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2015年11月

岩手県立美術館の松田松雄展へ行った

盛岡の岩手県立美術館で開催されている松田松雄展を見に行ってきた。3年前、父の遺品の中に、この画家のパステル画があったのをきっかけにその存在を知った画家で、これまでにもなんどかその作品について書いたことがある(「父の遺品の絵」「澄みわたった絶望」)。


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松田松雄の作品にふれたときのインパクトは圧倒的だった。黒い布をまとった人びとが身を寄せあい、ある者はうなだれ、ある者は子どもを抱え、ある者は身を屈してうずくまっている。いずれも顔は描かれず、モノトーンの独特の質感で描かれている。一見すると、暗く、重苦しい印象を受けるのだが、その奥に人間の存在の本質を見とおすような深い、すみとおった、しずけさがあり、すっかり魅入られてしまった。今回は没後初めての大回顧展ということで、少し遠かったが足を運んだ。


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昭和に活躍した洋画家というと、たいてい洋画の技法を使って日本の風物を描くといった折衷的なものか、そうでなければモダンアートやデザインにいってしまうとか、いずれにしても西洋絵画の影響をいやおうなく感じさせる作品が多い。


けれども松田松雄(1937-2001)はちがった。陸前高田出身のこの画家は、生涯のほとんどを東北で過ごした。にもかかわらず、そこにはローカルなものを思わせる要素もなければ、西洋絵画のまねごと的なものからも、はるかに遠い地点にいるように見える。実際、彼は絵は独学だった。その作風は時代によって、まるで別人になったかのようにダイナミックに変化する。


おそらく松田松雄の代表作は、冒頭でふれた黒い服を着た人びとを描いた一連のシリーズだ。制作されたのは1970年代後半から80年頃にかけてである。よけいなものをいっさいとりのぞいて、人間のおかれている本源的なありようを、ここまでシンプルに、しかも普遍的に表現した作品を知らない。砂漠の民を描いた絵のようにも見えるが、どこか特定の場所を描いたわけではない。


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広い館内の部屋の壁を巨大なキャンバスに描かれた「風景」シリーズがぐるりとかこむさまは圧巻だった。これらの作品には「風景(民ーA)」とか「風景(母子)」「風景(家族)」といった、いずれもきわめてシンプルなタイトルがつけられている。そこに嘆きや悲しみ、絶望やいたわりを読みとることはできるけれど、画家自身はそうしたエモーショナルなものを表現したかったわけではなく、人間がこうしてそこにいる、というその普遍性・実存性を表現したかったように思う。それは時代や場所が変わっても、けっして変わることのない「風景」なのだ。


展覧会では画家の若い頃から晩年にいたる作品が、その作風の変化を追えるよう順を追って配置されていた。初期のあざやかな色をもった幻想的な世界から、白い背景に黒い服をまとった人びとが描かれたモノトーンの作品、そして人物がいなくなり、形体がばらばらの黒い断片に解体されていった抽象世界、その黒い断片が白い線で塗り込められたもの、そこからふたたび淡い形体が生まれてくる禅画を思わせる晩年の作品。ひとつの表現が役割を追えると、あたかも蛇が皮を脱ぎ捨てるように、そこから脱して次の表現へとうつる。過去は模倣しない。そこにこの画家の真摯さを感じる。


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前にも書いたが、40年近く前に描かれたこれらの作品が、3.11やアラブの春、シリア難民など、いま世界で起きている重い出来事の原風景のように見えてくる。文化的な背景がいかに異なっていようと、これらの絵にはそのちがいをこえて、深く心に訴えかけてくる圧倒的な普遍性がある。欧州や中東やアジア諸国などでも展覧会ができればいいのにと思う。


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ミューゼアムショップでは、ネットで偶然知った松田松雄の絵にインスピレーションを受けてつくられたというカナダのCFCFというアーティストによるLPレコード(!)が売られていた。エレクトロニカ&アンビエント系でネットで試聴もできる


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同じくミューゼアムショップにあった松田松雄の随筆集『四角との対話』(回無工房)という本を買う。読みはじめたばかりだが、最初の方にあったこんな一節に目がとまった。


