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国際化とはよそ行きになること? ーー東京メトロの江藤淳

夜、地下鉄に乗ったら目の前に塾の広告があり、そこに中学の国語の入試問題がのっていた。その問題文のエッセイを、なにげなく読んでいたのだが、うーんという気持ちになった。


エッセイは、「私」(筆者)は部屋が散らかっていたり、だらしのないものが嫌いだというところからはじまる。食べ物屋でもよく片づいたすし屋や鉄板焼き屋が好きで、そういう店の料理人の整頓の手順などにはほれぼれするという。


ふーん、と思って読み進めていくと、筆者は、すし屋がよく片づいているのは「他人の前でやってみせる要素のある商売で、いつもよそ行きのようなところがある」からだという。まあ、そうともいえなくもないかな、と思ってさらに読んでいくと、こう書いてある。


「だらしのないもの、散らかりっぱなしのものというものには、どこかよそに出会うのを拒否しているようなところがあって・・・」


んっ? だらしのないものが、よそに出会うのを拒否しているって、論理が飛躍していやしないか。さらにその先には、こんなことが書いてある。


「たとえばヒッピィなどという風俗は、その拒否を全身であらわしているのだと考えられる」


なんで、いきなりヒッピー、いや「ヒッピィ」の話になるのだ。すし屋が片づいていることの対立項が「ヒッピィ」なのか。ずいぶん強引というか、はっきりいって破綻した対比だ。


いったい、だれが書いたのだと思って文末の出典を見ると、江藤淳「夜の紅茶」より、とある。戦後を代表する文芸評論家の江藤淳のエッセイか。だとしたら、書かれたのは相当前だなあと思ってみると、そこに注として「ヒッピィ・・・社会一般の考えに反発し、日常的でない行動をとった若者たち。長髪ときばつな服装が特徴」と説明がある。これは出題者がつけたのか。かなりテキトーな解説だ。

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で、そのあとこんどはいきなりオフィスの話になって、日本のオフィスは雑然としているのに対して、アメリカのオフィスは「よそ行きにツルリとしている」という。ツルリとしたオフィスというのが、わかったようでわからない。そして「これから日本のオフィスも次第にアメリカのオフィスに似てくるであろう」とある。


アメリカのオフィスがツルリとしているとすれば、それはたんに面積が広いからではないか。広くないオフィスだとアメリカだって、ちっとも「よそ行き」ではないし「ツルリ」ともしていない。このエッセイが書かれてから40年くらいたってるが、日本のオフィスはツルリとなったのだろうか?


そして結論だが、「国際化とはおたがいによそ行きになること」だという。唐突に話が国際化、というか、これはたんにアメリカ化だと思うが、そのアメリカについても「ツルリとしたオフィス」という以上の説明がされていないので、やはり唐突な感はぬぐえない。さらによほど恨みでもあるのか「ヒッピィ」がまた、やり玉に上げられ、「ヒッピィの例からもわかるように、よそに出会うことを拒否するというのは、いつまでも子どもでいたいという甘えの表現でもある」といってエッセイは結ばれている。


で、肝心の入試問題はというと「よそに出会うことを拒否するというのは、いつまでも子どもでいたいという甘えの表現でもある」というのは、どういうことか自分の言葉で答えなさい、というもの。いわゆる「筆者の言いたいこと」を推し量るテクニックを身につけた生徒なら読解力のあるなしにかかわらず比較的かんたんに答えられるかもしれない。


けれども、このつっこみどころだらけの文を読ませて、このひとのいいたいことを察しなさいというより、このひとのいっていることでおかしいと思うところ、納得できないところがあれば、それを説明しなさい、という問題のほうが、ずっと読解力の訓練になりそうな気がするのだけれど、それはさすがにできないんだろうなあ。。。

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