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2016年1月

荒俣宏さんのこと

2つ前のエントリーでも書いたが、昨年12月にNHKのマサカメTVという番組に、あひる商会の発明?が取り上げられた。取材を受けた後、番組のゲストが作家の荒俣宏さんだと知って焦った。すっかりご無沙汰しているが、荒俣さんには若い頃、たいへんお世話になったからだ。

いま荒俣さんは、どんなイメージで見られているのだろう。テレビのバラエティー番組の一風変わった物知りコメンテーター。すこし年配の人なら映画化もされた『帝都物語』の原作者として。けれども、自分にとっては荒俣さんは、知の世界の凄まじさや壮絶さ、読書というものの恐ろしさを垣間見せてくれた途方もない知の巨人である。若いときに荒俣さんを知ってしまったことで、自分が本好きだなどとは、けっしていえなくなってしまった。

その理由を知りたければ、荒俣さんがかつて平凡社から出した『世界大博物図鑑』全5巻(1巻『蟲類』、2巻『魚類』、3巻『両生・爬虫類』、4巻『鳥類』、5巻『哺乳類』)を図書館で見てみればいい。このとんでもない本の凄まじさについて書こうとすると、それだけで終わってしまうのでここではふれないが、平凡社に彼が泊まり込みながら書いた一冊400ページ×5巻のこの希有な図鑑は、荒俣さんの翻訳や編集や監修ではなくて、荒俣さんの「著書」なのである。

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彼はこの5巻の図鑑をたったひとりで書いた(共著ではない)。その内容は生態の記述にとどまらず、名前の由来、発見史、絶滅記録、神話・伝説、民話・伝承、ことわざ、天気予知、美術、文学など、文化や歴史面を網羅した、文字どおりの博物誌である。また、そこに付せられた数百点の彩色図版は18、19世紀のヨーロッパの博物学黄金期に制作された、とんでもなく美しい博物画だ。それらは荒俣さんがオークションなどでこつこつと集めた自分の所蔵するコレクションから複写されたものである。このような企画を考え出し、しかもそれを書き上げることができるのは日本はおろか世界でも荒俣さんくらいしかいないのではないか。

荒俣さんと知りあったのは、その『世界大博物図鑑』も『帝都物語』も書かれる前の1980年頃だった。荒俣さんは30代の半ばくらいで、サラリーマンをやめてまもないころで、幻想文学の翻訳者・紹介者として、すでに知る人ぞ知る存在だった。当時大学生だったぼくは、ひょんなことから荒俣さんがメインとなって書いていた『世界神秘学事典』という本の編集の手伝いのアルバイトをすることになった。

いま思えば、『世界神秘学事典』は、世界のすべてを網羅し記述したいという荒俣さんならではの博物誌の草分けだった。神秘学と銘打たれているが、内容は古代エジプトから現代のポップカルチャーにいたるまでの古今東西の宗教・哲学・科学・芸術などの有機的でダイナミックなつながりを浮かび上がらせたもので、いま読み返しても圧倒される。すでに絶版になって久しいが、ここに目次の引用がある。600ページ近い内容の7割くらいは荒俣さんが書いていたように思う。

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編集のことなどなにも知らなかったにもかかわらず、原稿の整理をしたり、ほかの執筆者のもとに原稿をとりにいったり、電話で荒俣さんの読み上げる原稿を書き下したり、図書館をまわって図版を集めたりするのは楽しかった。どさくさにまぎれて、足りない項目の原稿を書かせてもらったりもした。大学の後輩ということもあってか、その後の数年、荒俣さんのほかの本の手伝いをさせてもらったり、仕事を紹介してもらったり、原稿の書き方を教えてもらったりした。

荒俣さんは、いつも両手にぶら下げた大きなショッピングバッグに分厚い洋書や稀覯本を大量につめこんで、そのバッグを蹴飛ばすようにしながら編集部にやってきた。ある晩、ラーメンかなにかをいっしょに食べたあと、荒俣さんが「それでは私はアンデルセンの翻訳をするので、これから上高地に行ってきます」といってショッピングバッグを蹴飛ばしながら夜の街に消えていった。

その後ろ姿を見送りながら、アンデルセンの翻訳には上高地のようなすてきな場所がふさわしいのだろうな、と一瞬思ったが、こんな夜遅くに上高地への電車があるはずがない。あとで聞いたら、なにいってるんですか、喫茶店の上高地ですよ、といった。