 気分がのるとかならないとか、夜中に突然のように絵を描きだすとか、狂人に近い者でないといいものが描けないとか、ということは、 ほとんど芸術家のうそのように思われた。私は、絵がうまくなることを急ぐよりも、下手でも地道な勉強と、しっかりした生活の習慣を身につけることの方が、作家生活には大切であることを知った。・・・
  そして、この世界で優れたプロになれる人と、なれないで終わる人との差は、その連続する苦痛の時間に耐えられるかどうか、 常に安定した精神を保てるかどうか、で決まるように思えた。 自分の作品と対決さえしていれば、いずれ作品の方が根負けして作者に語りかけてくれるようになる。・・・
  私は今でも、画家になるための勉強とは、ただ日常的に自分自身と直面することに耐えられる、ごくあたりまえの精神をもつことだと思っている。

(松田松雄『四角との対話』 p24)


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マサイのジャクソンさんのこと

生粋の伝統マサイと結婚している永松真紀さんと、ご主人のジャクソンさんの話を聞きにいった。ケニアのジャクソンさんの村以来、3年ぶりの再会。彼が日本に来るのは5回目だが、「ミナサン、コンニチワ」みたいなお愛想の日本語など、ひとことも口にしない。しゃべるのはスワヒリ語だけ。偉ぶることも、媚びることもない。


マサイは東アフリカのサバンナに生きる牧畜民だ。これまでにも真紀さんをつうじて、マサイのいろんな話を聞いた。彼らがどんなふうにこの世界をとらえ、どんなふうに生きているのか。それを聞いていると、異文化理解がだいじですとか、多様性を認めましょうといった口当たりのいい紋切り型のへつらいなど、あっというまに化けの皮が剥がれてしまう。


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たとえば、マサイ男子は割礼をしたあと、村を離れてサバンナや森を遍歴しながら、約10年にわたって、さまざまなことを学ぶ「戦士」という修行時代を過ごす。このとき、彼らは他の集団の牛を盗み、修行の総まとめとしてライオンを殺す。近代国家では、泥棒は犯罪だし、ライオン狩りは法的に禁じられている。生半可に理解したり、受け入れたりできるものではない。だからこそ、それは異文化であり多様性なのだ。伝統マサイの生き方は、そうした問いを突きつける。


マサイの死生観はドライだ。死んだらおしまい。それだけ。昔は死体は森に放ったままで埋葬もしなかった。いまは土には埋めるけれど墓はつくらない。故人の思い出にひたることもない。あっけにとられるほど、ドライすぎる印象を受けるが、彼らと生活をともにしている真紀さんがいうには、彼らの中には人間だけが特別だという考え方がないからではないかという。


動物は死んだら土に還ったり、他の動物に食べられたりする。自然を全面的に信じて生きているマサイにとって、自分たちもまた動物と同じように死んで土に還り、他の動物に食べられることは、ごくあたりまえのことなのかもしれない。文化人類学者の西江雅之さんが「人間は死んだらゴミになる」といっていたのに通じる気もする。


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もちろん、そんなマサイの伝統的な暮らしもこの一世紀、岐路に立たされてきた。国境が引かれ、自由な移動が禁じられ、だれのものでもなかった土地が政府によって管理され、税金が課せられ、教育が義務化され、最近では雨の不足から牛の数が減り、牛とともに自然のネットワークの中で生きるという生き方から、いやおうなくグローバル経済や欧米型の教育といった近代西洋的価値観のネットワークにかかわらずには生きられなくなりつつある。


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知らなかったのだが、このイベントは町田にある農村伝道神学校という牧師・伝道師養成の専門学校で行われ、そこの校長先生もいらしていた。話が終わった後、校長先生は「キリスト教の責任を深く感じます。キリスト教はアフリカに対して、本当にひどいことをしてきたのですね。・・・マサイの人たちは死んだらおしまいだという。でも、キリスト教では死後、魂は復活するといっています。しかも信仰によって復活できる魂と、復活できない魂を差別して、死後の世界まで管理するんです・・・」といって目を伏せた。


キリスト教の責任というより、植民地主義がキリスト教の宣教を利用としてきたということだが、こういう率直な意見が神学者の口からでてきたのは感慨深かった。



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