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2016年2月

どこへも通じていない歩みのはてにーー映画「蜃気楼の舟」

渋谷のUPLINKで竹馬靖具監督の『蜃気楼の舟』という映画を観た。竹馬監督は1983年生まれの30代前半の若い監督で、この作品が2作目。かぎられた制作資金で、宣伝活動費はクラウドファンディングを用いた低予算映画ながら、出演者に舞踊家の田中泯、バレリーナの小野絢子、エンディングテーマが坂本龍一という豪華な顔ぶれだ。

映画には主人公の青年が生きている二つの現実が描かれる。ひとつはホームレスの老人らをだましてプレハブのバラックに住まわせ、生活保護費をピンハネする「囲い屋」としての現実。そこは嘘と暴力からなる猥雑で無感覚な世界だ。

もうひとつは青年の内面に展開する深い山中の湖や、海辺、砂丘、廃墟と、そこをさまよう自身の姿である。その深い静けさをたたえたモノクロームの映像は息をのむほど美しい。

ある日、青年の働く「囲い屋」に彼の母親が死ぬ前に姿を消した父親(田中泯)が現れる。父親は記憶をなくしていて、一箇所にとどまっていられず、すぐにどこかへいってしまう。母親の記憶を探し求める青年と、記憶を失った父との、あてどもない彷徨が淡々と描かれていく。

一見すると、社会の闇や不条理な現実を扱っているようだが、自分には、とてもプライベートな感覚でつくられた作品におもえた。だから感想も感覚的に書いてみる。

父親は「ここではない」とつぶやきつつ、歩きつづける、そして青年もまた出口のない山野をさまよいつづける。しかし、いくら歩きつづけても、その歩みはどこにも通じていない。カラーで描かれる現実の世界も、モノクロームの内面の世界も、たとえ色が反転することがあっても、「ベルリン」の天使が見出したような現実への脱出や再生にはならない。

どこまで歩いても、どんなにさまよっても、どこへも行けない。波打ち際まで歩いていった父親は、その先へ行けず砂の上で慟哭する。湖に浮かぶ小舟は無人で、火だけが燃えている。死は残されているが、それが出口である保証はない。

記憶を失ったホームレスは二重の意味で生から閉め出されている、というか生の中に閉じ込められている。「家の鍵」は見つからず、「本当の名前」が知られることもない。ホームレスでない者などいないし、本当の名前などどこにも存在しない。生があり、家があり、本当の名前があるという思い込みのうえに、この生がなりたっている。しかし、そんなものはなく、どこにも通じていない山や森や砂漠だけがそこにある。

父親に扮する田中泯が路上で舞い、音のない廃墟でバレリーナの小野絢子が踊る。それはどこへもつうじていない彷徨の中での悲劇的な舞いにもかかわらず、このうえなく自由で美しい。むかし聞いたスーフィー(イスラーム神秘主義者)の言葉を思い出した。「神に近づくために舞うのですか」と聞かれたスーフィーが、「ちがいます、あらゆる束縛から放たれるとき、ひとは自然と舞いはじめるのです」と答える。彼らの舞いにも、そんな自由を感じた。ただし、それは鎖から逃れて得られる自由ではなく、鎖につながれていながら鎖が無意味化してしまうような自由だった。

個人的には気になる点もあった。ホームレスを搾取する貧困ビジネスの描き方が類型的だったり、科白がぎこちなかったり、焦点があいまいに感じられたりした。だが、上映後のあいさつで竹馬監督が「物語性をなるべく廃して、キャラクターもはっきりさせないよう意識した。展開で見せたり、感情移入させたりということを避けたかった」という内容のことを語ったので、なるほどと思ったが、逆にそうした意図がつよいせいで、かえって作為的に感じる部分もあった。といっても、それはたんなる好みの問題にすぎないが。

見終わったあと、下のカフェでこの映画を紹介してくれた新居昭乃さんと話していると(昭乃さんは竹馬監督の前作の音楽を担当したそうだ)、たまたま監督がひとりでカフェに下りてきたので、作品鑑賞直後に監督と直接話をするという僥倖を得た。

映像的にはタルコフスキーのような静けさはあるのだけれど、ひとつのエピソードにテーマが濃密に集約されていくというかんじは受けなかった。そんな話をすると、「タルコフスキーは自らの戦争経験や民族性やロシア正教といったものの深い影響のもとに映画を作っている。けれども、自分には正直いってそういうものがない。それが自分にとっての現実」という内容のことをおっしゃった。

焦点を結ばない、とらえどころのない希薄さというのは、おそらく監督自身が感じているリアリティなのかもしれなかった。ともすれば再生やカタルシスを描きたがる作り手と、それを見たがる観客に対して、再生が見えない、再生などない、そもそもだれにも本当の家などないし、みなホームレスだし、どこにも行けないし、死すらもあてにならないということをこの作品はつきつける。しかし、その焦燥と絶望の中にありながらもなお、美は存在しうるとすれば、それはひとつの救済なのかもしれない。


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