その頃、荒俣さんは週のうち5日位は深夜喫茶で夜を明かしていた。自宅は狭山にあったのだが、終電が早いのと、家訓で借家住まいは御法度とのことで、深夜になるとマイアミとか上高地といった都内の喫茶店でプリンアラモードやフルーツパフェを食べながら、夜が明けるまで読書や翻訳や原稿書きをしていた。あの途方もない博覧強記とダンセイニの翻訳のような幻想性あふれる美しい訳文は、深夜喫茶から生まれたのである。

荒俣さんの狭山の自宅に原稿をとりに行ったことがある。文字どおり本に埋もれた家だった。どれだけ価値があるかわからないような18、19世紀の博物学関係の稀覯本が雑然と積み重ねられていた。本棚を買う金があったら本を買ったほうがいいという。玄関の前に、近所のつぶれた本屋からもらったという木のカウンターがあって、その上にも本が山のように積み重ねられていた。

部屋には水槽が置かれていて、最近手に入れたというマツカサウオ(イザリウオだったかもしれない。。)がいた。いま思えばエサはどうしていたのだろう。サラリーマン時代に書いていたという絵日記や少女マンガも見せてもらった。じつは漫画家になりたかったのだという。帰る時間になると、帰りのバスの時間をすらすらと教えてくれた。バスの時刻表は頭に入っているという。学生時代は教科書も丸暗記していて、知り合いの電話番号も頭に入っていたという。記憶の人なのである。

荒俣さんと編集のひとたちといっしょに沖縄や八丈島へ行ったことがある。荒俣さんは魚の採集が好きで、よくひとりで八丈島へ魚を捕りに行っていた。沖縄の座間味へ行ったときだった。荒俣さんは海が見えると、宿に着くのも待ち切れずに海水パンツに着替えて、磯足袋を履いて、タモ網をもって海へ入っていく。海水パンツはパツパツでいまにもはち切れそうだった。聞けば高校生のときからはいているものだという。水中メガネも、おもちゃ屋で売っていそうな青い水中メガネで、これも子どものときから使っているという。

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海に入っていく荒俣さんをぽかんと見ていると、なにやっているんですか、遊びに来たんじゃないんですよ、といわれ、あわてて着替えて海に入る。といっても泳ぐわけではなく、荒俣さんの魚獲りの手伝いをするのである。膝くらいの深さの浅瀬で、水中メガネで海の中をのぞき、魚の現れるのをひたすら待つのだ。

魚が現れると荒俣さんは、たちどころにその名前や特徴を教えてくれた。ホンソメワケベラとニセクロスジギンポの見分け方も教えてくれた。めあての魚が現れると、ぼくが魚を追いこんで、荒俣さんがそれをタモ網ですくおうとする。でも、初めてなので、うまくいかない。すると、なにやっているんですか、ちゃんと追わないから逃げてしまったじゃないですか、魚も追えなくて、どうするんですかと叱られる。それをずっとつづける。休憩なしで、何時間も入りっ放しである。

夕食のあと、他のひとたちが泡盛でほろ酔いになっている横で、荒俣さんはジュースを飲みながらテレビのプロ野球中継を横目で見つつ、なにかの原稿を書いている。民宿のおじさんが踊りを踊ったりして、幸福な沖縄の夜がふけていく中、荒俣さんがぽつりと「グノーシスというのは、この世が悪であると見る思想です」といった。その後も、ときどきテレビのプロ野球中継にコメントしたり、われわれの会話に加わったりしながら、原稿に向かっていた。

翌朝はだれよりも早く起きて、さあ、海へ行く時間ですという。ぼくがぐずぐずしていると、いつまで寝ているんですか、四の字固めをかけてやります、といわれて、寝ぼけた状態で四の字固めをかけられて起こされ海へ向かう。浜から「朝ごはんですよ」と声がかかるが、海に顔をつけつづけている荒俣さんには聞こえない。

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好きなことに無心に没頭している荒俣さんは、エネルギーにあふれて、とても生き生きして見えた。それでも当時は口癖のように「早く死にたいです」とか「燃え尽きたいです」という言葉を口にしていた。そんなこといわないくださいよ、といっても、「いえ、自分は早く死ぬために仕事をしているんです」という。ただその口調に、あまり悲壮感は感じられず、その言葉を、どう受けとめればいいのか困った。

