなく読んでいたのだが、うーんという気持ちになった。


エッセイは、「私」(筆者)は部屋が散らかっていたり、だらしのないものが嫌いだというところからはじまる。食べ物屋でもよく片づいたすし屋や鉄板焼き屋が好きで、そういう店の料理人の整頓の手順などにはほれぼれするという。


ふーん、と思って読み進めていくと、筆者は、すし屋がよく片づいているのは「他人の前でやってみせる要素のある商売で、いつもよそ行きのようなところがある」からだという。まあ、そうともいえなくもないかな、と思ってさらに読んでいくと、こう書いてある。


「だらしのないもの、散らかりっぱなしのものというものには、どこかよそに出会うのを拒否しているようなところがあって・・・」


んっ? だらしのないものが、よそに出会うのを拒否しているって、論理が飛躍していやしないか。さらにその先には、こんなことが書いてある。


「たとえばヒッピィなどという風俗は、その拒否を全身であらわしているのだと考えられる」


なんで、いきなりヒッピー、いや「ヒッピィ」の話になるのだ。すし屋が片づいていることの対立項が「ヒッピィ」なのか。ずいぶん強引というか、はっきりいって破綻した対比だ。


いったい、だれが書いたのだと思って文末の出典を見ると、江藤淳「夜の紅茶」より、とある。戦後を代表する文芸評論家の江藤淳のエッセイか。だとしたら、書かれたのは相当前だなあと思ってみると、そこに注として「ヒッピィ・・・社会一般の考えに反発し、日常的でない行動をとった若者たち。長髪ときばつな服装が特徴」と説明がある。これは出題者がつけたのか。かなりテキトーな解説だ。

Img_8829_2

で、そのあとこんどはいきなりオフィスの話になって、日本のオフィスは雑然としているのに対して、アメリカのオフィスは「よそ行きにツルリとしている」という。ツルリとしたオフィスというのが、わかったようでわからない。そして「これから日本のオフィスも次第にアメリカのオフィスに似てくるであろう」とある。


アメリカのオフィスがツルリとしているとすれば、それはたんに面積が広いからではないか。広くないオフィスだとアメリカだって、ちっとも「よそ行き」ではないし「ツルリ」ともしていない。このエッセイが書かれてから40年くらいたってるが、日本のオフィスはツルリとなったのだろうか?


そして結論だが、「国際化とはおたがいによそ行きになること」だという。唐突に話が国際化、というか、これはたんにアメリカ化だと思うが、そのアメリカについても「ツルリとしたオフィス」という以上の説明がされていないので、やはり唐突な感はぬぐえない。さらによほど恨みでもあるのか「ヒッピィ」がまた、やり玉に上げられ、「ヒッピィの例からもわかるように、よそに出会うことを拒否するというのは、いつまでも子どもでいたいという甘えの表現でもある」といってエッセイは結ばれている。


で、肝心の入試問題はというと「よそに出会うことを拒否するというのは、いつまでも子どもでいたいという甘えの表現でもある」というのは、どういうことか自分の言葉で答えなさい、というもの。いわゆる「筆者の言いたいこと」を推し量るテクニックを身につけた生徒なら読解力のあるなしにかかわらず比較的かんたんに答えられるかもしれない。


けれども、このつっこみどころだらけの文を読ませて、このひとのいいたいことを察しなさいというより、このひとのいっていることでおかしいと思うところ、納得できないところがあれば、それを説明しなさい、という問題のほうが、ずっと読解力の訓練になりそうな気がするのだけれど、それはさすがにできないんだろうなあ。。。

| | コメント (0)
|

松田松雄展 (岩手県立美術館 10/3〜11/29)

3年ほど前に父の遺品の中から出てきた一枚の絵のことをブログに書いたことがある(ここと、ここ)。暗い絵ではあったが、どこか心惹かれるものがあり、そこに記された署名から、それが松田松雄(1937-2001)という陸前高田出身の画家の作品だと知った。画家はすでに亡くなっていたが、ちょうどいわき市で小さな展覧会が開かれると聞いて足を運んだ。

20151014_152230_2


黒いマントをすっぽりかぶり、うなだれたり、横たわったり、身を寄せ合ったりする人たちの姿を描いた一連の作品群はとくに衝撃的だった。モノトーンの画面にただよう重い沈黙。作品が書かれたのはもう40年ほど前の日本経済が元気だった時代にもかかわらず、それらは、まるで今日の日本や世界の底にひろがる心象風景のようにすら見えた。けれども、そこからは、ありのままの人間存在のはかなさや脆さ、そして強さが伝わってくるようで、じっと見ていると、澄んだ、しずかな気持ちになった。


その松田松雄の初の大きな回顧展が、いま岩手県立美術館で開催されている(10.3-11.29)。日本にはすぐれた画家はたくさんいるけれど、人間の実存を、よけいなものをいっさい排除して、これほどシンプルにイメージ化した画家を知らない。前にいわきで作品展を見たのは東日本大震災の翌年だった。いま見るとなると、どうしてもそこにシリア難民のイメージが重なってくるかもしれない。もろちん画家は津波やイスラム世界のことを描こうとしたわけはなく、ただ、自分は何者かという問いに向き合う中で、こうした作品を描いたのだろう。

