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2016年6月

絶望したときには絶望読書を

頭木弘樹さんの『絶望読書』(飛鳥新社)が出た。頭木さんは『絶望名人カフカの人生論』『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(ともに飛鳥新社)と、カフカと絶望をキーワードにした著作を発表されてきた。このたびの『絶望読書』は、頭木さんの絶望哲学?の濃密なエッセンスを、みずからの絶望体験をまじえつつ、わかりやすく解説した、とても心にしみいる本だ。

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絶望読書といっても、読んだら絶望する本という意味ではない。絶望しているときに、自分の気持ちに寄りそってくれる本とはどういうものか、という意味だ。もちろん、絶望の奈落に落ちたばかりのときには本など読む気になれないかもしれない。しかし、少し落ち着いて、目をあげると、どんよりした暗い雲が重く、低く、行く手にどこまでも垂れこめているようなとき、ぼくたちは本を手に取りたくなるかもしれない。でも、それはどんな本なのか。


よくあるのは「あきらめなければ夢は叶う」とか「考え方を変えれば幸せになれる」といった前向きポジティブ本だったり、困難にめげることなく目的を達成した人の話とか、そうでなければドタバタコメディだったりするかもしれない。あるいは、本ではないが「アフリカで飢えている人たちにくらべれば」とか「シリアの難民たちにくらべれば」というふうに極端な例とくらべて相対的に「自分の絶望なんてたいしたことない・・・」と考えようとしたりする。


それで元気になれるひともいるかもしれないが、そうでないひともいる。むしろ、そういう本やアドバイスによって、ますます気持ちが暗く沈んでいくこともある。そうした本やアドバイスには、暗く落ち込んでいるのはよくないこと、ひとは幸福であるべき、明るくなければ人生に意味はない、というメッセージがこめられている。つまり、いま落ち込んでいる自分を望ましくないものとして否定し、そこから一刻も早く回復することを促そうとするからだ。


でも、それは絶望のさなかにあるひとにとっては酷だ。いま絶望している人に幸福のすばらしさを説いても、苦しくなるだけだ。では、どういう本がいいのか。頭木さんは、そんなとき「やはり絶望した気持ちに寄り添ってくれるような本」がいいと書く。暗い闇の中に長くいたひとを、いきなりまぶしい光の下に連れ出すようなものではなく、その絶望にしんぼうづよく寄りそってくれるような本だ。裁いたり、道を指ししめしたり、笑わせたりするのではなく、絶望の中にいることを否定も肯定もせず、ただそこにいることをゆるしてくれるような本だ。それが絶望読書だ。


頭木さんは大学生のとき難病になって、13年にわたる闘病と手術によって、なんとか普通の生活が送れるようになった。長い闘病の間、自分が「人生の外」にいるかんじだったという。これが会社とかキャリアを積む中での一時的な挫折だったら、あるいはポジティブ本に書いてあるようなことで気持ちをきりかえて、がんばろうという気になれるかもしれない。そのひとはただ後れをとっただけだから。前にもひとはいるが、後ろには「自分よりも不幸な人」や「シリアの難民」もいる。


しかし「人生の外」へ出てしまったと感じているときには、そういう考え方はできない。そこはコース外であり、前も後ろもない。あらゆることから切れていて、どちらに歩いても、どこにもつうじていない。そこにいるのは自分だけ。それはひたすらに孤独な世界だ。しかも、いつまでつづくかわからない。そういう絶望とは無縁な人生もあるかもしれないが、なにかの偶然で、そんな人生を生きなくてはならなくなることも少なくない。そういうひとたちのために絶望読書が必要だ、と頭木さんはいう。それは気晴らしや娯楽、あるいは教養のための読書とはちがう。溺れているひとが空気を必要とするように、砂漠で渇いたひとが水を必要とするように、生きるうえでなくてはならないものを与えてくれるような読書なのだ。


この本の中では、カフカはもとより、ドストエフスキー、太宰治らの小説のほかに、桂米朝の落語、山田太一のテレビドラマ、金子みすずの詩など、さまざまな物語がとりあげられている。そこに付せられた頭木さんの解説がとてもいい。「落語の明るさ」とは「太陽のような、闇を追いはらう明るさではなく、月のように夜の暗さと共にある明るさ」だという。とても美しい表現だし、ああ、そうかとおもう。なにが「ああ、そうか」は、ぜひ本書を読んでほしい。


現生人類のことを「ホモ・サピエンス」(知恵のある人)というが、知恵があるがゆえに、ひとは現実と言葉やイメージの世界を混同して、しばしば現実を受け入れられなくなって絶望する。ひとは絶望するもの(ホモ・ディスペラトゥス?)といってもいいかもしれない。でも、そんなとき、すぐ答えを見つけなくてはとか、いそいでここから出なくてはと考えるのではなく、時間をかけて、あせらず、しっかり絶望とつきあったほうが結果的に生きる力につながることがある。その伴侶となってくれるのが絶望読書だ。


話はそれるが、その頭木さんが選りすぐった絶望本を集めた「絶望読書フェア」が青山ブックセンター本店で開催されている。選ばれている31冊の本の中には、拙著『たまたまザイール、またコンゴ』も選ばれていた。ある方が写真を撮影して送ってくださった。

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性暴力と紛争鉱物とーー『女を修理する男』 

見終わった後、圧倒されてしばらく声も出なかった。コンゴ民主共和国東部においていまなおつづいている性暴力の現実と、それを止めるために献身的に取り組んでいるコンゴ人婦人科医デニ・ムクウェゲさんの活動を追ったドキュメンタリー映画『女を修理する男』(2015)という作品である。

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立教大学ジェンダーフォーラムが主催した紛争下における性暴力をめぐるプログラムとして上映されたもので、今年の10月から12月に全国9大学で上映される予定。ショッキングなシーンも出てくるが、たんに陰惨な現実を訴えるものではない。そこからなにをどう捉え、なにができるかといったことを考えるきっかけを与えてくれる、ある意味、希望すら感じさせてくれる希有なドキュメンタリーだ。ジェンダーや国際問題やアフリカや暴力や紛争などに関心のあるひとはもちろん、そうでないひとも、ぜひ見てほしい。


コンゴ東部では1990年代後半から2000年代初頭にかけてのコンゴ紛争をきっかけに民兵や武装勢力による性暴力が蔓延し、紛争が一段落した現在もなおつづいている。それだけ聞くと、戦闘でストレスや性欲をもてあました兵士たちが、村の女たちを襲っているのだろう、と思われるかもしれない。ふつうは、ついそう考えてしまう。


だが、ちがうのだ。そんな単純なものではないのである。ぼくもこのフォーラムで解説をされた立教の米川正子さん(元UNHCRコンゴ・ゴマ所長)の話を聞いて、あらためて気づかされたのだが、紛争下におけるレイプなどの性暴力は性欲とは関係がないのだ。では、それはなぜ行われるのか? それは性暴力が「武器」になるからである。


コンゴ東部ではレイプの被害者は1歳から80歳におよんでいる。被害者の中には相当数の男性もいる。しかも、レイプの方法も夫や子どもたちの前で妻や娘をレイプしたり、子どもたちの前で夫婦を脅して性行為をさせたり、幼児や赤ん坊を犯したり、性器を切り裂いたり、銃で撃ったり、と書いているだけでもおぞましくなるが、要するに、性欲にかられてレイプに及んでいるわけではなく、それは組織的な「戦術」としておこなわれている。いわば性的テロなのである。


では、その目的はなにか? コンゴ東部の場合、そこには鉱物資源がからんでいる。コンゴは携帯電話やゲーム機などに不可欠なレアメタルを豊富に産する。長年にわたるコンゴ紛争のおおもとの原因も、この鉱物の権益をめぐるグローバル需要にある。これらの鉱物資源の権益を得るために、国内外の複数の武装勢力が鉱山周辺のコミュニティを恐怖で支配し、弱体化させ、人口を減少させ、強制的に離散させる。そうした目的をもって組織的に性暴力が行われているのである。


性的テロはなによりも手軽だ。お金がかからない。しかも効果はてきめんで、相手に着実なダメージを与えることができる。女性の被害者は心身ともに傷ついたうえコミュニティから排除される。男性も深い心理的ダメージを追う。こうしてコミュニティは破壊されていく。いちばん問題なのは、こうした性暴力を取り締まる法律が最近までなかったため処罰もされなかったことだ。罪として認識されてこなかったため、性暴力の蔓延に歯止めがかからなかった。


国際社会はどう対応してきたか。これも歯切れが悪い。巨大な利権がからんでいるためにか調査そのものが中止されたり、ほとんど取りあげなかったり、コンゴに駐留するPKOもとくに性暴力に対して対策を講じることもないまま今日にいたっている。


このような中、性暴力を生き残った女性(サバイバー)を献身的に治療し、精神的にケアしてきたのがコンゴの婦人科医のムクウェゲ氏である。1998年にコンゴ東部のブカブに病院をつくって、これまでに4万人以上の性暴力の被害者の治療にあたってきた。ノーベル平和賞の候補にもなんどもあがっていて、今年5月の「タイム」誌では「もっとも影響力のある100人」に選ばれている。


映画はこのムクウェゲ氏の活動を追ったものだ。その活動は命がけだ。2012年にはニューヨークの国連総会で性暴力の実態についてスピーチすることになっていた。しかし本国の保険大臣からスピーチをしないよう脅迫された。スピーチを断念して帰国したムクウェゲ氏は武装集団に銃撃され、かろうじて一命を取り止める。いったんは亡命するが、地元の女性たちの帰ってきてほしいという声に押されて、2013年に帰国し、いまにいたっている。


2012年というと、ぼくがコンゴ河を旅していた時期だ。あのときはなかなかつながらないインターネットを通じてM23というコンゴ東部の反政府武装勢力がキサンガニをめざしているというニュースにふれて不安になったりもしていたが、ブカブではそのようなことが起きていたのだ。河を下る物資輸送船の中で出会った学生が「この国ではいいことをしたら殺されてしまう」と口にしたことを思い出した。


はじめに書いたが、にもかかわらず、この映画の底には希望が感じられた。およそ考えられるかぎり絶望しかない状況に見えるのだけれど、それでもここには希望があると感じられたのがふしぎだ。『女を修理する男』は2016年10月から12月にかけて、全国9大学(宇都宮大、岡山大、神戸外国語大、静岡県立大、上智大、同志社大、東京大、長崎大、早稲田大)で上映される予定。


コンゴの性暴力と紛争鉱物をめぐる複雑な背景については、立教での上映会でも解説された元毎日新聞ヨハネスブルグ特派員でいまは三井物産戦略研究所研究員の白戸圭一さんのこの記事が参考になる。コンゴ紛争の背景については白戸さんの『ルポ資源大陸アフリカ』(朝日文庫)や、米川正子さんの『世界最悪の紛争「コンゴ」』(創成社新書) が参考になる。コンゴ紛争や紛争鉱物についてもふれているが、紛争ばかりではないコンゴについても書かれた拙著『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社)も。


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