荒俣さんの該博な知識に感嘆する一方で、彼が『世界神秘学事典』で扱ったようなテーマを生き方や思想の問題としてとらえたいと感じていた当時の自分にとって、荒俣さんの博物誌的なとらえ方には、戸惑いを覚えることもあった。神秘学、あるいオカルティズムというのは、表層的な現実の奥に普遍的な真理を見出すことによって、自己とはなにか、生きるとは何かという問いに答えるものではないかと思っていたからだ。


けれども、荒俣さんの関心は、そうした普遍的な真理だけにとどまらず、そこに向かう過程で生まれた誤りやウソといった想像力の所産にも向かっていた。むしろ、そちらのあだ花的なもの、奇人や奇想への視線こそが荒俣さんのユニークな世界をかたちづくっていた。『世界大博物図鑑』には実在する生き物にとどまらず、人間の想像力が生み出したガルーダのような幻想動物も取り上げられている。


誤りやウソを切り捨てるのではなく、それらも含めて人間の生み出した豊かさとしてとらえようとする。真理や正しさで世界を区切るのではなく、真偽や善悪をこえて世界を見ようとするとき、秩序と見えたものがじつは混沌であり、普遍と思われていたものが、じつは例外に満ちていることが見えてくる。その世界の豊饒さへの驚きと賛嘆こそが荒俣さんを突き動かしているように見えた。


本の虫だけに荒俣さんは極度の近視だったが、メガネはかけていなかった。メガネを買うお金があったら本を買ったほうがいいと考えていたのか、それともほかの理由なのかはわからない。本を読むときはページに顔をくっつけるようにして字を追っていた。ところが、あるとき会ったらメガネをかけていた。ああ、やっとメガネをかけることにしたんだな、と思ったが、よく見ると、片方のレンズが異様に分厚い。


「あれ、メガネをつくったんですか?」と聞くと、


「いえ、わたしが近眼なのを見かねて、知り合いの編集者が使わなくなった自分のメガネをくれたんです」という。


「ひとのメガネをもらったんですか・・・」


「ええ、おかげでよく見えるんですけど、左右の度がちがいすぎて、長くかけていると頭が痛くなってくるんですよ」


「・・・」


荒俣さんはしばらくそのメガネをかけていたが、さすがにつらくなったのか、その後、自分でメガネをつくったようだった。


荒俣さんは偉ぶったり、先輩風を吹かしたりするようなことは、いっさいなかった。それでも、ぼくが社会性に欠けているのが目にあまったのか、「世の中甘くないんです」「苦労しなくてはいけません」とか「どう考えても自分より劣っている人間から、徹底的にバカにされるということも必要なんです」などとちょくちょく説教された。数年たった頃、「ちゃんとサラリーマンをしなくてはいけません」といわれて知り合いがやっている小さな会社を紹介してくれた。


会社では企業のPR誌の制作の手伝いをした。自分ははっきりいってダメ社員だったが、社長さんはやさしく寛容な方で、マチくんはおもしろいねといってくれた。でも、その顔はいつもちょっとひきつっていた。事務所には仕事と関係のないユニークな人たちも出入りして、ときどき荒俣さんもやってきた。荒俣さんが夜遅くコピーをとりに行くというので、コピー機の操作方法をマンガに描いて置いておいたことがある。翌朝出社したら、荒俣さんが、コピーをとった顛末をマンガに描いて置いてあった。どこかにとってあるはずだが見あたらない。ちょうど『帝都物語』の連載をされていたころだった。


結局、ぼくはその会社を1年くらいでやめてしまった。その後も仕事でときどき会うこともあったが、気まずさもあって、あまり連絡をとることもなくなっていった。それから『帝都物語』がヒットして、荒俣さんはすっかりメジャーになっていった。


何十年ぶりかで、先日、テレビの画面で再会した荒俣さんはVTRに写し出されるぼくを見て、「あ、タナカマチ、知ってる」とつぶやき、心なしかニコニコしているように見えた。それを見て、こちらも心なしか、うれしくなった。


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モーリス・ベジャール・バレエ団のカイロ公演をめぐるしょうもない思い出

もうずいぶん日にちがたってしまったが、昨年の大晦日の晩、まもなく年が変わろうという時間、たまたまつけたテレビの画面に釘付けになった。この年に引退を表明していたバレエダンサー、シルヴィー・ギエムの踊るボレロだった。


ベルギー人演出家モーリス・ベジャールの振り付けによるボレロを初めて見たのは、例にもれず、30年以上前に公開された映画『愛と哀しみのボレロ』の中だ。いまは亡きジョルジュ・ドンの踊るボレロを目の当たりにしたとき、この世ならぬものにふれたような戦慄が背筋を走った。