Img_8970_3


チラシはこちらでも見られます。

| | コメント (0)
|

ランド・ポール『国家を喰らう官僚たち』

カイロ時代からの畏友の「アサカワ君」こと、ジャーナリストの浅川芳裕さんがランド・ポール『国家を喰らう官僚たち』(新潮社)という翻訳本を出した。著者のランド・ポールは次期大統領候補の共和党上院議員で若き保守派の旗手。肥大化した官僚支配を激しく批判して、「小さな政府」を徹底して進めることを主張してきた。その彼が、アメリカの官僚主義の実態を明らかにした本なのだが、ブラックコメディーかと見紛う不条理にして狂気じみたエピソードの連続に驚かされる。

Img_8823


たとえば、10代の若者がウサギの飼育を行って2009年に440羽のウサギを販売して200ドルの利益がでた。もう興味がなくなったのでやめようと思っていたところに、ある日突然、農務省の役人がやってきて査察を行い、その後「動物保護法」に違反しているので罰金を払えという通知が来る。その額が390万ドル! 日本円で約4億数千万円である。


また、ある夫妻は夏を過ごすために2万3000ドルで購入した分譲地に、家を建てるために土地に砂利や盛り土を入れ始めると、環境保護庁がやってきて「湿地」の上に「盛り土」をするのは「水質清浄法」に違反しているとして、建設の停止を求められるとともに、一日につき3万7500ドル(約450万円)の罰金を科された。しかし、この地区は池にも川にも面しておらず、全国の湿地目録にも含まれていないのだが、環境保護庁が湿地だといえば「湿地」になってしまう。


また、こんなのも。2009年のある日、老舗のギター・メーカーのギブソンの工場に、自動小銃や防弾チョッキで完全武装した30人の特殊部隊が突入し、従業員らを退去させ、ギターの原材料となるマダガスカル産やインド産の木材数十万ドル相当を押収した。べつに工場内でテロ計画が行われていたわけでも、ギターに密売麻薬が仕込まれていたわけでもなく、行われていたのは通常どおりのギター製作だった。


この事件はあのギブソンということもあって、日本でも報じられた。「レイシー法」という植物を国際間で取引する場合の輸出入や販売などを取り決めた悪名高い法律にギブソン社が違反したかどで魚類野生生物局から差し押さえを受けた、というニュースで、そのまま読むと、まあ仕方ないのかなとも受けとれるような報道だったが、現実は仕方ないどころか、まったくもって理不尽な言いがかりでしかない実態が本の中で暴露されている。内容はややこしいので、ここでは省略する。


驚かされるのは、このとき突入した「特殊部隊」の所属が魚類野生生物局だったということだ。なんで魚類野生生物局が武装化しているのか不思議な気もするが、アメリカでは魚類野生生物局だけでなく、農務省も、環境保護庁も武装した特殊部隊を備えているという。米政府には武力を行使できる官庁や機関が38もあるのだという。官僚が武装化しているのだ。予算にしても桁外れで、農務省ひとつとっても1500億ドル(約18兆円)で職員の数は10万。参考までに日本の農水省の予算は2兆5000億円、職員数は約2万4000人。国土面積や人口の差を考慮しても、米国の農務省の規模は桁外れだ。


そこまで肥大化した政府機関とそれを支える官僚機構が、自分たちの権益を守るために、つぎつぎとパカげた規制をつくり、国民に奉仕するどころか、いかに国民を虐待し、やりたい放題をくりかえしているか。その正気を失ったアメリカの現実が明かされる。それは自由があるがゆえの一部の歪みであり、アメリカが「自由の国」であることにはちがいないと言われる向きもあるかもしれないが、この本を読むと、グローバル化や新自由主義といった言葉から連想される自由放任のアメリカというのもまた幻想であり、一方でアメリカが本来の自由主義から日々遠ざかっていることがよくわかる。


浅川さんのあとがきによると、ランド・ポールは自身の立場を「立憲保守派」と呼び、国家の過剰な介入や官僚の越権行為には断固反対で、「自由と財産を侵害する他者が登場すれば、いつでも武力で対抗できるのがアメリカ国民に与えられた神聖不可侵の権利」だと固く信じているとのこと。だから、国民皆保険にも銃規制にも反対。


このあたりは多くの日本人には、なかなか納得いかないだろうが、冷泉彰彦氏によるとランド・ポールにとって「要するに福祉というのは『出来る人間、持てる人間が自発的に行うもの』であって、自分は無償診療で無保険者を救うが(ポール氏は眼科医)、オバマの公的な国民皆保険には『絶対に反対』という」立場なのだそうだ。そのあたりのことはこの本には書いていないし、いちがいに「小さな政府」がいい、いや「大きな政府」でないと、などともいえるものではない。ただ、行き過ぎた官僚支配がいかにおぞましいものかは十分に伝わってくる。


| | コメント (0)
|

ネフェルティティの墓とオンム・セティ

長年そのありかが謎とされてきた古代エジプト随一の美女・王妃ネフェルティティの墓の場所が見つかるかもしれない、というニュースが最近たびたび報じられている。ネフェルティティは、あのツタンカーメンの父であるアクエンアテンの后。ベルリン博物館にある冠をかぶった彫像でも有名だ。

