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2016年3月

写真展「ザ・サプール」を見に行って思ったこと

上野でボッティチェリ展を見たあと、渋谷西武ではじまった茶野邦雄さんの写真展「ザ・サプール」へ。サプールとはコンゴのおしゃれな伊達男たち。昨年NHKの地球イチバン「世界一服にお金をかける男たち」で特集が組まれて一躍知られるようになった。


会場に入ったら、なんと今回の写真展でもモデルになっているブラザビルのサプールのセブランさんとバッタリ! 写真展にあわせて来日したらしい。いやー、かっこいい! ダンディで粋な着こなし。存在からリズムが沸き立ってくるようなエレガントな所作!思わずあひるさんとかっぱくんといっしょに記念写真を撮らせてもらった。

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写真展なのに撮影可。写真もとてもよかった。貧困や政情不安といった過酷な状況の中にありながら、優雅にファッショナブルによそおうことに人生をかける。武器をとって戦うのではなく、着こなしで勝負し、自分らしさを表現する。それがサップという生き方だという。


色鮮やかなファッションと背景とのギャップもいい。赤道直下のンバンダカから少し下ったザイール河(当時)沿いの村で、草原の道を歩いていたら、突然前方から白いスーツをまとった若者が歩いてきて白日夢を見ているような気がしたのを思い出す。いま思えば、あれもサップだったのだなあ。

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写真・茶野邦雄さん


写真展はとても盛況だった。でも、見に来ている人たちの中で実際にコンゴに行ったひとや、行く人はほとんどいないのではないか。そう思うと、すこし気になったのは、アフリカ人がみなサプールのような人たちだと思われてしまうことだった。


「貧しいけれども、明るく、人生をたのしんで生きている」。そのようなアフリカ人に対するステレオタイプな見方は昔から存在している。じつは、サプールが人気を集めたのは、そのような古典的なステレオタイプを、彼らにあてはめやすかったから、という理由もあったからではないか。

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写真・茶野邦雄さん


お金がなくても、ファッションに人生をかけて、その日をその日を思いきり楽しむ。それは一見彼らに対して好意的な見方のように思える。しかし、その視点からしか彼らを見なければ、彼らを取り巻いている貧困や困難がどのようなものなのか、ということには目が行かなくなってしまう。それは行きすぎれば、彼らは貧困でもだいじょうぶなのだ、だから貧困を解決する必要はないのだという乱暴な偏見や差別にもつながりかねない。


「コンゴ共和国の平均月収は2万5000円、約3割の人が一日130円以下で暮らしている」と会場のボードに書いてあった。だが、そもそも都市生活者と、それより数の多い農村部の人たちの収入とをいっしょにして出された平均を、個々の人びとの生活水準を測る尺度に使うことには無理がある。それぞれの人たちがどのようにして服を買うお金をやりくりしているのかはわからないが、「平均月収は2万5000円」といったリアリティのない平均値をあてはめてしまうと、彼らが個々それぞれに抱えている困難がいっしょくたにされてしまう。


写真が撮影されたブラザビルには行ったことはないが、サプールは数の上ではけっして多くはないだろう。都市生活者のほとんどは彼らのように生きているわけではない。少なくとも対岸のキンシャサでは犯罪や喧嘩はしょっちゅうだし、役人は粋やダンディとはほど遠いし、賄賂や腐敗はあたりまえだ。だからこそ志をもってサプールのような生き方をするひとたちが眩しく見える。


サプール人気がアフリカ人に対するステレオタイプの強化ではなく、かれらをとりまいている過酷な現実や、そのぬきさしならない状況の中にありながら、粋に、カッコよく、優雅に生きようとすることのすばらしさを、より深く理解するためのきっかけになるといいなと思う。


THE SAPEUR コンゴで出会った世界一おしゃれなジェントルマン

■3月29日(火)〜4月10日(日)※最終日は午後5時閉場※入場は閉場の30分前まで
■A館7階=特設会場
■入場料:一般500円、高校生以下無料

カフカを読むとアタマがよくなる !?

インターネットによって、ひとは世界のさまざまな情報に自由にふれられるようになった。まちがいではない。しかし、現実に即していうならば、ひとは、インターネットによって、自分の好みの情報に特化してふれることが可能になったというほうが、より正確だろう。


自分の興味のある情報にアクセスし、共通の興味のあるひとたちをつなげる。それがインターネットの大きな力だ。一方で、それは、自分にとって関心のない世界や情報をスルーしたり、排除したりすることを可能にした。ネットの中では、しっくりする情報、しっくりする考え方、しっくりくる人たちとだけつながることができる。


人間の脳はしっくり来るものを好む。しっくり来る人たちとつながっていれば、承認欲求も満たされるし、居心地もいい。そこに居つづけることによって、自分の見方はますます強化されていく。逆に、居心地の良さをおびやかす情報には、不快感や抵抗感をおぼえる。そこで脳は、しっくり来ないものは「正しくない」「重要でない」と見なし、意図的に見ないようにする。そのうちに、それらはほんとうに目に入らなくなってしまう。


そうなると、ひとは見たいものしか見なくなる。見たいものしか見えないと障害物がなくなるので、本人には世界が広がったように感じられる。じつは視野が狭くなって、現実が見えなくなっているのに、そのことに気づかない。


危機が迫っていようとも、しっくり来る世界を守るために、壁を作ってその外を見ようとしない。そのような壁を、かつて養老孟司さんは「バカの壁」とよんだが、インターネットが広まったことによって、自分もふくめて、だれもが、ますますそうした状況に陥りやすくなっている。


じつのところ、その壁の中で一生、生きていけるのなら、それはそれで本人は幸福かもしれない。けれども、実際にはしっくり来ないもの、不快感や抵抗感をもたらす現実が、日々、刻々と起こっている。見て見ぬふりをしていても、ときに不快な現実はいやおうなく迫ってきて、自分たちの生命や生活をおびやかす。「バカの壁」はなんの守りにもならないどころか、ひとをとりかえしのつかない危険にさらしかねない。


作家のマーガレット・ヘファーナンは福島の原子力発電所の事故のときに起きたのが、このような深刻な事態に対する「意図的な無視や無関心」だったと著書『見て見ぬふりをする社会』(Willful Blindness)の中で書いている。現状の居心地の良さを保つためには、それをおびやかす事実には知らんぷりする。たとえ、そのために身を滅ぼすことになるとしても、秩序を乱しかねない不快なもの、抵抗のあるものは、自動反応的にあらかじめ視界から取り除かれる。


人間にとっては、自分がなにを見ているかよりも、なにを見ていないかに気づくことのほうが、ずっとむずかしい。自分が知らず知らずのうちに見落としていたり、スルーしたりしているものはなんなのか、それに気づくことが脳の新しい回路をつくることになる。


では、どうすればいいのか? ヘファーナンは「意図的な無視」のパターンに気づく手がかりを与えてくれるものとして、カフカの作品を扱ったある実験心理学の論文を紹介している(Connections from Kafka: exposure to meaning threats improves implicit learning of an artificial grammar. Proulx T1, Heine SJ. 2009)


ネットの記事(「カフカを読むと、あるいはデビッド・リンチの映画を見ると頭がよくなる」Reading a book by Franz Kafka –– or watching a film by director David Lynch –– could make you smarter)によると、ブリティッシュ・コロンビア大学の二人の教授が、2つのグループにカフカの『村の医者』という短編小説を読ませたという。


『村の医者』は邦訳にして10ページ足らずの小品だが、カフカの短編の中でも、とりわけ、とらえどころのない奇妙な作品だ。村の医者が激しい吹雪の中、10マイル離れた村の重病人を診察にいく話で、始まり方はノーマルなのだが、読んでいくと、どんどんわけがわからなくなっていき、なんどもツッコミをいれたくなるのである。

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実験では、この小説を一方のグループにはそのまま読ませ、もう1つのグループには、意味や辻褄が合うようにテキストをわかりやすく翻案して書き直したものを読ませた。それから、それぞれのグループに、文字列の中に隠されたある規則性(人工文法)のあるパターンを探させる、という実験を行った。人工文法学習というのは認知心理学の方法のようだ。要するに、テキストの文字列の中から規則性を探させるということらしい(といっても、よくわかっていない。。)


結果はというと、翻案したテキストを読んだグループよりも、オリジナルのテキストを読んだグループの方が、より多くの規則性を見出したという。


これはなにを意味しているのか? どうやら、意味がつかみやすいように翻案されたカフカのテキストでは、人は慣れ親しんだ認識のパターンの範囲内でしか、頭を働かせようとしないということらしい。


けれども、オリジナル・テキストを読んだ者たちは、その矛盾をはらんだシュールな内容を前にして、自分たちのなじみの理解や解釈が通用しないことに気づいて、新しい認識のパターンを作りあげようとした。それが、より多くの規則性の発見につながった、ということのようだ。

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予測不可能な状況下におかれると、それをなんとか理解しようとして脳は無意識に過去とはちがうパターンで働き始める。同様な効果はデビッド・リンチの映画「ブルー・ベルベット」についてもいえるという。観たことがあるひとならわかるだろうが、あれもふつうの映画だと思って見始めると、とんでもないことになる。。。


正直なところ、いまひとつよくわからない実験なのだが、「予測可能で」「居心地のいい」「わかりやすさ」の中にいると、脳はそのパターンを守る方向でしか働かず、結果的に見たいものしか見えないということになる、ということのようだ。


「心地よさ」や「直観」をだいじにする、「好きなことをする」というと、一般にはすばらしいことのようにいわれている。しかし、好きなことをつづけるには、心地よさばかりではなく、抵抗やモヤモヤがともなうのも事実である。居心地の良さを優先して、モヤモヤに向き合わないと、結局、「見たいものしか見ない」「見たくないものは見えない」という回路の強化でしかなくなる可能性もある。


モヤモヤやイライラや抵抗の中にこそ、見えていないものに気がつくきっかけがあるのではないか。だとすれば、コンゴ河を旅しながらカフカを読んだりすれば、イライラとモヤモヤで脳はいやおうなく活性化する、かもしれない。。。


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