規則正しいリズムに合わせて床を踏みしめるその動きが、まるでなにか目に見えない力を練りあげ、濃縮しているようで、その充溢した力が体のすみずみにみなぎっていき、さらに周囲をも満たしていく。生きているとはこういうことなのかと直感させる踊りに畏怖すらおぼえた。

その後、ボレロを2度、生で見た。最初は80年代の半ば、ジョルジュ・ドンの来日公演で。2度目は1990年、エジプトのカイロにベジャール率いる20世紀バレエ団がやってきたとき。カイロでボレロを踊ったのは女性のダンサーだったが、シルヴィ・ギエムではなかったと思う。


90年のベジャールのカイロ公演には忘れがたい思い出がある。公演の内容そのものよりも、公演チケットを手に入れるまでの苦労が並大抵ではなかった。それは、かぎりなくエジプト的といってもよい信じられないことの連続だったからだ。


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英字新聞に20世紀バレエ団がエジプトで新作バレエ『ピラミッド』の初演を行うという記事を見つけたのは、カイロに暮らしてまもない頃だった。それもなんとギザのピラミッド前に特設ステージを設けて、夜間に上演するという。すごい! ぜひ見たい。ところが、新聞には、公演の期日も、チケットの販売場所も載っていない。

その後も新聞をチェックしていたが、公演の知らせはない。まだ先の話なんだろうかと思っていたある日、ピラミッドに行くと、なんと特設ステージができている! あわててピラミッドの管理事務所に行って、いつあそこで公演をやるのかと訊いたが、だれも知らない。文化センター、オペラハウスなど、受け入れ機関と思われそうなところに出向いて訊いてみたが、やはりだれも知らない。情報の発信元の新聞社にも行ったが、ここでもわからないといわれる。どうなってるんだ?


それでもあきらめきれず、関係ありそうなところに片っ端から電話して聞いた。はたしてフランス文化センターで、やっとチケットはダウンタウンの某エージェンシーで扱っているとわかる。


件のオフィスは新市街の交差点にあった。キオスクみたいに小さなオフィスで、カウンターには男の職員がひとり暇そうに座っていた。こんなところでほんとうに天下のモーリス・ベジャールのチケットを扱っているのか?

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チケットのことを訊ねると、男は手書きの座席表をもってきて、どの席がいいかと訊く。やはり、ほんとらしい。ところが席表を見ると、公演は来週の予定なのに、ほとんど空席だ。だれもここでチケットを売ってることを知らないのかもしれない。モーリス・ベジャールの新作公演がスカスカなんてヨーロッパや日本ならありえない話だ。とりあえず、いちばんよさそうな席を予約したものの、どうも不安である。だまされているのではないか。

翌日、チケットの受け取りに、ふたたびオフィスを訪ねる。すると、なんということか。昨日の男が申し訳なさそうな顔をして、公演はキャンセルされたという。キャンセル? 考古庁の許可が下りなかったのだと男はいった。だけど、ステージまでつくって、公演日も目前というのに許可がとれていないって、いったい、そんなことがあるのか?

すべての努力が無駄足だった。がっくりして一週間ほど新聞も見なかった。そんなとき、近所に住む世話になっていた日本人の奥さまから、ベジャールとかいう人の公演が明日オペラ・ハウスでやるそうですよという話を聞いた。なんだって? キャンセルになったのではなかったのか? しかもピラミッドのはずが、なぜオペラハウス?

チケットは昨日突然売り出されたという。在エジプト外国人もあわてているそうだ。こっちもあわててオペラハウスのチケット売場に走るが、すでに完売。あれほど苦労したのに、う〜、なんたることか。

なんとしても、あきらめられない。チケットを手に入れるのに、自分ほど早くから動き、自分以上に努力した人間はいないはずだ。その自分が見られないとは断じて解せない。なんとかしてチケットを手に入れられないものか。しかし、カイロでダフ屋は期待できない。考えた末、一計を案じることにした。

町でベルトと靴を買った。それから知人にネクタイとジャケットを借りた。そしてカイロ・オペラハウスのチケットを扱う担当官に面会を申し込んだ。


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担当官は、こちらがなにかいう前に「日本大使館から来たのか?」と訊いてきた。たしかに方角としては日本大使館のほうから来たのは事実である。「そうです」と答える。うそではない。

大使館のほうから来た男にふさわしく、堂々と、威厳をもって、しかし尊大になりすぎぬよう注意しつつ担当官に話しかける。「ピラミッドでの公演を予約していたのだが、それがなんの連絡もないままオペラハウスへの公演に変更になっていた。しかもチケットがもうないという。何ヵ月も前から予約していて、これは理解しがたいことだ。なんとかなりませんか」と担当官の目をまっすぐ見すえながらいう。担当官はちょっと考え込んでから、「なんとかしよう。明日また来てくれ」といった。やった! 

翌日、公演時間の1時間ほど前にオペラハウスに行く。ところが、昨日の担当官は休みだという。なんたること! 最初からなんとかする気などなかったのだ。なんたる無礼! 

しかし、ここであきらめたら、すべてが水の泡だ。こうなれば、この状況を利用するしかない。そこで対応に出てきたべつのオペラハウスの担当官につめよった。担当官がいないだって! 困るじゃないか。今日の公演のチケットをとっておいてくれると彼はわたしに約束したんだ。大使館のほうから来た者として、このようなことは断じて納得できない。

担当官は、黙ってこちらの話を聞いていたが、話が一段落するとどこかに電話をかけ、それからチケット売場に案内してくれた。彼が係の者に「2枚」と声をかけると、完売のはずのチケットがひょいと目の前に差し出された。やった! こうして努力の甲斐あって、念願のベジャールの公演を観ることができた。あきらめなければ、なんとかなる。

『ピラミッド』は象徴的な内容のバレエだった。9世紀エジプトのイスラーム神秘主義者のズッ・ヌーンという人物を導き手として、ファラオの時代、アレクサンダー大王の時代、イスラームの時代、ナポレオンの時代、そしてエジプトの国民的歌手のオンム・カルツームに代表される現代へといたるエジプトの歴史を表現したものだった。ベジャール自身も数年前にムスリムに改宗しているということだったので、いってみればエジプトの歴史へのオマージュ的作品だ。ダンスもエンターテインメント性に富んでいた。数年前ラダックの旅で知り合ったフランス人ダンサーのマークが出演していたのにもおどろいた。最後にボレロも見ることができた。大使館のほうから来た甲斐があった。

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公演のあとしばらくして、当時カイロ大学に留学中だったハッサン中田さんに、こういうバレエを見たと話した。演出家のベジャールはムスリムに改宗したんですよ、というと、ハッサンさんは、ベジャールという人は知りませんが、だいたいバレエをやっていてムスリムだというのがおかしいです、という。そこでかいつまんでバレエの内容を話したところ、「典型的なオリエンタリズムです。イスラーム的に見るならば、ファラオやアレクサンダーは否定すべき対象です。とくにファラオはひじょうにいけないということは旧約聖書にもクルアーンにも書いてあります」という。

「それなら、イスラーム的に正しい立場から、この劇を構成し直すなら、どうなりますか?」と聞くと、

「そうですねえ、まずファラオからアレクサンダーの時代は暗黒です。イスラームの時代に光が現れる。それ以降はまたどんどん暗くなっていくんです(笑)」


身もふたもない。。。(笑)

それにしても、当初ピラミッドの前で行われるはずだった公演が、どうして急にオペラハウスへと変更になったのか。ずっと謎だったのだが、あれから20年以上たって、やっと事情がわかった。ネット上にこのベジャールのカイロ公演についてふれた当時のロサンゼルス・タイムスの記事があったのだ。


それによると、バレエ団がピラミッドエリアで公演を行うにあたってエジプトの税関や考古庁が法外な手数料を要求したのだという。税関は予定されていた8回の公演ごとに5万ドルを支払うよう要求し、考古庁は一公演ごとに3800ドルのロイヤリティにくわえて、11300ドルのデポジット、そして150枚の無料チケットを要求したという。

ほかにも、ピラミッド前のステージ建設の費用が、当初の見積もりの3倍にふくらんでしまい、予算はパンクし、公演を持ちかけたベルギー人プロモーターはブリュッセルに逃亡。その後、破産宣告をした。こうして歴史的イベントとなるはずだったピラミッド前での公演は本番直前にキャンセルとなり、いったんはカイロ入りしたジョルジュ・ドンもこのどさくさで帰ってしまった。これではあんまりだということで、急遽大幅にスケールダウンして、かろうじてオペラハウスで一回かぎりの公演を行うことになったのである。オマージュを捧げるつもりだったエジプトで、そんな目に遭うとはベジャールもびっくりしただろうな。そのベジャールも2007年に亡くなってしまった。


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