Nofretete_neues_museum


英国人考古学者のニコラス・リーヴス博士によると、王妃の墓は、ルクソールの「王家の谷」にあるツタンカーメンの墓の内部にあると推測されるという。これまでの調査から、フレスコ画の描かれた壁の後ろに小部屋と目される空洞があり、そこが王妃の墓である可能性が高いというのだ。近々、日本のレーダー探知機によって空洞を確認する調査が行われる予定らしい。


この話がニュースになりはじめた頃、思い出したのはオンム・セティ(1904-81)のことだった。オンム・セティは20世紀半ばにエジプトで暮らした風変わりな英国人女性である。エジプト考古局初の女性職員でありながら、古代エジプトの宗教を信仰し、3000年前のセティ1世の時代に自分はアビドスの神殿の巫女であったという前世の記憶を終生持ちつづけた人物だ。以前、彼女についての本を2冊(これこれ)訳したことがあり、ここでもなんどか書いたことがある(こことか、こことか)。

Abydos_3


そのオンム・セティが生前、いまから40年ほど前にネフェルティティの墓のありかについて語ったことがある。その場所は「だれもいままで探そうと考えたことのないような思いがけない場所」であり、ずばり「ツタンカーメンの墓のすぐ近く」だというのだ。


もちろん、オンム・セティがネフェルティティの墓のありかを予言していたなどと単純にいうつもりはない。だいたい墓はまだ見つかっていない。それでも、リーヴス博士がネフェルティティの墓の場所として目星をつけた場所が、40年ほど前には、だれも予想しなかったようなポイントであり、それを当時すでにオンム・セティが語っていたのは興味深かった。


オンム・セティの「予言」はリーブス博士も知っていたようで、博士が今年発表した報告書「The Burial of Nefertiti ? (2015) Nicholas Reeves」の扉には、ぼくが以前訳したオンム・セティの伝記中のネフェルティティの墓にふれた部分が引用されている。次のような一節だ。


私は以前、セティにネフェルティティの墓はどこなのですかと聞いたことがある。するとセティは『どうして、そんなことを知りたいのか』といったわ。私が『彼女のお墓が発掘されるといいと思うからです』というと、セティは『そんなことを望んではならない。あの一家のことについては、これ以上何も知りたくはない』といった。でも、セティは教えてくれたの。ネフェルティティの墓は、〈王家の谷〉にあると。それはツタンカーメンの墓のすぐ近くだともおっしゃったわ。でも、そこはだれもいままで探そうと考えたことのないような思いがけない場所なの。だから、いまだに手つかずのままだと思うわ。("Omm Sety's Egypt" Hanny El Zeini and Catherine Dees 2007 ・邦訳『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』 p328)


Pict0024


オンム・セティの生前、ネフェルティティの墓のありかについては、アマルナかテーベ(ルクソール)のどちらかだろうとはいわれていたが、その場所については諸説があって、結局のところ謎だった。ただし、ツタンカーメン王墓内に空洞があることは1976年にわかっていた。スタンフォード大のチームが王墓内で地中音波探査装置でスキャン走査を行った際、二つの「変則的特徴」が見つかっていたのだ。ただし、その空洞らしき変則的特徴が何であるかはわからぬままだった。


展開があったのは、それから約20年たってからだった。リーヴス博士は、ツタンカーメンの墓から発掘された副葬品の大半が彼のために用意された品ではないことから、ネフェルティティも含むアクエンアテン世代の墓がこの地にあったのではないかと推測していた。このことを調べるため、1998年から2002年にかけて博士は「王家の谷」でアマルナ時代の墓を探す「アマルナ王墓プロジェクト」を進める。


ところが、そのくわしい調査に入る前に、リーヴス博士に古美術品密輸の嫌疑がかけられ、プロジェクトは中断された。その後、嫌疑は晴れたものの、博士は実質的に王家の谷で調査ができなくなり、それから10年近くが過ぎた。2011年のアラブの春が起きると、いろんなことがひっくりかえり、リーヴス博士はふたたび王家の谷における調査許可を得ることができた。そして今回の本格的な調査にまでたどりついたのである。


前掲のオンム・セティの伝記『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研)については、リーヴス博士自身が自らのウェブサイトに批評を書いている。本の中にもリーヴス博士とのやりとりがでてくる。本のあとがきにも書いたが、オンム・セティという人物をオカルト的な文脈だけでとらえると、見えなくなってしまうものがたくさんあるので、興味がある方は読んでいただければと思う。ともあれ、リーヴス博士の調査の進展が楽しみだ。ネフェルティティの墓は見つかるのだろうか。

| | コメント (0)
|

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »