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モーリス・ベジャール・バレエ団のカイロ公演をめぐるしょうもない思い出

もうずいぶん日にちがたってしまったが、昨年の大晦日の晩、まもなく年が変わろうという時間、たまたまつけたテレビの画面に釘付けになった。この年に引退を表明していたバレエダンサー、シルヴィー・ギエムの踊るボレロだった。


ベルギー人演出家モーリス・ベジャールの振り付けによるボレロを初めて見たのは、例にもれず、30年以上前に公開された映画『愛と哀しみのボレロ』の中だ。いまは亡きジョルジュ・ドンの踊るボレロを目の当たりにしたとき、この世ならぬものにふれたような戦慄が背筋を走った。

規則正しいリズムに合わせて床を踏みしめるその動きが、まるでなにか目に見えない力を練りあげ、濃縮しているようで、その充溢した力が体のすみずみにみなぎっていき、さらに周囲をも満たしていく。生きているとはこういうことなのかと直感させる踊りに畏怖すらおぼえた。

その後、ボレロを2度、生で見た。最初は80年代の半ば、ジョルジュ・ドンの来日公演で。2度目は1990年、エジプトのカイロにベジャール率いる20世紀バレエ団がやってきたとき。カイロでボレロを踊ったのは女性のダンサーだったが、シルヴィ・ギエムではなかったと思う。


90年のベジャールのカイロ公演には忘れがたい思い出がある。公演の内容そのものよりも、公演チケットを手に入れるまでの苦労が並大抵ではなかった。それは、かぎりなくエジプト的といってもよい信じられないことの連続だったからだ。


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英字新聞に20世紀バレエ団がエジプトで新作バレエ『ピラミッド』の初演を行うという記事を見つけたのは、カイロに暮らしてまもない頃だった。それもなんとギザのピラミッド前に特設ステージを設けて、夜間に上演するという。すごい! ぜひ見たい。ところが、新聞には、公演の期日も、チケットの販売場所も載っていない。

その後も新聞をチェックしていたが、公演の知らせはない。まだ先の話なんだろうかと思っていたある日、ピラミッドに行くと、なんと特設ステージができている! あわててピラミッドの管理事務所に行って、いつあそこで公演をやるのかと訊いたが、だれも知らない。文化センター、オペラハウスなど、受け入れ機関と思われそうなところに出向いて訊いてみたが、やはりだれも知らない。情報の発信元の新聞社にも行ったが、ここでもわからないといわれる。どうなってるんだ?


それでもあきらめきれず、関係ありそうなところに片っ端から電話して聞いた。はたしてフランス文化センターで、やっとチケットはダウンタウンの某エージェンシーで扱っているとわかる。


件のオフィスは新市街の交差点にあった。キオスクみたいに小さなオフィスで、カウンターには男の職員がひとり暇そうに座っていた。こんなところでほんとうに天下のモーリス・ベジャールのチケットを扱っているのか?

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チケットのことを訊ねると、男は手書きの座席表をもってきて、どの席がいいかと訊く。やはり、ほんとらしい。ところが席表を見ると、公演は来週の予定なのに、ほとんど空席だ。だれもここでチケットを売ってることを知らないのかもしれない。モーリス・ベジャールの新作公演がスカスカなんてヨーロッパや日本ならありえない話だ。とりあえず、いちばんよさそうな席を予約したものの、どうも不安である。だまされているのではないか。

翌日、チケットの受け取りに、ふたたびオフィスを訪ねる。すると、なんということか。昨日の男が申し訳なさそうな顔をして、公演はキャンセルされたという。キャンセル? 考古庁の許可が下りなかったのだと男はいった。だけど、ステージまでつくって、公演日も目前というのに許可がとれていないって、いったい、そんなことがあるのか?

すべての努力が無駄足だった。がっくりして一週間ほど新聞も見なかった。そんなとき、近所に住む世話になっていた日本人の奥さまから、ベジャールとかいう人の公演が明日オペラ・ハウスでやるそうですよという話を聞いた。なんだって? キャンセルになったのではなかったのか? しかもピラミッドのはずが、なぜオペラハウス?

チケットは昨日突然売り出されたという。在エジプト外国人もあわてているそうだ。こっちもあわててオペラハウスのチケット売場に走るが、すでに完売。あれほど苦労したのに、う〜、なんたることか。

なんとしても、あきらめられない。チケットを手に入れるのに、自分ほど早くから動き、自分以上に努力した人間はいないはずだ。その自分が見られないとは断じて解せない。なんとかしてチケットを手に入れられないものか。しかし、カイロでダフ屋は期待できない。考えた末、一計を案じることにした。

町でベルトと靴を買った。それから知人にネクタイとジャケットを借りた。そしてカイロ・オペラハウスのチケットを扱う担当官に面会を申し込んだ。


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担当官は、こちらがなにかいう前に「日本大使館から来たのか?」と訊いてきた。たしかに方角としては日本大使館のほうから来たのは事実である。「そうです」と答える。うそではない。

大使館のほうから来た男にふさわしく、堂々と、威厳をもって、しかし尊大になりすぎぬよう注意しつつ担当官に話しかける。「ピラミッドでの公演を予約していたのだが、それがなんの連絡もないままオペラハウスへの公演に変更になっていた。しかもチケットがもうないという。何ヵ月も前から予約していて、これは理解しがたいことだ。なんとかなりませんか」と担当官の目をまっすぐ見すえながらいう。担当官はちょっと考え込んでから、「なんとかしよう。明日また来てくれ」といった。やった! 

翌日、公演時間の1時間ほど前にオペラハウスに行く。ところが、昨日の担当官は休みだという。なんたること! 最初からなんとかする気などなかったのだ。なんたる無礼! 

しかし、ここであきらめたら、すべてが水の泡だ。こうなれば、この状況を利用するしかない。そこで対応に出てきたべつのオペラハウスの担当官につめよった。担当官がいないだって! 困るじゃないか。今日の公演のチケットをとっておいてくれると彼はわたしに約束したんだ。大使館のほうから来た者として、このようなことは断じて納得できない。

担当官は、黙ってこちらの話を聞いていたが、話が一段落するとどこかに電話をかけ、それからチケット売場に案内してくれた。彼が係の者に「2枚」と声をかけると、完売のはずのチケットがひょいと目の前に差し出された。やった! こうして努力の甲斐あって、念願のベジャールの公演を観ることができた。あきらめなければ、なんとかなる。

『ピラミッド』は象徴的な内容のバレエだった。9世紀エジプトのイスラーム神秘主義者のズッ・ヌーンという人物を導き手として、ファラオの時代、アレクサンダー大王の時代、イスラームの時代、ナポレオンの時代、そしてエジプトの国民的歌手のオンム・カルツームに代表される現代へといたるエジプトの歴史を表現したものだった。ベジャール自身も数年前にムスリムに改宗しているということだったので、いってみればエジプトの歴史へのオマージュ的作品だ。ダンスもエンターテインメント性に富んでいた。数年前ラダックの旅で知り合ったフランス人ダンサーのマークが出演していたのにもおどろいた。最後にボレロも見ることができた。大使館のほうから来た甲斐があった。

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公演のあとしばらくして、当時カイロ大学に留学中だったハッサン中田さんに、こういうバレエを見たと話した。演出家のベジャールはムスリムに改宗したんですよ、というと、ハッサンさんは、ベジャールという人は知りませんが、だいたいバレエをやっていてムスリムだというのがおかしいです、という。そこでかいつまんでバレエの内容を話したところ、「典型的なオリエンタリズムです。イスラーム的に見るならば、ファラオやアレクサンダーは否定すべき対象です。とくにファラオはひじょうにいけないということは旧約聖書にもクルアーンにも書いてあります」という。

「それなら、イスラーム的に正しい立場から、この劇を構成し直すなら、どうなりますか?」と聞くと、

「そうですねえ、まずファラオからアレクサンダーの時代は暗黒です。イスラームの時代に光が現れる。それ以降はまたどんどん暗くなっていくんです(笑)」


身もふたもない。。。(笑)

それにしても、当初ピラミッドの前で行われるはずだった公演が、どうして急にオペラハウスへと変更になったのか。ずっと謎だったのだが、あれから20年以上たって、やっと事情がわかった。ネット上にこのベジャールのカイロ公演についてふれた当時のロサンゼルス・タイムスの記事があったのだ。


それによると、バレエ団がピラミッドエリアで公演を行うにあたってエジプトの税関や考古庁が法外な手数料を要求したのだという。税関は予定されていた8回の公演ごとに5万ドルを支払うよう要求し、考古庁は一公演ごとに3800ドルのロイヤリティにくわえて、11300ドルのデポジット、そして150枚の無料チケットを要求したという。

ほかにも、ピラミッド前のステージ建設の費用が、当初の見積もりの3倍にふくらんでしまい、予算はパンクし、公演を持ちかけたベルギー人プロモーターはブリュッセルに逃亡。その後、破産宣告をした。こうして歴史的イベントとなるはずだったピラミッド前での公演は本番直前にキャンセルとなり、いったんはカイロ入りしたジョルジュ・ドンもこのどさくさで帰ってしまった。これではあんまりだということで、急遽大幅にスケールダウンして、かろうじてオペラハウスで一回かぎりの公演を行うことになったのである。オマージュを捧げるつもりだったエジプトで、そんな目に遭うとはベジャールもびっくりしただろうな。そのベジャールも2007年に亡くなってしまった。


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